未必の山(終)
翌日の木曜日、俄か医療コンサルタントとしての院内巡回を済ませた空木は、内村理沙に病棟在庫の口裏合わせを済ませた後、薬剤部長室で部長の小村に深刻な表情で向き合った。
「先週金曜日の、KCL注射キットの外科と内科の病棟在庫に変な動きがありました。それで先程、払い出し担当の方に話を伺ったところ、先週の金曜日、内科の青山副院長に息子さんの実験用として欲しいという要望に、2セット払い出しされたと聞きました。小村先生が許可されて払い出しされたそうですが、個人に払い出しをしてその後の用途の確認はされているんでしょうか。例えば、使い終わったキットを回収するとかですが」
「いいえ、していませんが……。変な動きというのは?」
「外科から内科へ2セット貸出しがあったようですが、使用先が不明です。青山先生に払い出された2セットとの関連の有無の確認が必要です」
空木は自分の推理を確認するため、外科病棟の協力を得て、思い切った手を使った。
医療コンサルタントの肩書の空木からの指摘に、小村の顔は強張った。
「拙いですね。至急確認するべきです。KCLの使途の重要性については、薬剤師の皆さんなら十分承知している筈ですが、どうして確認を怠ったんですか。至急青山副院長のご家族に連絡して確認してください」
空木のその口調は強く威圧感があり、そして命令的だった。
「は……青山副院長に聞いて確認するようにします」
「先にご家族からの確認を取って下さい。先生は今、回診中です。電話番号はこれです。調べておきました」
空木はそう言って、電話番号を書いた一枚のメモ用紙を小村に渡した。
小村は、空木の勢いに押されたのか、青山の自宅の電話番号まで用意する空木の手回しの良さに疑問を抱くことも無く、机の上の受話器を取った。
電話の相手は、どうやら青山の妻のようだった。
本当に息子の実験に使われていたら、使っていなくても家族で口裏を合わせていたら、という不安が、一瞬空木の頭に過った。次の瞬間、その不安は杞憂に終わった。
電話を終えて受話器を置いた小村の顔は、一層強張っていた。
「先生はご自宅には持ち帰っていないようです。息子さんも実験はしていないようで、どこにもKCLは見当たらないと奥様が言っていました。どういうことでしょう……」
「……それは本当に拙い事になりましたね。この事は暫く口外しないでおきましょう。青山先生には私から内々で聞いてみる事にしますから、私に任せてください」
空木は(やはりか)と胸の内で呟いた。これが、内科病棟のKCLの補充に使われた証拠とは言えないが、KCL注射用の2キットの行方が分からない事は事実だ。
病院を出た空木は、看護師の井川房恵との面会に、調整をしてくれた内村理沙から指定された、病院からそれ程遠くない、青梅街道沿いの珈琲店に向かった。
準夜勤務の井川房恵とは、午後二時の約束だった。空木は井川房恵の顔が分からなかったが、彼女は空木をしっかり認識していたらしく、入口で待っていた彼女は、空木を見ると「お疲れ様です、井川房恵です」と声を掛けた。
珈琲店の中は涼しかった。客の入りは、半分ぐらいのように見えた。
店員に案内されてテーブルに着くと、二人はアイスコーヒーを注文した。
「内村師長から、空木さんが私に話があるので会って欲しいと言われましたが、一体どんなお話しなんでしょうか」
井川房恵の顔つき、その口調は、緊張感が空木にも伝わってくるかのように硬かった。
空木は、改めて『スカイツリー万相談探偵事務所所長』の名刺を井川房恵に差し出した。
名刺を前にした井川房恵は怪訝な顔をした。
「探偵ですか……医療コンサルタントではなくて」
空木は、七月一日金曜日に、容態が急変して亡くなった岩松兼男の死因について、理事長から内密に調査するよう依頼を受け、病院に出入りする際の仮の職業として、医療コンサルタントを名乗る事になったと説明した。
