第16話 侵入
アビスがヴィータの対応に悩んでいた正にその頃、町の東南にある山の中で望遠鏡を覗く少年がいた。
レンズには丘の上の魔王の家が収まっている。それをジッと見て、決して目を逸らさず、根気強く、少年は観察を続けていた。
しかし、微動だにしない彼とは裏腹に、その心は強い残り火にあぶられていた。
(観察開始から5日目、未だに対象を確認出来ず……。日ももう少しで落ちる。今日も収穫無しか、クソっ)
(クソか……本当にクソったれだ。大体なんなんだこの町は。あれは、あの光は、炎じゃない。火の灯りってやつは、もっと揺らめくものだ。別の、オレの知らない別の何かだ)
(それにこの辺りの動物は、やたら精霊に憑依されているのが多い。魔王の近くってのはこういうものなのか?クソっ、やたらとおしゃべりなカラス共のせいで気味が悪い)
(だが、それなりの収穫はあった。カラス達によれば、あの小高い丘の一軒家がアビスの家で間違いないようだ。これは来る前から聞いていた情報でもある。まさかあんな質素な家に魔王が住んでいるなんてな。だが、対象を未だ直接確認出来ない。何日も家に籠って、そんな何もない所で何をしている?)
(アビス……魔王の1人。『科学のため』と言って、何でもするらしい。誰かが言ってたっけ『最弱の魔王は誰か』そいつは、アビスがそうだって言ってた。本当だろうか?本当なら、どうして負けてんだよ、姉さん――)
(姉さんは前に言ってた、精霊と人間は、根本的に違う生き物だって。だから精霊の問題は精霊が、人間の問題は人間が対処するべきだって。人間とうまく付き合っていくには、適度な距離が必要だって。だからオレ達が、悪い精霊をやっつけるんだって――)
(その悪い精霊ってのは、魔王も含めて言ってたんだよなあ。魔王が暴走した時、オレ達が止めるんだって、そう言ってたじゃないか。だったらなに負けてんだよ。あんたは全てを浄火する炎なんだろう!?姉さん!!)
(どんな勝負だったのかは知らないけど、姉さんだけは負けちゃダメだろ!!それで今回の件からは手を引けって?そんなの納得できるか。危険な精霊が目の前にいて、それを放置するなって教えたのは姉さんじゃないか。ふざけるな!納得なんか出来るか!!)
(――ッ!!)
少年の肩がピクリと動く。レンズの中には、この5日間望んでいた物が映っていた。
扉を開け、外に出る黒いローブを着た変人の姿。それが丘をゆっくりと下って、町の方へ向かっていく。
(あれがアビス……。聞いていた通り、風貌ですぐに分かるのは有難いな。……対象の姿はない。なら家に残しているのか。好都合だ)
瞬間、少年は駆けだした。
(いつアビスが帰ってくるか分からない。速やかに対処しないと――)
町の反対側から丘に上がり、ベランダに向かう。
家の海側は壁がなく、水の張られた大きな浴槽。
(風呂ってやつか?ガラスがある訳じゃない。変な造りの家……。ここから入るか?いや……)
その先に見えるベランダ。そこには大きなガラス戸がある。カーテンが閉まっていて、中は見えない。
(様子を探ろう。戸の傍にいるなら、仕事は早い)
(……そう言えば、猫やカラスが多い割に、この家の付近にはいなかったな。理由があるのか?仕事がしやすくて良いけど――)
少しの間、ガラス戸に耳を当てる。何も聞こえない。中に人の気配を感じない。
同時に青年は一瞬体勢を崩した。顔を当てていたガラス戸が動いたのだ。
(鍵が掛かっていない?おいおいおい、アビスってのは、とんでもなく間抜けなのか?)
右手を腰に差し柄に添える。それからなるべく静かに忍び込み、部屋を見渡す。
(対象は……確認出来ず)
今入ったガラス戸と、正面の玄関を除いて、扉は残り3つ。2つはベランダ側にある。
静かに、慎重に、確認していく。
(こっちは外からも見えていた、浴室に続く脱衣所……。もう片方はトイレか。それで、最後は……)
何も変哲のない部屋。こじんまりとしていて、外に繋がっている扉があって、棚が並んで、物が綺麗に整頓されている。
棚や引き出しにいちいちラベルがあるくらいだ。つまり、ただの物置だ。
(几帳面な奴。なのに戸締りはしない。変な奴だ。まあ今はどうでもいい。部屋はこれで全部。対象はどこだ?)
少年は元の部屋に戻った。
(隠れているような気配もない。いや、生活している気配すらない?)
たった一つだけ置かれているテーブルに指を走らせる。手には、ざらついた感触。目で確認すれば、もっとはっきり分かる。ホコリだ。
(どういうことだ。アビスは間違いなくここから出て来た。なのに、家自体は何日も放置していたような感じだ……)
(ん?微かに……でもある。この下に、気配がある。オレには分かる。地下がある。隠し扉か……。このまま床をぶち抜くのは……無理だな。分厚過ぎる。どうする、一旦情報を持ち帰って、きちんと編成を組むか……。いや、正式なやり方をしたら姉さんに止められる。オレがやるしかない。オレが――)
少年は床をジッと見つめた。
(ホコリが溜まるくらいここにいなかったなら、今アビスが出て行った痕跡が残っているはずだ。キッチンやベッドでなく……もっと不自然な方向への痕跡が……)
更に姿勢を低くし、床に残る僅かな濃淡を探した。
(ん?足跡の先の壁に……手の痕?壁に手をついたって感じじゃない。皮脂がこびり付いて、シミになってるんだ。ここか――)
少年はそのシミに触れてみる。
するとすぐに、床が沈み込み、階段が出来上がった。
(さっきまで……ただの床だったのに。動き出すまで全く分からなかった……。変な家だ。だが、目標は近い)
地下の灯りは暗く、空気は冷たく、そして重い。
少年は決意を固め、足音を殺し、階段を下る。
(これより、精霊ヴィータの排除を行う――)