ヘルメスと巨人
昔。
人類にやっと文明が誕生し始めたくらいの、大昔。
ある島に、「ヘルメス」という妖の青年と、「アルゴス」という、全身に100の眼を持つ巨人がいた。
彼らは気の合う友人で、どんどん知恵をつけていく人間たちを、楽しく見守るのが共通の趣味であった。
そんな、ある日のこと。
「アルゴス。時々発生する山火事に、人間たちが苦労している。
私たちで、その手助けをしてやれないかな」
憂いを帯びた瞳で、ヘルメスが山の麓ふもとを見やった。
視線の先には、強い陽射しと乾燥した風に晒され、燻り始めた下草がある。
このまま放っておけば、やがて、大きな山火事へと拡大していくかもしれない。
早期に誰かが発見しなければ、また村や家畜に被害が出る。
「ふむ……だが、その手助けとは?
我々は、人の営みには干渉しない。それが決まりだろう」
自然災害への適切な対応も含めて、人間は発展・成長していくのだ。
超越的な存在である彼らは、その妨げになってはいけない。
アルゴスは、訝しげに友人を見やった。
100の眼に見つめられた彼は、肩を竦める。
「もちろん、直接干渉するという意味じゃない。
山火事の頻度を減らすとか、その程度のことだよ」
「そうか。ならば、俺も協力するとしよう」
彼らは相談し、その結果、既にある山・をもっと高くする事にした。
高い山に雲が当たれば、雨が降る。
雨が降り、湿度が高まれば、火事も起き難いだろうという理屈だ。
「さて…どうやって、山を高くするかだが」
「どこからか土を持ってきて、上に積んでいこう」
そうして、彼らは海岸の砂や土を山へと運んだ。
主にアルゴスが。
しかし、運んで山へと載せたはいいが、湿り気を帯びた砂土は、固まるまでに崩れてしまった。
それに、これでは雨が降ったら土砂災害になってしまうだろう。
「そうだ。木を植えて斜面に根を張らせると同時に、風を吹かせて水分を飛ばそう」
「おお、それはいいな」
今度は、ヘルメスの出番である。
実は「バショウ」という植物の妖である彼は、その種類の樹に関する事ならば、大抵のことができるのだ。
彼は、強風を起こすための特殊な扇を作ろうと思った。
形の良いバショウの葉を一枚取り、ありったけの魔力と技術を注いで、それは完成した。
所謂「芭蕉扇」である。
だが、疲れてしまった彼は、今日はもうこれ以上動けそうにない。
「すまない、アルゴス。バショウの木を引っこ抜いてきて、山に植えてくれないか? そうしたら、素早く根を張らせてみせる。
私も、扇を使って風を吹かせる程度の魔力は、まだ残っているから」
「お安い御用だ」
意気揚々と頷いたアルゴスは、山を降りていった。
幸いにも、今朝燻っていた小さな火は、風向きが変わって日が落ちたことで鎮火したようだった。
「あ。しまった。彼は夜目が利かないんだった...。
樹の種類、間違えないといいけど……」
彼が去った山に残ったヘルメスは、不安そうに呟いた。
◆
その不安は、的中していた。
山を降り、村の方へと進んだアルゴス。
「うむぅ…暗くてよく見えん……」
たくさんの眼は、昼間は大活躍するのだが。
夜には弱いのだ。
しかし、
「おっ? あった、あった」
バショウが、まとまって多く生えている場所に出た。
この地方では結構珍しい種類の植物だというのに、ラッキーなことである。
鼻歌を歌いながら、どんどん引っこ抜いて、束にして背負って山へと帰るアルゴス。
その背をじっと見つめる複数の目の存在には、気づかなかった。
◆
「おかえり、アルゴス。意外と早かったね」
労って、彼が持って帰ってきた樹の束を見るヘルメス。
「あちゃー、やっぱり、少し違うヤツだ、これ…」
「ぬ? バショウの樹ではないのか?」
「とてもよく似ているけれどね。これはバナナの樹だよ」
それを聞き、アルゴスは頭を掻いた。
「それは、すまん。明日になったら、元の場所に戻してこよう」
そう言って笑い、脇に置いてあった、山に載せる予定の土砂の塊の上に、ポスポスと樹の根元を突き刺していった。
夜も更け、二人は山で静かに休んでいた。
生き物ではないので眠る必要は無いのだが、アルゴスは夜目が効かず、ヘルメスも減った魔力を回復させるため、じっと動かずにいたのだ。
だから、気付いた。
―――人間たちが、密かに近づいてきている事に。
「...アルゴス。きみ、さっき人里で何かした?」
「...いや。特に何も……あ。まさか―――」
こそこそと話すうちに、人間たちは姿を現した。
皆、剣や弓で武装している。
先頭に立つ、彼らの代表と思われる一人の男が、槍と松明たいまつを掲げて声を張り上げた。
「そこの巨人! 我らの畑から、樹を盗んでいくとはどういう事だ!
