表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

白椿の守人

作者: 福部シゼ

 この世には妖が存在している。


 奴らはどこにでも存在している。山や街の中。人あるところに妖あり。

 人間社会の陰に潜む闇の化生。それが妖。

 その中には人に害なすものもいる。


 世の中にありふれる未解決事件には妖が関わっていることがある。更に、妖が関わることで表沙汰にならない事件も多くある。


 平穏に暮らす一般市民たちはその存在を知ることなく生涯を終える者がほとんどだろう。



 そして、妖を討つことを生業とする『討魔師』と呼ばれる者たちも存在している。




 これは、現代で紡がれる人と妖の物語。



 ♦♦♦


『白椿の守人』



 太陽の光が差し込む教室の前で眼鏡を掛けた中年男性が教科書を片手に黒板と向かい合っている。

 慣れた手つきで黒板に長い文字を羅列していく。


 それを手元のノートに急いで書き写すクラスメイトたち。そんな当たり前の日常を眺めながら窓側の一番後ろの席で、灰田裕人は小さく溜息を吐いた。


 確約されたかのような平穏。それは有難いものであると同時に裕人には少しだけ憂鬱なものだ。

 今、このクラスにいる殆どの人がこの世の陰で蠢く『妖』の存在を知らずに生きている事だろう。

 妖。それは人の世の理から外れた化け物の類い。詳しい事はわかっておらず、今も解明が進んでいる。


 そして、妖を退治して人々とその平穏な暮らしを守る『討魔師』と呼ばれる存在の事も知る人は少ないだろう。



 裕人は窓の外に視線を移す。青が広がる大空で強く存在を主張する太陽の光が街を照らしている。

 この街は四方を山に囲まれた地形だ。

 そのせいもあり、まだ春だというのに暑苦しい日が続いている。


 裕人は視線を教師に戻した。板書を終えた教師はこちら側に向き直っていた。現在の科目は歴史。日本の江戸時代について教師がいろいろと説明している。



 江戸時代。

 討魔師の家に残る記録によると、江戸時代の頃は妖の存在は常識だったらしい。日が落ちれば妖の時間。それは子供でも知る常識であり、妖が出るのは当たり前で、それを討つ討魔師の存在も当たり前だった。


 だが、明治に入り街灯が闇を祓い始めた頃。妖の数は減少した。人による文明の発展に妖はついていけず、時代に取り残される。さらに化学兵器による戦争の激化は妖を巻き込み、妖は人を恐れるように日常から姿を消した。


 そして、姿を消した妖の存在は親から子供に伝承されることはなく、人々の記憶からも姿を消し始めた。昔は互いに互いを認識していた。だが、時代の変化と共に人は妖を認識する事を辞めたのだ。

 妖に怯える事がなくなった人々。討魔師の役割も減っていき、討魔師の存在も人々の中から消えていったのだ。



 それが、討魔師に知らされている一般的な妖と人の歴史。人の記憶から妖と討魔師が消えた理由。そして、それは人が学ぶ歴史の中にも残らなかった。


 役割が減った事で多くの討魔師が必要とされなくなり、討魔の家も数を減らした。だが、人は変わりゆく歴史の中に意志を残す事ができる種族だ。多くの討魔家が消えていく中で技と記録を伝承し続けてきた家も存在する。


 その内のひとつが裕人が産まれた家だった。

 だが、裕人は討魔師ではない。討魔師として技を伝承していないのだ。

 それは裕人の父親も同じ。


 裕人の祖父は昔、妖との戦いで左腕を損傷したらしい。祖父は左腕を使えない不自由な生活を強いられた。

 討魔師とは妖から人々を守る存在。昔と比べて死が遠のいた現代であっても、討魔師として生きるのならば死は常に身近にある。


 そんな生活を家族に強いる事を恐れた祖父は父親に技を伝承しなかった。そんな話を中学の頃に父親から聞いた。


 代々受け継がれてきた討魔師としての使命と技は祖父の代で絶たれたのだ。


 裕人は幼い頃から自分は将来討魔師になると信じて育った。家の書斎にある妖と討魔師の記録。それらは伝承されなかった技とは異なり、しっかりと受け継がれていたのだ。


 残る妖の記録を読み、討魔師になると信じて疑わなかった。だが、中学の頃に真実を知る。今まで自分の中で勝手に確約された将来の道。自分が歩むべき道がそこにはなかった。


 父親は「自分の望む道に進みなさい」と言葉を残した。その言葉は確かにいい言葉なのかもしれない。だが、裕人にとっては残酷な言葉だった。


 自分の将来の道を探す為に裕人は高校入学とともに実家を出た。高校の近くのマンションに一人暮らしを始め、自立の術を身に付けた。だが、それは建前だった。

 あの家に居れば自分が討魔師になると信じて疑わなかった過去が蘇ってくる。それと共に討魔師になれないという現実も。


 その呪縛から逃れる為に家を出たのだ。家を出る事を家族は快く受け入れてくれた。家を出ると言っても育ったこの街を出るという選択をする事は出来ず、徒歩で四十分離れたマンションの一室を借りたのだ。

 生活費に両親の支えがいる。裕人はまだ子供で自分一人で生きていくにはまだ幼すぎるという現実を高校入学と共に味わった。



 自分を見つめ直し、やりたい事を見つける為に家を出て、バイトも始めた。そして入学から一年が経過する。


 未だにやりたい事は見つかっていない。

 これは、灰色の日常だ。



 裕人は再び窓の外へ視線を移す。そこには先程と変わらない平穏な光景が広がっていた。




 ♦♦♦



 一日の授業を終え、多くの生徒が部活の為に教室から消えていく。

 裕人は教室の中を見渡す。教室に残るのは数人。教室の真ん中では四人の生徒が学校帰りにどこに寄るかという話題で少し盛り上がっている。


 裕人は鞄を手に教室から出るために扉へと向かう。


「裕人、これからバイトか?」


 扉の前で振り返ると、声の主と視線が合う。

 爽やかなナチュラルショートの黒髪に紺色の眼鏡を掛けた優しそうな雰囲気を纏う少年、黒間誠はこのクラスの学級委員だ。

 真面目なその性格から他の生徒や教師からの信頼も厚い。このクラスのリーダーとしての務めをしっかりと全うしている。


「あぁ。そうだ」


「そうか。毎日、大変そうだな」


「……それはお互い様だろ」


 誠も裕人と同じく部活動には所属していない。だが、裕人と違って誠はバイトをしていない。

 彼はこの街の守りの要。毎夜街を駆け回り妖と奮闘する討魔師だ。といっても、その事実を知っているのは裕人ぐらいのものだが……。


「それもそうだな。じゃ、また来週な」


 別れを告げる誠に「あぁ」と短く答えてから裕人は教室を出た。誠は裕人の家の事情を少なからず把握している。

 昔は灰田家と黒間家の間で交流があったらしいが、今はなくなってしまった。それも、祖父の代で討魔の道が途絶えた事が関係している。


 互いに互いの事情を把握している関係だからこそ誠と会話する事は少なくはない。ただ、仲のいい友達という訳でもない。

 互いに討魔家に生まれた同年代。たったそれだけの関係であり、知り合い以上、友達未満というおかしな関係に落ち着いている。


 裕人は制服のポケットの中から二つ折りの携帯電話を取り出して画面を開く。


「そういえば、昨日は充電忘れたんだったな」


 そう呟いて裕人は携帯電話を閉じた。

 バッテリーの残量はかなり少ない。これならいつ切れてもおかしくない。

 昨晩は勉強しながらそのまま寝てしまい、気付いた時にはもう朝だった。充電する暇などなくそのまま登校したのだった。






 裕人のバイト先はコンビニだ。何故バイト先にコンビニを選んだのか。それは、コンビニには色んな人が訪れるからだ。ここで働いていれば将来のきっかけになるものが見つかるかもしれないと思い、バイトを決意した。


 壁に掛けられた時計の針は19時40分を示している。忙しい時間帯が丁度終わる頃だ。コンビニの窓の外は既に暗い。裕人はレジの内側に立ちながら外を見詰めていた。


 この時間なら妖が出現してもおかしくはない。今頃、誠は街に住む人々を守る為に討魔師としての役割を全うしている頃だろう。



「あの、すみません」


 唐突に眼前で声が発せられた。


 不意を突かれ、ビクッと身体を震わせた裕人は慌ててお客さんに向き直った。そこには長い黒髪の女性の姿があった。


「すみません。直ぐに……」


 そう言って裕人は動きを止めた。目を見開き、その女性を見詰める。瞬間、裕人の身体をとんでもない衝撃が突き抜けた。



 ―――それは、美しい女性だった。



 整った顔に綺麗な黒髪。白いシャツから覗く細い腕にデニム地のパンツを着た細い脚。


 街中で見かける派手な印象の女性とは正反対の清楚な姿の中に何処か幼さが残る整った顔が相まって彼女の美しさを際立たせている。



 彼女の美しさはいつか見た白椿のようだった。



「……あの、なにか?」


 少し不機嫌そうな表情で顔を傾げる彼女に裕人は我に返る。


「あ、すみません」

 軽く頭を下げてからレジ打ちを開始しようとするが、次は別の意味で驚く事になる。なんと、レジの上には大量のスナック菓子が置かれていた。


 その量は二十は超えるだろう。

 裕人は驚きつつも商品に手を伸ばしてレジ打ちを開始した。

 そして、全ての商品を袋詰めしてパンパンになったレジ袋が六つ程出来上がる。


 女性は表示された金額を財布から取り出して裕人に差し出してくる。裕人は慌ててそれを受け取り、お釣りを渡そうと小銭を手に握る。


 だが、驚く事にその女性は六つのレジ袋を手に持ってレジから離れていった。


「え?」

 呆気にとられる裕人を置き去りにそのままコンビニの出入口へ歩いていく。


「あ、お、お客さん。お釣り」


 慌ててその後を追い掛ける裕人。それに気付いたのか女性は立ち止まり、振り返った。

 女性に追い付いた裕人は手にした小銭を女性に差し出す。

 それを見た女性は思い出したかのように「あっ」と声を発した。


「そういえば、そうだった」と呟いて財布を取り出そうとしているが両手がレジ袋で塞がっている為、なかなか上手くいかない。


「……よ、よければ、お持ちしましょうか?」


「ん?ありがとう」


 そう言って差し出された片手分のレジ袋を受け取り、代わりにお釣りを手渡す。それをぎこちない手つきで財布に入れた女性は財布をポケットに戻す。

 それから、裕人が手にしているレジ袋を受け取りそのまま闇の中へ消えていった。







  バイトが終わり、制服に着替えた裕人はコンビニから出て歩いて帰宅。夜になると昼の暑さは弱まり丁度いい気温になる。そんな中で夜道を歩く。


 妖の存在を知っているからこその恐怖もあるが、それでも慣れた道はどこか安心感がある。それに、この街を守る黒間家の討魔師もいる。


 バイト先のコンビニから家までの距離は徒歩で五分かかる。途中で大きな山の麓を歩く事になる。右側に聳える山。その入口も次第に見えてきて……。


 前方からこちらへ歩いてくる人影を見付ける。いつもは人通りが少ない時間帯だ。帰りに誰ともすれ違わないという事もあるのに。


 裕人は少し疑問に思いながら歩みを進める。山の入口の近くには公衆電話と街灯が設置されている。

 その街灯の灯りに照らされ、その人物の姿が目にはっきりと映る。


 それは、先程の綺麗な女性だった。両手にはさっきよりも大量のレジ袋を持っている。心臓の鼓動が急に早まる。心臓の音が煩く、顔も熱い。


 だが、その女性と裕人がすれ違う事はなかった。独りで夜道を歩いて来る彼女は山の入口の正面で急に90度進路を変えた。


「へっ?」

 驚く事にその女性は山へと進路を変えたのだ。こんな遅い時間帯に独りで山へ入っていこうとしているのだ。裕人は驚いて思考が停止しかける。


 急いで彼女の後を追って山の入口へ。そして、舗装された山道を登っていこうとしている彼女の背中に呼び掛けた。


「あ、あの!」

 その声に女性は驚いた様にこちらを振り返る。


「な、なんですか」


 その声は少しだけ震えていた。だが、裕人はその事に気が付かずに距離を詰めた。


「こんな時間に独りで山に入るのは、危ないですよ」


 山の中には灯りがない。暗い道を歩くのは危険だ。他にも山の中には危険が沢山ある。虫や獣。それに、この女性は知らないと思うが妖だって出るのだ。


 だが、そんな心配を向ける裕人の言葉に聞く耳を持たないのか彼女はただ、冷たい声で、


「そうですか」

 とだけ残して山の中へと消えていった。



 一人取り残された裕人はその場に立ち止まる。彼女の冷めた態度にその後を追うことが出来ない。裕人は俯いて踵を返す。






 帰宅後、制服から私服に着替えた裕人はコンビニ弁当を温めていた。だが、その間考えているのは女性の事だった。夜に独りで山の中へと消えていった彼女。両手には何故か大量のレジ袋。


