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『性的対象物』とは?

 全国フェミニスト議員連盟の公開質問状にて戸定梨香が「性的対象物」であると書かれている。

 ではこの「性的対象物」とは何なのか?

 この言葉をGoogleで検索すると結果として表示されるのは「性的対象化」である。

 これは英語の「sexual objectification」の和訳で、「性的客体化」「性的モノ化」なども同じ意味である。

 よって本作では『性的対象化』に統一する。

「性的対象物」を構成する7つの要素がこれだ。


「1 .道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。」

「2 .自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。」

「3 .不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。」

「4 .代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。」

「5 .毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundaryintegrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。」

「6 .所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。」

「7 .主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。」


 さて、これを考えたマーサ・ヌスバウム女史は哲学者なので、一般化のために抽象的な表現になっている。

 これを地道に噛み砕いて戸定梨香に当てはまるのかどうかを一つずつ見ていこう。


 まず「道具性」について。

 簡単に言うと「女性は男の道具に過ぎない」という表現は性的対象化ということになる。

 これを戸定梨香に当てはめるとしたら「戸定梨香は、男性の性的欲求を満足させる事を目的に、戸定梨香(3Dモデル)を道具として使っている」という事になる。

 もっともらしいようで、猛烈な違和感に襲われる表現だ。

 これが許されないというのなら、一般女性が恋人と性行為をすることもアウトになってしまうのではないか。

 ここでこんな反論が考えられる。

「現実の女性が自分の体をどう使うのかは勝手!しかし戸定梨香の体は作り物だから違う!」と。

 だが、少なくとも板倉社長が嘘をついているわけではないのならば、戸定梨香の体は戸定梨香の希望に沿ってデザインされたものである。

 よって戸定梨香は戸定梨香が望んだ通りの体を持っており、それは彼女にとって自分の体であると主張しても過言ではない。

 だから一般女性が自分の体を男性の性的欲求を満足させるために使っても良いのならば、戸定梨香がそうしても良いと断言できる。

(そもそも前提として戸定梨香が「男性の性的欲求を満足させる事を目的に」しているかは怪しいが)

 ところで、今回は戸定梨香の中の人が女性だから私の論が成り立っているように見えるが、もしも中の人が男性だったらこれはくつがえるのだろうか?

 女性が戸定梨香(3Dモデル)を使うのが許されて、男性ならば許されないというのは、なにか男性差別のような気がするが……


 次に「自律性の否定」について。

 簡単に言うと「女に自己決定の能力なんてない」という表現は性的対象化ということになる。

 これを戸定梨香に当てはめるとしたら……できない。

 少なくとも問題として扱われた動画内では(当たり前だがそれ以外の動画を検証しても意味がない)、戸定梨香が何者かに自己の決定権を委ねている(要するに男に顎で使われるような)描写は無いからである。

 強いて言うならば「戸定梨香は自分の意志とは裏腹に警察のルールを強制されている!」と主張できるかもしれないが、それは法律を遵守する我々のような市井の人間と何が違うのか?


 次に「対象に自発的な行為者性や能動性を認めない」について。

 簡単に言うと「女には自発性も能動性もない」という表現は性的対象化ということになる。

「自発性」とは、他の誰かからの影響や教えなどによらず、ものごとを自分から進んで行おうとすること。

「能動性」とは、他からのはたらきかけを待たずにみずから活動することである。

 件の動画から「戸定梨香は他の誰かからの影響や教えなどに頼り、自分から進んで行動する姿勢に欠けている」と読み取るのは無理があると思う。

 そして事実に着目すれば、戸定梨香は今回の交通安全啓発活動に、自発的かつ能動的に取り組んでいる。


 次に「代替可能性」について。

 簡単に言うと「どの女も同じだ、誰でもいい」という表現は性的対象化ということになる。

 動画に登場する女性は戸定梨香一人なので、関係無い。

(一緒に登場するおばけのようなキャラ「ばけごろう」は男の子だ)


