未必の山 第三話 悪酌(1)
日本橋本町二丁目の、オーシャン製薬本社ビル五階の医療情報本部の会議室では、七月六日水曜日早朝から、市販後情報部長の竜野が、武蔵国分寺病院で発生した制吐剤、製品名「セロン」の副作用に関して緊急の報告をしていた。
その会議室には、医療情報本部長の高梁の他、市販後情報部解析GMの桑田と情報収集GMの戸部の三人が竜野の報告を静かに聞いていた。
竜野の報告を聞き終えた三人は、一様に眉間に皺を寄せた。本部長の高梁が重苦しい雰囲気の中、口を開いた。
「厚労省から、この症例のみを持って何らかの指示があるとは思えないが、問題はこの案件を我々としてどう判断し、どう対応するのかという事になるんだが、竜野部長はどう考える?」
「患者が亡くなっているという事象から言えば、重大な副作用という位置付けにあることは間違いないのですが、この症例の原因が100%セロンによるものなのかと言えば、それは、その可能性が否定できないという位置付けにあるのが現状です。担当の先生の所見でも報告した通りで、私はこの一例のみを持って緊急安全情報を出すというのは拙速だと考えています」
竜野は静かな口調で考えを話した。
「そうか。二人はどう考える?」と高梁はGMの二人に顔を向けた。
「私も竜野部長の考えに賛成です。これまでのセロンの安全性から考えても、この一例で結論は出せません。今後の情報収集に力点を置くべきであって緊急安全情報の発出の必要は無いと思います」
情報収集GMの戸部は、淡々とした口調で意見を言い、眼鏡を掛け直した。
「なるほど分かった。桑田マネージャーはどう思う?」
「……果たしてそれで良いんでしょうか。セロンのような制吐剤は、癌の治療薬という位置付けではなく、あくまでも抗がん剤を継続投与するための補助薬のような位置付けです。それが重篤な副作用を起こす可能性があるという事は非常に重いことではないでしょうか。緊急安全情報の発出が必要かどうかの判断は、難しい事ですが、この症例を基にした何らかの情報提供をすべきではないかと私は思います」
桑田はそう言うと、上司である竜野を睨みつけるように見た。
「桑田マネージャーの意見は正論かも知れないですが、不確実な情報提供は医療機関をいたずらに混乱させる結果になり兼ねないと思います。桑田マネージャーはどんな情報提供を考えているんですか」
竜野は高梁にそう言った後、桑田に顔を向けた。
「………分かりませんが、営業本部に状況を説明した上で、営業の考えを聞いてみたらどうでしょう」
桑田は竜野の目を避けるようにして高梁に目を向けた。
「今週の執行会議で執行役員には報告することになるから、熊川本部長にはそこで相談出来る事は出来るんだが……」
「しかし本部長、それなら営業にはその前に話しておいた方が良いのではないですか。さすがに熊川本部長も、話を聞かされた執行会議の場で、即決で判断するのは難しいんじゃありませんか。今日か明日の間に私から営業本部に説明しておきましょうか」竜野だった。
「それが適切だろうな。竜野部長、お願いするよ」
「分かりました。営業には私から説明しますが、その際には現段階での高梁本部長のお考えをお聞きした上で説明したいと思うのですが、いかがですか」
「……現状では、竜野部長の考えと同じで、この一例を持って緊急安全情報の発出は拙速だと思う。今後の情報収集に力点を置くべきだと考えている」
高梁の言葉に、竜野はホッとした表情を浮かべた。
高梁の考えが三人に伝えられたことで、会議の結論が出たというように三人は高梁を見て頷いた。
翌日の午前中、四階の営業本部のフロアから戻った竜野は、高梁のデスクの前に立っていた。
「ご苦労様でした。それで営業本部の考えはどうだった?」
目を通していた書類から顔を上げて高梁が訊いた。
