禊
後宮襲撃までの時間は残り少ない。それでも僕にはやるべき事があった。
それは、エリスの状態を確認する事である。ローラの言葉によって、彼女の情緒が不安定になってしまった。
エリスは『強欲の厄災』対策の切り札。彼女の力が十全で無ければ、この計画は破綻してしまうのだから。
「エリス、大丈夫かい? どうしたと言うんだい?」
クリストフ邸の空き部屋で、僕はエリスに問いかける。今の僕達は二人っきり。周囲を気にせず本心を話せる状況である。
そして、問われたエリスは、苦悩の表情で顔を上げる。揺れる瞳で僕を見つめ、僕へとこう問い掛けて来た。
「何故です? 何故なのですか! どうして、彼女は私達を祝福するのです!」
「……ローラなら当然の事だろう? 友人に対して祝福を与えるのは」
ローラは白神教の神官である。神官の模倣となるべく、これまで努力を続けて来た聖女でもある。
ならば、友人を祝福するのは当然のことだ。それはエリスにもわかっていると思うのだが……。
「私は呪われた存在! 世界から疎まれ、見捨てられた存在! この世界の神が、私を祝福するはずがない……!!!」
「世界の神はわからないけど、ローラはそういう人だ。他者に何を言われようとも、自らが正しいと思う行動を取る」
元から素養はあったのだろう。だからこそ、ローラは聖女に選ばれたのではと考えている。
そして、出会った頃の彼女には自信が無かった。自らの考えを周囲に口にする事は滅多に無かった。
――けれど、ソリッドとの出会いで変わった。
ソリッドは彼女が口を開くまでじっと待った。彼女の意見に耳を傾けた。そして、その意見を正しいと、常に肯定し続けた。
ソリッドに支持され、ソリッドに励まされ、彼女は自信を付けた。そして、魔王軍との戦いの中で、彼女は本物の『聖女』となったのだ。
「ローラは他の人達とは違う。皆が正しいと言う言葉を鵜呑みにしない。自らの心に従って、正しいと思う行動を取れる女性だ。だからこそ、僕は彼女を仲間と認めているんだ」
「自らの心に従って……?」
それはとても勇気の必要な行為である。他者の意見を聞かないと言う事は、全ての責任を背負う事を意味するからだ。
成功しても全ての人が認める訳では無い。失敗すれば周囲から罵倒される。それは茨の道を歩むにも等しい行為である。
――それでも、僕達はその道を歩んで来た。
世間の常識を受け入れ、過ちに目を背けたく無かった。間違いを受け入れて、後ろめたい気持ちを抱えては生きられなかった。
ただ、僕達は自己満足の為にその道を選んだ。胸に誇りを抱き、前を向いて歩く為に、僕達は個人の正義に従うのである。
「僕達の戦いだってそうだろう? 自らの心に従い、正しいと思う道を選んだ。僕達が本当に望む物を手にする為に、それ以外の全てを犠牲にする覚悟で……」
「ち、違う……! そうじゃない……。そうじゃないんです、アレックス様!」
エリスは激しく否定する。瞳に涙を溜めて、激しく頭を振っていた。
僕には何が違うのかわからなかった。だから、僕は彼女の言葉に耳を傾ける事にした。
「エリス、何が違うと言うんだい?」
「わ、私には覚悟なんて無かった……。アレックス様の言葉に従っただけ……。周りがどうなっても、未来がどうなっても関係無い……。ただ、アレックス様に必要とされたかっただけなんです!」
エリスの言葉に僕は驚く。ただ、それと同時に納得もしていた。
成人までの五年間、僕達は未来を語り合っていた。しかし、魔王軍との戦いの後、エリスは僕の言葉に従うだけになった。
ほんのわずかな違和感はあった。けれど、それはエリスが大人になったからだと思い込んでいた。
しかし、そうでは無かったのだろう。僕達が離れている間に、彼女の心には変化が起きていたのだ。
