白
目を覚ますと部屋は茜色に包まれていた。
ソファーの上、自分にかけられたタオルケットをぼんやりと見つめる。
確か昼食後に本を読んでいたはずだ、いつの間に眠ってしまったのだろう。
横を向くとテーブルの上には赤い栞の挟まれた本が置いてあった。
読み終わったらお互い感想を言おうと話していたのに
まだ途中までしか読んでいない、彼には悪いがそれは明日にしてもらおう。
そこまで考えてはっと気付いた。
夕日の差すリビングを見渡すがそこには誰もいない。
「瞬くん?」
名前を呼んでみても返事は返ってこない。
慌てて起き上がりもう一度彼がいないか確認する。
人気の無い静かな部屋には空調を整える無機質な機械音だけが響いていた。
急に体が冷えていくような感覚に陥り、
半場パニックになりながら部屋中のドアを開けて彼を探す。
大声で名前を呼び続けても聞こえるのは自分のヒステリックな声だけ。
バタバタと大げさに音を立てながらドアを開けては誰もいない事実に失望するのを繰り返す、
そうして最後の部屋も確認したが彼はいなかった。
もしかして外に行ってしまったのかもしれない、
そう思うと途端に視界が滲み始めた。
ふらふらとリビングまで戻り、白いドアの前で立ち止まる。
――瞬くん、瞬くん
鍵の掛かったその扉。私は鍵を持っていない。彼がいるであろう外には出られない。
呆然と目の前に広がる白を見つめながら何度もその名を口にした、
はやく帰ってきてと願いながら何度も何度も彼を呼んだ。
「由那」
どれくらい経っただろうか。ドアノブが回り扉が開かれた。
ようやく現れた彼の姿に止まりかけていた涙が再び溢れ出す。
「瞬くん…っ」
安堵と同時に体の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる私を彼が慌てて支えた。
「どこに行っていたんですか…なんでいなくなるんですか……」
「ごめんね、少し用事があって家の方に行っていたんだ」
「瞬くんの、ばか…君の家はここでしょう……?私とずっと一緒にいてくれるんでしょう?」
ばか、ばか、何度も繰り返しながら握りしめた両手で彼の胸を叩く。
しゃっくりまであげながら泣き縋る私を瞬くんは優しく抱きしめた。
「ごめん、ごめん由那」私の涙で服が濡れるのも構わず彼はあやす様に言う。
その柔らかで落ち着いた声を聞くと安心し余計に力が抜けた。
そのまま泣き続ける私の手を引き、二人ソファーに座る。
瞬くんは未だに零れる私の涙を撫でるような手つきで拭ってくれた。
ようやく私が落ち着くと、彼は夕飯の準備を始めた。
私は瞬くんのエプロンの裾を掴み後ろに立つ。
瞬くん曰く私は料理が不得意らしい。なのでいつも彼に任せている。
私はやることなどないのだけれど、離れたくないので料理中でもずっと彼にくっつく。
たまに振り向いて味見をしてと笑顔で言ってくれる瞬くん。
服を掴まれて後ろにいられたりしたら気も散るだろうし、さぞかし邪魔であるに違いない。
だけど彼は絶対に私を邪険に扱わない。
いつも大切なものを守るような優しさとあたたかさで私を包んでくれる。
夕食後は少し話をした。
いつからかその時間は、私が育てている植物の成長の記録を報告するのが習慣となっていた。
その後一緒にシャワーを浴び、いつものように彼が私の髪を乾かす。
瞬くんは私の髪をいじるのが好きだ。一度整えてからぐしゃぐしゃとかき回すように撫でる。
そしてもう一度整えたら今度は優しく梳いてくれる。
彼の長くて綺麗な指で触れられるのはとても心地いい。
ベッドにごろごろと転がり、瞬くんが仕事の書類に目を通しているのをまどろみながら眺めた。
忙しい彼だが出来るだけ私と一緒にいようとしてくれる。
今だって書斎の椅子ではなく寝室のベッドに座りながら傍にいる。
左手で書類を持ち、右手はしっかりと私の手を握ってくれる。
真剣に資料を読む彼の長いまつげが上下に動くのを、
風呂上り独特のぽかぽかとした温かさを感じながらじっと見つめ続けた。
「鍵、由那も欲しい?」
唐突に問いかけられる。なんの鍵か、なんて言わなくても分かる。
外と此処とを隔てる白い扉、私達の間で鍵と言えば常にそれの錠のことを示していた。
チラリとこちらに視線を向ける瞬くんの表情は少しだけ不安げ。
そんな顔をされたら選択肢などないようなもの。
「いえ、別に欲しくありませんよ」
「そっか」
彼が嬉しそうに目尻を下げるからこれが正解なのだと今日も実感した。
毎日のように繰り返されるこの質問。欲しいと言ったら彼はどうするのだろう。
「もう遅い、早く眠った方がいいよ」
瞬くんと一緒にいると楽しい、彼がいないととても苦しくなる。
この想いに名前を付けるとしたらそれは恋かもしれないし依存なのかもしれない。
別にどんな名であっても構わない、明日も彼の隣にいたい。
「はい。おやすみなさい瞬くん」
彼に触れられればあとは何もいらない。
「おやすみ由那」
私が布団の中に入ると瞬くんも書類を片付けて眠る準備を始めた。
抱きしめられ、彼の体温を感じると安心感からどんどんと視界が狭くなっていく。
鍵を持っていない私は外に出られない。
だけどドアの向こう側がどうなっているかなんてもう自分にはどうでもいいことなのだ。
まだ二十二歳、あまりにも知らないことの多すぎる私だがひとつだけ確信していることがある。
瞬くんがいない世界に私の幸せなんてない。
彼とともにいられる此処だけが私の幸せ。
だから私に鍵は必要ない。
柔らかな感触を楽しみながら、由那の髪を撫でた。
寝息をたてながら眠る姿は年齢のわりに幼い外見をより一層引き立てている。
泣きはらした目は少しだけ腫れてしまった。
それにすら愛情を感じてしまう自分は彼女に関してかなり危うい感情を抱いているのだろう。
だけどいい、由那だってそれは同じ。彼女は俺のことしか見えていない。
数時間前のことを思い出すと由那のあまりの可愛らしさに頬が緩んだ。
自分と離れることを何よりも怖がり、常に自分に触れていないと落ち着かない由那。
本を読むのが好きで毎日飽きずに植物を観察し続ける由那。
泣きながらも鍵を壊した、愚かでとても愛しい、彼女。
由那は八人目の監視役だった。