「その探偵さんが、私にどんな話を……。岩松さんは薬の副作用が原因だと聞いていますが……」
井川房恵の表情は、怪訝な顔から不安な顔に変わった。
「岩松さんの死因は、表面上は副作用とされていますが、どうやら何者かにKCLを急速注入されたことが原因だと思われます。それは岩松さんへの恨みとかではなく、外科病棟看護師長の内村理沙さんへの嫌がらせのつもりだったものが、思わぬ結果になってしまったというものだと私は考えています。……そしてその行為を実行したのはあなた、井川さんではありませんか」
「え……何故、私が」井川房恵は固まった。
空木はアイスコーヒーをテーブルの端に寄せ、二通の手紙と封筒、そして一枚の看護日報と書かれたコピー用紙をテーブルの上に置いた。
「この看護日報は井川さん、あなたの直筆で書かれたものです。そしてこの二通の手紙のうちの一通は、五島先生の婚約者で、亡くなられた池永由加さんという看護師の方に送られてきた嫌がらせの手紙で、もう一通は、この四月に昇進したばかりの内村さんに送られて来た嫌がらせの手紙です。これらの筆跡が鑑定して全て同じだとしたら、…いやこれらは一目して一緒です。鑑定の必要が無いぐらいに。つまり嫌がらせの二通は井川さん、あなたが送ったものですよね」
「………」
「そして、あなたは五月に行った甲武信ヶ岳の小屋で、内村さんのコーヒーに眠剤を入れて飲ませましたね。あなたは誰にも気づかれなかったと思っていたのでしょうが、実はあなたが白い粉を入れるところを見ていた人物がいたんです。内村さんはその白い粉が入ったコーヒーを飲んだ三十分後に、ふらついて転倒した。巻き添えで高野という女性も傷を負った。証明する物はありませんが、その白い粉は眠剤でしたね。それは立派な犯罪ですよ。そしてさらにあなたは、師長になった内村さんへの嫌がらせの極みとも言える行為をした。外科のVIP患者の岩松さんにKCLを投与して内村さんの失態にしようとした。違いますか」
「……そんな事…していません…」井川房恵の声は、聞き取れないほど小さな声だった。
「岩松さんは亡くなりました。内村さんたちが転倒して怪我をしたのとは訳が違います。警察に捜査を委ねなければなりません」
「待って下さい……手紙を二人に送ったのは私です。でも……」
「眠剤は?」
「……内村さんのコーヒーに、磨り潰した眠剤を入れて飲ませもしました。でも岩松さんにそんな酷い事はしていません。絶対にしていません」井川房恵は俯いたままだった。
「内村さんにした事は認めるんですか」
「……はい」
「何故、そんな事をしたんですか。単純な意地悪では済まされない酷い事ですよ」
井川房恵は、空木の言葉に一瞬顔を上げたが、また直ぐに俯いた。そして、同期で入職して、自分が先に副師長になっていたのに、自分を飛び越して師長になったのが悔しくて、妬んでやってしまったが、山で転倒して怪我をした二人を見て怖くなり、今は後悔し、謝りたいと話した。
今年の一月に、池永由加に(玉の輿)と書いた手紙を送ったのも、自分と同じ看護師という立場で、医師と結婚することに嫉妬しての嫌がらせだった。彼女はあんな事になり、五島先生にお詫びしたいとも話した。
「でも、私は看護師としての誇りは持っています。患者さんにKCLを急速注入したらどんな事が起こるのか、予想もつかない急変が起こってもおかしくない事ぐらいは理解しているつもりです。絶対にそんな事はしていません。あの時間は、受け持ちの病室の患者さんの回診をしていました」
井川房恵はそう言うと、顔を上げ空木を睨むように見つめた。その目は充血していた。
井川房恵の言葉を信じて良いのか空木の気持ちは揺れた。
「井川さんは、岩松さんの容態が急変する直前に、VIP用個室から出て行く看護師さんを見たと言われたそうですが、それは本当ですか」
「本当です。私が受け持ちの病室を出た時、VIP用個室を出て、非常階段の扉を開けて出て行ったんです」
「それが内科の師長の佐野さんという看護師さんだった」