 次に「毀損許容性」について。

 簡単に言うと「女性を傷つけても構わない」という表現は性的対象化ということになる。

 交通安全啓発動画は、むしろその真逆である。


 次に「所有可能性」について。

 簡単に言うと「女は男の所有物」という表現は性的対象化ということになる。

 最初に検討した「道具性」に似ている気がする。

 そしてやはりというか、戸定梨香が戸定梨香(3Dモデル)を所有物として扱うことは何も問題が無いとしか言えない。

 そして繰り返しになるが、もしも戸定梨香の中の人が女性ではなく男性だったら許されないとしたら、私には男性差別のように思えて釈然としないのだ。


 次に「主観の否定」について。

 簡単に言うと「女の気持ちになど配慮しなくていい」という表現は性的対象化ということになる。

 結局のところ戸定梨香は動画内でそのような事は主張していないので簡単に退けられるところだが、ふと面白い意見があったのを思い出した。

「戸定梨香は今はへそ出しミニスカセーラー服の姿が良いと思っているが、将来はその姿でVTuberをしていた事を後悔するかもしれない」だ。

 たしかに、ジュニアアイドルのケースを考えてみたら頷けるかもしれない。

 子供に際どい衣装を着せてパフォーマンスをさせる時、子供本人はその煌びやかさに憧れて、むしろ自ら進んで活動するかもしれない。

 その子供が大人になって、実は自分が、自分が望んでいたイメージでファンから応援されていたのではないとわかってショックを受けることがあるかもしれないのだ。

(具体的に言えば、卑猥な目線を浴びていたと気づいてショックを受けるということ)

 私から見ると、そういうのは知識の浅い子供を大人が搾取している例の一つだと思う。

 だが、それを戸定梨香に当てはめるのは無理がある。

 戸定梨香についての説明で、私は(たいへん野暮であることは承知の上だが)彼女が大人の女性であると考察した。

 彼女が一人の大人である以上、その行動には自分で責任をとる必要がある。

 実は板倉社長が子供に労働をさせているとか、戸定梨香の家族を人質にとっているとか、戸定梨香がスタジオから一歩でも外に出たら彼女の体内に埋め込まれた爆弾が火を噴くとか、そういう事情があれば別だ。(一応、真面目に考察している)

 しかし、大人の一人である戸定梨香が数年後くらいに「実は私は嫌々やっていたんですよ」と言い出したら、私はいくら戸定梨香が相手とはいえ「甘えた事を言うな」と思うだろう。(注意してほしい。私はかつてのファンがガッカリするからという理由で非難するわけではない)


 こうしてまとめていて思ったのは、そもそも現実に女性を奴隷のように扱うどころか、『女性の奴隷』がかつて(あるいは今も)存在することは情報発信してはいけないのだろうか?ということだ。

『奴隷のしつけ方』を読むとローマでは奴隷と性交渉を持つことがあったのがわかる。

 現実の性奴隷として『実録ドラッグリポートアジア編』に書いてあるようなアジアの国での児童売春に心を痛める人もいるだろう。

 ドキュメンタリー番組『カルト集団と過激な信仰』の内容を信じるならば、先進国も例外ではない。

 もしもそれらを情報発信することが性的対象化だから許されないと主張するのは、あまりにも『臭いものには蓋をする』という態度だし、現実の性暴力の解決に対して、役に立つどころかむしろマイナスであると断言する。

(そういうのに批判的な情報発信ならば良いんだ、という反論がありそうなので補足するが、例にあげた『奴隷のしつけ方』は奴隷の存在をポジティブにとらえている。当時のローマ帝国の価値観がそうだったのである。それを現在の価値観で批判するのはフェアではない)


 こうなると薄々感じずにはいられない。

『性的対象化』という言葉は現実の暴力に対する評価としては適切だとしても、表現物に適用するのは不適切なのではないか、と。


 だいたいポルノが性犯罪を助長するというのは本当だろうか?(当たり前だが、現実の女児に卑猥なことをさせて、それを記録した物は別だ。それは現実の暴力だから)


 そもそも戸定梨香が性的か否かと、性的なモノが性犯罪を誘発するか否かは分けて考えなければいけない。

 というより、まずは性的なモノが性犯罪を誘発することが前提となってはじめて戸定梨香が性的か否かを議論するのが正しい順番だ。

 なぜかそれがアベコベになっているのである。

 もしかしたら全国フェミニスト議員連盟とその擁護派は、性的なモノが性犯罪を誘発するのは議論の余地もなく当然だと考えているのかもしれない。

 しかし、それが十分に説明できているとは考えにくい状況だ。


 実際のところ性犯罪の動機は各人毎に異なり、かつ複雑なメカニズムが働くため「性的対象化によって性犯罪が起こる」と断定するのが危険であると同時に「性的対象化で性犯罪が起こるわけがない」と断言するのも危険である。

 もしも性的対象化されたモノによって性犯罪をした者がいるのなら、その人はメディアの被害者であり当然減刑されるべきだ、という理屈も成り立つ。

 しかしそれを主張するフェミニストは見たことが無い。


 個人的にはそれに同意しよう。

 それは私が「フィクションと現実を混同して実在する他者に迷惑をかけるのは自己責任の問題」だと考えているからである。

 想像してみてほしい。もしも性犯罪者がこう主張したらどう思うだろうか?


「私はたしかに女性に性的暴行を加えました。ですが、それは私がポルノによってコントロールされた結果なのです。ゆえに、私もまた被害者なのです」と。


 もしも私が裁判長なら、減刑の余地は無いだろう。

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