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魔女の手紙


「さあ、今日もスープを作りましょう」


 魔女のエリーズは台所に立ち、シャツの袖をぐいっと捲った。


 潰したトマトにトルハの油、パセリ、雲の実を鍋に入れてひと煮立ち。そして、青いエプロンのポケットから白い封筒を取り出した。


「これこれ、味の決め手です」


 封筒の中に入っている手紙を、黒光りする鍋にぽとんと落とす。


 手紙はしゅわぁとスープに溶けて、甘い香りが漂ってきた。


 エリーズは銀のスプーンでくるりとかきまぜ、ひと匙すくって口に含む。


「うん、甘くて美味しい。今日もダーリンは私のことが大好きですね」


 ふくよかな体にこの台所は少しだけ窮屈だけど。


 夫が建ててくれたこの森の奥の家は、エリーズにとってたったひとつの大切な場所だ。



 エリーズの夫は、樵きこり達の元締めだ。山から木を切り出し、仲買人に卸している。


 今は七つ向こうの山に出かけていて、帰ってくるのはひと月後だ。


 熱烈な求愛を受けて結婚したのが一年前。浮気の心配はしていないけれど、夫が病気になっていないか、怪我をしていないかは気にかかるもの。


 というわけで、普段は薬草や呪いを専門としている魔女が、特別に魔法の手紙を作ってみた。


 見た目は何の変哲もない白い手紙と白い封筒。だが、手紙に息を吹きかけると、持ち主の感情が味として手紙に写るのだ。その手紙を封筒に入れればそれは小鳥の姿となり、エリーズのもとへ一直線に飛んでくる。


 エリーズは人間の文字を学んだことがない。


 だから書き連ねられた手紙を読むことはできないけれど、この手紙なら、料理に使う調味料として夫の気持ちを味わうことができる。


 夫は風呂敷いっぱいにまっさらな手紙と封筒を詰め、何度も振り返りながら出かけて行った。それ以来、毎日のように白い小鳥は飛んでくる。


 美味しい手紙を待つのは、密かに心躍る日々だった。



「あら。味が……」


 出来上がったスープをひと口飲んで、エリーズはことりと首を傾げた。


 なんだか少し、塩辛いような。


「トカゲの爪のせいでしょうか。それともカタツムリの涙のせい?」


 窓から入ってくる心地よい風が、朝焼け色のカーテンをそよと揺らす。エリーズの緩く巻いた金髪もふわりと波打った。


「これはこれで美味しい、かも?」


 スープ椀に鍋の中身を流し入れ、戸棚にしまったふわふわのパンを取り出す。そうして準備を整えて、エリーズは食事を始めた。


 夫のいない室内は、しんと静かだ。


 外から聞こえる元気のいい鳥の声と、森のさざめきがやけに大きく聞こえる。


 夫はいつも賑やかで、ときどき「あなたは口から生まれたのでしょうね」と本気で言ってしまう。風邪を引けばこの世の終わりのように大げさに寝込むし、胡桃の殻を割るのを頼めば胡桃ごと粉々にしてしまう馬鹿力。


 だけど。


 常に全力で愛を伝えてくる彼は、退屈とは無縁の存在だ。


 彼と出会って、思わず笑ってしまったことが何度もある。それがどれだけ幸せなことか、長い時を一人で生きてきたエリーズには十分すぎるほどわかっている。


「あら、思い出してしまいましたね」


 はたと長い睫毛を瞬いて、エリーズは息を吐く。


 気づくと夫のことを考えている。


 孤独を友に生きると決めた自分が、誰かのことを想う日が来るとは思わなかった。


 不思議と心は満ち足りているけれど。


 彼がそばにいないのは寂しい。






「また、しょっぱい」


 スープの味見をしたエリーズは顔をしかめた。


 手紙を入れる前は普通のスープの味だった。味が変わったのは手紙のせい。


 五日連続、味がおかしい。甘みよりも塩味が徐々に強くなっている。


「……ダーリンに何かあったのでしょうか」


 独り言はやけに部屋に大きく響いて、エリーズは思わず周囲を見回した。しんとした室内には、当然ながら誰の影もない。


 ため息をついて、スープを椀に注ぎ入れる。食べられないほどの味ではない。ただちょっと、美味しくないだけ。


 夫は危険な仕事をしているという。


 木の成長を促すために下草を払い、枝葉を落とし、成長した木を切り倒し、決められた場所まで運ばなければならないという。


 そんなことは魔法を使えば簡単にできてしまうけれど、人の営みには手を出さないのが魔女の掟だ。


 夫も、危険と言いつつ毎日元気で、今まで不安になるようなことは一度もなかった。


 ただ、こうも連日、甘さの抜けた小鳥が飛んでくるのは異常事態だ。


 しょっぱい気持ち、というものがエリーズには想像できない。


 人間の文字を学んでおけば、夫の現状を知ることができただろうか。


 彼の異常が何なのか、とても知りたいのに。


「鏡を覗いた方がいいでしょうか。それとも箒。でも……人間の営みに関わるのは禁忌ですし……」


 そう呟いたとき、ドアをノックする軽い音が聞こえた。


 ちょうど夫のことを考えていたときだ。何かあったかと急いで木製のドアを開けると、顔見知りの薬売りが立っていた。


「昼飯どきに邪魔してすまないね。近くを通りかかったから、ついでに薬の補充をしておきたくて」


 黒革のコートを羽織った、皺くちゃの老婆だ。魔女のエリーズよりずいぶんと年下の、人間の薬売り。


「構いませんよ。どうぞ」


 エリーズはこっそり息を吐いて、老婆を仕事場に招き入れた。


 リビングの隣、エリーズの仕事部屋には、大量の薬草が吊るしてある。


 一つ一つ、老婆の注文通りに乾燥した薬草をすりつぶし、粉にしていく。それを小袋に入れて老婆に渡す。老婆は対価に少しのお金とフグの毒や羽ウサギの羽毛など、この辺りでは手に入りくい素材を机の上に並べていった。