 彼女の事が頭から離れなかった。胸の奥の騒めき、その正体が分からない。

 たしかに、彼女は綺麗で美しくて。だが、それだけに収まらない。


 今日、初めて出会ったその女性で頭が一杯なのだ。



 初めての感覚に答えが出ない。ただ、裕人は妖の存在を知っている。夜の山。その危険な単語に妖まで加えると更に彼女の事が心配になって仕方がなかった。


 そう。これは、ただ心配なだけなのだ。


 もしかしたら、変な事件に巻き込まれているのかもしれない。


 もしかしたらただの勘違いかもしれないが。それでも、明日以降に彼女の死体があの山で見つかる事になればきっとその時、裕人は自分を許せないだろう。


 彼女が山に入ってくのを目撃して止めることが出来なかった自分を許せなくなる。人を助ける事ができる立場にいてそれをしなかった自分を呪うだろう。


 ただの勘違いならそれでいい。たとえ、ストーカーと罵られる事になっても、最悪の事態を避けられるならそれでいい。



 裕人は漸く決断する。

 自分の中で自分の答えを出す。それからは早かった。家の鍵と携帯電話と財布だけを持って急いで家から出る。


 空腹を堪え、山までの夜道を走り抜けた。





 山の入口に到着する。そこで自分の失態に気が付く。


「懐中電灯、忘れた」


 乱れた息を整えながら数分前の自分を呪う。冷静な判断が行えてなかった。仕方なく裕人は携帯電話を取り出してライトを付ける。


 携帯電話にライト機能を付けてくれた人に感謝しなければ。

 闇に塗れた中で携帯電話の灯りだけを頼りに山の中を慎重に進む。


 目の前に舗装された道が続いている。

 裕人は息を殺してゆっくりと歩いていく。ちょっとした風が葉を揺らし、その音だけが裕人の耳を支配する。


 静けさが漂う山の中。夜の山中はこんなにも恐ろしいのか。

 自身の携帯の光源だけが頼もしい。


 だが、山の中に入って十数分。携帯電話の灯りが突如スっと消えた。


「あ?」


 闇の中に取り残される裕人。

 そこで漸く自分の携帯電話のバッテリーが少なかった事を思い出した。


「し、しまった」

 携帯電話の電源を入れようと試みるが、バッテリーが無くなったのが分かるだけで虚しく終わる。


 頼りの光源が消えて辺りは本当の意味で闇だ。目の前に何があるのかも分からない。次第に暗さに目が慣れる。今晩は月が出ているお陰で少しは救われた。


 身を構えてジリジリと山の中を進み始める。恐怖と得体の知れない寒気に足が竦む

 ここで引き返すという選択肢は裕人には存在していなかった。


 息を殺して音を聞き分ける。もし、何かあれば直ぐに動けるようにと。


 そんな裕人の耳に水の流れる音が届く。近くを流れている川だ。だが、その音とは別の音が微かに裕人の聴覚を刺激した。


 聞こえてきた音の発生源はアスファルトの道とは別の方向からだ。つまり、この音の発生源に辿り着くためには草木生い茂る道を進むしかない。


 この道がどう続いてどこに繋がっているのか裕人は知らない。ここがひとつの別れ道だった。このまま舗装された道を進むか、音の発生源へ向かうか。


 裕人は少し考えた後、後者を選択する。獣道を掻き分けて自分の耳だけを頼りに山の中を進んだ。

 そして、再び水音が。


 この先にはきっと何かがいる。それはただの獣かもしれないし。あるいは妖かもしれない。


 息と気配をできるだけ殺して慎重に草木を避けて進む。水の流れる音が次第に大きくなっていく。そして、水滴が水に落ちるかのような音も。


 覚悟を決めて裕人は進み続ける。そして、その発生源が見える場所に辿り着き、そっと頭を上げた。




 草木の間からそちらを覗けばそこには美しい女性の姿があった。紛れもなく、裕人の探し人だった。

 何も纏っていない彼女は川の中で自分の身体を洗っている。

 月明かりに照らされて、その光景は幻想的な美しさを纏っていた。


 その光景から目を離せず息を呑む。その他の事を全て忘れて見惚れてしまう自分がいた。罪悪感さえ忘れてしまう程に彼女は美しかった。

 視覚以外の感覚と思考が停止し、置き去りになる。


 漏れた気配を感じ取った彼女は咄嗟に身を引いて両腕で可能な限り自身の身体を隠すと、


「誰だ!」


 と声を上げた。その直後に「くしゅんっ!」と小さなくしゃみを零す。


 彼女の声で我に返った裕人は咄嗟に立ち上がり、彼女の前へ。そしてそのまま勢いよく土下座をする。

 我に返ってみれば自分のやった行いは謝っても許されるものではないだろう。


 女性の後を追って水浴びを覗くなど、最低な行いだ。


「すみませんでした!」


 額を地面に押し付けて精一杯の謝罪。許されることではないが、ここでの判断を誤ればそれこそ取り返しのつかない状況になってしまう。


 彼女からの返答はない。それは数秒経っても変わらず、裕人は恐る恐る顔を上げた。

 いつの間にか服を着ていた彼女は裕人に背を向けたまま、草木の中へと飛び込んだ。


「あっ」


 彼女の行動に思わず息が漏れる。慌てて立ち上がり、彼女の後を追う。獣道である山の中を突き進む彼女。草木が擦れる音を頼りに暗闇の中を再び突き進む。


 彼女が着ていたシャツが白色だからか暗闇の中でもその背中を捉える事が出来る。自身の行動の理由すら後回しにして必死に彼女を追い掛ける。


 明らかに山に慣れた動きで進んでいく彼女に少しずつ離されていく。

「は、速い」


 不安全な傾斜のある道をスピードを緩めずに駆けていく彼女。しかも、草木を軽々と避けながら駆けていく。

 その慣れた動きに驚きつつも裕人は自身に出せる最速で彼女を追う。

 追えば追うほど距離が離されるのが分かる。

 それでも、諦めずに彼女を追う。


「きゃっ!」


 途端に短い悲鳴が響いて視界から彼女の姿が消える。裕人は慌ててそれを追うように離れた距離を詰めた。

 どうやら、地面から顔を出す木の根に躓いて転がっていったようだ。


 少し離れた所でぐったりと倒れる彼女の姿を見付ける。


「大丈夫ですか?」


 裕人は急いで木の根を飛び越えて彼女のもとへ駆け寄った。

 身体を起こした彼女の手足には傷ができていて、そこから血がポタポタと地面に零れていた。

 顔も擦ったようで、頬にも擦り傷ができている。


 息を呑む裕人は次の瞬間、信じられない光景を目の当たりにする。


 なんと、彼女の傷が勝手に塞がり始めたのだ。それはまるで時を巻き戻すかのように起こり、傷が完全に無くなった。

 零れた血までが現実の法則を歪め、彼女の中へと戻っていく。


 負ったはずの傷が一瞬で治った。

 自分の目を疑う。だが、それも彼女の顔を見ればそれが現実に起こった事なのだと理解できた。


 悔しそうで悲しそうな彼女の表情に自分の身体の奥で何かが込み上げてくる。彼女の両肩が小刻みに震えているのが分かった。


 頬も手足の傷も治った彼女は俯いたまま両拳を握り続けている。


 疑問があった。

 戸惑いがあった。

 驚きがあった。



 それでも、裕人は口から出そうになった言葉を全て飲み込み、

「大丈夫ですか?」

 そう手を差し伸ばした。



 驚きの表情でこちらを見上げる彼女。瞳が揺れている。そんな彼女をじっと見詰めて手を差し伸ばし続ける。


 裕人の手は彼女の手によって勢い良く払われる。


「私が、怖くないのか!」


 裕人の優しさを振り払い、敵意を剥き出しにする彼女の声は震えていた。


「怖く、ないですよ」


 静けさが漂う夜の山。その中で響く二人の声。彼女の言葉に何を返せばいいのか分からない。それでも答えを絞り出し、彼女を見詰める。


「信じられるか!そうか、お前はあれだ。討魔師だろ?私を油断させて私を攻撃するつもりだろ」


「違います」


「私を研究者に引き渡すつもりだろ!」


「そんな事しません」


 揺れ続ける彼女の瞳に、裕人は距離を詰めようと足を踏み出す。だが、彼女は身体を震わせながら力強く裕人を拒み、


「帰ってくれ!」


 と叫んだ。悲しみに満ちた声は山の中に響き渡り、また裕人の心にも深く突き刺さる。


 それは本気の拒絶だった。だから歩み寄ろうとした足も元に戻す事を余儀なくされた。



 これ以上、何を言えばいいのか分からない。きっと何を言っても逆効果だと理解してしまった。裕人がここで彼女に信用される事はない。


 心が苦い。ここで引き返すことがきっと正解なのだ。これ以上、嫌がる彼女に関わるべきではない。


 だが、ここで引き返せば二度と彼女には会えなくなるだろう。その事実が裕人の判断を蝕む。


 決して親しいわけじゃない。ただの一目惚れ。


 後先を考えず家を飛び出し、彼女に逃げられても尚彼女を追った。傍から見ればストーカー行為を行う変質者だ。ここで帰るのが賢い選択で、これ以上彼女に嫌われない為の選択で、これ以上過ちを重ねない為の選択だ。


 彼女には人に話せないような事情がある事は察した。夜中に川で水浴びをしなければならず、傷が一瞬で治るという特殊な身体だ。

 裕人に対する冷たい態度から他人を信用していない事が伺える。


 これまで人を好きになった事がないわけじゃない。これが初めてという訳でもないし、きっとこれから先誰かを好きになる事なんて沢山あるんだと思う。



 それでも、悲しみに満ちた彼女の叫びが忘れられない。


 たとえ、賢くない選択であっても。

 たとえ、信用されていなくとも。


 これが、ただの一目惚れであっても。


 彼女が何者でも、ここで彼女との縁が切れることだけは嫌だった。



「せめて、家まで送らせて貰えませんか?」



 裕人の答えに彼女は目を見開き、少し考えてから「わかった」と首を縦に振った。





 彼女が歩き始めて数分が経過する。彼女の背中を少し距離を空けて追う。獣道から舗装された道に出て更に山の奥へと歩いていく。今から彼女が何処に向かおうと裕人は彼女について行く。


 二人の間に会話はない。重い沈黙が夜の闇を深めていく。

 ふと彼女の足が止まる。随分と山の奥まで来ただろう。裕人は彼女から視線を外してその奥を見る。


 そこには小さな小屋が建っていた。

 ボロボロの古い木製の建物。大きな嵐が来たら一瞬で吹き飛びそうな程脆そうな建物の前で彼女はこちらを振り返り――――。


 月明かりが彼女の手元で反射する。彼女は裕人との距離を一息で詰め、右手を大きく突き出す。銀の一閃が闇の中で煌めく。

 彼女の右手に握られた折り畳みナイフの切っ先が裕人の喉を掠める。


 全身の汗が一気に蒸発し、全身の毛が一瞬で逆立つ。背中をゾクリと走る謎の寒気。


 あと彼女が数ミリでも腕を突き出せば裕人の喉はナイフに貫かれるだろう。


「命が惜しければここで引き返して」


 凍えそうなほど冷たい声が視線と共に放たれる。こうなれば裕人に拒否権はない。

 ここは大人しく彼女に従うしかない。

「わか―――」


 そう裕人が口を開いた瞬間、彼女の背後で何かが大きく動いた。月の明かりがあるとはいえ、闇の中で蠢く影を発見することが遅れる。


 裕人の反応に彼女も身の危険に気付いて咄嗟に身を翻した。


 ナイフの脅威から逃れる事ができた裕人はその影の正体を目の当たりにする。

 奴は彼女の持つナイフを警戒しながらゆっくりとその身を月の明かりの下へさらけ出す。


 それは黒い毛に覆われ赤い目を持つ四足歩行の獣。

 だが、決して野犬などではない。妖だ。

 そういった知識を持たない者が見ればただの野犬にしか見えないだろう。だが、知識を持つ物が見れば奴は妖以外の何者でもない。


 その姿は犬と酷似しているが、奴の身体から溢れる黒い瘴気が妖であることを物語っている。

 鋭い牙の間から涎を垂れ流し、獲物である二人から視線を外さない。それ故に裕人と彼女もその妖から目を離せずにいた。距離は数メートル。きっかけさえあれば奴が飛びついて来てもおかしくない距離だ。