「はい、佐野さんでした。佐野さんは、院長や副院長と同じ湘南医科大学病院からこの病院に来たんですが、その当時私も内科にいましたから、後ろ姿でも間違える事はありません。佐野さんがした事かどうかは分かりませんが、岩松さんの容態が急変したのは、その直ぐ後でした」
空木は外科病棟の病室配置を思い浮かべた。外科病棟も内科病棟も病室の配置は同じで、ナースセンターを挟んで、東西に延びる廊下の北側と南側に四人部屋、二人部屋、個室と連なり、一番西側つまりコの字の突き当りにVIP用個室と非常階段がある。
「井川さんの受け持ちの病室は何号室ですか?」
「318号室から320号室です」
「……南側の病棟の一番西側ですか?」
「そうです。その320号室からは、VIP用個室の出入り口のドアが見えるんです。空木さんは、まだ私を疑っているんですね。それは仕方のない事かも知れませんが、悔しいです」
井川房恵の充血したその目からは、今にも真っ赤な涙が溢れてきそうだった。
「そうではありません。逆にあなたが信用出来るかどうかの確認なんです。……もし仮に、佐野さんと云う看護師さんがやったとしたら、井川さんはその動機というか、原因はなんだと思いますか。内村さんへの嫌がらせですか、それとも外科への嫌がらせですか。思い当たることはありますか」
「思い当たる事ですか……。あるとすれば、水原先生と仲の良い内村さんへの妬みか、空席の看護部長争いで差をつけるためなのか、ですが……」
「看護部長争いですか」
「内村さんはどう思っているか知りませんが、この四月に空席の看護部長に昇進しなかったことが、佐野さんにとってはショックだったようで、飛び級で師長になった内村さんをライバルだと思っているそうです。内科病棟では、内村さんは理事長の引きで師長になったと言っているらしいです」
「その話は、内村さんの耳にも入っているんですか」
「知っていると思います。でも内村さんは気にしていないようで、言いたい人には言わせておけばいいっていう態度で、佐野さんにも普通に接しています。しっかりした人だと思います」
「もう一つ、佐野さんと青山副院長との繋がりというか、親しさはどんな感じなのか、井川さんの印象を話してもらえますか」
「青山先生と佐野さんですか。……親しさの程度は分かりませんが、院長、副院長、佐野さんは同じ湘南医科大学病院に勤務していましたから、それなりに親しいと思いますが」
「佐野さんがここに来たのは、八年前ですね」
「そうだと思います。院長と一緒に来てから暫くして師長になった筈です。青山先生はその後二、三年してからここに来たと思いますが、佐野さんとの噂めいた話は知りません」
井川房恵は時間を気にしているようだった。
「井川さん、あなたが岩松さんにKCLを急速注入したと疑ったことは、お詫びします。しかし、池永由加さんと内村さんにあなたがした事は事実です。私から五島先生、内村さんにこの事を話すことはしたくありませんが…」
「……二人には私から謝らなければいけないと思っています。特に内村さんとはこれからも一緒の職場で働きたいと思っていますから、空木さんにはしばらくの間この話は、黙っていて欲しいのですが……」
「分かりました。私から話しはしませんから、井川さんが思う形でお詫びをしてください」
「ありがとうございます。必ずお詫びします」
井川房恵とともに珈琲店を出た空木は、準夜勤務で病院に向かう彼女に別れを告げた。
久し振りに平寿司の暖簾をくぐった空木は、カウンター席に一人で座っている先客に「お久し振りです」と挨拶し隣に座った。
先客は小谷原幸男と言う、空木より三歳年上で京浜薬品という製薬会社の営業所長をしている男だった。空木と小谷原は、空木が北海道勤務当時からの友人で、空木が退職して東京に戻ってきた後、小谷原も後を追う様に札幌からの転勤で、国立市に家族と共に住んでいた。
