悪酌(2)
七月も半ばに差し掛かり、六月末から続いていた晴天猛暑も、ここ数日は梅雨空に戻っていた。
ここ暫く趣味の登山に行けなかった空木健介は、部屋の中から曇り空に目をやりながら、今年の夏の山行を南アルプスの北岳にしようか、中央アルプスの空木岳にしようか考えていた。
調査料が入金された事を確認した空木が、馴染みの寿司屋の平寿司に行こうと腰を上げた時、スマホにショートメールの着信があった。差出人は、以前空木が埼玉のさいたま市で面会した片倉康志という男だった。
そのメールには「突然失礼します。ご相談したい事があります。電話をさせていただいて宜しいでしょうか」と書かれていた。それを見た空木は、改めて椅子に座り直した。
空木は返信するよりも、片倉康志に自分から連絡する事にした。
片倉康志は直ぐに携帯電話に出た。
「片倉です。空木さんお久し振りです。こちらからお電話すべきなのに申し訳ありません」
「いえ良いんです。気にしないで下さい。それよりも私に相談したい事というのは……」
「突然のお話で申し訳ないのですが、空木さんの名刺を見て、もしかしたら力になっていただけるのではないかと思って連絡させていただこうと……。実は、私の弟が電車の中でカバンを盗まれたのですが、それがよりによって会社の重要書類が入っていたとかで、責任を取って会社を辞めると言っているのですが、空木さんにそのカバンを探していただきたいのです。引き受けていただけませんか」
「それは……、警察に任すべき事のように思います。それにどこで盗まれたのか分かりませんが、私一人で東京都内からカバン一つを探し出すのは不可能です。警察には届けたんですよね」
「はい、盗難に遭った駅の管轄の国分寺警察署に届け出ました。警察も犯人を捜してくれていると思いますが……」
「国分寺警察署ですか……。どこの駅で被害に遭ったんですか」
「国立駅だそうです。それもあって空木さんの事務所の近くではないかと思って、相談しようと思ったんですが……ダメですか」
「うーん、引き受けるのは良いんですが、探し出せる可能性はほぼ無いと思います。安請け合いしても片倉さんに迷惑になるだけでしょう」
空木は、国分寺署と聞いて、関わってみたいという好奇心がいくらか湧いて来ていた。
「迷惑だなんて、そんな事はありません。それにカバンが出て来るとは私も期待はしていません」
「……じゃあ何を期待しているんですか?」
「それは私にも分かりませんが、怪我をして入院している弟の落ち込み方を見て、兄として何とか力になってやりたいと思っているだけかも知れません。とにかく警察任せではなくカバンを探す努力をしてやりたいんです。力になっていただけませんか」
「そのカバンに入っていた書類というのは、どんな物だったんですか」
「会社の重要書類というだけで、私にはそれ以上のことは分かりません。引き受けていただけるようなら、入院している弟に会って話を聞いてやって下さい」
「弟さんは入院しているんですか、どこの病院に入院しているんですか」
「引き受けていただけるんですか」
「カバンというか、重要書類というのか、それを探し出す約束は出来ませんが、努力はしてみます。それで良ければ引き受けます」
「ありがとうございます。弟は片倉隆文三十三歳、製薬会社のオーシャン製薬に勤務しています。カバンを盗られたのは先週の金曜日の夜で、犯人を追いかけて国立駅のホームから改札口に下りる階段で落ちました。その際、頸椎を損傷しまして、府中市の多摩急性期医療センターに運ばれて、暫く入院する事になると思います」
「オーシャン製薬ですか……」
「オーシャン製薬をご存知ですか」
「ええ、知っています。私も以前、製薬会社に勤務していましたから。確か恒洋薬品と大空製薬が合併した会社でしたね」
「そうです」
空木は、国分寺警察署に続いてオーシャン製薬の名前を聞き、一瞬体に電気が走ったかのような感覚を覚えた。探偵業を始めて四年足らずの空木健介にも、それらしい感性が出来ているようだった。(何か面白そうだ)と心の中で呟いた。
引き受ける事にした空木は、病院へ片倉隆文に会いに行く日時を決め、予め兄の康志から連絡して貰うことを依頼して携帯電話を切った。
翌七月十三日水曜日、急性期医療センターに入院中の片倉隆文を空木が訪れたのは、午後三時過ぎだった。
四人部屋の病室ドア横の名札に書かれた名前で、片倉隆文の名前を確認した空木は、入室すると首にコルセットを装着した片倉隆文と思しき男に目をやった。