 否、こちらに隙ができなくとも妖は食欲を満たす為に襲いかかってくるだろう。


 赤色の眼光を光らせ、開いた口から涎が地面へと垂れ落ちた。次の瞬間、妖の四肢が力強く大地を蹴った。

 狙いは隣の彼女だ。彼女は突然の攻撃に怯み、その場に立ち尽くす。

 その喉を食い破る為に美しい弧を描いて妖の牙が迫る。


 何故、妖が丸腰の裕人ではなくナイフを持つ彼女を狙ったのか。それは恐らくこの妖が女の肉を好むからだろう。

 妖の中には少なからずこういったものが存在している。

 男ではなく女を狙う妖。



 だが、裕人にはそれを知る由もない。ただ、妖が彼女に向かって跳躍した瞬間に後先考えずに飛び出す。

 彼女と妖の間に滑り込み、左腕を前に突き出した。


「――――――っ、あぁ、あぁぁぁっ!!」


 開かれた口、鋭い牙によって鮮血が舞い散る。

 妖の涎に混じり裕人の血液が地面に落ち、真っ赤に染まる。

 妖の牙は皮を裂き肉を断ち骨にまで届いた。

 脳の全回路が熱く燃え上がり断線するかのような感覚に陥る。

 これまでに感じたことの無い痛みが裕人の全てを支配する。余計な事は考えられず、左腕が、脳が熱い。



「あぁぁぁぁぁぁ、あぁぁっ!!」


 衝動のままに声を上げる事しか出来ない。それだけが裕人に許された抵抗であった。

 意識が途切れそうになり、回路も途切れ、千切れる。

 それでも、裕人は彼女の前に立ち続けた。






 ♦♦♦



 その光景を少年の背後で彼女は眺めていた。

 最初は驚いた。声を失い、ただ驚いた。


 だが痛みに耐えかねた少年の叫び声によって意識が現実へと強制的に戻された。


 何故、この少年は身を呈したのだろうか?


 答えの出ない問いが自分の中で永遠に回り続ける。急いでナイフを握り直し妖との距離を詰め、ナイフを妖の首に勢い良く突き刺した。

 黒い毛の奥に温かい肉の感触を捉え、そのまま突き刺す。

 ドスッと鈍い感触が腕の先から全身を駆け巡る。


 痛みに耐え兼ねたのか、妖は咄嗟に少年の腕から離れた。そして低く喉を鳴らしてからそのまま山の奥へと駆けて行った。

 その姿を見届けることなく、私は少年に寄り添った。



 少年の左腕は真っ赤に染まり痛々しい噛み跡がしっかり残っている。それに目を背けたくもなるが私はじっと少年を見詰めた。


 荒い息を少しずつ整えながら少年は私を見詰める。


「どう、して」


 何故、身を呈して守ってくれたのか。少年は私の体質を知っている。傷を負っても直ぐに完治出来てしまう。私の存在は奇跡に満ちていた。


 それを知っても尚、彼は身を呈してくれた。自身を危険に晒し守ってくれた。それは何故なのか。



「……貴女に、傷付いて欲しくなかった」


 それは、初めての言葉だった。思わず笑みが零れる。

 この身体を知った人間の反応は様々だったがどれも気持ちのいいものではなかった。「化け物」と罵る者。石を投げつける者。排除しようとする者。そして、この身体を利用して様々な痛みを与えた者。


 この身体は人の悪意によって踏み躙られてきた。中には探究心という名目で私の身体を弄る者たちもいた。そこに私の意思は関係なく、権利も存在しなかった。


 そんな人生だった。

 だから人を信じられなくなった。他人は信用出来なかった。老いる事も死ぬ事もなくなった私は人を信用する心を失ったのだ。


 だからこの少年に対しても酷い態度で接した。冷たく接して距離を取ろうとした。護身用に持っていたナイフで脅した。それなのに、この少年は。


 いつの間にか、私の目からは涙が溢れていた。

 ずっと人を信じるのが怖かった。心を閉ざしてきた。人と関わることが嫌だった。

 私の心には治ることの無い傷が刻まれていた。


 でも、本当は。

 誰かにその言葉を言われたかった。



「え、あの」

 涙を流す私を見て少年は慌てている。左腕の痛みを堪えながらだ。私を守ってくれたその証が何よりも嬉しかった。


「ごめんなさい。私は貴方に酷い事を沢山した」


 彼に対して頭を下げる。

 自身の身を守る為とはいえ彼を傷付けてしまった。謝っても許されることではない。それでも謝罪しなければならない。自身の愚かさに気付いて罪悪感で潰れてしまいそうになる。


「それと、守ってくれてありがとう。できればお礼がしたい」


 頭を下げたまま言葉を続ける。それを聞いた少年は少しだけ考えてから頷くと口を開いた。


「貴女の、名前を教えて下さい」


 少年の優しい声に私は微笑みを落とす。


「きよ、だ。よろしく……えっと」


「灰田裕人です。よろしくお願いします」


 互いに互いの名前を教え合う。そして、互いに口の中でその響きを噛み締める。

 それがどこか愛おしくて、意図せずともきよの口角は上がってしまうのだった。






 ♦♦♦



 裕人が山を降りる頃には遠くの空が少し明るくなっていた。

 入口正面に設置された公衆電話で救急車を呼んで待つこと数分。

 到着した救急車に搬送されて病院へ。

 痛々しい左腕の診察が行われ、妖ときよに触れない程度で事情を何とか説明する。そんなこんなで診察が終わったのは夕方だった。


 左腕に薬を塗られガーゼと包帯を巻かれた。


「なんか、疲れたなぁ」


 気付けば昨晩は寝てない。診察の待ち時間に少し仮眠をしたけれどそれだけじゃ疲れは取れていない。

 昨晩から驚きの連続だった。一目惚れした女性を求めて自宅を飛び出した時のことを思い出せば恥ずかしさが込み上げてくる。


 ただ彼女の身を案じていたことは確かだ。例え、ストーカーと罵れようとも彼女の安全を確かめられればそれで良かったのだ。


 その行動の結果、彼女の名前を知る事ができた。彼女の信頼を得る事ができた。

 それが嬉しくて寝不足で心身ともに疲れているはずなのに脳だけはしっかりと働いている。

 思わず頬がニヤける。そんな自分が少しだけ気持ち悪いと思いながらも自然と歩くスピードが早くなる。




 自宅に着いてから軽くシャワーを浴びて着替える。それから自宅を出て山へと向かう。今日の早朝、山を出る時に次に会うという約束を交わした。


 彼女に会うために家を出て急ぎ足で山へと向かった。



 ボロボロの古い木製の小屋。昨夜彼女に刃物で脅された後に妖に襲われ、彼女の信頼を得た場所である。


 その小屋の中が彼女の住処だった。

 その事実に多少驚きもしたが、彼女の事を考えれば事情の一つや二つは容易く想像出来る。


 小屋の隅には大きなリュックサックが置かれ、その反対側の隅には床に新聞紙が広げられ、その上に果物が幾つか転がっている。

 その他にも昨夜購入したと思われるレジ袋が沢山。その中はスナック菓子が詰められている。


「……す、すまないな。あまり人に見せられる部屋ではないんだ」


 彼女は俯きながら頬を赤らめて呟く。


「いえ、事情があるのは察してます。良ければ僕の家に来ますか?」


 裕人の突然の問に「え?」と短い返答と少し長い沈黙。さすがに警戒されただろうか?と反省しているところへ、きよが身を乗り出す。


「いいのか!?」


「ええ」と肯定しつつも彼女の態度に驚く。どうやら先程の疑問は杞憂だったようだ。昨晩とは異なる彼女の態度にどこか新鮮味を感じながらもそれが嬉しかった。




 そうして自分の家に一目惚れした彼女を招待する事になった。


 対して珍しくもない裕人の部屋を見て、きよは大きく目を見開き瞳を輝かせていた。


「夕飯はオムライスでいいですか?」


「ん、それでいい」


「じゃあ直ぐに作るので適当に寛いでて下さい」


「わかった」と言って彼女は部屋の中で正座して待つ。日常生活の中で正座を見るなんてなかなかに珍しい光景だが、彼女がソワソワしているのが分かり裕人は口角を上げて料理に取り掛かる。


 慣れた手つきでオムライスを二つ作り上げ、適当に野菜を刻んでサラダも作る。それとお茶をテーブルに運ぶ。


「わぁー!これが、おむらいす!」


 テーブルに運ばれてきた料理を見て子供のように目を輝かせる彼女。そして、「いただきます」と挨拶をしてからオムライスを口に運ぶ。


「んー!!」


 頬に触れながら味わう彼女の表情に胸を貫かれる。態度がコロコロと変わり、犬のように喜ぶ姿に作った本人である裕人も満足だ。外見からは想像できない彼女を見る事ができ、胸が強く締め付けられた。




 食べ終わった後食器の洗浄を行っていると、きよが後ろから裕人の手元を覗き込んできた。


「どうしたんですか?」


「ひ、ひろとだけを働かせるのは気が引けるんだけど、なにか手伝う事はないか?」


 その言葉に裕人は行動と共に思考も停止する。


「どうした?ひ、ひろと?」


「……な、名前」


「あ、いきなり名前で呼ぶのは失礼だったかな?すまない。こういうのも初めてでな」


 表情に影を落としかける彼女に裕人は慌てて首を横に振ってその言葉を否定した。


「いや、全然いいですよ!名前で呼ばれたのが嬉しくて思考停止しただけです」


「本当か?それは良かった」


 微笑む彼女にまた胸がギュッと締め付けられる。苦しいけどその苦しさが少しだけ心地よい。鼓動が速くなるのを感じる。顔が熱い。


「で、できれば……これからもご飯を食べに来てくれませんか?」


「いいのか?ひろとが迷惑じゃなかったら是非そうしたいんだけど」


「迷惑じゃないです。来て下さると嬉しいです」


「わかった。じゃあ、明日もいいかな?」


 愛しげに首を傾げるきよに「はい!」と裕人は大きく首を縦に振る。

 その日から裕人の日常に彼女が関わり始める。自身の将来に悩み願望を探していた裕人の灰色の日常は華やかに色付き始めた。

 一目惚れと拒絶から始まった二人の関係は信頼へと変わり二人を変えてゆく。




 ♦♦♦



 それから二ヶ月が経過した。


 左腕の傷は完治して、きよが裕人の部屋に来て一緒に過ごすことは日常となり、当たり前になっていた。


「よ、裕人。これからバイトか?」


 放課後、そう訊ねてきたのは黒間誠だ。彼はいつもと変わらない様子で近付いてくる。


「うん。誠は家業?」


「そうだな。この街は相変わらず平穏だが、最近妙な噂が流れてるからな」


「妙な噂?」と聞き返す裕人に真剣な眼差しで力強く頷く誠。そんな彼に裕人は少しだけ身を構える。


「あぁ、なんでも凶暴な黒い獣が出るってな。聞いたことないか?」


「ないかな」


 誠の言葉にホッと胸を撫で下ろす。

 そんな裕人を前に「そうかぁ」と腕を組み、言葉を続ける。


「その噂もあって家全体が少しピリピリしてるかな。兄さんなんか学校を休んで街の巡回を行ってるからね。父さんも実力のある弟子を呼んで街の警護に当たらせてる」


「そうなのか。全然気付かなかったな」


「まあ、一般人には悟られないように細心の注意を払ってるからね。そこも抜かりがないよ。心配するようなことにはならないと思うけど夜道には一応気を付けてくれ」


「わかった。忠告ありがとう」


 誠に礼を告げると誠は少し目を見開く。「どうした?」と首を傾げれば誠は口角を上げてどこか嬉しそうに、


「裕人って最近変わったよな」

 と呟いた。だが、裕人本人には身に覚えがない。ましてやそれが最近親しくしている女性による影響だと気付く事はない。


「じゃあ、俺はそろそろ行くわ」

 そんな裕人を置いて誠は教室を出ていく。「あぁ。また明日」と見送ってから裕人も教室を出た。


 下駄箱で靴を履き替え、外に出で空を見上げる。


「……降りそうだな」


 空を灰色の分厚い雲が覆っている。裕人は正面に向き直って歩き始める。







 バイトが終わり、自宅までの帰路。その途中にある山の入口できよと合流する。


「待たせました?」


「いや、さっき来たところだ」


 彼女と肩を並べて歩き出す。会話が弾む瞬間も、会話がない時間も心地よく感じる。


「今日のご飯は何を作るの?」


「今日は、唐揚げです」


「唐揚げ!あれ、美味しいよね」

 唐揚げを想像して目を輝かせ、手の甲で涎を拭うきよ。この二ヶ月間で分かったのだが、彼女は外見に反して中身が少し子供っぽい。夜ご飯のメニューでテンションが上がったりする分かりやすい性格だ。

