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その日の午後はいつものように落ち着いていた。
普段通り仕事をして、間もなく夕食の時間と言う時に、部屋の扉が思いっきり開けられる。
部屋に入ってきたのは、息を切らせたディオだった。
息も切れ切れに、叫ぶ。
「助けて!!!」
「何があったの?」
「ハ、ハルが、ご主人様、の、お気に入りの、花瓶を割って……」
「まずは深呼吸をして。ちゃんと話してくれないと何も分からないわ」
ディオが急いで呼吸を整えよと何度も吸って吐いてを繰り返す。
『花瓶を割った』
それだけで最悪な状況であることは想像できる。
ご主人様が異常に大事にしている花瓶がいくつかある。
その全てがお客人に見せびらかすように様々な場所に飾られている。
高価なものからほぼ価値がない物まで金額だけ見れば開きがある。
それでもご主人様は執着とまで言える程、大事にしている。
10年前にも一度花瓶を割ってしまった子がいた。
翌日その子は惨たらしい姿で見せしめの様に中庭の日当たりの良い場所に置かれていた。
そういえば、その時にもイニス兄さんとホルア姉さんは賭けをしていた。
姉弟ではないらしいが、黒い髪に真っ赤な瞳の二人の無邪気な笑顔は今でもよく思い出せる。
あの時の二人に抱いた感情は、恐怖や嫌悪感ではなく嫉妬だった気がする。
あの状況を楽しめる二人への憧れだった気もする。
「アルファ姉!」
ディオの声で現実に戻る。
「早くハルを助けて!!」
そういえば、普段から一緒にいるアルクの姿が見えない。
「ディオ、一人で来たの?」
「え?……あ、うん」
「アルクはどこにいるの?」
「アルクはハルを守ろうとしてケガしちゃって……」
「ケガは大丈夫なの?」
「あ、えと。先生が来て、医務室に連れて行ったよ。アルクはケガしてたけど、先生は大丈夫だって言ってた。でも、ハルはご主人様が連れってたの!!」
「ハルはいつ連れていかれたの?」
「ついさっきだよ」
ご主人様に連れていかれてすぐなら、私にできることは無い。
ご主人様が本気で怒ったのであれば、頭が少し冷えるまで誰であろうと止められない。
今すぐ私が止めに行った所で、暴力の対象が私に移るだけ。
無駄に痛い思いをするのは勘弁したい。
「先にアルクの様子を見に行こうか」
「でも、ハルがっ!」
「今すぐに行っても私には何もできないから、少し時間をおかないと。ハルは強い子だから大丈夫だよ」
納得していないディオだが、自分にも何もできないことを分かっているので、しぶしぶだが小さく頷く。
部屋を出て医務室に向かおうとしたが、ディオはその場を動こうとしない。
仕方なくディオを抱え上げる。
後ろに手を回したディオは力強く抱きつく。
館の南奥にある医務室に向かうと、医師の先生と、執事長が部屋にいた。
アルクの姿が見えないので、簡単な仕切りで隠されている奥のベッドで寝かされているのかもしれない。
ディオを降ろすと、奥のベッドの方に走っていった。
「ディオ君が君を呼びに行ったのかい?」
白髪の医師は、こちらに目線を向けず道具を片付けながら問う。
子供たちの間で勝手に呼び合っているだけの名前を今日初めて呼ぶのを聞いた。
私たち奴隷は番号で管理され、大人たちは絶対に番号でしか私たちを呼ばなかった。
名前は、昔いた変わり者の姉様が始めたお遊びみたいなものである。
それなりに大きくなってからここに来る子たちが、慣れやすくする目的もあるとか色々言っていた気がする。
奴隷と大人たちの間には見えない大きな壁があり、大人たちの前では口を利かない子たちがほとんどなのに、知っていたことに少し驚く。
いつもと違うところはもう一つ。
いつもは綺麗に整えられているブロンドの髪の執事長の髪が乱れ、破れた服の隙間から血が見える。
普段しない行動をする大人たちに、無意識に嘲笑が零れる。
それを見て、視線を逸らす執事長。
今更こんな事をして、何が変わるというのだろう。
罪悪感とは何とも面白い感情なのだろう。
「37番のケガは問題ないと38番には言ったそうですが、本当ですか?」
「頭にケガをしていたが、問題ない。少し休ませてから仕事に向かわせる」
「いつもは動けない子以外は休ませないのに、今日は優しいのですね」
私の嫌味に、作業していた手を止めて、やっとこちらに視線を向ける先生。