「片倉さんですか」と小さく声を掛けた。
「はい……空木さんですか。忙しいところをありがとうございます。兄から連絡がありました。お待ちしていました」
片倉はベッドから体を起こし、挨拶するかのように体を折った。
「じゃあ俺はこれで失礼するよ」
ベッドサイドに座っていた男は、そう言うと立ちあがって空木に会釈するように頭を下げた。空木もそれに合わせて軽く頭を下げた。見覚えのある顔のように思えた。頭を上げた男は、空木をチラッと見て部屋を出ようとして、また空木に目をやった。そして、首を傾げて病室を出て行った。
「お兄さんからカバン探しに協力して欲しいという依頼を受けました。空木健介と申します」
空木は改めての挨拶と同時に名刺を渡した。
片倉隆文も用意していた名刺を空木に渡し「片倉隆文です。この度は宜しくお願いします」と挨拶した。
空木は手にした名刺に書かれている片倉隆文の所属部署、オーシャン製薬医療情報本部市販後情報部を見て(武蔵国分寺病院で見た所属部署と一緒だ)と、心で呟いた。しかし、その事は口には出さなかった。
「大変な目に遭われましたね。お兄さんからは、カバンを盗られた際に、駅の階段から転落したとお聞きしましたが……」
空木は片倉隆文の首に装着されたコルセットに目線を送って言った。
「はい、情けない事にカバンをひったくられた時に階段から落ちてしまい、頸骨を骨折してしまいました。幸い頚髄への損傷は無かったので助かりましたが、恥ずかしい次第です」
「そのカバンには、会社の大事な書類が入っていたとお聞きしましたが、一体どんな書類だったんですか。差し障りの無い範囲でお話ししていただけますか」
空木はショルダーバッグからメモの手帳を取り出した。
「……実は薬の認可の為に国に提出したデータの一部のコピーが入っていました」
「承認申請の時のデータという事ですか」
「そうなんですが……、空木さんは薬の事はどの程度ご存知なんですか」
承認申請という言葉が、すんなりと空木から出て来たことに、おやっと思った片倉だった。
「実は、私はこの仕事に就く前は、万永製薬のMRをしていましたから、薬事の事も少しは理解出来ます。しかし、そんな重要な書類を何故持ち歩いていたんですか」
「………」片倉隆文は暫く考えた後、言葉を選びながら話し始めた。
「うちの会社のある薬で副作用が発生して、その説明のための資料としてのデータでした。それを持って、月曜日の早朝に病院に行く予定だったので、週末の金曜日に持ち帰ることになったんです」
「なるほど、そうですか。それでひったくられた時の状況を教えていただけますか」
片倉隆文は、金曜日の夜の医療情報本部の納涼会で飲んだ後、東京駅から中央線快速電車で帰路に着いたが寝てしまい、下車すべき武蔵小金井駅を乗り過ごし、三つ先の国立駅で膝の上に置いていたカバンをひったくられた。そこで目が覚めて犯人の後を追ったが、足がふらついて階段から落ちてしまった、という一連の状況を説明した。
「こう言っては何ですが、大事な書類を持っていて、寝過ごすほど飲んだのですか」
「そう言われると……。自分としてはそれ程飲んだつもりはありませんでした。ビール、冷酒、そして最後にまたビールでお開きになりましたから、私の酒量としてはいつもと変わりはなかったのですが……。転寝はすることはあっても乗り過ごすほどぐっすり眠ってしまうのは今回が初めての事でした。大事な書類を預かっている身でとんでもない失態を犯してしまいました。責任を取るつもりです」
片倉は目を落とした。
「片倉さんは、毎日東京駅を利用しているんですか。御社の住所からすると、神田駅が会社の最寄り駅になるのでは?」
空木は、片倉隆文の名刺に書かれたオーシャン製薬の住所を見ながら訊いた。
「いつもは、神田駅から帰るのですが、飲んだ時とか座って帰りたいと思った時は、東京駅から始発電車に乗って帰るんです。先週の金曜日も飲み会の帰りで上司と相乗りのタクシーで東京駅まで行って帰ったんです」
「カバンには書類以外には、他に何が入っていたんですか。例えば財布とかは入れていませんでしたか」
「いえ、データの入った紙袋だけでした」
「そうですか。金目当てなら金目の物が入っていないと分かれば、犯人は書類ごとカバンを何処かに棄てるか処分すると思いますが、カバンを拾ったという届出は無いんですよね」
