悪酌(3)
七月十四日木曜日、空木は日本橋本町二丁目のオーシャン製薬本社ビル一階の面会室で、竜野を待っていた。
「お待たせして申し訳ありません」と言って空木を見た竜野は、怪訝な顔になった。
空木は自分を見る竜野の表情を見て、自ら初対面ではない事を伝えた。
「武蔵国分寺病院でお会いした時は、医療コンサルタントとしてお会いさせていただきました。実は本業は探偵です」と名刺を二枚取り出して竜野に渡した。一枚は医療コンサルタント、そしてもう一枚はスカイツリー万相談探偵事務所所長の名刺だった。しかし空木は、それ以上の事、つまり探偵という身分を隠して(KCL投与)の調査をしていたと話す訳にはいかなかった。
「医療コンサルタントというのは副業ですか」二枚の名刺を見比べて竜野は訊いた。
「ええ、まあそういう事になるんですが、今日は片倉さんが盗られてしまったデータの事でお聞きしたい事があって伺いました」
「片倉からの連絡で、盗られたデータを探すために探偵が会いに行くので会って欲しいと言われましたが、それがあなただったとは驚きました」
空木は、片倉の兄、康志の知り合いだった事がきっかけで、片倉がひったくられたというデータを捜して欲しいという依頼を受けた事を説明した。
「そういうことですか。それにしても、片倉も責任を感じての事だと思いますが、あまり思い詰めなかったら良いのですが……。それでお聞きになりたい事というのは?」
「単刀直入にお伺いしますが、片倉さんがあの日あのデータを持ち帰る事を知っていた人は、誰だったのか教えていただきたいのです」
「え、知っている人間ですか……しかし、何故そんな事をお知りになりたいのですか」
空木は、立てた仮説、推理を説明した上で、「組織としては、考えたくない事でしょうから、私の仮説を否定する為にも協力して下さい」と頭を下げた。
「予め知っていた人間が盗ったと言うんですか?もしそうだとしたら、何の為にそんな事をするんですか」
「分かりません。あくまでも私の仮説の上での話です。転寝して偶然ひったくられたのか、意図が何であれ目的を持って盗られたのか、を私としては調べたいと思っています。協力をお願いします」空木はまた頭を下げた。
「分かりました。私は片倉と同行して病院へ行くつもりでしたから知っていて当然ですが、私以外では知る限り、高梁本部長と桑田GMの二人です。しかし空木さん、本部長と桑田GMから他の人間に話していないとは限りませんよ。聞く必要があるのではありませんか。因みに私は、誰にも話していませんが」
「確かにそうですね。お二人にはお会い出来ませんか」
「予定が入っていなかったら会えると思いますが、連絡してみましょうか」
竜野は面会室の内線電話を手に取った。
「二人とも十分か十五分で下りて来られるそうです」
「ありがとうございます。ところで竜野さん、片倉さんは制吐剤のデータを持って武蔵国分寺病院へ行く予定だったと言われていましたが、やはり例の副作用の件ですか」
「はい、空木さんは私たち以上にご存知だと思いますのでお話ししますが、制吐剤のセロンが原因である可能性がどの程度なのか、担当の医師の意見をもう一度聞くために私と一緒に行く予定でした。その面会の話次第では、緊急安全情報は出さずに今後の情報収集に注力する方向になる筈でした。それがこの事件で、面会をキャンセルする事になってしまったのですが……、空木さんはセロンの副作用の可能性についてはどうお考えですか。これも何かの縁ですから参考までにお聞かせ願いませんか」
「……お一人が亡くなっていることですから、第三者の私が軽々に話す事は出来ません。ただ、言える事は担当医の水原先生は、制吐剤の副作用の可能性は非常に低いと感じていると思います。これ以上のお話しは出来ないのですが、この一、二週間位のうちに新たな判断材料が出て来るかも知れませんから、緊急安全情報に関しては、それから判断しても遅くはないのではないですか」
これが今、この場で空木が口に出して言える精一杯だった。間違っても(KCL投与が原因です)と、口にする訳にはいかなかった。
「新たな材料………」
竜野が呟いた時、面会室のドアがノックされ、二人の男性が入って来た。一人は医療情報本部長の高梁、あと一人は解析GMの桑田だった。
名刺交換を済ませた空木は、竜野に説明した時と同様に、片倉が盗られたカバンに関しての自分の立てた仮説、推理を説明して協力を求めた。
「私は誰にも話していません」桑田が先ず答えた。
「私もここにいる二人以外には話してはいませんが、執行会議のメンバーは、データの事は知らなくても月曜日に病院を訪問する事は知っていた筈です。……それと、月曜日にデータの入ったカバンをひったくられたことを社長に報告した時、社長は事件の事を知っていたようでした。誰から聞いたのか、確認した訳ではないので推測ですがね」
「それなら、もしかしたら月曜日の朝、熊川本部長から私に病院への訪問は済んだのかという問い合わせの電話があったので、事件の事を話して面会がキャンセルになったと伝えましたから、熊川本部長が社長に伝えたのかも知れません」桑田だった。