 更に少し世間知らずなところもある。一般常識が足りなかったり、時事問題に疎いなどこの二ヶ月で彼女に対する印象はだいぶ変わった。


 最初の頃の清潔感溢れたクールな女性という印象は裕人の中から消え去ってしまった。



 裕人の部屋に到着して裕人は料理に取り掛かる。きよはあぐらをかいてリビングで待っている。テレビのニュースを眺める彼女を背中に裕人は微笑みながら慣れた手つきで鶏肉のもも肉に揚げていく。



 美味しそうに唐揚げを頬張る彼女の姿は裕人にとって癒しとなっていた。このまま彼女と暮らしたいと思うほどに彼女の事が好きになっている。そう自覚してもそれを伝える為の言葉は出てこない。




 食べ終わったあとの食器を二人で協力して綺麗に片付ける。その後にカーテンを開けて窓の外を覗けば雨が降り出していた。


「かなり降ってますね」


「……うん」


 裕人の言葉にきよは俯きながら頬を赤らめている。シャツの裾を握り締めて、それから何かを決意したかのように顔を上げると、


「今日は、泊まってもいいか?」


 と上目遣いで衝撃の言葉を漏らした。それにより一瞬、思考停止に陥ってから彼女の言葉を咀嚼して漸く理解してから彼女の目を見詰める。


 頬を赤らめる彼女に裕人はそれ以上目を合わせる事が出来ずに顔を逸らす。


「い、いいですよ」


 喉の奥から絞り出された声は上擦っていて、それを聞いたきよは吹き出し、腹を押さえてその場で笑みを零す。

 想定していなかった事態に裕人の心臓の音はこれまでない程に高まっている。


「じゃあ、先にお風呂入ってきてください」


「わかった。ありがとう」


 そう言って彼女は脱衣場へと姿を消した。きよの背中を見送ってから彼女が入浴後に着る為のパジャマを用意する。

 その後は悶々とした感情の整理を行う為に部屋を端から端へ行き来する。そんな意味の無い行動と覚悟が定まらない考えに時間は費やされ、彼女が風呂から上がってくる。


 風呂上がりのパジャマ姿に濡れた黒髪。火照った彼女の顔を見詰めて言葉を失う。


「裕人?」


 彼女に呼ばれて意識を取り戻し、急いでその場から去る。これ以上は変な衝動に駆られかねない。


「風呂に入ってきます」

 そう言い残して脱衣場へと向かう。

 彼女が浸かった後の浴槽に長々と浸かれる程肝は座っておらず、胸の苦しみに耐えながら早々と風呂から上がる。


 部屋の外の音に耳を澄ませれば雨の音だけが鼓膜を刺激する。重いため息を吐いてから彼女の下へと戻る。


「お待たせしました」


「早かったな」


 彼女が座るその横に、正確に言えば少し距離を置いて正座する。


「……そんなに固くならないでくれ」


 彼女の言葉だけでは肩の力は抜けず、依然顔を引きつらせて部屋の隅を見詰める。

 そんな裕人を見て、きよは目を力強く閉じる。そして、間を置いてから再び目を開く。

 この動作にどれだけの意味が込められていたのか裕人に計り知る事は出来ない。


 ただ、重い彼女の唇が開き次に出た言葉に裕人は耳を疑う。





「……私は、そろそろこの街を出ようと思う」




「え?」

 息を漏らし、聞き返す裕人。きよの方を振り向けば、そこには真顔で裕人を見詰める彼女の姿がある。

 その瞳には強い意志を感じた。



「出会ってから今日まで二ヶ月。その間、私は凄く幸せだった。これ程幸せを感じたのは随分と久しぶりだ」


 言葉が出ない。彼女は一瞬、裕人から視線を外してどこか遠くを見詰めるようにする。そこにはきっと裕人には想像も出来ない光景が映っている。それだけは分かり、自分の無力さがひしひしと込み上げてくる。


 それからきよは再び視線を裕人に戻す。


「裕人は私にこの体の事を聞かないでいてくれた。この体の事を知っても尚私に人として接してくれた。それが何よりも嬉しかった」


 それは決して嘘などではない。彼女の本心なんだと。それを知ることが出来て嬉しいはずなのに、体が動かない。喉が、腹が脳が機能を停止している。



「できれば、このまま一緒に生きたかった。だけどそれはあまりにも罪深い生き方だ。私がここにいればいずれ裕人を傷付ける。だから私は明日、この街を出ていくよ」


 突然、告げられるのは彼女の想い。それはこの二ヶ月の間で聞いたことがない程に重いものだった。


「だから、その前に知って貰いたいんだ。私という生物を」


 そこで言葉を区切ってから彼女は両拳を握り締め、大きく息を吸う。



「私は昔、人魚の肉を食べて不老不死になったんだ」





 ♦♦♦




 それはまだ、この世に妖が跋扈していた頃の話。



 江戸から離れた小さな海沿いの村でその少女は産まれた。

 だがその娘は身体が弱く、床にしかれた布団の上で横になり、そこから見える世界が彼女にとっての全てだった。


 父親は漁師で毎日海へ行っては美味しい魚を捕まえてきた。

 母親は優しく身体が弱い少女を看病してくれた。


 娘の体調が良くなる事はなかった。

 同じ村に産まれた同い歳の子らは元気よく外を走り回っている。それを羨ましいと眺める事しか出来なかった。


 部屋から出る事は叶わず、毎日同じ場所で横になって同じ景色だけが流れていく。自分の意思で自分の身体を操る事が出来ない。恵まれなかっただけで、どうして自分は皆と同じではないんだろうと小さな頭を悩ませていた。


 この世の理不尽に打ちのめされ、そのまま数年が経過する。




 自分の状況がより理解できた頃、他の人を羨む事はなくなっていた。

 自分の病を受け入れ、懸命に毎日を生きる事に努めた。


 そんなある日。


 その日はいつもと違う気がした。いつもより身体が軽く、外に出ても大丈夫な気がしたのだ。


「ねぇ、海に行ってみたい」


 そんな願望を気付いたら漏らしていた。

 脆弱な娘の言葉に両親は互いに顔を見合わせ瞳から涙を零し、それを許してくれた。



 父親の小さな船に揺られ海上を進んでいく。

 それはあまりにも綺麗な光景だった。


 綺麗な青が辺り一面に広がっている。視線の奥には果てしない青色が続いている。

 これは、どこまで続いているんだろうと疑問を抱いた。


 そんな時、水面が揺れる。


 船を漕いでいた手を止め、父親は水面を覗く。そして、「それ」を目にして腰を抜かした。


「それ」は海面から姿を現し、その姿に娘は見惚れる事になる。


 美しい女の人は腰から下が魚の鱗に覆われた「人魚」だったのだ。


 初めて目にする妖。

 両親から話だけは聞いていたが、こうして実際に目にすれば、それまでの現実が吹き飛ぶ程それは美しかった。


 彼女は直ぐに海の中に潜ってしまい、その姿を見せる事は二度となかった。


 だが、一瞬でもその美しい姿が見れて満足だった。娘は父親にこの話を他の人にしないで、と頼み込んだ。

 迷った末に父親はそれを承諾してくれた。



 そして、数年が経過する。


 娘は美しく成長した。だが、相変わらず身体の調子は良くならず幼い頃と生活が変わる事はなかった。


 だが、それでも娘は満ち足りていた。

 あの日見た美しい存在は少女に生きる力を与えていた。

 だが、そんな娘の意志に反するかのように日に日に衰弱していく日が続いた。


 幼い頃よりも起きていられる時間が減り、部屋の隅に敷かれた布団の上で天井を見つめる日々。

 そんな娘を見て元気を無くす親。


 やがて歩く感覚すら失われ、最低限の生活だけが続く毎日へと変わる。

 だが、そんな娘にも転機が訪れた。


 その日は雨が降っていた。


 夜、父親に揺すられて目を覚ました娘の肩を掴み、父親は茶碗を娘に差し出す。


 それはいつも娘が使っていた物だが、中に入っていたものは見た事のない色をした液体だった。


「これを、飲みなさい」


 父親はぶっきらぼうにそれだけを伝えて娘に茶碗を手渡した。それを受け取った娘は考える暇もなく与えられた物を口に運んだ。


 液体の中に入っていた肉を口に運んで咀嚼する。

 それは初めての食感だった。それを喉の奥に通してから気が遠くなるのを感じた。そのまま眠りにつき、目覚めた翌日。


 何故か身体から重さが消え去っていた。




 朝目覚めて布団の上で立ち尽くす娘を見て両親は涙を流して膝から崩れ落ちた。娘にはそれが何故なのか理解する事は出来ず、それでも病が消え去ったという事実を共に喜ぶ事しか出来なかった。



 それから娘の日常は変わる。

 病にかかることはなくなり、娘は元気に日々を過ごした。

 だが、両親は娘を家から出る事を固く禁じた。


 深く考えずに両親に従って毎日を過ごし、数年が経つ頃。

 違和感を感じ始めた。


 娘の成長は止まっていたのだ。

 疑問と恐怖を抱く娘に両親は「何も考えなくていい」と言い聞かせる。

 自分の身に起きた受け入れ難い事実に困惑しながらもその言葉に従う事しか出来ず娘は生き続けた。




 そのまま時は経過する。


 娘を置き去りにしてこの世の全てが老いていく。


 やがて母親が目の前で息を引き取った。




 そして、父親も床に伏した。




 死ぬ直前に父親は娘に真実を告げた。

 それは、娘が謎の液体と肉を口にした日の事だった。



 父親はいつものように漁に出かけた先で人魚と遭遇したらしい。

 それはあの日見た人魚だったという。人魚の話によればその肉を食べさせる事で娘の病が治るというのだ。

 だが、それには代償があった。

 それは老いる事も死ぬ事も無くなるという、ある種の呪いだった。


 だが、背に腹はかえられず父親はそれを承諾した。その手を血に染め人と魚の形をしたその生物を殺した。

 他の人に見つからないように綺麗に死体を処理し、神秘に包まれた肉を一部だけ家に持って帰る。


 そして、それを煎じたスープを娘に飲ませたというのだ。



 曰く、人魚の肉を口にした者は不老不死となるそうだ。


 父親は自身の醜く愚かな行為を悔み、それでも尚娘の幸せを祈りながら静かに息を引き取った。





 それから数日後。娘は手にした刃物で自身の首を貫いた。

 だが、死ぬ事は叶わなかった。


 次は火の中に飛び込んだ。


 だが、結果は変わらなかった。




 死ぬ事が出来ず、娘はただ生き続けた。生きる意味を見失い、呼吸を繰り返すだけの日々が続く。

 老いることが無い娘の存在はやがて周りに知れ渡る。

 変な噂が流れ、虐げられる日々が始まった。



 石を投げつけられた。

 刀を持つ者に追いかけられた。

 死ぬ事もあった。それでも目の前で復活する娘を恐れ多くの人が逃げ出した。娘は人として扱われずその身体に恐怖を示すものは彼女を腫れ物として扱い遠ざかった。

 独りの時間が続いた。


 いっそ、死んでしまえればと嘆いた。だが、娘は死ぬ事が出来ない。その身体に興味を示したもの達に捕まった事もある。


 金持ちの人間の汚れた欲を浴びせられ娘の身体は斬り刻まれた。そこには痛みに叫ぶ娘を無視して下劣な視線を剥き出しにする人の本性だけがあった。


 気付いた時にはその場から逃げ出していた。人を恐れ多くの人間から逃げ続け時代は変わる。


 見た事も聞いたことも無い物が街に沢山溢れかえる頃。娘は静かに人目に付かず生きる方法を覚えた。一つの街に長く留まることはなく、数日から数週間でその街を離れる。

 行く宛てもないまま流浪の日々が続く。




 人を殺す事に最適化された武器が空から降り注ぐ。それは人々の日常を破壊した。炎に焼かれ助けを求める大人の悲鳴を聞いた。泣き叫ぶことしか出来ない子供の多くを見殺しにした。


