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未必の山   第一話 スパイト(1)

 秩父多摩甲斐国立公園内の、山梨県と埼玉県の県境に東西に延びる山塊の奥秩父主稜線は、標高2000メートルを超える金峰山(きんぷさん)甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)、雲取山などの日本百名山に数えられる山々が連なり、随所で望める富士山の眺望と、コメツガ、シラビソの深い樹林帯の中の静かな山歩きを楽しむために入山する登山者は少なくない。

 ゴールデンウイークと、五月下旬から見頃となるシャクナゲの季節の間の残雪の残る時期、登山者の比較的少ないこの時期を狙って、この山域に入った六人のパーティーが、甲武信ヶ岳から南東に延びる主稜線の縦走路を歩いていた。

 早朝に山小屋を出発した六人は、甲武信ヶ岳の山頂で、昨日見る事が出来なかった雪のフードを被った富士山の姿を目に焼き付けた後、日本三峠に数えられる雁坂峠(かりさかとうげ)を目指し、木賊山(とくさやま)から笹平(ささだいら)に下る登山道を歩いていた。

 男女三人ずつのパーティーの三番目を歩いていた高野鮎美(たかのあゆみ)は、背負っていたザックに何かがぶつかるのを感じた。間髪を入れず大きな衝撃を背中全体に受けた高野鮎美は、急な下りの登山道から外れ、3メートル程落下して止まった。

 高野鮎美が受けた大きな衝撃は、後を歩く友人の内村理沙(うちむらりさ)が倒れ掛かって来た衝撃だった。岩場ではなかったことが幸いして、二人とも膝、肘の擦過傷と腰部、臀部の軽い打撲で済み、予定時間を大幅に超えたものの、雁坂峠を経由して無事西沢渓谷のバス停まで下山し、帰路に着くことが出来た。


 それから三週間後の六月初旬、梅雨入り間近の予報の中、高野鮎美は友人二人と共に、南アルプスの北部に位置する鳳凰三山の登山口の一つである、夜叉神峠(やしゃじんとうげ)登山口のバス停に降り立った。時刻は午前十時二十分を過ぎたところだった。

 高野鮎美二十七歳独身。都内の短大を卒業後証券会社に就職したものの、体調を崩して退職、現在は杉並の実家からほど近い吉祥寺で、スナック従業員として収入を得て両親と共に暮らしている。

 友人は、池永由加(いけながゆか)二十七歳独身。三鷹市にある杏雲医科大学付属病院の看護師として勤務している。もう一人は、望月愛(もちづきあい)二十七歳独身。杏雲医科大学付属病院の薬剤師だった。

 三人は、井之頭女子学園高校の同級生で、卒業後も事あるごとに会い、旅行も一緒に行く仲だった。数年前からは山ガールブームの中で、年に数回の山登りも楽しんでいたが、池永由加が、今秋結婚を予定していることから、独身三人で山に登ることも最後かも知れないと計画した山行だった。

 鳳凰三山を選んだのも、登山計画の日程を含めた計画を立てたのも高野鮎美で、三人で日本最高峰の富士山、第二峰の北岳を眺め、シャクナゲの登山道を楽しもうという計画だった。

 三人は、カラマツとミズナラの樹林の中の登山道を夜叉神峠に向けて登った。新緑が美しく、途中、北岳、間ノ岳(あいのだけ)農鳥岳(のうとりだけ)白根(しらね)三山の眺めに歓声を上げた。一時間程で山小屋の建つ夜叉神峠に着いた。今日の宿となる山小屋までは、まだ五時間近く歩かなければならなかったが、三人の足取りは軽く、峠で昼食を食べると直ぐに歩き始めた。

 三人は、女子高時代の話から、職場の話、そして交際、結婚に関してのそれぞれの想いなど、女友達ならではの気の置けない会話を楽しみながら歩いた。火事跡と呼ばれる途中の開けた場所は、富士山の絶好の展望地で、三人はここで自撮りの写真を取ったが、富士山の頭には、笠雲がかかり天気が下り坂であることを窺わせていた。三人が山小屋に着いたのは、午後四時過ぎだった。

 翌日三人は、天候の崩れを予想して早朝六時に小屋を発った。

 標高2700メートルの森林限界を超え、薬師岳直下の小屋から十分程で、標高2780メートルの薬師岳頂上に着いた三人は、小屋で作ってもらったおにぎりを食べ、コーヒーを飲んだ。時刻は七時四十分を回っていた。

 頂上は、花崗岩の砂礫の白砂で広々とした山頂で、晴れていれば谷越に白根三山と、後方に富士山の雄大な姿が望める筈だったが、今日はガスの中に隠れてしまっていた。

 ポツリポツリだった雨が、コーヒーを飲み終わる頃には本降りの様相となっていた。三人はレインウエアを身に着けた。薬師岳から鳳凰山の最高峰の観音岳(かんのんだけ)までの稜線は、このコースの最も美しい爽快な歩きが出来るメインコースなのだが、今日は残念ながら三人は雨の中、ただただ下を見て歩くだけだった。観音岳に着いたのは午前九時を回っていた。

 鳳凰三山の最高峰、標高2840メートルの観音岳頂上からの富士山をバックに、三人の写真を撮る事を楽しみの一つにしていたが、それどころではなかった。

 早々に頂上を後にした三人は、望月愛を先頭に池永由加、高野鮎美の順で、観音岳山頂からの岩場を下って行った。

「あっ、由加危ない!」最後尾を歩く高野鮎美が突然叫んだ。

 池永由加は「あっ」と小さく声を発して、高野鮎美の叫び声に振り返った望月愛の体をかすめるように滑落し、10メートル程落ちた所で止まり、動かなかった。望月愛もバランスを崩して池永由加と同じ辺りに落ちた。鮎美は雨に濡れた岩場を二人の元へ急いだ。

 池永由加のピンクのレインウエアは赤い血で汚れ、フードが外れた顔には、頭から流れた血が滴るように流れて目を閉じ、鮎美の呼びかけにも反応は無かった。その傍らに倒れた望月愛は、意識はあるものの、うめき声とともに顔は苦痛に歪み青白かった。

 鮎美は、薬師岳直下の山小屋まで救助要請に戻る為、岩場を登り返した。時刻は午前十時を少し回ったところだった。

 急ぎ小屋へ向かう途中、鮎美は単独行の男性と行き会い、事情を説明して協力を依頼した。男性は、一瞬の間があったのち、観音岳直下にいる二人の所で、鮎美が戻るまでの間付き添う事を引き受けた。鮎美の必死の願い、雨中の懇願に男性は引き受けたのだった。

 救助要請を受けた山梨県警だったが、生憎の視界不良の天候でヘリが飛べず、麓からの遭難救助を待つしかなかった。鮎美は小屋番の男性と共に現場へ戻り、小屋番が用意した簡易テントで救助隊の到着を待った。

 救助隊が到着したのは、夕刻の五時を過ぎた頃だった。薬師岳直下の小屋まで運ばれた池永由加と望月愛は、翌日早朝に県警の救助ヘリで甲府市内の病院に運ばれたが、池永由加は死亡が確認され、望月愛は大腿骨骨折の重傷で入院となった。



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