空木は、佐野美佐と云う看護師が、KCLを岩松兼男に投与した動機が、看護部長争いのためだったのか考えていた。関係のない人を殺してまで昇進したいと思うものだろうか。それよりも何よりも、佐野美佐は本当にKCLを投与したのだろうか。それを明らかにする方法はあるのだろうか。そんな事を整理しようと平寿司に来ていた。
「小谷原さんは、社内に昇進争いのライバルのような人はいるんですか」
空木はグラスのビールを一気に空けて、鉄火巻きと烏賊刺しを注文した。
「空木さん、いきなり酔いが醒めるような事を聞きますね。支店長を目指すという意味では、全国の所長が全員ライバルという事になるんでしょうが、個人的に誰がというのは無いですよ。空木さんは万永製薬時代にどうだったんですか」
「私は、そういう世界から逃げてきた男ですから、ライバルという感覚が分からないんです。ところで小谷原さんは、昇進のためにライバルの足を引っ張る人間がいると思いますか」
「うーん、足の引っ張り方によるんでしょうけど、いると思いますよ。私はしませんけどね」
「そういう人間がいたとしても、他人の命を奪ってまでしてライバルの足を引っ張るなんて考えられませんよね」
「当たり前ですよ。でもやり過ぎて死んでしまうことも、無きにしも非ず、かも知れないですね」
「やり過ぎですか……」
「例えば、酒宴の席で、ライバルが酒に弱いと知っていて潰そうとして無理に飲ませて死なせてしまったとかね。まあ普通ではあり得ない事ですけどね」
空木は小谷原と話しながら、岩松にKCLを投与した人間は、KCLの基本知識は持っていた筈で、KCLには致死量というものが明確にはなっていない事も知っていたとすれば、岩松が死ぬとは思っていなかったのではないかと想像した。しかしながら、KCLを2キット投与しているとすれば、それは心停止する確率を高めている事になる。やはり死亡させる事が目的だったのだろうか、とも考えるのだった。
次に空木は、佐野美佐へのコンタクトをどのように取るべきかを考えた。
事実としては、あの時間に外科のVIP用個室付近に居たという事だけであり、それだけではKCLを投与した証拠にはならない。もう一つの事実は、副院長の青山が、KCL注射キットを2キット薬剤部から受け取り、その行方が分かっていないという事だ。その2キットが内科病棟へ持ち込まれ、在庫の補充に使われた事が判明すれば、内科の病棟在庫がどこに使われたのか、佐野美佐を問い詰める大きな材料になるだろう。空木は、まず青山からコンタクトを取ることにした。
翌日、空木は早朝から武蔵国分寺病院六階の副院長室の前に立った。こうして早朝に立待ちをしているとMR時代を思い出す。早朝の立待ちは、大事な用件で待つ事が大半で、緊張しながら医師が来るのを待ったものだった。
午前八時半過ぎ、青山は現れた。
「おはようございます。医療コンサルタントとして大変重要な案件で伺いました」
朝から部屋の前に、医療コンサルタントを名乗る男に立待ちされ、重要な案件だと言われた青山は固まった。
小さなテーブルに青山と向かい合った空木は、ニコリともせず口を開いた。
「単刀直入にお伺いします。先生が、先週金曜日に薬剤部から受け取ったKCL注射用キット2キットはどうされましたか」
「朝から何かと思えばそんな事でしたか。あれは中学生の息子の炎色反応の実験に使いました。炎の色がKCLを含ませると青色に変わる実験です。あなたもご存知でしょう。それがどうかしましたか」
「………」
空木は思ってもみなかった青山の答えに言葉が出なかった。昨日、薬剤部の小村から青山の自宅に、KCLについての問い合わせをしたにも拘わらず、青山の妻はその事を話していなかったのだ。医療に携わる夫の仕事には口を出さない主義なのか、夫婦の会話が無い生活なのか分からないが、それは空木にとっては幸いな事だった。