 それでも娘が死ぬ事はなかった。





 ♦♦♦



 今はもう思い出すことも稀になった昔の話を聞いた。

 裕人が掛けられる言葉など存在しなかった。彼女は裕人に考える事が出来ないほどの苦しみを味わってきた筈だ。

 想像もつかない程の長い時間を生きてきた。


 それを理解した時、裕人の中は空っぽになった。それを理解できるなんて絶対に口にしてはならない。彼女の苦しみを理解できるものなどその世には存在してはいけない。

 その事実だけが裕人に突き刺さる。


 これから先、裕人がどれほどの時間を重ねようと目の前にいる少女の苦しみを理解する事は出来ない。

 その事実だけが重く裕人の心を抉りとる。



 眼から零れる涙をきよの手が拭う。

 彼女は微笑んでいる。何故、そんな顔ができるのだろうか。

 沢山の苦しみを経験してどれだけ心が荒み壊れ身体が傷付いても彼女には生きる事しか許されない。


 それがどれ程の絶望なのか、僅か十年と数年を生きただけの小僧には理解する事も想像することも難しい。


 それでも彼女は裕人を前に微笑んでいる。


 きよは裕人の頬に触れ優しく微笑みながら再び口を開く。



「人々から離れて生活するのにはだいぶ慣れた。それでも私は生き方を変えられない。私は同じ場所に数ヶ月しか留まらない。だからもうお別れしなくちゃ」


 彼女の言葉が深く裕人に突き刺さる。だが、彼女はこの痛みより何倍もの痛みを数え切れないほど経験してきたはずだ。

 そんな彼女に言える言葉なんて見つかるはずがない。

 それでも止まりかけた思考を巡らせ、ひとつの回答に突き当たる。


「………僕も、人魚の肉を食べれば」


 そう言いかけたところで、きよの表情は更に優しく和らいだ。


「それは、出来ない。今は昔と違い妖の数も減った。人が海を汚した事で恐らく人魚はもうこの世に存在していない」


「……っ、そんな!」


 きよの言葉に裕人は肩を落として俯く。そんな裕人を見てきよは優しく裕人の頭を撫でた。優しく暖かい掌。それは太陽の光のように裕人を包み込む。


「それに、ね。不老不死なんて人の身には余るものだ。人が持つべきものじゃない。『永遠』という響きは確かに美しく感じる。でも、それは残酷な程に今ある価値を変えてしまうものなんだ。永遠は不変ではない。例え永遠に生きられても不変に生きる事はできないんだ。別れという恐怖を知ってるから人は誰かを大切に想える。それは素晴らしい事なんだよ。だから簡単に手放していいものじゃない」


 それも裕人には理解のできないものだった。



「独りで不老不死になれば孤独に生きる事に苦しむ事になる。誰かと共に不老不死になれば別れの概念が消え相手を大切にしたいという価値が低下していく。そんな苦しみを私は感じたくない。君にも感じて欲しくない。もう、私には命を大切にするという考えはない。自分の命の重さを感じる事が出来ない。その尊さを失ってしまった。だから、私は独りでいい。このまま人と関わって別れる痛みまで失いたくないんだ。だから君はこの先、仮に不老不死になれる機会が訪れてもそれだけは手にしないで欲しい。不老不死に成りたいだなんて願いを持たないで欲しい」



 そう告げてからきよはそっと裕人を抱き締める。彼女の鼓動が聴こえてくる。彼女の体温が伝わってくる。胸の膨らみに顔をうずめて裕人は肺に詰まったものを吐き出した。


 その時間が愛おしい。それと同時に全てが悔しい。自分の手が届かない彼女が触れ合える距離にいる。このまま離れたくない。そう思えば思う程、少年の胸は強く圧迫された。


 裕人は今ここに生きている。彼女もまた同じように生きている。その事実がありながら、感じられるものも同じなのに、どうしてその重さが違って感じるのだろう。


 この世は恨めしい程に残酷で、自分は無力だ。

 その事実を呪っても何も出来ない。何も変わらない。



 悔しさと理解できない巨大な渦が混ざって涙が溢れた。そして、力が抜けてそのまま目を閉じる。



 日が昇り、目を覚ますと雨は上がっていた。

 彼女の姿はそこにはなかった。







 ♦♦♦



 今までに感じた事のない程、倦怠感が酷かった。虚無感と心を掻き毟る謎の痛みが裕人を襲う。


 それでも、今更何かを変えることなど出来なかった。

 そのまま学校をサボって一日を終える事は出来た筈なのに。

 裕人の身体は何かに突き動かされ、操られる人形のように身支度を終えた。


 頭が重い。何も考えられないし、何も考えたくない。

 心は空っぽで何かをしたい訳じゃない。自分でも何故か分からないまま学校に行き、そのまま午前の授業が終わった。



「裕人、大丈夫か?今日のお前、変だぞ」


 目の前で手を振るその誰かは裕人よりも知識と力を持った妬ましい存在だった。

 誠に強く肩を揺すられて漸く裕人の意識は目覚めた。


「あれ?誠?」


「大丈夫か?体調が悪いなら今日は帰った方がいい」


 裕人と同じように討魔の家に産まれ、裕人とは異なり討魔の道を行こうとするその少年は貴重な昼食の時間を割いて裕人の為に使ってくれている。


「……誠はさ。人魚って知ってるか?」


 深く考えもせず口から出た言葉はそれだった。

 そんな裕人に「は?」と息を漏らす誠。


 そして少しだけ黙ったまま顎に指を当てて考え込む素振りを見せる。


「人間の上半身と魚の下半身をもつ美女の妖だろ?知ってるよ。まあ、日本に伝わる伝承だと人面魚って言った方が的確だけどな」


「人魚って今はもう存在してないのかな?」


「本当にどうしたんだ?」


「答えてくれよ」


 訳の分からない事を言い出す裕人に本気で心配する誠は溜息を吐いた後、「分かったよ」と言って続けた。


「確かに昔は存在したっていう記録が家にも残ってる。でも今は確かに目撃情報も噂も存在していない。これは、討魔師の勝手な憶測だけど、人が文明を発展させると共に海を汚して、それにより人魚は滅びた。そう考えるのが妥当だよ」


 確かにその言葉は的を得ている。

 なら存命するか怪しい人魚を探すなんて愚行はしない方がいいだろう。


「やっぱり、そうだよね」


 ここは大人しく前までの日常に戻ればいいだけだ。そうだ。ただ、戻るだけなのだ。

 灰色の日常に。


 裕人は視線を窓の外に向ける。

 そこには、いつもと変わらない平和な日常が広がっていて……。


「本当にどうしたんだよ」

 その言葉につい本音が溢れそうになる。喉まで出かかった言葉を必死に飲み込む。


「ただ、不老不死になればやりたい事が見つからない悩みも無くなるのかなって思っただけ」


「あぁ、有名だよな。人魚の肉を食べた者は不老不死になるって。でもそれは大きな賭けだよ。人魚の肉を食べた人間全員が不老不死になれる訳じゃない。そもそも妖の血肉は人にとって毒となるものも多い。食べたら最期命を落とす危険だってあるんだ」


 誠の言葉に驚きが隠せない。その言葉がもし正しいのなら彼女の存在は本当に稀なものになるだろう。


「……そ、そうなんだ」


「うん。それに、そんなものに頼るのはいけない。裕人。君には本当にやりたい事は無いのか?」


 やりたい事ならあった。昔は。自分は討魔師になって人々の平和の為に命を賭して戦うんだと本気で信じていた。そんな妄想に酔い自身を英雄視していた時期もあった。


 だが、その夢は絶たれた。

 そうして、夢を求めて望みを探して家を出てバイトをして。

 いつか見つかると信じて、自分を騙していた。

 そんな時、彼女に出会ったんだ。


 自分の将来に悩んでいた事を忘れさせてくれるような存在だった。彼女に夢中で、ただ一緒にいる事が嬉しくて本気で恋をしていた。彼女と共に生きられるなら夢が見つからなくてもいいと妥協も許せた。

 なのに、その心の支えさえ失ってしまった。


 もう、裕人に残されたものなんてない。



「そうだよ。僕にはそんな大層なものなんてないんだよ」


「俺にはそんな風には見えなかったけどな」


 だが、その事実を目の前の少年に否定された。


「はぁ?」

 反射的に相手を威圧するかのような声を上げ、振り向いていた。

 そんな裕人の声と敵意を受けても、それをまるで恐れていないかのように黒間誠は堂々と立っていた。


 目の前の少年に裕人の何が分かるというのか


 この少年は自分と違い討魔師に成れるというのに。

 なぜ、他の誰でもないこの少年に否定されなくてはならないのだろうか。


 裕人は牙を剥き出し誠を睨み付ける。



「やりたい事、見つかったんじゃないのか?少なくとも譲れない物は見つかったんだろ?そうじゃなきゃあんな風に毎日を過ごせるものか。最近の君には以前の君にはない希望があった筈だ」


「勝手に、僕の事分かったふうに言うなよ!お前に僕の何が分かるんだよ!」


 席を立ち誠に掴みかかる。それでも誠は一歩も引かない。


「わかんねぇよ。でも最近の君が変わったのは紛れもない事実だ。傍から見ても幸せに生きているのが、わかるくらいに君の日々は満ち足りていたはずだろ!」


「そうだよ!幸せだった。でも、それがいつまでも続くとは限らないじゃないか!」


 二人のやり取りに気付き、教室全体がざわつき始める。会話が無くなり、動かしていた腕を止め、箸を置いて二人に視線が集まった。


「じゃあそれを手放さないように努めればいいじゃないか!君の置かれた状況なんてわかんない。でも今の君は状況に流されて諦めているだけだろ。少なくとも今日の君はそんな感じに見えた」


「誰が、望んで諦めるんだよ!」


「願いがあるのに、それを望まないようにして生きているのは君自身だろ!諦めなければ願いは叶うって?そんなもの現実を直視出来ない奴の世迷言だ!夢も、願いも、挑まなければ叶うことはない!」



 その言葉に何も言い返せない。正しいのは裕人じゃない。目の前にいる誠の方が正しいと気付いている。


 裕人の力が弱まり、その腕を振り払う。


「現状を変えるためには行動を起こさなければならない。叶わない願いを叶える為に挑み続けるのが人間だ。俺は生きてきた中でそういう風に教わってきた。そして、何を叶えるのか選択するのは個人の自由だ」


「………っ!」


 歯の間から息が漏れ、その場に立ち尽くす。言い返す言葉もそうする為の気力もなくなってしまう。


 昔、憧れた夢を捨てた。理想を殺し親に従い「仕方がない」と自分に言い聞かせた。自分の意思に蓋をして流されて生きてきた。反発、反抗する余裕を自分でなくした。


 従って生きるのが楽だったから。そうしたんだ。そして、今回もまた同じ事を繰り返そうとしていた。


「諦めたつもりがなくても、いつの間にか言い訳を作って自分に言い聞かせていたんだな。そうして失った事を理由にして逃げ出した。それが癖になっていたんだなぁ」


 自分の弱さを再確認した。それを気付かせてくれたのは心のどこかで妬んだ相手だ。

 弱くてもいいかもしれない。それでも譲れないものは確かにあって………。


 それを掴む為にこのままじゃいけないのなら。

 きっとここが分岐点なのだろう。



 惨めな姿を晒して、我に返ればクラスで一番の注目を浴びている。


 誠は待っている。きっと二人の間にこれ以上の言葉は必要ない。互いに産まれた家は似ている。同じ討魔の歴史を持つ家に産まれた。ただ、現在の環境は大きく違った。今なお討魔師であり続けている家と歴史と技を途切れさせた廃れた家。


