勇者と婚約者
大浴場で汗を流した後、僕はソリッドと別れた。婚約者に会いに行くと告げると、彼もそれ以上の追及はして来なかった。
そして、実際に僕はエリス=クリストフの部屋へと訪れた。マッシュと同じ従者とは言え、流石に彼女には個室を宛がって貰っている。
「エリス、入るよ」
僕は声を掛けると部屋の扉を開けた。返事も待たずに入るのは、本来なら失礼な行為だろう。けれど、エリスにそれは不要なのだ。
「アレックス様、お待ちしておりました」
部屋に入ると、エリスが待ち構えていた。部屋の明かりは消えており、窓から刺す月明かりだけが部屋を照らしている。
そんな中でエリスはただ扉の前で待っていた。妖艶なネグリジェ姿で、月明かりでもわかる程に頬を赤く染めながらだ。
「ちゃんと待てて偉いね。流石は僕のエリスだ」
「あん、嬉しいですわ。アレックス様……」
僕は手を伸ばして、エリスの頬をそっと撫でる。エリスは嬉しそうに目を細め、自分からも僕の手に頬ずりをしていた。
ただ、僕はエリスの姿に苦笑する。体のラインが良くわかる、透け透けのネグリジェ姿。彼女の行き過ぎを咎める様に、やんわりと釘を刺す事にした。
「ただ、ここはガーネット王国の王宮内だ。その恰好は必要無かっただろう?」
「そんな事はありませんわ。私はアレックス様に、いつだって全てを晒すと決めています。脱げと言われれば、いつどんな場所であろうと、全てをお見せ致しますわよ?」
少しばかり、エリスの呼吸が荒くなっている。恐らくは、僕が指示する場面を想像したのだろう。
けれど、僕がそんな指示をする事はない。それは彼女もわかっているんだろうけどね。
「ああ、君の気持ちは良くわかっている。僕が指示すれば、親の前でも全裸になるだろうね。けれど、僕がそんな指示をするはずがないだろう?」
「ふふふ、もちろん存じておりますわ」
エリスは嬉しそうに答える。僕が彼女を大切にしている事は、彼女自身が良くわかっているからだ。
そして、彼女はそれを確かめる為に、いつもこんな振る舞いをする。僕に大切にされていると知れた時、彼女は最大の幸福を感じられるからだ。
「……まあ、それはそれとしてだ。今日は本当に色々とあったね。『降り掛かる厄災』に関しては、本当に危ない所だったよ」
僕の言葉を聞いたエリスは、ビクリと身を震わせた。そして、青い顔になって、慌てて床に伏せた。
彼女は額を床に付けた後、震える声で謝罪の言葉を述べ始める。
「も、申し訳御座いませんでした! この身に代えてでも、ソリッド様をお守りせねばならなかったのに……。ソリッド様に大怪我をさせ、あまつさえ命を救って頂くなんて……!」
「いや、あれは仕方が無かった。エリスは自分の出来る事を、精一杯やってくれたと思っているよ」
相手が『降り掛かる厄災』では誰にも対処何て出来るはずがない。僕だって傷も与えられず、一方的にやられてしまったしね。
そして、僕が責めていないと気付いたのだろう。エリスは恐る恐る顔を上げ、涙を瞳に溜めながら問い掛けて来た。
「……怒っては、いないのですか?」
「勿論だよ。頑張ったエリスを、僕が怒るはず無いだろう?」
エリスは安堵の笑みを浮かべる。そしてすぐに、うっとりとした瞳で、涙交じりに僕を見つめる。
彼女は僕の足に腕を絡めると、媚を売る様に頬ずりを始めた。
「ああ、お優しいアレックス様……。お慕いしております……。エリスの全てを、貴方様に捧げます……」
「ふふ、エリスは本当に可愛いね。僕の最高の婚約者だよ」
僕の言葉にエリスは身を震わせる。今の彼女は幸せの絶頂を感じているのだろう。
はっきり言って僕は、この状況を狂っていると理解している。彼女だけでなく、僕自身も既に狂っているのだ。
――ただし、それは一般常識に照らし合わせれば、の話であるが。
そして、僕達がこうなったのは、あの国が狂っているからだ。狂気の世界で生き残るには、僕達自身も狂うしか無かったのである。
一番大切な物を守る為に、それ以外を狂わせる。そうする事で、正常な精神では生き残れない世界で、僅かな理性を残し続けて来たのだ。
「エリス、もう少しだよ。もう少しで、幸せな世界がやって来るからね?」
「わかっております。エリスはアレックス様を信じ、付いて行くのみです」
エリスは胸を張って、誇る様に笑みを浮かべる。僕はその瞳に宿る狂気に気付き、ゾクリと背を震わせた。
けれど、きっとその狂気は僕も宿すものである。彼女もまた、僕の中の狂気に気付いたからこそ、ここまで慕ってくれているのだしね。
「……それで、アレックス様。今夜はどう致しますか?」
エリスは頬を染めながら僕に尋ねる。僅かな期待を込めながら、上目遣いに僕を見つめていた。
僕は膝を折って身を屈める。そして、彼女の髪を優しく撫でながら、ゆっくりと首を振った。
「駄目だよ、エリス。肌を重ねるのは全てが終わってから。そういう約束だろう?」
「うう、それはそうなんですけどぉ……」
エリスは十八歳であり、子供を作るのに身体上の問題は無い。むしろ、公爵家の令嬢としては、子供が居てもおかしくない年齢である。
そして、狂気が溜まると、彼女の理性は低下する。本能が優位に立ち、子供を欲する気持ちが高まってしまうのだ。
だから僕は、彼女の額にそっと口づけをする。それも一度や二度では無く、何度も何度も顔中にキスを続ける。
「あ、あ……。アレックス様、恥ずかしいです……」
言葉とは裏腹に、エリスの顔が蕩けて行く。嬉しそうに、満足そうに、彼女の体から徐々に力が抜けて行く。
僕に愛されていると感じ、彼女の心が満たされて行くのだ。それに伴って、彼女の狂気も徐々に散っていく。
そして、その瞳から狂気が消えた事を確認し、僕はエリスに笑みを向ける。
「エリスが僕を必要とする様に、僕もエリスを必要としている。僕が何を求めているのか、君なら当然わかっているよね?」
「はい、勿論です。アレックス様にとっての命。ソリッド様を必ずお守りします。その為であれば、この命だって捧げてみせます」
いつも通りのエリスの答え。その答えに満足して、僕は再び彼女の額にキスをする。
蕩けた顔で微笑む彼女に、僕は微笑みながら力強く頷いた。
「僕達であの国を変えよう。僕達にとって幸せな世界。そして、この世界をあるべき姿に戻す為に」
「エリスはどこまでもお供いたします。全てはアレックス様の望むままに……」
イレギュラーもあったが、ガーランド王はソリッドを気に入ってくれた。これ以上は僕が何かを言わなくても、必要ならばソリッドに救いの手を伸べてくれるだろう。
だからこそ、準備は整ったと考えてよい。あの国を変える為に、僕達は長い時間を費やして来た。あともう少しで、僕の願いは叶うはずだ。
――ソリッドが認められる世界。
その実現に向けて、僕は最終調整に入る事を決意するのだった。