今まで、何も悪さをしないのならば、見逃してやろうと思っていたが...。
やはり、貴様は害悪だ! 討伐する!!」
「そうだ、そうだ!」
「今までだって、山火事が起きている事を知りながら、自分では消火しようとしなかった!」
「いずれ、人を襲うようになるかもしれん!」
男に続き、背後の村人たちも声を張り上げた。
その言い分に、ヘルメスとアルゴスは目をぱちくりさせる。
「しまった。暗くて、人間たちの畑だと気づかなかった...」
「やっぱり。ワサワサと豊かにバナナが実っていたから、どうにもおかしいと思ったよ」
ヘルメスは苦笑し、アルゴスは一歩前に出て頭を下げた。
「すまなかった。俺は、夜は辺りがよく見えんのだ。悪気は無かった。
朝になったら、元通りに樹を戻しに行くから、もう少し待っていてくれ」
人間たちは、顔を見合わせた。
少し気の抜けた空気が流れかけたが、再び先頭の男が叫んだことで、場が引き締まる。
「...っ、騙されるな!
俺たちの安寧のためにも、この機・を逃すわけにはいかない!
みんな、妻や子供のことを考えろ!」
その言葉につられるように、村人たちはまた武器を構えた。
彼らの表情は、恐怖と焦り、困惑に歪んでいる。
ヘルメスは、溜息をついた。
「正直にさ、「あなたが怖いから、どこかへ行ってほしい」って言えばいいのに」
「...っ、怖いだと!? 俺たちを侮辱するな!!
巨人だけではなく、お前も敵か!!」
男は、剥きになって彼にまで噛みつく。
「...もういいや。わかったよ。
アルゴス、明日になったら、どこか別の場所に移ろう」
「―――そう、だな。俺が怖いならば、仕方ない。恐怖を与えるのは、こちらの本意でもないからな。
だが、これだけは言わせてほしい。
直接火を消すことはできないが、この樹をとってきたのは、山に植えて火事を減らすためだったのだ」
大きな身体をしょんぼりと縮め、アルゴスは残念そうに説明した。
「......~~っっ!!」
男は、般若のように目を吊り上げると、必死の形相を作って後ろの仲間たちを振り返った。
村人の間には、動揺や戸惑いの空気が広がりつつあった。
「皆! 見苦しい言い訳をして、朝になったら逃げようとしているぞ!!
―――逃がしてはダメだ!
今しかないっ、かかれぇっ!!」
彼は、何としてでもこの機会を逃したくなかったようだ。
率先して、槍を手に持ち、アルゴスに向かって駆けてくる。
「どっ、どうするっ!?」
「ヤンは村長の息子だ! 見捨てるわけにはいかねぇだろ!」
「くそっ!」
村人たちは、ヤケクソのように彼の後に続いた。
権力者の息子を見捨てて逃げるわけにはいかないという、打算的な思惑もあったが、皆多少なりともヤンと同じ心境だったのだ。
自分たちよりも強く大きい、未知の種族。
「怖い」。
「わからないから、恐ろしい」。
―――ならば、排除を。
全身の眼に狙いを定められ、何人もの人間に一斉に襲い掛かられたアルゴスは、叫んだ。
「もう、お前たちの目が届く場所には行かない。樹を植えなおしたら、すぐに去る!