 逃げる事が当たり前になっていた。周りに合わせて流されるのが日常になっていた。自分の意見を殺し、諦める事が楽な選択だと。自分に言い聞かせていた。


 育った環境が違う。その中で培ってきたものも違う。

 だから羨望の目を向け勝手に妬んできた。

 違ったんだ。自分で何かを選ぶ事が出来ない弱い自分を誤魔化す為の愚かな行動だった。


「誠、ありがとう」


 自分がどんな顔でその言葉を口にしたのか裕人には分からなかった。それでも、誠は嬉しそうに口角を上げた。


 次の瞬間、裕人は床を蹴っていた。皆の視線を集めながらそれらを全て無視して教室を飛び出す。


 そのまま勢いを緩めることなく廊下を走り去る。校則なんて知らない。今はそれより優先したいものが裕人にはあった。

 間に合うのかなんて分からない。それでもここで諦めてしまえばそれは弱いままの自分と同じだ。


 例え、届かないのだとしても。この選択に後悔はない。遅すぎる覚悟にもう取り返しがつかないのだとしても。

 挑む価値がそこにはある。


 下駄箱で靴を履き替え、学校を飛び出す。肺が苦しい。脳が酸素を、休息を欲している。それでも脚は緩めない。

 汗を垂れ流し、スピードを上げていく。


 脚に溜まっていく疲れも痛みも今は無視をする。

 無茶を押し通して走り続ける。

 周りの景色は流れていく。まるで、自分だけがこの世界に取り残されるかのようだ。









 行き着いた先は始まりの山だ。その山を駆け上がり、ボロボロの小さな小屋の扉を勢いよく開く。


 その音が部屋の壁に反射して轟く。

 そして、驚いたように肩をビクりと震わせて黒髪の美しい女性がこちらを振り向く。


「よかった。間に合って」

 安堵の言葉が不意に零れた。






 ♦♦♦



 暮らし慣れた部屋を出る。愛しい少年の寝顔に別れを告げて。

 もうここに戻る事はない。そうして夜の街を歩く。


 寂しさはある。それでもこれは、仕方のない事だった。

 そう言い聞かせて夜の暗い道を歩けば、なんと心細い事か。


 あの少年が隣に居ないだけで挫けそうになる。

 それ程までに彼との幸せな時間はきよにとって当たり前になり過ぎていた。

 これ以上、別れを先延ばしにすれば別れるのが辛くなるだけだ。彼に「待って」と言われるだけでそれに従ってしまう自分がいる。


 だからこそここで訣別しなければならなかった。

 唐突になってしまったのは申し訳がない。もし、願いが叶うなら、彼が私を嫌いになり平穏に過ごす事を願う。


 そうして幸せな思い出を振り返り、心をすり減らして夜の街に溶け込む。

 想いが溢れかえり、止まりそうになる脚を必死に前へ動かす。


 日が昇ると共に雨は止み、日差しを浴びて街を歩く。そのまま時間だけが過ぎていく。そして、最後に始まりの山へと向かった。



 小さなボロい山小屋。その中には片付けられたきよの荷物がポツンと中央に置いてある。

 最後に余韻に浸り、少年の顔を思い出す。

 そして、堰き止めていた涙がドっと溢れた。


 あぁ、自分に人の心が残っていたとは。


 溢れる涙に、感情に驚きを感じつつもそれが枯れるまで泣き続けた。そして、赤く目を腫らしてきよは部屋に別れを告げる。


 だが次の瞬間、背後にある扉が勢いよく開け放たれた。

 驚いて振り向く。そこには愛しい少年の姿があった。


「よかった。間に合って」


 そう零した少年に枯れたはずの涙が零れそうになる。


「……どう、して」


 きよの質問にはすぐに答えず、裕人は膝に両手を付いて乱れた息を整えている。そして、折っていた腰を元に戻し、真っ直ぐきよの瞳を見詰める。


 その瞳には昨晩とは違う力強い覚悟が篭っているのを感じた。


「ここに来たのは、賭けでした。ここにいるという根拠なんてなかった。でも、最期に寄るならここだろうって自分の直感を信じたんです」


 でも、それはきよが聞きたかった答えではなかった。きよは首を横に振って「そうじゃない」と零す。

 そんなきよを見て「あぁ」と納得した少年は再び口を開いた。


「だって、ずるいじゃないですか」


「え?」

 それはきよが予期していたものとは大きく異なっていた。

 だから不意に声が零れる。瞳を泳がせるきよを見詰めて裕人は一歩、その距離を縮めた。


「自分の意見だけ言ってそのまま姿を消すなんてずるいですよ。自分勝手にも程がある。僕はきよの言葉を聞きました。確かに昨日は何も言えなかった。でも、今は違う。だから、今度は僕の意見を聞いて下さい」


 少年の強い意思に納得する。確かにきよは自分の意見だけを押し通して、裕人の言葉を聞こうとしなかった。

 それを「ずるい」と言っているのだ。


 唾を飲み込み、何を言われるのか身を固くする。

 そして、裕人はゆっくり右腕を前に差し出す。


「僕は貴女と一緒に生きたい」



 それは、きよがずっと望み、それでも切り捨てたものだった。

 だから顔をくしゃくしゃに歪めてそれを否定する。


「それは、できない!」


「どうして」


「だって、私は人間じゃないんだよ?病にかかる事はなく、どんな怪我だって直ぐに治る化け物なんだよ!老いることも死ぬこともない不老不死の化け物なんだよ!」


「それは、一緒に生きられない理由にはならない」


「なるんだよ!人は人が理解できないものを許さない。私の体質は絶対に隠し通せるものじゃない。いつか周りにバレて討魔師に、研究者に追われる生活になる。その時に君を巻き込みたくないから……一緒には生きられないんだよ」


 ずっと化け物だと罵られてきた。石を投げつけられてきた。

 それは変えようのない過去で、この体質も変えようのないものだ。



「僕と別れて暮らす事が僕の幸せになると?」


「………っ!そう、だよ」


 それは身勝手でずるい答えだ。少年は続ける。


「僕と別れて暮らす事が貴女の幸せになると?」


「…………っ!そう………」


 それはあまりにもずるい質問だった。けど、それを責める事は出来なかった。


「………………っ、そんな……わけ、ないじゃない」


 零れた言葉に今まで自身を支えていたものが音を立てて崩れる。


「僕もですよ。貴女と一緒に暮らす事が僕にとっての幸せです」


 泣き崩れそうになるきよの身体を裕人が支える。それは暖かくて力強くて優しい手だった。


「…………どう、して」


 破綻している。矛盾している。少年を巻き込みたくないのに彼と共に生きたい。


「僕は、貴女が好きです」


 何故か、枯れたはず涙が溢れそうになる。

 ずっと独りで生きてきた。だからこの先も独りで生きていけると。そう思っていた。でも、もし誰かと生きられたなら。


 そう思わなかった日々はなかった。

 全てが私を置いていくこの世界で、限られた時間でいいから誰かと共に生きられたなら、どんなに幸せかと。

 それを望まない日はなかった。


 でも、他人を信じる事はできず、人を恐れ人から離れて過ごしてきた。そんな中、突如現れた少年。

 彼は私の体質を知ってもなお離れようとせず、私を守ろうと身を呈してくれた。それがどんなに嬉しかったか。

 それだけでどれ程の幸せを感じられたか。


 きっと、この思いは誰にも分からないだろう。


 一緒に時を刻んだ。思い出を共有した。

 そうして幸せな時間を共にして、それがずっと続けばいいと望みながら、それでも彼から離れた。


 でも、少年は再び目の前に現れた。


 そして、自分の我儘を押し通して、私の意見を無視して。

 最後に一番聴きたかった言葉を口にした。



「僕は、きよが好きです。外見は大人っぽくてクールなのに中身は幼くて可愛い貴女が。買い物に来てお釣りを忘れていく少しドジな貴女が。年齢は二百歳超えてるのに常識が足りないところがあったり、世間に疎い貴女が。僕の作った料理を美味しそうに食べる貴女が。最初は冷たかったのに今では暖かく接してくれる貴女が。僕の幸せを願って自分の幸せを曲げようとした優しい貴女が。そして、毎日僕の隣で笑ってくれる貴女が。僕は好きですよ」


 これ以上ないくらいの褒め言葉を貰い、嬉しさで満たされ過呼吸になる。


「僕は自分の幸福を掴む為にここに来ました。だから、きよも自分の幸せの為に生きて欲しい。僕と一緒に生きてくれますか?」


「勿論だよ」


 最期に問われ、間髪入れずに答える。ずっと張り詰めていたものがプツリと切れる。

 我儘に自分の幸せを願って大きく頷く。






 ♦♦♦


 互いに本音をさらけ出した二人は手を繋いで帰路を歩く。互いに何を話していいのか分からずその帰り道は互いに無言だったが、それでも居心地は良かった。



 家に着く頃には日が沈みかけていた。その後、学校に謝罪の電話をしてから荷物を取りに行き、教師の説教を受けてから再び帰宅。その頃には空は暗くなっていた。今日はバイトはなかったのでそのまま家の台所に立ち、ハンバーグを作る。


 それを二人で食べ、幸せの時間を共有する。片付けを行い、風呂に入り、眠る前に裕人が「よし」と覚悟を決めてきよの正面に座る。そんな裕人にきよは頬を赤らめて視線を逸らす。


