降り掛かる厄災(後編)
俺はゆっくりと目を開けた。そして、有り得ない光景に呆然と口を開く。
「な、何故……?」
『降り掛かる厄災』が俺を見下ろしていた。平然とした様子で、とてもつまらなそうな眼差しで……。
そして、彼女は無言で振り返ると、その背中を俺に晒す。その背は真っ黒な鱗の鎧に覆われており、傷一つ付いていなかった。
「ぐはっ……!」
『降り掛かる厄災』が軽く手を振り、アレックスの苦悶の声が響く。ドサリという音を立てて、少し離れ場所で地面に叩きつけられていた。
「アレックス……!」
その身を案じて叫ぶ俺に、アレックスが半身を起こして手を掲げる。苦しそうに顔を歪めてはいるが、大きな怪我はしていないらしかった。
アレックスが無事と分かり、俺は安堵の息を漏らす。しかし、『降り掛かる厄災』がこちらに振り向き、俺に視線を向けた事で再び緊張が身を包む。
「あの程度の攻撃で、私の鱗が傷付く事は無い」
「私の、鱗だと……?」
俺は『降り掛かる厄災』の姿を改めて見る。彼女は黒い鱗で作られた、軽鎧で身を包んでいた。
膝丈までのブーツ。肘まで覆うガントレット。それに、胸や腰回りを覆う鱗の鎧だ。
肩回りや腹部など、特定の部位は白い肌が見える。動きやすさを重視した、魔物素材の軽量な鎧だと思われるのだが……。
「――いや、違うのか……?!」
俺が見ている前で、その白い肌から黒い鱗が生えてきた。そして、顔を除く全ての肌が、真っ黒な鱗で覆われて行く。
俺が鎧と思い込んでいたものは、彼女の身から生えた鱗らしかった。竜人族にその様な事が出来るというのを、俺はこれまで知らなかったのだ。
そして、俺はここに至って思い出す。かつてアレックスが『降り掛かる厄災』を傷付けた時、それは鱗に覆われていない、彼女の右腕であった事を……。
「つまらん攻撃だな。まるで成長していない。アレにはもう、何も期待出来ない」
そう吐き捨てると、『降り掛かる厄災』が俺に背を向けた。どういうつもりだと思っていると、彼女はゆっくりと歩き出した。
「私を甘く見ていたのか? とても気分が悪い。その報いは受けて貰わねばな」
「待て。何をする気だ……?」
アレックスへと足を向けながら、『降り掛かる厄災』が顔だけをこちらに向ける。そして、獰猛な笑みを浮かべ、俺に対してこう答えた。
「見せしめだ。あいつを殺す」
「待て! 何を言っている!」
俺は叫ぶが『降り掛かる厄災』は止まらない。顔も正面に向けて、その右腕をゆっくりと掲げた。
そして、その右腕に赤い火球が生み出される。あれは先程放った、『ギガ・フレア』という魔法だろう。
「や、止めろ……!」
今のアレックスは光の加護が失われている。身を起こすのもやっとな彼に、あの魔法を防ぐことも、回避する事も出来るはずがない。
そして、離れた場所で倒れるエレナとマッシュ。二人もダメージが大きいらしく、動ける状態では無さそうだった。
――この状況で、彼を救えるのは俺だけだ。
恐怖に飲まれている場合では無い。怯んで足を止めている場合では無い。今この瞬間に命を燃やさずして、俺は何のために強くなったと言うのだ!
「やらせん……。やらせはせんぞ……!」
俺の叫びに一瞬だけ『降り掛かる厄災』の視線が向く。しかし、すぐに興味を失った様に視線を戻した。
俺には何も出来ないと思っているのだ。回避するしか能の無い俺を、相手をする価値も無いとみなしたのである。
「例え、この身が朽ち果てようとも……。俺の兄弟をやらせはしない!」
――ピキ! パキキ!
俺は怒りの感情を爆発させる。そうする事で、『降り掛かる厄災』の威圧から脱する事が出来た。
「……ん?」
――ビキキッ! バキッ!