「私たちもそう思って、間違いないか昨日ご自宅に確認させていただきました。先生、実験には使っていませんでしたね。そもそも実験なんかしていないじゃないですか。先生、KCLの使途不明は、医療監視上の大問題です。先生ご自身の責任問題にもなりかねません。もう一度お聞きしますが、どうされました。正直にお答えください」
「………」言葉を探すかのように無言になった青山の目が、宙を泳いだ。
「まさか人に使った……」
「いえ、そんな事はしていませんが……。ある人に頼まれたんです」
青山の頬が微かに紅潮していた。
「院外の方ですか、……それは困りましたね。誰に頼まれたのですか」
「……院内です。内科病棟の在庫が合わないので助けて欲しいと頼まれたんです」
「内科の誰ですか、看護師ですか。佐野師長ですか?」
「……そうです」
「何故在庫が合わなくなったのかは、お聞きにならなかったのですか」
「聞きませんでした。彼女とは湘南医科大学病院時代からの知り合いでしたから、何も聞かずに頼みを受けてしまいました。軽率でした」
「分かりました。正直にお話しいただきありがとうございました」
空木は、青山が全て正直に話しているという確信は持っていなかったが、佐野美佐にコンタクトする前に、自身の推理に自信と確信を得ることが出来た事に大きな成果を感じていた。
四階の内科病棟に下りた空木は、ナースセンターに佐野美佐を探した。
髪を後ろで束ねた佐野美佐は、四十歳という年齢より若いように感じた。空木は、医療コンサルタントとして重要な話があると言って、午前中の業務が一段落したら、六階の会議室に来て欲しいと伝えた。
十二時を少し回った時間に、佐野美佐は会議室に入って来た。その顔は幾分緊張しているようだった。ぐるりとロの字に並べられた長机の一角に座っていた空木は、彼女を自分の座る角のもう一角に座るように促した。そして徐に話し始めた。
「私は、この病院にとって、とても大きな問題を見つけてしまいました。医療コンサルタントとして見て見ぬふりをする訳にはいきません。それは、先週の金曜日のKCL注射キットの使途が分からなくなっていることです。そのことについて佐野さん、あなたはその使途を知っていますね」
「………何の事なのか私には……」
佐野美佐は、予想もしていない空木の話だったのか、そう言うと呆然と空木を見つめているだけだった。
「内科病棟のKCLの在庫の補充のために、青山副院長に何とかしてくれるように頼みましたね。青山先生が話してくれましたよ」
「青山先生が……」
「使途が言えないのでしたら、私が言いましょう。外科病棟のVIP用個室にその日入院していた岩松兼男さんに、午後一時四十五分頃投与しましたね」
「え、………」佐野美佐は絶句した後、激しく首を振った。
「その時間に、あなたがVIP用個室から出てくるところを見てしまった看護師さんがいたんです。その方にここに来てもらいますか?」
「………」佐野美佐は、また首を振った。そして俯いた。そして
「どうしてあなたにそんな事を言われなければいけないんですか」と俯いたまま震える声で返した。空木には佐野美佐の精一杯の抵抗のように見えた。
「私は、麻倉理事長から、岩松さんの死因を内密に調べるように依頼された探偵です。これが本業です」
空木はそう言うと、佐野美佐の座る机の上に『スカイツリー万相談探偵事務所所長』
の名刺をそっと置いた。
「……探偵……理事長が死因を…」
顔を上げた佐野美佐の顔は強張り、その目は何かを探すかのように動いていた。
