種006
闇が迫る川岸の岩影。
男女二人の体が近づく。
四郎と楓の二人だ。
「四郎、その腕はどうした」
四郎は、汚い布の三角巾で右腕を吊っている。そんな四郎が、器用に肩をすくめた。
「鬼神のおかげだ」
「鬼神のおかげ?」
「ああ、鬼神を奪って逃げる時に、鬼神の右腕が吹き飛ばされた。そしたら、このざまだ。俺の右腕も、動かない」
「治らないのか」
「いや。少しずつだが、動かせるようになってきている。だが、もとどおりに動かせるようになるには、時がかかりそうだ」
四郎が、楓に手のひらを閉じたり開いたりしてみせる。
「そうか」
「楓こそ、その右腕はどうした」
楓は、右腕を吊ってはいないが、右腕を庇うように左手を添えている。目ざとく四郎が見つけた。
「…」
「教えろよ」
「布の力に負けた」
「なるほど。女の体では、布の力を使うと体に荷がかかり過ぎて、体を壊すってことだな」
「女だからではない。人の体では、布の宿る鬼の力に敵わないだけだ。男だとて同じように敵うまい」
「…」
「…」
「無理するな」
「わかった」
「鬼神を盗めたのかを聞かないのか」
「盗めたのだろう」
「まあな」
「…」
「鬼神を見るか」
「見る」
四郎は、「相変わらず、無愛想だな」という言葉を飲み込んだ。
表情が変わらない仮面に言っても仕方ないと諦め、左手を振って楓についてこいと促す。
四郎は、楓が後ろについてくるかを確認せずに、鬼神を隠した方向へと歩いていった。
右腕のない鬼神が、闇の中で片膝をついて頭を垂れている。
鬼神は、のっぺりとした南蛮風の兜と鎧の作りだ。飾り気がなく実用本位のように見える。
鬼神の胸にある木瓜の紋だけが、月の光を浴び赤く浮かび上がっていた。
「これが、鬼神か」
影が、四郎の背中に問う。
足音を立てずについてきた楓だ。
「そうだ」
「右腕がない」
楓が、何もない鬼神の右腕の付け根を見上げる。
「布を切った跡があるな」
振り返った楓の仮面が、四郎を恨めしげに見る。
「腕を吊るために頂いた」
四郎は、そう言って三角巾を揺らす。
「四郎、…」
「腕の部分の布は、付け根から全部切って頂いた。そのくらい頂いても罰は当たるまい。あいつには言うなよ、楓」
「…」
「そうだ、鬼神に乗ってみるか。これは、面白い仕掛けだぞ。兜にある穴から外を見ずとも、外を感じる仕掛けだ。試してみろ」
「止めておく。そろそろ、坂井様が現れる頃合いだ。いつもの岩まで戻るぞ」
四郎は、また、肩をすくめて同意を表した。
岩まで戻り、しばらくすると二人の雇い主である坂井大膳が現れた。
髪は薄くなり、頬の肉は垂れ下がり、目は黒く落ち込んでいる。坂井大膳という男は、そんな見た目の男だった。
四郎と楓は、鬼神のように片膝を地につけ、頭を垂れて雇い主を迎える。そして、大膳を鬼神の所まで案内した。
「おお、これが鬼神か」
大膳が、闇に浮かび上がる鬼神へと寄り、感触を確かめようと鬼神の足を撫で回す。
「ん、鬼神に片腕しかないだと。四郎、これは一体どういう事だ!」
「鬼神を奪って逃げる際に、織田家の森という武将に右腕を破壊された」
「森だと」
「知っていると」
「良く知っておるわ。森可成めは、信長の家臣で、儂を清洲の城から追い出した者の名だ。奴め、またしても、儂の邪魔をしおるか」
「…」
(邪魔も何も、鬼神を盗んだのは俺たちだがな)
坂井大膳は、信長を嫌っている。
主君を謀略で殺され、居城からも追い出された。
今は、自分のことを今川家の客将だと言っているが、今川家には相手にされていない。
順風満帆であった己の境遇全てが、信長のせいで崩れ落ちたと考えている。
信長を殺したいほど憎み、信長は尾張を横取りした偽物の国主だと言いふらしている。
そんな坂井大膳を、四郎は覚めた目で見る。
「坂井様は、これから今川に」
四郎は、鬼神の右腕がないことを咎められないように話を変えた。
大膳は、咎め始めると、ねちねちといつまでも咎めの言葉が終わらないのだ。そうなっては、敵わない。鬼神を盗む指示をした時に、坂井が自慢げに話した内容に繋げられるようにと話を変えた。
「そうよ、鬼神さえ持っていけば、今川義元も儂を無下にはできまい。なにしろ、義元は、京に上る事を考えておるからな。鬼神の力を見せつけるまでよ」
「…」
「これまでは、今川の家臣どもも儂を馬鹿にしていたが、目にもの見せてくれる。もちろん信長にもだ。この鬼神で、儂を馬鹿にしてきた連中を皆、見返してやるわ。見ておれ」
大膳は笑う。
すっかり機嫌が良くなった坂井大膳は、狂気の高笑いで闇を震わせた。
つづく