 それから深呼吸をした裕人は真っ直ぐにきよを見て口を開いた。


「今日は、僕の話を聞いて欲しい」



 そして、今までの人生を語り始めた。






「……まさか、討魔師の血が流れていたとはな」


 静かに最後まで話を聞いていたきよは溜息と共にその言葉を吐き出した。


「すみません。隠していたつもりはないんですけど……もしかして怖かったりしますか?」


 心配そうに瞳を揺らす裕人に微笑みながら「大丈夫」と告げてその頭を軽く撫でた。


「裕人はそんな人じゃないって分かってるから」


 その言葉が嬉しくて思わず裕人の口角が上がる。



「そういえば、裕人にお願いがあるんだけど」


「ん、なんですか?」

 今度はきよが瞳を揺らし、それに応えるように軽く聞き返す。

 裕人自身にできることなら可能な限りやるつもりだ。


「これはまだ話してなかったんだけど、二十五年前に私は研究者に捕まってるんだ」



 それから彼女が語り出したのは、きよの人生の中で彼女に人を信じる切っ掛けを与えた時の事だった。







 ♦♦♦



 今から二十五年前。



 人が少ないとある村の奥に建てられた研究施設にきよは囚われていた。


 山奥で運悪く車というものに引かれてしまったきよ。彼女の身体が再生する様を見た運転手は慌てて警察に通報する。


 その通報を聞いた警察が現場に訪れる前に、きよはそこから逃げ出す。だが、数十年ぶりに人に追われる立場に追いやられ、最期には逃げるのを諦めてしまった。


 そんな彼女を捕らえたのは警察でもなく、噂を聞きつけた討魔師でもなく、探究心に塗れた研究者だった。


 身体を鎖で拘束され、身体を弄り回される日々が続いた。私の体質を解明する為に私は日々苦しみと激痛に耐え続けた。


 否、耐えるしかなかった。どれだけきよが叫ぼうと、助けを乞おうと痛みが消えることはなく、苦しみが和らぐことはなかった。


 切り刻まれる身体。燃やされる身体。押し潰される身体。凍結される身体。

 色んな苦痛が繰り返され、その度に再生した。

 何をされようとこの身体には傷一つ残らない。だが、見えない何かがきよの中に突き刺さる。


 ありとあらゆる苦痛と死因を試されてもこの身体の謎を解明する事は叶わず、研究者たちは行き詰まっていた。


 研究よりも牢に閉じ込められる時間が長くなり、やがて知識を与えられるようになった。文字の読み書きや発音。現代の知識に触れる機会が与えられたのだ。


 それは江戸の頃から生き続けるきよが現代の知識を得る事で感情や態度の変化を観察しているようにも思えた。

 そして、彼女との対話役として彼女の目の前に現れた一人の研究者がいた。



 安田と名乗ったその女性研究員は見た目は三十前半で豊満な身体に白衣を纏い、きよの前に現れた。眼鏡を掛けその奥で優しそうに微笑む彼女。

 恐らく、そこでどんな実験が行われているか知らされていない彼女は明るく、きよとの対話を試みた。


 だがそれに素直に応じるきよではなく、最初は無言を貫き、相手を睨み敵意を向けた。冷たく接し続けても彼女は挫けることなく毎日、きよの下へと通い続けた。





 そして、数ヶ月が経過する頃。


「調子はどうだい?安田」


 安田にそう語り掛けたのはこの施設の中にいる研究員のリーダーである高宗と呼ばれる男性だった。長いパーマのかかった髪が特徴で年齢は恐らく三十後半だ。


「今日も駄目そうです」

 そう肩を落として落ち込む彼女に高宗は「そうか」と告げた後に舌打ちをする。


「早く打ち解ける事だな。それが君に任された唯一の仕事なのだから」


 そう告げた後に踵を返して牢屋から出ていこうとする高宗。

 そんな彼を安田は慌てて呼び止める。


「待ってください。高宗さん」


「なんだ?」



「あの、そろそろここが何の施設なのか教えてくれませんか?」


 安田の質問に高宗は冷たい視線で見下したまま口を開いた。


「君が知る必要は無い。君は君の仕事をこなす事だけを考えていればいい」


 そう答えると高宗は視線をきよへと向ける。その視線には温度がなく、きよを実験動物としか考えていない。


 その後舌打ちをしてきよから視線を外すと部屋の外へと消えていった。

 その背中を見送った安田は頬を膨らませる。


「むぅ、ケチ!」


 暫く高宗が去っていった方向を見詰めていた彼女はくるりとこちらに振り向きニッコリと笑顔をつくって口を開いた。


「またね九六四三ちゃん?」


 九六四三とはこの施設で与えられたきよの呼び名だった。九千六百四十三番だから九六四三と名付けられた。恐らく安田はその意味を深く考えていなかった。





 一週間後の夜。



 謎の違和感にきよは目を覚ます。

 鼻の奥を刺激する異臭。それだけではない。空気がいつもより重い気がする。

 それは気のせいではなかった。鉄の柵の奥に広がる景色が赤く揺れていた。


 それはパチパチと空気を爆ぜさせ、唸りながらこちらに迫ってくる。


「……火事、か」


 目の前で轟々と燃え盛る炎にきよは取り乱すことなくその場に留まる。


 どうせ逃げる事は出来ない。今まで何度も感じた苦痛を再び感じるだけ。そうやって彼女はいずれ訪れるその炎を受け入れた。


 だが、迫る炎とは別の乾いた音が床を伝ってきよの耳に届く。それは次第に大きくなっていき、牢屋の目の前で一瞬止まと、ガチャりと音を立てて部屋の扉が開かれる。


「ごめん。遅くなって」


 そう言って牢屋の前に姿を現したのは安田だった。

 煤塗れの頭に白衣の裾は黒く焦げてボロボロになっている。

 綺麗な腕は赤く腫れている。安田は手に持っていた鍵で牢屋の扉を解放する。


「ごめんなさい。もっと早くに気付いていれば」


 彼女は申し訳なさそうに表情に影を落とした後、直ぐに真剣な顔に戻りきよの腕を取る。

 きよの意思を問うこともなくその腕を引っ張り部屋から出た。きよは反抗する訳にはいかず、身を任せた。


 そして、燃える廊下を突破して正面の入口とは別の裏口に辿り着いた。そこで安田は足を止め、振り返った。



「貴女、本当の名前はなんて言うの?」


 その優しい問い掛けに素直に「きよ」と答えた。


「じゃあ、きよちゃん。これを持って逃げるのよ」

 安田は白衣のポケットから一枚のカードを取り出し、それをきよに手渡した。


 初めて見るそのカードにきよはそのカードを凝視した。

「それはね、キャッシュカードっていうの。これから先、貴女が生きて行く為に必要なものだから絶対になくしちゃ駄目だよ」


 それはこの施設で覚えた知識の中に出てきたカードだった。だからこれがどういうものかも理解できた。理解できなかったのは彼女の行動の意味だけだった。


 それから暗証番号を教えられ、背中を押されて施設の外へ出る。彼女に見送られ、きよは走って施設の裏に広がる森の中へ飛び込んだ。



 その優しさに救われたきよは貰ったキャッシュカードに頼り、生活を送った。

 どれだけ時間が経過してもそのカードが使えなくなる事はなく、またお金も大量に貯まっていたため生活に困ることは無かった。





 ♦♦♦



 気が重くなるような話が終わり、最後に彼女は「安田さんに会いたい」と口にした。


 人体実験を受けていたという彼女。その苦しみはやはり想像出来るものではなかった。でも、そこから助けてくれた女性を探す事が彼女の望みならばそれを叶えてあげたい。その手助けをしたかった。


「……探しましょう」


「うん、ありがとう。でも………」


 そこで言葉を区切ったきよは自身の肩を押さえて震えている。その様子が何を表しているのか察せないほど鈍感ではなかった。


「僕が、貴女を守ります」


 彼女の両手を取り、その瞳を見詰める。それは裕人の覚悟であり、誓いであった。

 それに安堵したのか彼女は裕人の手を握り返し「うん」と大きく頷く。


「ありがとう」


「はい。次の休みはバイトが入っていないので、その日に行きましょう」


 そうして約束を交わし、その日は二人で眠りについた。

 愛しい人の寝息を聴ける幸福を噛み締めて。






 ♦♦♦



 そして、休日が訪れる。


 朝早くに起きて準備をする。

 トーストの上に目玉焼きを乗せてそれを頬張る。彼女の瞳は相変わらずキラキラに輝いている。


 出かける支度をして駅に向かう。

 朝が早いからか、他の人は乗っていなかった。

 電車に揺られて十分も経過すれば山を抜ける。そうすれば見えてくるのは果てしない青色の景色。


 愛しい時間が流れていく。逆らうことなくそれに身を任せる。


 彼女の記憶に刻まれた恐怖の場所。そこに近づくにつれ、きよの元気はなくなっていき、肩を震わせた。

 裕人は自身の無力さを悔やみながら彼女の手を握った。





 出発から三時間。



 人が少なそうな小さな村に到着した。きよによるとここが例の村らしい。つまり、この村の奥にきよを実験動物にした施設があるのだ。


 ふつふつと胸の奥底で沸き上がる激しい怒り。それを抑え裕人は彼女の手を握る右手の力を強めた。

 きよの心の準備を待ってから村の奥へと向かう。その途中、人とすれ違う事はなかった。





「……これは」


 建物を前にきよは呆然とその場に立ち尽くす。

 その施設は焼け焦げたと一目でわかる程ボロボロのままだった。つまり、二十五年前に彼女が逃げ出してから何も変わっていないのだ。


 取り壊すこともせず直すこともせず、この場所に放置されていた。正面入口には黄色いテープが巻かれ「立ち入り禁止」

 と書かれている。


 彼女の心中を察する事ができず、裕人は黙ったまま彼女を見詰める。



「ここに、何か用か?」


 だからボソっと低い声が背後から聞こえてきた時は驚き、つい大袈裟に反応してしまった。

 振り向けばそこにはシワシワの細い男性が立っていた。

 その老人は細い目を更に細めて裕人ときよの奥にある建物を見上げた。


「あの、おじいさんはここの関係者だった人ですか?」


 施設を見る老人の表情が何とも言い表せない程、優しいものだったのでつい口を開いてしまう。


 裕人の質問が聞こえなかったのか、老人は黙ったまま施設の残骸を見上げている。


「僕たち、昔ここで働いていた安田さんという人を探しているんですけど」


 幾ら待っても答えてくれない老人に痺れを切らした裕人はとうとうその事を口にしてしまう。

 だが、それに反応した老人は待っていた杖を落とし、覚束無い足取りで距離を詰めると裕人の肩を非力にも鷲掴む。


「お前さん、安田さんをしっているのか?」


 乾いた声が老人から発せられる。その反応に裕人ときよは互いに顔を見合わせる。

 焼け崩れた施設を見た時は絶たれたと思った手掛かりが、こうして二人の前に現れたのだ。



「僕ではなく、彼女が」


 裕人が指し示せば老人は裕人から離れて今度はきよに詰め寄った。


「お前さんは、安田さんの何だ」


 真剣な老人にきよは一歩後ろへ下がる。だが、老人は逃がさんとその距離を詰める。


「わ、私の母が昔お世話になったんです」


 逃げられないと察したきよは苦し紛れの嘘を口から零した。それを聞いた老人は「なんじゃ」と呟き残念そうにきよから離れた。



「お前さんらは安田さんが何者だったのか知っておるのか?」


 続く老人の発言に裕人ときよは思考停止状態に陥る。

 二人して首を横に振ると老人は空を見上げながら大きな溜息を吐いた。


 それから「ついてこい」とだけ告げてから倒れている杖を拾いどこかへと歩き出す。

 裕人ときよは少しだけ迷ってからその後を追うと決めた。





 ♦♦♦



「あの人は明るく笑う人じゃった。この村は昔から人が少なくてな、わしは昔警察をやっておった。小さな村の小さな交番に勤める警察。それがわしじゃった」


 何処へ向かっているのか分からないまま老人の背中を追う途中で、唐突に老人が二人に向けて語り出す。


「安田さんはあの施設で働き出してからこの村に来た女性でな、その前は何処で何をしていたのか知る者はおらんかった。ただ毎朝元気に挨拶をして明るく笑う人だった。だから決して悪い人じゃないと、皆から好かれておった」


 遠く懐かしい記憶を辿るように優しい声が紡がれる。


「あの施設は何をしている場所なのか、それを知っているの者もおらんかった。でもあの安田さんが働いてるから悪い場所ではないと皆が勝手に決めつける程にわしらは愚かだった。ある日、あの施設が急に燃えた。わしは警察じゃったから誰よりも早く現場に駆けつけた。それでもわしが着いた頃は全てが手遅れじゃった。遅れて来た村の皆と協力して火を消し、わしは現場を調べた。じゃが、そこから出てきたのは彼女の遺体じゃった」



 老人が一つの墓の前で足を止めた。その墓には「安田」と刻まれている。

 衝撃な真実を前にきよはその場に立ち尽くす。


「施設が焼けてから数日後、黒い服を着た余所者が村へと入ってきた。そして、あの施設について調べる事を禁じた。施設に入る事も叶わなくなった。つまり、あれは調べられると都合の悪いものじゃった。わしら村の者は酷く落ち込んだものじゃ。その黒服の人らの話じゃ火を付けたのは安田さんじゃと言うのだ」


 目の前の墓を見詰めて表情に重い影を落とし込む。その美しい顔が歪んでしまうほどの感情が彼女の中で渦巻いているのだろう。



「更に安田という名前は偽名じゃと言い放った。それだけじゃない。あの施設で働いてた数十名の人間全てが偽名じゃったのだ。研究者は全員黒服に連れていかれ姿を消した」


 裕人ときよはあの施設で何が行われていたのか知っている。その内容は人前で話す事が憚られる程のものだ。故に二人はその事を口にしない。


「あの施設に関する事も働いていた人に関する事も、全ては闇の中へと消えた。わしらは逆らう事が出来ず、命令に従って関わるのを止めたんじゃ」


 そこで老人の話は終わり、老人はゆっくりと来た道を引き返していった。


 寂しい墓前に二人だけ残される。裕人は出来る限り自分の気配を薄めるように努めた。

 今、この時間だけは彼女の邪魔をしてはいけない。



「………安田、さん。私は貴女のおかげで、今とても幸せです。…………あり、がとう……ございました」



 嗚咽混じりの悲しみに満ちた声が裕人の心を激しく揺さぶった。





 ♦♦♦



 それから二人は帰路に着き、街に戻った。電車に揺られている時、二人の間には会話はなかった。


 駅を出る頃、空はオレンジ色に染まっていた。



「裕人、今日はありがとう」

 駅を出た所で唐突に彼女が口を開いた。それに何と答えたらいいのかわからず「うん」とだけ返した。


 暖色に染まる住み慣れた街。数人の人が行き交う道を二人は並んで歩いてゆく。

 彼女が生きていく上で積み重ねた苦しみからも、今日味わったであろう喪失感からも裕人は彼女を救ってあげられない。


 きよという大切な人ができて、初めて知る自分の無力さ。それが歯痒くて、何もできないことが辛くて、悔しい。

 だが、それが相手を大切に想うからこその感情なのだと裕人にはまだ理解できない。


 ただ、いつまでも俯いたままではいられず、強がって前を向く。

 いつか君の想い人に相応しく成れると信じて。





 だが、いつも終わりは唐突にやってくる。



 裕人ときよが歩く大きな通りに接する暗く狭い路地。その奥から騒がしい声が複数響いてくる。

 それは次第にこちら側に迫ってきて。



 その声の主が姿を現すより先に、黒い影が二人の前に飛び出した。それは黒い毛皮で全身を覆った赤い目を持つ四足歩行の獣だった。


 犬に酷似したその獣は全身からドス黒い瘴気を撒き散らして裕人の隣、きよの喉目掛けて地面を蹴った。

 予期する事などできるはずもなく、それでも自然と裕人の身体は反応した。


 妖の鋭い牙が彼女に届くよりも前に、彼女の前に立ち塞がる。そんな裕人を見て、きよの口角は自然と上がる。


 これ以上ないほどに目の前の少年が愛おしかった。


 だから、力一杯裕人の身体を押して妖の攻撃から彼を守る。押し倒された裕人はそのまま為す術もなく地面に倒れた。

 そして、無防備になったきよの喉を妖の牙が喰いちぎった。


「――――っ、あぁ!」


 肉が裂かれ骨が砕かれる。聞くだけでおぞましい音と一緒に鮮やかな赤い血が辺りに飛散する。

 きよの首を喰いちぎった妖はそのまま綺麗に地面に着地した。


 地面に倒れた衝撃で脳が揺れ、一瞬判断に遅れる裕人。

 裕人は目の前で起きた惨劇に悲鳴を上げながら、自身の首を押さえて立つ彼女の下へと駆け寄った。


「きよ!」

 彼女の掌は真っ赤に染まり、腕を伝って血が地面へと滴る。


 そこへ、遅れて路地から数人の男が飛び出してきた。

 そのうちの一人は裕人がよく知る人物だったが、そんな事に気を取られている場合ではない裕人は彼の存在に気付かない。

 遅れて駆けつけてきた男たちの内、オールバックの男が現状の把握よりも先に地面を蹴り、妖の脳天目掛けて拳を振り下ろした。



 死角からの重い一撃が妖の頭に直撃する。それは常人の拳の威力を軽く超えるものだった。妖を討つ為に鍛え上げられた筋力と特別な術から繰り出される「術式」と呼ばれる力によって妖の頭は破壊される。