「樵達に何かあったと、聞いていませんか」


 注文をすべて請け終え、大きなリュックを背負った老婆の横顔に、エリーズは小さく問いかけた。


 人間に興味のなかった自分がこうして薬売りに仕事以外の話を持ちかけるなんて、初めてのことだ。


 老婆も意外に思ったのだろう。垂れさがった瞼の下から窺うようにエリーズを見る。


「何かって、なんだい」


「それが、わからなくて……」


 金の髪をひと房、指に巻きつける。


 その様子に何を思ったか老婆がふむ、と顎に手を当てた後、


「ここから七つ向こうの山で、樵が野盗の集団に襲われたっていう噂は聞いたよ」


 エリーズは、はっと息を飲む。


 思わず身を乗り出すと、「詳しくは知らないよ」と先に言われて、それ以上の言葉を飲み込むしかなくなった。


 手紙の味とあわせて考えると、不安しかない。


 そんなエリーズに何を思ったか、老婆は歯の抜けた口でにやりと笑った。


「静寂の森の魔女。今までの生き方が合わないのなら、変えちまえばいい。今のあんたは一人じゃないんだしさ」


 皺だらけの人差し指に指し示され、エリーズはぱちりと目を瞬いた。


 




 魔法の箒に乗って、空を飛ぶ。


 人間の足なら五日かかる七つ向こうの山も、空飛ぶ箒ならひとっ飛びだ。


 箒に吊り下げた魔法のコンパスを使って、愛しい人のいる場所を探す。


「ダーリン!」


 切り開かれた山の中腹にその人を見つけて、エリーズは箒から飛び降りた。


 急な斜面には倒れた木と切り株があちこちにあって、樵達がそれぞれの仕事に精を出している。


 声を頼りに顔を上げた夫は驚いた顔で、それでも空から降ってきたエリーズの体を危なげなく受け止めた。


「会いたかったよ、俺の魔女! 一体全体、どうしたんだ!」


 髭もじゃの夫はエリーズの顔を覗き込んで、くるりとその場で回った。傾斜のある場でそんな行為は危険でしかなく、足元をふらつかせて「ボス!」と周りの樵達を心配させたけれど、ずずず、と落ちかけてなんとか踏みとどまった。


 エリーズはにこりと笑った。


「大事なさそうで、よかったです」


「? ああ、野盗のことかな。人の物を奪うしか能がない奴らに、俺達が負けると思うか?」


 夫はエリーズを地面に下ろし、上腕二頭筋をむきっと盛り上げて見せる。周囲にいた彼の部下達も、無言で自分達の筋肉を見せつけてきた。皆、筋骨逞しい。


「心配で会いに来てくれたのか。愛だな」


 うっとりと言った夫が、愛しい魔女の白い指先にキスをした。


 周りの樵が口笛をぴゅうぅと吹く。


「ボス、大変だったんですよ。奥さんに会いたい会いたいって毎日、泣き言ばっかり。野盗を血祭りに上げた人とは思えないくらいです」


 樵の青年の言葉に、周囲がどっと沸く。夫は焦ったように、


「おい、言うなよ! 格好悪いだろ」


「本当の事じゃないっすか。奥さんが恋しくて、泣いてましたよね」


「俺も見た!」


 わらわらと樵達が集まってきて、夫が顔を赤くする。でも、本当のことだからか言い返せないようだ。


「泣くほど恋しいから、手紙がしょっぱかったんですね」


 エリーズはなるほど、と頷いた。


 野盗に襲われて苦しさや辛さを感じていたわけではなかった。そのことに、ただほっとする。


「……手紙で、伝わってた?」


 窺うようにこちらを見た夫に、エリーズは真面目な顔で首を振った。


「わからなかったから会いに来ました。でも、そもそも手紙がなかったら、あなたが泣いていたことも知りませんでした。私はもっと貴方のことを知るべきです」


 一拍の間を空けた夫は、音がしそうなほどぶんぶんと首肯した。そして、


「あの、俺も、エリーズから手紙が欲しいな、なんて……いやあ、そんな図々しいよな! 君も、何か、忙しいし!」


 大きな声は、気恥ずかしさを誤魔化すためのもの。一年を一緒に暮らしたからこそ知っている。


 エリーズは、ふふと笑った。


「いいですよ。でも今度、文字を教えてください。文字で書かれた手紙なら、いつまでも残って、いつでもあなたの気持ちに会えるでしょう」


 その、言葉に。


 夫は滑稽なほど大きく目を見開いた。


 その小麦色の瞳が潤み、両手を広げてエリーズを抱きしめる……前に。


「この子もあなたの帰りを待っていますから、早く帰ってきてくださいね」


 エリーズはお腹に手を当て、微笑んだ。


 樵達がはっと息を飲む。


 次の瞬間、


「俺は、今から帰る!」


 叫んだ夫に。


「何を言ってるんですか、仕事して下さい、仕事!」


 一斉に樵達からつっこみが入って、魔女は思わずふきだした。



【了】



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