「それが、熊川本部長は出張で不在でしたので、営業としての考え方を聞いたとは言えないのですが、営業企画部長の金井さんと、営業推進部長の東村の二人に説明して、考え方を聞きました」
「それで、二人はどう言っているんだ」
「二人はこちらの考え方を理解出来ると言ってくれましたが、本部長の考えを聞かないと営業本部としての結論は出せないという事です」
「やっぱりそうか。それで熊川本部長はいつ戻って来るんだ」
「明日の執行会議までには戻って来るそうですから、会議の席で高梁本部長から直接聞くことになると思います。とは言え、それまでに概略は部長の二人から事前に聞かれると思いますが。それで、東村の意見なんですが、武蔵国分寺病院の担当医にもう一度面会して、セロンが影響しての副作用なのかどうか、担当医としての印象を確認すべきではないかと言うんです」
「……東村部長は竜野部長とは旧社の同期だったね」
オーシャン製薬は三年前、中堅製薬会社の恒洋薬品と大空製薬が合併して新たに出来た会社だった。高梁が言った旧社という言葉は、その一つの大空製薬を指していた。
「はい、そうですが……」
「推進部長の東村部長としては、営業としては面倒で、且つ売り上げに悪影響するような情報提供は、医療機関に出したくないというところだろうが、それだけではなく、同期である竜野部長の考え通りに進めさせたいと思って言ったのではないかと思ってね」
「それもあるかも知れませんが、担当医にセロンの副作用ではないのではないか、とはこちらから言えませんよ。データも先日の発売以来の有害事象を集めたデータ以外、新たなデータで示せるような材料はありません」
「……研究開発データとか、承認申請データとかを見せて説明してみたらどうだろう。セロンの副作用ではないとは言わないまでも、先生からセロンの副作用とは考え難いとか、その可能性は極めて低いとかの言葉を貰えるんじゃないか」
「しかし、そんなデータを研究開発から貰えるんですか」
「研究開発の本部長の仲野は私の大学の教室の一年後輩なんだ。無理を承知で頼んでみる」
高梁はそう言うと、デスクの上の受話器を手に取り、内線ボタンを押した。
暫くして高梁は、竜野と解析GMの桑田をデスクに呼んだ。
「明日中に研究開発本部から、セロンの安全性データと承認申請データが紙ベースで届く事になった。それを持って来週月曜日中に病院に行って担当医に説明して来て欲しい」
「今どき紙ベースですか」桑田が驚いたように聞いた。
「研究開発本部から電子データで出すことは出来ないそうだ。万一の事があると承認申請書の保持保管の不備で大問題になり兼ねないので、紙ベースにして、しかも見せるだけで絶対に渡さず返送してくれと言っているんだ。それを了解して、やっと出してくれたというところだ」
「会社の重要な機密データという事でしょうが、それにしても慎重ですね。そのデータで先方が理解してくれれば良いでしょうが……」
「セロンの安全性に対する我々の思いがそのデータで伝えられれば、それで善としよう。二人で行ってくれ」
「すみません、私は月曜日には出張が入っていて行けないのですが、私の代わりに片倉に行かせて良いでしょうか」
桑田は手にしたスマホのスケジュールを見て言った。
「そうか、片倉で大丈夫ならそれで良いが、土曜日曜でデータを一通り読んで理解した上で、先方と会ってもらわなければならないが、大丈夫だろうな」
「大丈夫だと思います。彼も解析グループの一員ですから」
「土曜日中に行けと言われなくて良かったですよ。金曜日の夜は、久し振りの医療情報本部の納涼会ですから、ゆっくり飲んでいられなかったですからね」
竜野もスケジュールを見ながら言った。
翌日金曜日の四時過ぎ、執行会議からデスクに戻った高梁は、竜野を呼んだ。
「熊川本部長はどうでしたか」