俺が駆け出す気配を感じたのだろう。『降り掛かる厄災』の視線が再び俺に向けられる。そして、微かに驚いた表情を見せていた。
「俺の命をくれてやる!」
――バリン……!!!
俺は拳を握り締め、『降り掛かる厄災』へと殴り掛かる。そんな俺の姿を見て、彼女は怪訝そうに顔を歪ませるだけであった。
俺が殴り掛かろうが、そんな攻撃が通じるはずがない。『降り掛かる厄災』はそう考えているのだろう。
しかし、俺が殴るのは彼女自身では無い。彼女がその手に掲げる――紅蓮の業火に対してだ。
「だが、貴様も道連れだ!」
――ゴバァァァァァァン……!!!
深紅の火球は爆ぜ、周囲に業火を撒き散らす。俺はその直撃を受けて、灼熱に全身が焼かれてしまう。
そして、吹き飛ばされて地面に転がる。もはや満身創痍で、身動き一つ取れぬ姿。それでも俺は何とか目を開け、『降り掛かる厄災』の姿を確かめる。
「そ、んな……。馬鹿、な……」
『降り掛かる厄災』は平然と立っている。顔も全て黒い鱗で覆われていたが、その鱗にはダメージの跡が確認出来なかった。
地面が溶ける程の業火なのだ。それを至近距離で浴びながらダメージ無しとは、本当にどこまで理不尽な存在なのか……。
俺が絶望に打ちひしがれていると、『降り掛かる厄災』が唐突に肩を揺らした。
「ふ、ふふふ……。ははっ、あははははは……!!!」
大地に転がる俺達を無視し、『降り掛かる厄災』が笑い続ける。これまで見てきた、どんな姿よりも楽しそうな笑い声であった。
何がおかしいのかはわからない。『降り掛かる厄災』の考え何て、誰にもわかるはずがない。
そう考える俺に向かい、『降り掛かる厄災』の嬉しそうな視線が俺へと向けられた。
「そうか! そういうことなのか! ああ、今日は何て気分が良いんだ!」
『降り掛かる厄災』の顔から鱗が消える。そこには満面の笑みが浮かんでいた。
そして、彼女は俺の元までゆっくりと歩いて来る。大半の鱗が姿を消して、多くの白い肌を曝け出していた。
俺はトドメでも刺す気かと警戒する。しかし、指先一本動かす事が出来ず、俺は内心で抵抗を諦める。
もう好きにしてくれと思っていると、何故か『降り掛かる厄災』が自らの指を嚙み切った。そして、滴る血を俺の口内へと流し込んだ。
「そういえば、名前を聞いてなかったな。お前の名は何だ?」
「――名、だと……?」
行動の一切に意味がわからない。このタイミングで、どうして俺の名前に興味を持つのだ?
ただ、彼女の血を取り込んだからだろうか? ダメージが幾分か癒えたらしく、何とか会話は出来そうな状態であった。
俺の答えを『降り掛かる厄災』が静かに待っていた。穏やかな表情を見るに、今は機嫌が良いらしい。
折角治った機嫌を損ねても不味いかと思い、俺は素直に自らの名を名乗った。
「俺の名はソリッド……。ソリッド=フェイカーだ」
「ソリッド=フェイカーか。うむ、覚えておこう!」
俺が答えた事で、『降り掛かる厄災』は嬉しそうに微笑む。凶暴さの一切感じられない笑みに、俺は意味がわからず混乱していた。
しかし、意味の分からない行動はまだ続く。彼女はその場で身を屈めると、俺の髪を撫でながらこう告げたのだ。
「私の名はメルト=ドラグニル。竜帝の名を継ぐ者だ。覚えておくと良いぞ?」
「メルト=ドラグニル……?」
何故だろうか? 俺は初めて聞くはずなのに、その名に懐かしさを感じていた。
その理由はわからない。俺がただただ戸惑っていると、メルトは立ち上がり、背中の羽をバサリと広げた。
「強くなるが良い。再び会う日を楽しみにしている」
そう告げると、メルトは上空へと飛び上がった。そして、高速でこの場から離れて行った。
現れた時と同様に、あっという間の出来事である。俺は地面に転がりながら、その名に違わぬ『厄災』であったと大きく息を吐いた。