グリ―ディア=フォン=パール
僕はエリスと並んで後宮へと踏み込む。背後には王国騎士団の精鋭三百人も続いていた。
なお、本来の後宮には警備の兵士が配置されている。しかし、今はその配置を解除してある。
兵士の采配は騎士団長に任命権があり、騎士団長でもあるレオナルド将軍はエリスの支配下だ。
無駄な殺傷を行う必要は無い。殺すべきは『強欲の厄災』である、グリ―ディア=フォン=パールだけなのだらから。
「…………」
「ふん、ふふん♪」
僕は隣のエリスに視線を向ける。彼女は呑気に鼻歌を歌っている。
とても『厄災』との決戦前とは思えない。下手をすると、僕達だって死ぬ可能性がある戦いだと言うのに……。
「アレックス様ぁ! 必ず勝ちましょうね♪」
「ああ、そうだね。僕達の手で勝利を掴もう」
ニコニコと笑みを浮かべ、僕へと話し掛けるエリス。僕はいつも通りの笑みを彼女に返した。
ただ、僕は内心で激しく動揺していた。エリスの瞳から『狂気』が消えていたからだ。
今のエリスは普通の侯爵令嬢にしか見えない。『狂気の厄災』には見えなかった。
そして、彼女からは不吉な気配も消えている。僕が常に感じていた、彼女の内なる『狂気』が感じられないのだ。
「……どういうことだ?」
僕は背後に視線を移す。そこには騎士団の皆が付き従っている。その目を見るに、エリスの支配は解けていない。
つまり、『狂気の厄災』としての力は残っている。その上で、彼女から『狂気』を感じなくなったと言う事になる。
となると、考えられる可能性は一つ……。
「エリスの力が……。いや、心が安定した……?」
これまで彼女の周囲には『狂気』が漂っていた。勘の良い者であれば、彼女の不気味さに気付く程度に。
それは、エリスが『狂気』を制御し切れなかったからだ。その強い『厄災』の力を、どうしても周囲に漏らしてしまっていたのだ。
――だが、今は違う……。
僕であっても気付けぬ程に、その『狂気』を内に留めている。その強い『厄災』の力を、完全に制御しているのだ。
そして、ここまでの劇的な変化。成長を促したのは彼女の言葉で間違いない。
「ローラ、君は何と言う……」
僕はここに来て理解する。僕は彼女の事を侮っていた。その能力を正しく理解出来ていなかったのだと。
僕にとってのローラは、信頼出来る仲間である。ただし、能力は僕達に一歩劣る存在だと考えていた。
僕達のフォローと共に成長し、何とか『聖女』としての職務を全うしている女性……。
――だが、その姿は既に、過去のものでしか無かった。
今の彼女は本物の『聖女』。たった一つの祝福の言葉で、『厄災』の心を変えてしまう『聖女』なのだ。
むしろ、偽物の『勇者』である僕とは違う。肩書を利用して、裏では悪事にも手を染める僕とはね……。
「アレックス様? 到着しましたよ?」
エリスに声を掛けられ、僕は目の前の扉に気付く。後宮の最奥である、『国母』グリ―ディアへの謁見の間。
同じ『厄災』であるエリスは、その気配を正確に捉える。ここに『強欲の厄災』が待っている事は名違いないだろう。
「……僕達の動向に気付いていたか?」
「その様です。油断なく行きましょう」
今はまだ夜明け前。本来ならば、『国母』グリ―ディアは寝室に居るものと考えていた。
しかし、彼女は謁見の間に居る。僕達の襲撃を知った上で、待ち構えていた事になる。
一抹の不安はあるが、ここまで来て引き返せはしない。僕は覚悟を決めて、目の前の扉を開いた。
――ギイッ……
微かに軋む扉の音。その向こう側には、巨大なフロアが広がっていた。
騎士団の三百人が余裕で入れ、その大きさは王城の謁見の間すら超えているだろう。
そして、最も奥に存在するステンドグラスの窓の下。その玉座に彼女は優雅に座っていた。
「来たか。『光の勇者』に『狂気の厄災』」
「貴様がグリ―ディア=フォン=パール……」
窓から注ぐ月明かり。そこに女性のシルエットが浮かび上がっていた。室内は薄暗く、彼女の正確な姿までは確認出来ない。
しかし、彼女はパチンと指を弾く。すると、室内に光が満ちる。天井のシャンデリアが点灯されたらしい。
「くふふ、愛い顔をしておるのう?」
「どの口で、それを言うのかな?」
明りのお陰で彼女の姿が良く見える様になった。それと同時に、相手からも僕達の姿が良く見えているのだろう。
僕は謁見の間へ踏み込みながら、グリ―ディアの姿を確認する。噂としては聞いていたが、信じられない気持ちでその姿を眺める。
パッと見では二十代の美女。銀色の長髪を後ろに流し、胸元の開いた黒いドレスを身に纏っている。
多くの男性がその色香に惑わされたのだろう。彼女が欲しいと、その『欲望』を掻き立てられた事だろう……。
――これで齢八十歳だと?
若作りというレベルでは無い。明らかに人を辞めている、物の怪の類である。
僕は同じ人と思う事を止める。そして、謁見の間の中央で足を止めて告げた。
「僕達の目的はわかっているな? 大人しくその首を差し出すんだ」
「くふふ、おかしな事を言いよる。どうして妾がその様な真似を?」
この期に及んでグリ―ディアは余裕の態度であった。僕達の事を舐めているのか、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。
その態度を見て、僕の中で警鐘が鳴る。彼女のこの余裕は何だ? 彼女には何か奥の手があるのか?
僕には『光の精霊に愛されし者』という加護がある。そのお陰も有り、彼女が光の大精霊による封印状態と見てわかる。
今の彼女ではエリスに抗えない。それどころか、騎士団にすら抵抗出来ないだろう。
余裕の正体がわからず、僕はグリ―ディアへの警戒を強める。すると、彼女は高らかに笑いながらこう告げた。
「くふ、くはははっ! その様に警戒するでない! 滑稽過ぎて笑いが止まらぬわ!」
「……どういう意味だ?」
銀髪の美女が高らかに笑う。その姿に僕の焦りが更に増す。間違いなく、彼女には何かがある。
そして、警戒する僕を見て、グリ―ディアは腹を抱えて笑う。彼女は身を乗り出して、僕の事を嘲笑う。
「光の精霊王の結界により、妾の力が封じられている。そう考えて、ここまでやって来たのだろう? 自分達なら勝てると考え、罠に嵌められたとも気付かずにな!」
「なん……だと……?」
僕達が罠に嵌められた? 彼女の力が封じられていると考えた事で?
僕の中の不安が形を取り始めた。気付きたくなかった、不安の正体に気付いてしまったのだ。
「若いのぉ、『光の勇者』よ。所詮は偽物の『勇者』と言う事じゃろうな」
「――っ……?!」
グリ―ディアが再び指を弾く。パチンという音と共に、僕は光の精霊王が弾け飛ぶ姿を見た。
そして、場を埋め尽くす圧倒的なプレッシャー。それはこれまで感じていた、エリスの『狂気』とは比較にならない重圧であった。
――僕は理解してしまった。
僕達では勝てない。例え僕とエリスが力を合わせても、彼女には立ち向かう事が出来ない。
僕達の挑んだ『強欲の厄災』は、それ程までに桁違いの化け物だったのだと……。