竜野は、高梁から呼ばれた意味を、高梁の眉間の皺に感じ取りながら訊いた。
「……熊川さんは、一例とは言え重大事故であり、売り上げに悪影響が出たとしても、医療機関への情報提供をすべきだ、という考えだった」
「えっ、因果関係が不明であったとしても情報提供すべきだと言うんですか。医療機関を混乱させる事になりますよ。それでいいんですか」
「そうなんだ。それで、担当医の所見をもう一度確認してから改めて方針を検討することになった」
「月曜日の面会次第ですか」
「そういう事になる」
「それで因果関係が否定されなかったら、緊急安全情報の発出ということですか」
「それは何とも言えないが、そうなるかも知れないな」
「しかし変な話ですね。営業企画部長も推進部長も我々の考えに賛成しているのに本部長が反対するとは……」
「俺も驚いたよ。売り上げを伸ばすことに異常な執念を持っている熊川さんが、売り上げが減っても仕方ないと言うとは思わなかった」
「いつもなら、我々の部から売り上げの足を引っ張る情報を出すと、営業からは嫌な顔をされるのに、今回は我々が出す必要は無いと言っているのに、営業が出せという。売り上げのアクセル役とブレーキ役が真逆ですね」
「確かにそういう絵図になっているが、我々の役目が正しい情報を正しく伝える事である以上、客観的に判断できる情報を複数収集する事は絶対条件だと思う。事はどうあれ医療情報本部としてこうすべきと思う事を粛々と意見具申するしかない。取り敢えず来週の月曜日に片倉君と病院へ行ってくれ」
「分かりました」
返事をした竜野は、自分のデスクに戻りながら、三日前に武蔵国分寺病院の会議室で面会した、担当医の水原という医師の落ち着いた話し振りを思い返しながら(思いを伝えてみるか)と呟いた。
片倉隆文が、上司の桑田から渡された厚手で大きめの封筒は、ずっしりと重く、『シークレット』の朱印スタンプが押され、高梁医療情報本部長殿親展と書かれていた。
前日、桑田から状況説明を受けた片倉は、普段持ち歩かない黒い書類カバンを持って出社した。そしてそのカバンに桑田から渡された封筒を入れた。
その夜、医療情報本部の納涼会に参加した片倉は、飲み会が催された日本橋室町から、桑田との相乗りのタクシーで東京駅に向かった。
中央線を通勤に利用している片倉にとっての会社への最寄り駅は神田駅だったが、座って帰りたい時には東京駅を使い、東京駅始発の中央線快速電車に乗っていた。この日も片倉は座って帰ろうと東京駅の中央線ホームに並んだ。
時刻は夜九時を過ぎていた。高尾行の快速電車の6号車に並んだ片倉は、七人掛けシートの中央に何とか座ることが出来、書類カバンを膝の上に置いた。
蒸し暑いホームからエアコンの効いた車内は、酔って火照った体の片倉に強烈な睡魔となり、動き始めてガタゴトと適度に揺れる車両の中で、心地良い眠りに吸い込まれた。
下車駅の武蔵小金井駅までのおよそ四十分はあっという間に過ぎた。
片倉は膝の上の重さが、突然はぎ取られた瞬間に目が覚めた。
「あっ、え…」何が起こったのか直ぐには理解出来なかった片倉は、声を上げ周りを見た。
焦点が定まらない片倉の目に、黒いカバンを持って電車を降りて走って行く男の後ろ姿が映った。
「俺のカバンだ、返せー、泥棒」と叫んだ片倉は、ふらつく足で男の後を追いかけて電車を飛び降りた。降りた駅がどこなのか片倉には全く分からなかったが、自分が降りた駅が降りるべき武蔵小金井駅ではないように感じた。乗降客はかなり多かったが、皆驚いて立ち止まり、左右に道を開けるように避けるものの、その男を取り押さえようとする客はいなかった。
男を追って「待てー」と叫びながらホームからの下りの階段を走り下りた片倉は、階段の半ばで足を踏み外し「あー」と小さく叫んで落ちた。