お互いに視線を逸らさなかった為、少しの間にらみ合う形になったが、何も言ってこないので無視して奥のベッドに向かう。
アルクとディオは手を繋いで額を合わせていた。
ベッドに横たわるディオにアルクが体を乗り出している。
2人のどちらかが、恐怖や痛みを感じた際によく見せる行動。
こうすると落ち着くと言っていた。
2人とも私に気付くと、手は繋いだまま額だけ離して、まっすぐに私に視線を向ける。
そんな二人に少し微笑む。
「休んだ方がいいって先生が言ってるから、しばらくここで休んでね。いい?」
2人とも同時にうなづく。
2人の頭を撫でてあげて、ベッドから離れる。
出口に向かおうとすると、大人たちと目が合う。
罪悪感が滲む瞳がしっかりと私を捕らえる。
視線が合ったのでいつものように睨むが、珍しく目を逸らす気配はない。
怖い物はないとでも言いたげである。
なら、辺境伯の所に行ってハルを連れてきてほしい。
結局この人たちも自分可愛さは変わらないのだろう。
それでも今までの後悔と罪悪感で一杯だっただろう二人は、少しでもそれを拭い去りたいのだろう。
2人を無視して部屋を出ようとする。
「ハルちゃんはどうするのですか?」
背中から声を掛けられてしまった。
声の大きさから、奥のアルクやディオにも聞こえているだろう。
声には私を責めるような感情が籠っているようにも助けを求めているようにも感じる。
今まで助けもせず、一線を引き子供たちと距離を置いていた大人たちが今更私に何を望むのだろう。
振り返り、執事長の薄暗いオレンジの瞳をまっすぐ見つめる。
「あなたのその問いにお答えする必要があるのですか?」
何か言いたげな執事長だが、何も言わず、目も逸らさない。
今日に限って普段と違う二人に苛立ちさえ覚える。
いつもは目すら合わせないくせに。
私に全て押し付けて普段は存在すらしていないように振舞う奴らが、今日だけは違う。
「私は自分に感情がないんじゃないかと考えることがあるんです。知識としては分かるんですよ。でも子供たちを見ていて理解はできるけど、共感はできないことが多いんです。自分の心が凍り付いて動いていない感覚になるんです。昔は知っていたのに今は忘れてしまっているんです。でもその感覚を嫌だとは思わないんですよ、不思議と……」
ただ黙って話を聞く大人たち。
小さい声で先生が何かを呟いたが、聞き取れなかった。
「そもそも今まで酷い行いをしていた人間が急に変わったとしても、最初は誰も信じられないじゃないですか。お二人の行動もそれと一緒だと思うんですよ。一日だけ優しくしても子供達には嫌な大人だったとしか記憶に残らないと思うんですよ。なのに今日だけでも優しくするのはただの自己満足以外の何物でもないと思うんですが、お二人はどう思いますか?」
「ああ、自己満足だ。自分の為に行動しただけだ。君にとやかく言われる筋合いわない」
「それもそうですね」
投げやりな執事長の返答。
本当に今日の執事長はいつもと違う。
そもそも普段は私と必要最低限の会話以外したがらない。
この会話を個人的と言っていいのかも分からないが、私の記憶上でこんなに話たのは初めてかもしれない。
この程度の会話で話したとは、普段が会話にもなっていないのだと思う。
皇子の話を知らず、ただの廊下でこの会話をしていれば、気でも触れたのか、やばく薬でもしているのか疑うレベル。
そういえば最近新しい、催眠系統の薬が出回っていると聞いた気がする。
悪趣味極まりない薬らしいが、闇ではかなり高値で取引されているらしいことまで聞こえてくる。
なんとなく2人の悪人笑顔が浮かんだが、記憶の奥底に静かに鎮める。
「君も変われると、普通の人と変わらない普通の女の子に戻れる。私はそう思っている」
「普通ですが……。私は人が勝手に決めた枠にハマる女の子になりたいとは思いませんけどね」
「…………現状の君が異常であるのは分かっているだろう」
「私はこの異常を気に入っていますよ」
そもそも普通とはなんなのだろう。
この人たちの言う普通と、世間の普通がどこまで一致しているのだろう。
長年この屋敷に仕えさせられて、領民にもさほど会えてもいない人たちの普通が世間と変わっていないとなぜ言い切れるのだろう。
「私は自分で選んで自分の意志で行動してます。気にかけていただく必要はありません」