「ありません」
「……カバンをひったくった男のことで、何か記憶していることはありませんか。何でもいいんです」
「それが、ほとんど記憶していなくて、白っぽいズボンに、白い半袖のTシャツの後ろ姿しか憶えていません」
「警察が駅の防犯カメラで確認してくれている筈ですし、目撃情報からも何か掴んでいるかも知れません。犯人が捕まればカバンの中の書類も見つかる事になると思います。私も書類をなるべく早く探し出す力になりたいと思いますが、探偵の私が出来る事には限りがある事だけは承知しておいて下さい」
「それは兄からも聞いています。私は今回の件の責任を取らなければならないと思っていますが、盗られたデータを探し出す努力も責任の一つだと思っています。それに警察任せにしていない事を会社に示さないと、旧社の人たちにも申し訳ないと思っています。空木さんには失礼な依頼かも知れませんが、結果に拘らず私の代わりに書類探しをしてもらう事が、私の罪滅ぼしにもなりますし、私の気持ちが納得するんです。どうか、力になって下さい」
「分かりました。精一杯動いてみましょう。それから、これは事件とは関係ない事なのですが、私と入れ替わりで出て行かれた方は、片倉さんとはどういうお知り合いなんでしょう」
「ああ、彼ですか。彼は旧社の大空製薬の入社同期で、堀井と云う男です。この多摩地区でMRをやっていて見舞いに来てくれていたんです。空木さん堀井をご存知なんですか」
「いえ、そうではないんですが、どこかで見たことがあるような気がしたんです。MRさんだとしたら、通院していた武蔵国分寺病院で見かけたのかも知れません」
「彼は武蔵国分寺病院も担当していますから、きっとそうだと思います。その病院が、私が盗られてしまったデータを持って、月曜日に行く予定の病院だったんですが、キャンセルする事になったのでその話も伝えに来てくれたんです」
「ああ、そうだったんですか」
それを聞いた空木は、オーシャン製薬の(ある薬の副作用)と言った片倉の話が見えた。それは武蔵国分寺病院で発生した制吐剤の副作用を意味していて、片倉隆文が盗られた資料はその制吐剤の承認申請時のデータの一部だったのだと。
こんな偶然が、しかもいくつも重なって起こる事に、空木は不思議さよりも、ある種の因縁めいた恐怖のようなものを感じる程だった。
病院を出た空木は、国分寺警察署の刑事、石山田の携帯に電話を入れた。
七月八日金曜日の国立駅でのひったくり事件についての情報を得たいが為だったが、空木には武蔵国分寺病院の(KCL投与事件)のその後も気になる事だった。とは言え、武蔵国分寺病院では、エレベーターに乗ろうとする石山田たちの後ろ姿を見送っただけで、自分が関与しているとは知らないであろう石山田に、武蔵国分寺病院の事件を訊く訳にはいかない。
「どうした空木、飲みの誘いかい」
石山田の大きな声が耳元で響いた。
「忙しいところすまない。飲みの誘いもあるけど、訊きたい事があるんだ」
空木は、片倉隆文が先週の金曜日にひったくりの被害に遭って怪我をした事件に、仕事で関わることになった事を話し、ひったくられたカバンは見つかったのか、その犯人の目星はついているのか教えて欲しいと依頼した。
石山田は一旦電話を切り、暫くして空木の携帯に連絡して来た。
「その事件の担当は、河村という若い刑事が担当している。強盗傷害事件として捜査中だけど、カバンも出て来ていないし、犯人の目星も立っていないようだ。国立駅の南口に逃げた事は分かっているが、その後の足取りが掴めていない。タクシー会社に聞き込みをしているが、難しいみたいだ。鉄道警察とも協力して捜査しているけど、この種の犯行は、常習犯なら目星もつくけど、そうでなければ捕まえるのは難しい。まさか仕事というのは犯人を見つけ出す訳じゃないだろうね。警察の仕事だし、空木一人じゃ無理だよ。俺たち警察に任せておけよ」
「犯人を見つけたい訳じゃないんだ。盗られたカバンの中の書類を探し出したいんだ」
「それは犯人を見つけ出すのと同じじゃないか。いやそれ以上に難しいんじゃないか」
「俺もそう思うけど、それが依頼された仕事なんだ。やってみるだけはやってみようと思っているんで、情報があったら教えてくれないか」
「俺たちの捜査情報で私立探偵さんを儲けさせる訳にはいかないが、差し障りの無い範囲で協力するようにする。河村には伝えておくようにする」