「熊川本部長という方は?」空木が竜野を見て訊いた。
「営業本部の本部長で、今回のセロンの件では、緊急安全情報を出すべきだと主張している方ですが…」
「竜野部長、社外の方にそんな話は止めなさい」高梁は竜野を制した。
「すみません。空木さんは武蔵国分寺病院の医療コンサルタントの仕事もしていて、セロンの副作用の事も我々以上にご存知なので、つい話してしまいました」
「え、医療コンサルタント……」
高梁は驚いたように呟いて空木に顔を向けた。
「本業はお渡した名刺の通り探偵業なのですが、武蔵国分寺病院では前職が万永製薬のMRだったこともあって、副業としての医療コンサルタントを請け負っています。そこでたまたま御社の薬の副作用ではないかという症例に遭遇した訳です」と空木はもう一つの医療コンサルタントの名刺を、高梁と桑田に改めて渡した。
それを見ていた竜野が「空木さんの参考意見ですが」と断って、セロンの副作用についての担当医の水原医師の考えを二人に伝えた。
「今後の情報収集に注力すべきだと私も思いますが、今のままでは営業本部の主張が通る事になりそうです。それに加えて、私と研究開発本部長は、データ管理の不備で始末書を社長に出さなくてはならないでしょう。研究開発本部長の仲野は大学の後輩で、今回の件では無理を言ってデータを出してもらっただけに申し訳ないところです。あいつは次期取締り役の候補なので、それに影響しなければいいのですが…あ、これは空木さんにはお話しすべきことではなかったですね。聞かなかった事にして下さい」
「社内の事は私には全く分かりませんし、失礼ながら興味もありません。ただ、制吐剤のセロンの緊急安全情報に関しては、もう一度担当医の水原先生にお会いになって意見をお聞きされることをお勧めします」
空木は喉まで出かかっている(副作用ではない)という言葉を飲み込んだ。
そして高梁が時計に目をやるのを見た。この後の予定があるようだった。
「皆さんに最後に伺いたいのですが、犯人が金銭目的ではなく、データを意図して奪ったとしたら、その事で得をするとか、ある事が有利になるような事があるのでしょうか」
「得をする人間がいるとは思えません」桑田が三人を代表するように間髪入れずに答えた。
「………」高梁と竜野は考え込むように黙った。
三人に礼を言って本社ビルの玄関を後にした空木に、「空木さん」と竜野が後を追って声を掛けた。
「面会室では話せなかったのですが、得をするという事ではないと思いますが、セロンの緊急安全情報を出すためには、病院に面会に行かせないという意味で有利になる筈です」
「それはそうかも知れませんが……。しかし、そうまでして緊急安全情報を出したいのですか。私のMR経験では、緊急安全情報が薬の売上にマイナスになることはあってもプラスになることはありませんからね」
「その通りです。熊川本部長は旧大空製薬の主力品の一つのセロンを潰そうと思っているように感じるんです。熊川さんは旧恒洋薬品の方ですから、セロンの売上が減る事で相対的に旧恒洋薬品の薬の位置付けが高くなることを望んでいるように思えるんです。桑田GMも旧恒洋薬品出身ですから、我々ほどセロンへの思い入れは無いように感じます」
「……それで面会室では言えなかったという訳ですか。分かりました、ご意見として頭に入れて置きます。わざわざありがとうございました」
空木は改めて竜野に礼を言い、JR神田駅に歩いた。
改札口を入った時、空木の携帯が鳴った。竜野からの電話で、あの後高梁からの指示で、明日武蔵国分寺病院の水原医師に急遽面会することになった。ついては空木に同行して欲しいという電話だった。
翌日金曜日の午後四時少し前、空木は一週間振りに武蔵国分寺病院に入った。
空木は昨夜のうちに水原に連絡を入れていた。その電話での水原の話では(KCL投与の件)は未だ警察の捜査が続いているとの事だった。それは空木には腑に落ちなかったが、水原と話したかった事はその事ではなく、オーシャン製薬に(制吐剤の副作用)ではない事をそれとなく伝えるべきだと云う話を伝えたかった。
病院の玄関でオーシャン製薬の病院担当MRの堀井と、昨日日本橋の本社で面会した竜野と待ち合わせた。
堀井は空木を見て「あれ」と小さく声を上げた。
「片倉の病室でお会いしましたよね」
堀井の問い掛けに、空木は『スカイツリー万相談探偵事務所所長』の名刺を渡し、「本業は探偵です。堀井さんにお会いするのはこれで三度目ですね」と笑顔で挨拶した。
面会した水原は、制吐剤のセロンの緊急安全情報を出すべきか、社内で最終検討に入っているという竜野の説明を聞き終わって、空木の方に顔を向けた。
「コンサルタントとしてお世話になっている空木さんからも、話は聞いています。オーシャン製薬には随分迷惑な事になってしまいましたが、あの症例は制吐剤の副作用ではありません。原因が何だったのかは、今現在調べているところですから、お話しする事は出来ません。いずれ皆さんにお知らせする事が出来ると思います」
水原はそう言うと、また空木を見て(これで良いか)というように頷いて見せた。