「君は選んではいない。そう思い込みたいだけなんだよ。君も自由になっていい。幼い子供が責任を負う必要はない」
帝国での成人年齢は15歳である。
16歳になる私は帝国憲法に則れば、幼い子供ではない。
近いうちに皇子はこの屋敷にやってくる。
そうすれば、成人していて、ご主人様の仕事のサポートまでしていた私は確実に処罰される。
この二人はそれを庇う気なのかもしれない。
それが見て見ぬふりをし続けてきた、自分たちの贖罪とでも言いたいのだろう。
頼んでもいないのに、自己満足もここまでくると迷惑でしかない。
私とご主人様は死罪の可能性が高いが、この二人なら上手く立ち回れば重くても鞭打ち程度で許して貰えるかもしれない。
自分可愛さに放っておけば良いのに、迷惑でしかない。
「言いたいことはそれだけですか?」
「君は選択肢を奪われていた。君に責任は何もない」
「お二人が思ってるより、私には選択肢がありましたよ。私は私自身の意志でここに残る選択をしただけですよ」
それだけ伝えると部屋を出る。
ご主人様が子供たちを連れていくお仕置き部屋に向かう。
お仕置き部屋と言えば聞こえは良いが、適切な言葉を選ぶなら拷問部屋だろう。
屋敷に人が少ないからか、靴音が良く響く。
屋鋪の奥へと冷静に進む。
そして、一つの部屋の前で止まる。
屋敷の北側の最奥にあるこの部屋は、木々に囲まれ一日を通して薄暗い。
扉を開けて中に入ると、部屋にはほとんど日差しが差し込んでいない。
部屋には歴史的にも価値がある書物が壁に備え付けられている本棚に陳列されている。
右斜めに進み、本棚と窓の隙間の壁の前で止まる。
薄暗さも相まって、知っていなければ分からない程、壁と馴染んでいる扉を開ける。
下に続く階段を照らすように壁に備え付けられているろうそくが灯っている。
少し段差がある階段をゆっくり、降りる。
しばらく下るとまた扉がある。
その扉を開けると、荒く息を切らしながら、鞭をもったご主人様が立っていた。
その奥に、体中から血を流し、倒れている子供の姿があった。
体が微かに上下しているのでまだ生きている。
「なんの用だ」
こちらに振り向きもせず、怒気を含んだ声でご主人様は質問する。
「それにはすでに買い手がついています。すでに支払いも済んでいるので死なれては困ります」
分かりやすい建前に、ご主人様が笑う。
高らかに笑う姿を見て、少しは機嫌が治れば良いのにと、意味のない期待をする。
一通り笑った後、こちらに振り返る。
「明日、我々は王都に連行されるんだろう?今これが死のうと何の問題がある?」
「今から書類の改ざんは難しいです。間に合わなかった場合、言い訳が難しい状態となります」
「それを今まで何とかしてきた人間の言葉とは思えないな」
「今から辻褄を合わせて、死体の処理までは難しいです。死体を庭で処理した場合は後片付けが間に合わないでしょうし、このままここに放置しても良いですが、万が一この場所が見つかった時は言い訳ができません」
「それで納得するとでも?」
「ご主人様は明日、第一皇子が来られると思っていらっしゃいますが、今すぐ来てもおかしくありません。処理でできていない段階で、体中傷だらけの遺体を見られるのは問題です。家業の事を抜きにしても、重罰は免れないでしょう」
ご主人様は少し考えてニヤリと笑った。
近付いてきたかと思うと、気持ち悪い手つきで私の体を触る。
「お前がもう少し小さければ、お前に慰めて貰うんだがな」
分かりやすく気持ち悪いご主人様を張った押してやりたいが、いつも通り微笑んでその場を乗り切る。
そもそもお前は私が小さくても手を出さないだろうと、心の中で叫ぶ。
私の心の声が聞こえているの様に、面白そうに不気味な笑顔をする。
そのまま、私の唇に自分の唇を重ねる。
今すぐ押し飛ばして、手に持った鞭を引ったくり叩いてやりたい衝動を抑えて、数秒の唇の重なりの感触を我慢する。
ゆっくりと唇を話して、満足そうに笑う気持ち悪い男。
「いいだろう。今日はこれで許してやる」
それだけ言うと、ご主人様は部屋を出て行った。
しばらくして足音が聞こえなくなったのを確認して、唇を思いっきり拭いながらハルに近づく。
呼吸は弱いけれど、まだ息はあった。
優しく抱え上げて、医務室に向かう。
振動が負担にならないようにできるだけ急ぎながら、優しい足取りで向かう。
