種001 プロローグ 漂着した船
天文十二年(1543年)の秋口、種子島の浜に激しく損傷した船が打ち上げられた。
その船は、日の本には見られない巨大な船で、一目で異国の船だと分かる。
最初に発見した島の漁師は、好奇心にかられ船の中に入ることにした。
船の中には争った形跡があちらこちらに見られ、船員たちの死体はあるも、生きた人間を見つける事はできない。
しかし、船の中で奇妙な物を見つけ、慌ててその地を治める領主のもとへと走った。
その漁師の報告を受けた島の領主、種子島時堯は、すぐに行動する。
家臣らとともに船の打ち上げられた場所に駆けつけ、船の中を調べたのだ。
そこで、彼らは数々の驚くべき物を見つける。
最初に見つけたのは大量の繭であった。
どうやら、船の中で養蚕をやっていた形跡があったのだ。
その繭は、種子島の浦田の浜のような美しい海の色。
薄い青色の繭であった。
その色の珍しさもあり、領主の時堯は繭を近郊の農民に預け、育てることを考えた。
さらに、くすんだ色の反物を百ほど発見する。
普通の反物より、長く巻かれた物だ。
たくさんの木箱の中に虫除けの香草といっしょに収まっていた。
船主の部屋らしき所では、異国の文字で綴られた日記を見つけたが、読むことはできない。捨て置くこともできず館に持ち帰ることにした。
そして、最後に発見したのは像。
高さ三間(約5.4メートル)もある奇妙な二体の像。
種子島時堯は、初めは巨大な仁王像が船の中に鎮座されているのだと思った。しかし、それは間違いであった。
それは、南蛮風と唐風の甲冑の巨人。
一体は、十字の切れ込みが入った縦に長い菱形の頭部、日本の鎧とは異なりのっぺりとした金属製の甲冑の胴体、そして、胴体と同じ作りの手と足。
全体的に銀色でスッキリとしているのが、南蛮風の巨人だ。
かたや、もう一体は、唐風の兜を被った頭部。鼻や口がなく縦の切り込みが四つほど目の代わりに並んでいる。胴体上部には、胸当て、肩当てがあり、下部から腿にかけては、スカートのような腰当てとなっている。
最大の特徴は、極彩色と植物のような紋様。
日本の甲冑にも似ているが、唐風の巨人である。
そして、二体の大きな像の背には観音開きの扉があり、その扉を開けると、ちょうど人ひとりが立って入られる空間があったのだ。
その空間に人が入り、中を調べている時に、それは起きる。
像の腕が、動いた。
それを見た種子島時堯は、これは鎧だ、と直感した。
自ら乗り込み試してみると、案の定、像の手や足を動かすことができた。
動けと強く思うだけで、像の手足が動く。
種子島時堯は、船は解体するように命じて、発見した物を全て屋敷に持ち帰った。
翌日、種子島時堯は、島の鍛冶、大工を呼び集め、像一体の分解を命じる。
像が動く仕組みとはいかなるものか、同じように動く像を作れないかと考えたのだ。
その動く仕組みには、大切に保管されていた、くすんだ色の反物が関係すると考えていた。
像の胴体は、木製の骨格の外側に金属板が貼りつけられてあり、内側には木板が貼りつけられている。
その間に積層に縫われたくすんだ色の布が、胴体を覆うように張りつけてあった。
その布は、船の中で発見した大量の反物と同じ布である。
像の手足も分解してみると、そこには撚った布が使われており、動けと命じるとその布が収縮して手足を動かすことがわかった。
種子島時堯が睨んだ通り、くすんだ反物は意味のある物だったのだ。
持ち帰った反物のひとつを広げてみると、明商人が持ち込む反物と同じ長さ、五十ヤール(約45メートル)もある。
それは、日の本の数反分の長さがある異国仕様の反物。
その布が、像を動かす。
そして、大工たちの計算により、反物が百で動く像を百体作れるとわかった。
種子島時堯は、悩んだ。
この像を戦力として独占するか否か。
この像を使えば、戦が変わる。
普通の槍や弓を持った兵では、人の乗った像に敵わないだろう。
全てが、簡単に凪ぎ払われてしまう。
城とて同じだ。
人の乗った像の跳躍力は凄まじい。
軽々と門や城壁を飛び越えるのだ。
今までの砦や城では、人の乗った像を止めることはできない。
だが、過ぎたる力は、禍を呼ぶ。
種子島時堯は、独占より公開を選んだ。
富の独占は争いしか生まない。
特に狭い種子島では、戦になっても逃げ場がない。
秘匿しても、宗主たる島津家や、近年再び活発になった倭冦に嗅ぎつけられて、島が攻められたら一大事。そして、商人たちと言えど油断はできない。
あえて富を差し出し、富を売り出して、世から狙われることを回避する。
今、秘匿し独占したとしても、いずれ別の南蛮人が日の本に持ち込む。
であれば、差し出して島津家中での地位を上げる。
堺の商人に高く売りつけて、銭を得る。
種子島時堯は、そう考えた。
発見した像一体と反物七十、そして青い糸を吐く蚕を堺商人に売り、島で試作した木製像二体と反物十八を島津家に献上した。
残りは万が一にと、自家に保管することにした。
島津家も種子島時堯と同じ考えのもと、半数以上を京の将軍家に献上。
将軍のもとに木製像一体と反物十五が届けられた。そして、将軍家ゆかりの地で木製像が作られ、上洛した者たちへの褒美として下賜されていった。
時を同じくして、堺の町も木製像の製造を開始し、金のある領主たちに売り出していった。
そして、月日は流れる。
次回、鬼の棲む館