「ありがとう。頼むよ」
「今日は今から平寿司に行くのかい?俺はちょっと込み入った事があって行けそうもないんだ」
「分かった。また落ち着いたら一杯やろう」
空木は石山田の(ちょっと込み入った事)という言葉を、武蔵国分寺病院の一件だと受け取った。
その夜空木は、平寿司のカウンター席に座り、いつも通り鉄火巻きと烏賊刺しを注文し、ビールから芋焼酎の水割りへと飲み替えながら考えた(何から手を付けたら良いのか)。
書類を探すと云っても、駅の周りを探し回って見つけられるような物の筈は無い。カバンでさえも届けられていないのに、書類の類が「落ちていました」と交番に届けられることは無いだろう。石山田の言う通りひったくった犯人を捜すより難しそうだ。
「空木さん、空木さん」と自分を呼ぶ女将の声に、空木はハッとして振り向いた。
「さっきから良子ちゃんが声を掛けているのに、何で無視しているの」
「あ、いや無視だなんてとんでもないですよ。考え事していて気がつかなかった。ごめんなさい」
空木はカウンター席の端に立っている、店員の坂井良子に謝り、頭を下げた。
「そんな謝るような事じゃないですから、気にしないで下さい。それより空木さん、さっきから何もお腹に入れずにずっとお酒ばっかり飲んでいるから、どうしたのかなって心配で声を掛けただけですけど、随分深刻な顔をしていましたね」
坂井良子は空木の席に一歩、二歩近寄って言った。
「頼まれた仕事をどう進めたら良いのか、賢くもない頭で悩んでいるんだ」
「そうなんですか。空木さんの仕事は、一から十まで全て自分一人で考えて進めなくちゃいけないから大変ですよね」
「そうなんだけど、だからこそ遣り甲斐と云うか、面白味があるんだけどね」
「そうなんですか。じゃあ頑張って下さいね」
坂井良子はそう言うと、空になっていたビール瓶を下げて行った。
(一から十まで考えて進める)と坂井良子が言った言葉を、空木は心の中で繰り返した。じっとしていても何も始まらない。自分なりの仮説を立てて進めてみよう、と決めた。そしてまず犯人像を絞ってみる事から始める事にした。
犯人が金銭若しくはクレジットカードなどの金目の物が目当てだったとしたら、駅周辺でカバンの中を確かめて何も無いと分かれば、カバンごと捨てるのではないだろうか。いつまでもひったくった物を持って逃げるような事はしないのではないだろうか。未だにカバンも書類も発見されない、出てこないという事は、それは今も犯人が持っているという仮説も成り立つのではないか。その仮説でいけば犯人を捜し出すことが、書類を探し出す最善の方法ということになる。犯人は、片倉隆文によれば、白っぽいズボンに、白い半袖のTシャツ姿だったと聞かされたが、風貌も年恰好も何も分からない。駅の防犯カメラに写った犯人の姿を見てみたい。
空木の仮説で考えてみて疑問な事は、そうであるならば犯人は何故カバンを持ち続けているのかという事だ。考えられる事はカバンではなく中に入っている書類を見て利用できる(金になる)と考えているからなのではないだろうか。会社にデータを買い取らせるつもりなのか。だとしたら、会社に何らかの接触、アプローチがあっても良さそうだが、現時点ではその動きはなさそうだ。別の目的かも知れないが、その書類の入ったカバンをたまたま盗ったのだろうか。もしデータが入っていると知って盗ったとしたら、あの日の夜、片倉隆文がそれを持って東京駅から電車に乗って帰宅する事を知っていたという事になる。それはつまり、片倉隆文の周囲、しかも社内の人間が盗った、若しくは関係しているという推理に行き着く。
この仮説は、現実的ではないかも知れないが、まずこの仮説を否定する為にもオーシャン製薬の片倉隆文の所属部署の人間から話を聞いてみる必要がある。(誰に会うのか)手立ての無い空木は、また考えなければならなかった。
空木は何杯目かの水割りを口に運び、鉄火巻きを一つ摘まんで口に入れた。
空木が誰に会うのか考えを決めるのに、そう時間はかからなかった。それは片倉隆文の名刺を見た時に思い出したオーシャン製薬の片倉と同じ部署の部長だった。空木が思い浮かぶ人物は、その部長しかいなかったが、片倉の上司でもあり、また制吐剤の副作用の対応をしている人物であるという事は、最も会うべき人物ではないかと考えた。ただ一つ、問題なのはその部長と面会した時の空木は、医療コンサルタントとして面会していたという事だった。