医務室に着くと、血まみれのハルを見て先生たちが慌てて駆け寄ってきた。
ハルの様子を確認してベッドに横たえるように言われた。
ベッドに横たえた後は、先生の指示に従いなら一緒に手当てをする。
手当てを終えるころには日は沈みきっていて、外は真っ暗になっていた。
「アルファ姉……」
いつの間にか二つのお皿が乗ったトレーを持って、ディオが入り口に立っていた。
不安そうに立つディオの後ろには、同じように不安そうな顔のアルクが立っていた。
2人に近づき、目の前で屈む。
「ご飯を持ってきてくれたの?」
2人は同時に頷く。
「ありがとう」
頭を撫でてあげると、二人とも嬉しそうに笑う。
ディオからトレーを受け取る。
お皿にはスープとサラダが入っていた。
「もう部屋に戻りな。私もすぐに行くから」
「…………ハル、大丈夫?」
「大丈夫だよ。このままゆっくり寝てれば、すぐ良くなる」
「…………分かった…………。ハルにお休みなさいできる?」
「今は寝ちゃってるから無理かな。明日、おはようしようか」
2人は頷くと、駆け足で大部屋に向かう。
2人の背中が見えなくなったのを確認して、ハルの眠るベッドに近づく。
トレーを先生が受け取り、ベッド横の小さな机に置く。
「この子の目が覚めてから私が食べさせるよ。君はもう寝なさい」
「今日は珍しくそこまで面倒を見てくださるのですか?本当にお優しいですね」
「…………早く寝た方がいい。………………明日は忙しくなる」
「そうですか」
内通者か、それとも内通者と繋がっているのか、向こうの状況が分かっているような言葉。
気にする素振りを見せず、一応一礼だけして、部屋を出て大部屋に向かう。
今日の廊下は普段より長く感じた。
部屋では子供たちの大半が寝ていた。
起きていた子たちが、上半身を起こす。
部屋の中央のいつも寝ている場所に向かう途中で、起き上がった子たちの頭を撫でながら、お休みと声を掛ける。
頭を撫でられた子は横になり、少しずつ寝息を立て始める。
皆が寝始めたのを確認して、私も横になり、目を閉じる。
ゆっくりと呼吸をしながら、眠りの底に落ちて行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その日は珍しく夢を見た。
子供たちがとても楽しそうに遊んでいる。
花壇に水をあげたり、水遊びをしていたり、綺麗な服を着てはしゃいでいる。
子供たちは私の傍を何事もないかのように笑顔で走り抜けていく。
私が見えていないらしい。
最後にディオとアルクが手を繋いで楽しそうに笑いながら走り抜けていく。
そして心地よい風が全身を包むように吹いた。
風を全身で感じながら、少し身を委ねる。
目の前には何もない草原だけが広がり、体が軽くなったように感じた。
風に頬を撫でられたように思う。
風が拭き去っていった。
それがなんだか惜しくなり、振り返ると、そこは崖だった。
一歩でも踏み出すと、崖下に落ちてしまいそうな場所に私は立っていた。
反対側の崖では誰かが、誰かの名前を呼んでいる。
顔も良く見えない。
複数の老若男女は誰かの名前を呼んでいる者と、子供を抱えて泣きじゃくる者もいた。
その光景をただ眺めているだけの私の背中に誰かが手を置く感触が伝わる。
――君にはどう見える?
艶かしい女の声にも、低く力強い男の声にも聞こえるその問いに私は答えがでない。
ただただ、目の前の光景を見続ける。
背中に感じる手の感触に、少しの安心感を覚える。
それから長い時間かまたは一瞬か、私はその手の感触に酔いしれる。
――君の選択は本当にそれでいいの?
今度は子供の様にも、年老いた老人の様に聞こえるその声に無意識に頷く。
そしてただただ目の前の光景を直視する。
その時、反対の崖に一人の少女は現れる。
少女は手を私の方に差し伸ばす。
黒い影に覆われた少女が誰なのかよくわからない。
――君は…………。
聞き覚えのある少女の声に聞こえた。
今でもよく覚えている。
最後に聞いた姉様の言葉。
今でも鮮明に覚えている。
今まで見たこともない、綺麗で太陽のような笑顔の姉。
夕日とのコントラストが一枚の絵画のように美しかった。
声も姿も良く覚えているのに、この夢ではあやふや。
黒い影に覆われた少女はもっと前に手を差し伸べる。
私は足を一歩踏み出した。