恐らくそれは、彼女自身も自覚していないこと。きっとそれは、見逃してはいけない変化なんだと僕の勘が囁いていた。
「なら、エリスはどうしたいんだい? 君の心は何を望んでいるのかな?」
「私の心が、望んでいるもの……?」
僕の問いにエリスは戸惑う。咄嗟に答えが出ず、涙目になって僕を見つめる。
けれど、僕は答えを急かしたりはしない。彼女の髪を優しく撫で、彼女が応えるまで静かに待ち続けた。
「……ずっと、アレックス様と、一緒にいたいです」
「ああ、僕も同じ気持ちだよ。他には無いのかな?」
エリスの言葉を肯定する。そんな僕の言葉に、彼女は嬉しそうに口元を綻ばせた。
そして、必死に考えながら、次に彼女はこんな事を口にする。
「この戦いに勝ったら、結婚もしたいです……。ローラ様に式をお願いして……」
「そうだね。そうしようか。きっとローラも、それを喜んでくれるだろう」
僕の中ではそういう未来も描いていた。全てが片付いたら、そう出来ると良いなと……。
しかし、エリスは驚きで目を見開く。彼女の中には、そんな未来は想定されていなかったみたいだった。
「アレックス様……。私は幸せを、望んでも良いのですか……?」
「当然だろう? ローラとも約束した。僕が君を幸せにする」
エリスは僕の婚約者で、十年程の付き合いとなる。この戦いが終わった後は、状況が許すなら結婚するのが当然である。
勿論、この計画が失敗すれば、そんな未来は訪れない。成功しても、国賊扱いとなっては国を捨てるしか無くなる。
それでも僕は、エリスと別れる事だけは考えていなかった。最悪は彼女と共に、命を散らす覚悟をしていた……。
「呪われた子なのに……。祝福されるはずが無いのに……。本当に私は、幸せになって良いんですか……?」
エリスが僕を見つめながら問う。その両目からは涙が溢れ、狂気の瞳は揺らいでいた。
僕は優しくエリスに微笑む。そして、そっと唇を重ねて、彼女にこう告げた。
「幸せになって良いんだ。いや、一緒に幸せになろう。その為にも、僕達は勝とう」
そう、全ては『強欲の厄災』に勝ってからの話。負ければ僕達には未来が無いのだから。
いや、違うな。未来が無いのはこの国そのもの。この計画が潰えては、『強欲の厄災』がこの国を亡ぼす。
光の精霊が『強欲の厄災』を封じていられるのも、残り僅かな時間だけなのだから……。
「あ、あぁ……。あああぁぁぁ……。うああぁぁぁ……!」
エリスが声を上げて泣き始めた。小さな子供みたいに、人の目を気にする事もなく。
ただ、今この場には僕しかいない。僕は彼女を抱き寄せ、優しく髪を撫で続けた。
「アレックス様ぁ……! アレックス様ぁ……!」
エリスは生まれた時より狂気を宿していた。彼女の笑みは気味悪がられて、実の両親にすら受けれられなかったと言う。
その経験が彼女の歪みを増幅させた。彼女の中の狂気を、より深いものへと増長させて来たのだろう。
ただ、僕との出会いで、彼女の力は暴走を免れた。これまでは、彼女の意思で抑え込む事が出来ていたのだ。
「……けれど、それは正しかったのか?」
子供の様に泣き続けるエリスを見て、僕は自らの選択が正しかったのかと疑問に思う。
僕のアプローチが違っていれば、彼女はこんなに苦しまずに済んだのではないだろうか?
勿論、そんな仮定に意味はない。神ならざる僕では、最善の選択を取り続ける事は出来ないのだから。
「……けど、反省して、成長する事は出来る」
胸の中のエリスを見下ろし、僕はそう感じていた。彼女の心もまた、傷付きながらも成長している。
きっとこれは禊なのだろう。彼女の中の悪い物を洗い流す為に、この痛みは僕達に必要だったんだと思う……。