 その光景を背中に、裕人はきよの身体を支えながら血相を変えて言葉を零す。


「どうして」


 必死さを隠せない裕人の態度に今一度、きよは目を細め口元を緩めた。


「……君に、傷付いて欲しくなかった」


 その言葉に裕人の瞳が滲み始める。

 その間にもきよの傷は再生する。飛び散った血肉を集め、欠けた骨は生成される。


 まるで時が逆行したように彼女の首は元通りになった。傷一つない綺麗な首に。



 だが、その超常現象を辺りに居た人々も目にしてしまう。

 信じられない光景を目にした彼らは反応こそ様々だが、一様に驚きを示している。

 その中の一人。先程妖を祓った討魔師が首を傾げ、敵意を剥き出しにして裕人ときよに迫る。


「おいおい、その女はなんだぁ?」


 威圧的な態度できよを敵視する討魔師。裕人は怯むことなくきよと討魔師の間に割って入る。


「裕人!」


 それを見ていた他の討魔師の中、裕人の名前を呼んだのは誠だった。そこで裕人は誠の存在に気がつく。

 だが、現状が誠と目を合わせる事を許してくれない。


 ここはきっと慎重に言葉を選ぶべきだ。それでも、裕人の中では既に感情が答えは出ている。



 裕人の作った料理を美味しそうに食べる彼女がいた。

 他人の為に優しい決断ができる彼女がいた。

 亡き恩人を前に涙を流す彼女がいた。


 短くとも多くの幸福な時間を彼女と共に過ごした。


 だから、答えに迷うことはない


「人間だ!」


 堂々と叫んだ裕人に男は間髪入れずにそれを否定した。


「それは、ありえねぇんだよ!負った傷が直ぐに治る人間が居てたまるか!」


 叫びながら男は跳躍して拳を振り上げた。男の脚が地面から離れた瞬間、裕人はきよの腕を取って走り出していた。

 裕人の全神経が告げていた。逃げろと。


 男の拳が空を切り、着地した男が怒りを露わにする。

「待てや!」


 追っ手から逃げる為に形振り構わず走り続ける。人を避け、角を利用して追っ手を突き放す。だが、男は簡単に諦めてはくれない。


 脚を全力で動かしながら頭ではこれから先の事を考える。

 打開策。逃げ切る方法を模索しては切り捨てを繰り返す。


 妙案は思い浮かばず、脚も肺も限界に近付く。なにしろ彼女の身体の事も考えなければならないのだ。

 そこで裕人は突き当たりの角を右折して、山沿いに出る。


 そして、全てが始まった山の入口を潜ってそのまま奥へと進む。舗装されたコンクリートの道から手入れされていない獣道へと移り、草木をかき分けて進む。


 荒くなる息に、圧迫される肺。全身の血液が巡り、身体が熱い。脚の感覚は既にないに等しい。

 それでも、スピードを緩めずに山の中を進む。


「………裕人」


 後ろから弱々しい声が届く。そこで漸く裕人は脚を止めて振り返る。

 裕人もきよも汗だくで身体が熱を持っている。だが、それ以上に彼女の表情を見て裕人は言葉を失った。


「もう、いいんだ」


 彼女はゆっくりと終わりを告げる。

 必死に彼女の言葉を否定する為に首を横に振った。


「……嫌だ」


「ここで、終わりにしよう」


 これが例え、あの時の彼女が危惧していた場面であっても。

 裕人は彼女の言葉を否定する。

 否定しなければならない。


 裕人ときよを中心に、山の中が徐々に騒がしくなる。追っ手が近くまで迫ってきている。



 早く逃げなければ。裕人はきよの腕を引っ張ろうとする。だが、それをきよは拒んだ。

 反動で体勢が削れてその場でよろめく。地面から浮き出た樹木の根に足を取られてその場に転倒しそうになる。

 その裕人の身体を優しい暖かいものが包んだ。


 裕人の胸に顔を埋めたきよは背中に回した腕に力を込める。

 自分のものではない鼓動と体温が愛おしく、胸の奥が張り裂けそうなほどの痛みを感じる。


「……裕人、愛してる」


 その言葉を耳にしただけで胸が熱く、自分の底から込み上げ滲み出てくるものがある。

 それだけでいいのだ。ただそれだけで裕人は闘える。

 勝ち目がなくとも守る為に闘える。


 彼女が生きてきた途方もない時間の中で積み上げられた苦悩。そこから彼女を救うことが出来なくとも、今ここで彼女を守れる男としてありたいのだ。


 だが彼女の言葉は美しく、愛おしく、そして残酷であった。


 なぜ、今なのか。

 なぜ、この瞬間なのか。

 今までその言葉を口にできる時は沢山あったのに。

 これからも沢山あった筈なのに。



 どうして、今なのだろうか。



 彼女の背中に回そうとした腕を下ろす。

 瞬間、裕人の全身から力が抜けた。



「ありがとう。私は、君に救われた」


 裕人から離れてそう微笑む彼女。


 そしてゆっくり裕人と距離を開けた彼女は両腕を上げた。

 彼女の背後にはいつの間にかオールバックの男が立っていた。その背後には他の討魔師も控えている。


 その状況に裕人は膝から崩れ落ちた。


「抵抗はしない。大人しくする。だから、彼には手出しをしないで欲しい」


 きよの言葉に討魔師達は困惑を表情に浮かべながら顔を見合わせる。そこへ、


「兄さん、彼のことは俺に任せて欲しい」

 と誠が現れてオールバックの男に主張する。


 それを見た男は「わかった」と口にしてからきよに近付き、服の内側から取り出した鎖で彼女の身を拘束した。


 そのまま複数の男に連れられてきよの姿が次第に見えなくなっていく。

 それを前に、裕人はただ地面にひれ伏した。

 自分の無力さを呪い、行いを悔やんで嘆いた。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 悲しみと怒りに満ちた叫び声が山に木霊する。


 ここに、裕人ときよの物語は幕を閉じる。











 ♦♦♦



 討魔師に捕まり、最初に始まったのはきよの殺害であった。


 きよの身を滅ぼす為に様々な事が試行錯誤されたが、結果は全て同じだった。どのような方法でもきよを殺すことは出来ず滅する事も出来なかった。


 きよの扱いに困った連中はきよを牢獄へ閉じ込めることできよの身を封じた。冷たい石の壁と鉄の柵に囲われた暗い牢獄だ。

 術式による封印もこの身には影響を与えなかったからだ。


 だが、普通の人間を拘束できる方法ならばきよの存在を縛る事ができる。そう気付いた彼らはきよを牢獄に入れる事を躊躇わなかった。


 相手が妖であるなら容赦はしない。それが討魔師という存在だからだ。

 だが、きよの身は人とも妖ともとれない、歪な存在。故に彼らもその扱いに困っていた。


 牢獄に入れられてからは退屈な日々が続いた。

 きよに許されたのは人としての最低限の生活のみ。

 呼吸をすること、食べること、排泄すること、眠ること。

 それだけだ。



 食事は丁寧なことに毎日三食、決められた時間に運び込まれてくる。食事が運び込まれる時だけ牢獄から見える大きな扉が開かれる。

 それ以外、きよが牢獄以外の空気に触れることはない。


 脱獄することは叶わず、そうする気力も存在しない。最初はここに閉じ込められて一日が経過する事に数字を数えていたが、今ではそれも止めてしまった。

 だから、きよは自身がここに閉じ込められてからどれ程の年月が経過したのかわからなかった。


 今日も扉が開かれる。運び込まれる食事は質素なものばかりで味気がない。

 食べずとも死ぬことはないので食べないことも多い。






 ✕✕日が経過した。

 だが、その感覚もきよからは失われた。昔を思い出し余韻に浸る事が多くなった。

 ここは退屈すぎる。それでも、痛みを常に与えられることはないから、あの施設よりはマシだと思えた。

 今日も扉が開かれて食事が運び込まれた。







 ??日が経過した。

 ここに来たばかりの頃は彼の事ばかりを考えていた。

 だが、今では彼の事も思い出さないようにしている。幸福はいつか終わる。そう知っていたから。

 だから、大丈夫。

 彼との鮮烈な思い出も、いつか色褪せる時がくる。

 もう、自分の幼少期を思い出せないように。




 ざっ、ざざ。


 頭の中で雑音が響いた。









 ◼️◼️日が経過した。


 もう思い出せない事が増えた。

 ボーッと何も考えないで過ごすことの方が多い。その方が楽なのだ。

 ここは退屈だ。それでも楽に生きられる。

 ここには楽しみがない。嬉しいこともない。悲しい出来事もない。怒れることもない。

 ここは、まるで灰色の世界だ。











 ████日が経過した。


 ただ生きることに意味があるのか、わからなくなった。

 ずっと同じ日を繰り返している。

 変化がない。老いることもなく死ぬこともないのが苦しい。

 なぜ人と同じ時を生きられないのだろう。

 前より目を閉じている時間が多くなった。



 ―――あぁ。もう終わって欲しい










 █████が経過した。


 今日も扉が開かれた。

 そこで食事の時間が来たことを知った。

 眠ることも食事をとることも意味がない。


 次第に呼吸することにも意味がなくなっていく。それでもこの命を絶つことはできない。


 コツンと足音が響く。その音は次第に大きくなっていき柵の手前で止まる。


 食べもしない食事を毎日運んでくるのだから、ここもよくわからない場所だ。

 きよは柵に背中を向けたまま目を閉じている。

 最近はずっとこんな感じだ。

 だから、きよの背後に立つ人間は大いに戸惑った事だろう。




「お待たせしました」


 唐突に話しかけられる。その音は今でも耳の奥に残っている懐かしくて愛おしい声。


 その瞬間、まるで魔法がかけられたみたいに止まっていた時間が動き出す。それは彼女という存在の再生にも等しかった。


 ゆっくりと、恐る恐る振り返る。

 そこには、脳裏に焼き付いた愛しい少年の成長した姿があった。最早、少年とは呼べない。長い時間を掛けて成長し老いたその姿に胸が激しく叫んだ。

 逞しく成長し貫禄のある姿。皺と白髪が目立つ顔。だが、そこに含まれる優しい微笑みはあの時と変わっていない。


 そんな彼を前に、愛おしさが溢れ、瞳から雫が零れる。



「………どう、して?」



 きよの問に青年は微笑みながら口を開いた。


「今度こそ、私の全てをかけて貴女を守ります」





 あの日、きよを失った直後。


 嘆き悲しむ裕人に誠は一つの提案をしてくれた。

 それは裕人が誠の弟子になって討魔師となるというものだった。裕人は迷うこと無くそれを選択したのだ。


 それから地獄のような日々が始まった。

 討魔師となり、黒間家に認めてもらう為に自身の身体を鍛え上げた。血反吐を吐き、挫折を味わいながらも諦めることなく挑み続けた。

 そして、五十年の月日が経過してしまった。



 だが、漸く黒間家に討魔師として認められ、この牢獄に入る事も許されたのだ。





 灰色の世界は音もなく崩れる。


 白椿のように美しい彼女は涙で顔を汚して頬をほころばせる。

 それは何よりも綺麗な光景だった。それを目に焼き付けた裕人は錠に手を掛けて持っていた鍵を使って扉を開く。






 ここに、誓いは果たされることとなる。


白椿の花言葉は「完全なる美しさ」

人魚の肉を食べて不老不死になった伝説上の人物、八百比丘尼。

白い椿は八百比丘尼を象徴する花として伝承されている地域があるとかないとか。


この物語はその伝承から構成しました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