「あなたは内村さんへの嫌がらせのつもりだったのか、それとも看護部長のポストのためだったのか分かりませんが、外科のVIP患者の容態を急変させて外科病棟を大混乱させようとして、担当看護師が部屋を空けた隙を狙ってKCLを注入した。あなたは、岩松さんが死ぬとは思っていなかったから躊躇せず注入したが、岩松さんは思わぬことに死んでしまった。慌てたあなたは、古くからの知り合いである青山先生に助けを求めて、使ってしまった内科病棟のKCLを補充した。これが私の推測です。明らかな事実は、青山先生があなたに頼まれてKCLの注射2キットを、内科病棟の在庫の補充に手配したという事だけです。あなたが使ったという証拠は何処にもありません。あなたが認めない限りあなたがやった事にはならないでしょう。でも私は理事長には、今あなたにお話しした私の推測も含めて全てを話すつもりです。更には、異状死として届け出ている警察にも、改めて報告すべきと進言するつもりです。佐野さん、あなたが看護師として、人間としてどういう人生を送る覚悟でいるのか、それ次第です」
「………」、佐野美佐は、また俯いて黙った。
「人は誰でも間違いを、過ちを犯します。そういう生き物なんだと思います。ただ、獣と違うところは、間違いや過ちを犯したら、謝り償うことが出来る事です。私は、(能く生きる)という言葉が好きです。その意味は、どんな境遇にあっても、失敗しても、挫けてもいつかきっと良い事があると信じて精一杯生きる事、過ちを犯してもそれを認め、償い、精一杯人間として生きようとすることだと思っています。佐野さんにも能く生きて欲しいと願っています」
空木は椅子から立ち上がった。
「まさかあんな事になるなんて……」
そう言って顔を上げた佐野美佐の目は、真っ赤に充血していた。その目で、午後からの仕事が出来るのだろうかと空木が心配になる程だった。
佐野美佐は、空木と共に理事長室のドアをノックした。
彼女は空木の推測通り、岩松兼男にKCLを注入したことを理事長の麻倉に告白した。空木の推測と異なった事は、青山にKCL投与の相談をした上で、青山が担当看護師を呼び出す役回りをして協力したという事だった。
理事長室を出た空木は、三階の外科病棟に下りた。
ナースセンターの前に立った空木は、水原と内村理沙を探した。水原の姿は無かったが、内村理沙が空木に気付き近づいて来た。
「空木さん、井川さんからお詫びの手紙をついさっき貰いました。直に謝ってもくれました。もう私たちは大丈夫です。ありがとうございました」内村理沙は頭を下げると振り向いて、「井川さん、空木さんよ」と後に居た井川房恵に声を掛けた。
井川房恵は丁寧に体を折って「ありがとうございました」と小さな声で言った。
「それは良かったです」と空木は微笑んだ。
「ところで、佐野師長が岩松さんへのKCLの投与を認めました」
空木は周囲に気遣い、小声で伝えた。
「え、……」
「水原先生はお見えにならないようですので、内村さんからお伝えください」
「先生は今、内視鏡室にいますから、是非空木さんから直接伝えて下さい」
内村理沙の言葉に従った空木は、エレベーターで地下の内視鏡室に向かい、水原の時間が空くのを待った。
内視鏡室から出てきた水原は、空木がわざわざ内視鏡室まで来たことに察したのか、「何か分かったんですね」と訊いた。
空木は、井川房恵と面会した結果を話した後、佐野美佐がKCLの投与を認めた事を伝えた。
「そうですか、やはりそうでしたか。残念な結果ですが、事実として受け入れるしかないですね。これからの病院内外への対応が難しいです。理事長も院長も大変でしょうね。そんなことよりも、空木さんにはこんなに短期間で調べていただいたことに感謝しなければいけませんね。ありがとうございました。それにしても、井川も佐野も優秀な看護師なのに……。己の心のコントロールほど難しい物はないんですね」
空木は、何も語らず、「……それでは私はこれで失礼します」と一礼して水原に別れを告げた。
一階の病院玄関に向かう空木の目に、見覚えのあるがっちりした体躯の男の背中が見えた。その男は、空木の高校の同級生で、国分寺警察署の刑事の石山田巌だった。エレベーターホールに向かう石山田に、空木は声を掛けなかった。
空木は、「病院もこれからが大変だ」と呟いて病院の玄関を出た。外は蒸し暑く、今にも雨が落ちてきそうに暗かった。まるで武蔵国分寺病院の前途を暗示しているように空木には思えた。