どうして...っ!」
「...生き物とは、そんなものだ。自分たちの種の繁栄のみを優先させる本能がある。
人間には高い知性がある分、それが顕著に、嫌らしく現れるだけだろう」
ヘルメスは冷めた声で言ったが、動けなかった。
彼の魔力はまだほとんど戻っておらず、この場を上手く力任せに収めるには足りない。
不味い。
友人アルゴスは暗闇に弱く、そして人間に優しい。
このままでは碌に反撃もせず―――。
アルゴスの眼のいくつかが、剣や矢に貫かれるのを見て、ヘルメスは決めた。
今、彼を守るにはこれしかない、と。
「……待て、村人たちよ。お前たちの言う通り、アルゴス――奴は、危険な存在かもしれない。
だから私が、奴がもう二度と戻ってこないように、消し飛ばして見せよう」
そう言って、ヘルメスは友人に向かって、作ったばかりの芭蕉扇を構えた。
そんな彼を、信じられないもののように見つめるアルゴス。
残った全ての無事な瞳が見開かれ、瞬きも忘れて凝視する。
「ヘルメス......」
大切な友人に、澄んだ瞳で見つめられた彼の内心は、計り知れない。
張り裂けそうな胸の内に渦巻く怒りと悲しみを抑え込んで、ヘルメスは無表情で、アルゴスに告げた。
「たとえ無事でも、もう戻ってくるなよ」
帰ってきたら、また、殺されてしまうから。
どこまでも純粋なきみは、どこに行っても、そのままで居てほしい。
―――だから、私の真意を理解する必要は無い。
それ以上を語ることなく、ヘルメスは残っている全魔力を芭蕉扇に注ぎ込み、扇を一振りした。
彼の、封じられた強い想いを体現するかのように吹き荒んだ烈風は、アルゴスの巨体を空に巻き上げる。
最後まで友人のみをひたすら見つめ続けていた巨人は、南東の空の遥か彼方へと、徐々に小さく消えていった。
歯を食いしばって無表情のまま黙りこくっていたヘルメスは、やがて人間たちを振り返った。
「これでいいだろう。...さぁ、バナナの樹を持って帰ってくれ」
「お、おう。...あんた、あいつの友達じゃなかったのか?」
彼は冷たく微笑んだ。
正直でない者に、愚直に答える必要は無い。
「違う。奴が悪さをしないよう、傍で見張っていただけだ」
「そうだったのか。もし友人だったら、やけに思い切りが良いと思ったぜ」
人間たちは、そう言って笑いながら、樹を担いで去っていった。
一人残ったヘルメスは、ポコポコと穴の開いた土砂の山を静かに眺める。
そして、手に持った葉っぱの扇を握りしめると、そっと懐にしまった。
いつの日か、心の整理がついた時に、手放そうと考えて。
◆
仰向けで空を飛んでいたアルゴスは、ぼんやりと星空を眺めていた。
何も考えられない。
考えることを、心が拒否している。
「どうして...」
それなのに、呟いてしまう。
何度も何度も、「どうして」と。
やはり、知りたいのだ。
真相を。
やがて徐々に勢いが失速し、どこかの森の木々を薙なぎ倒しながら、彼の巨体は動きを止めた。
ゆっくりと身体を起こし、辺りを見回す。
「どこだ、ここは...」
暮らしていた島より、かなり南の方まで飛ばされたはずだ。
気温も低いし、森の木々の形状も全然違う。
のろのろと歩き出した彼だったが、その時、轟くような爆音が聴覚を貫いた。
上を見上げると、木立の間から、夜空を真っ赤に染め上げる炎と白い煙が視界に映る。
「火山の噴火か...」
すぐ傍の火山が、たった今、噴火したらしい。
なんという運の悪さだろうか。
まさかヘルメスも、このような事態になるとは考えもしなかったに違いない。
「逃げるか...」
口ではそう呟くも、足が速く動かない。
怪我のせいではない。
―――彼が今、生きる気力を失っているのだ。
眠っていた森の動物たちが一斉に動き出して彼を追い越し、鳥たちもバサバサと飛び上がってはぶつかり合い、山から流れ出した火砕流が近づいてくる。
それでもアルゴスは、走れなかった。
……否、走らなかった。
ただひたすらに、彼の友人を想っていた。
真実が、知りたかった。
アルゴスは物凄く純粋なだけで、愚かではない。
だから、もう少し時間をかけて考えれば、気付けたはずなのだ。
ヘルメスの意図に。
しかし、時間とは残酷である。
決して一秒たりとも、速めることも、遅らせることも無い。
彼の背中の眼が、すぐそこまで迫っている「死」を捉える。
もう間に合わないと察して、アルゴスは微笑んだ。
(もし、生まれ変わることが出来るのならば、次こそは―――)
そして――――。
彼の意識は、暗闇に飲み込まれた。
◆
アルゴスは知らなかったが、噴火した山の名前は「アゲノール」。
その麓の森を綺麗に飲み込んだ火砕流はやがて冷え、長い年月をかけて、溶岩の上には広大な草原が形成された。
地元の人々はその草原に、神話に登場する「アゲノール」という人物の息子「アルゴス」の名をつける。
―――奇しくも、草原の下で眠りについた同名の巨人の存在など知らずに。
さらに年月が流れ、草原は、樹海へと変化した。
それなのに、なぜか動物が寄り付かない。
精霊だけは、たくさん存在していると話す霊能者もいた。
時を同じくして、地元の人々の間では、ある噂が流れ始める。
曰く、
「アルゴスの樹海では、全ての嘘や欺瞞が曝け出され、真実が見抜かれる」
と。
最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。
このお話は、現在連載中の長編ファンタジー小説の、一応スピンオフ(?)作品です。