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眼下の雲

作者: 執毬 緑

 「ここにいたんだね」

少年は少女に微笑み、言った。

 ——真っ白。視界に入るもの全てが真っ白だった。

 円板状のドームがいくつも重なったような無機質で巨大な建造物がものすごい速さで流れる雲を突き抜け点々と存在している。少女はその建造物の一つ、他の者たちが「コーサシツ」と呼んでいる——、の上に座っていた。

「なにか見えるかい?」

流線型の建物の壁面を滑らないように少年はゆくりと歩いて少女の背後から近づいた。少女は微動だにせず眼下に勢いよく流れる雲を見つめている。

 少女は何も返さない。彼女の背中、服の隙間から覗く小さく折りたたまれた翼が返事をするように風に揺れていた。

「風が強くて気持ちがいいね」

少年は少女が返事をしないことを意に介さず続けた。

 風が強い。標高二千メートルはあるだろうか。気を抜いたら滑って雲の中に吸い込まれそうだ。

 少年と少女は同じような姿をしていた。齢十歳になろうかとする容貌。眩しいほど透き通った白い髪。そして病衣のような真っ白な服の隙間から覗く小さい翼。

「私を連れ戻しにきたの?」

十分に沈黙をおき、彼女は口を開いた。彼女は無表情だった。

「違うよ。僕は君がコーサシツに戻ることなんかには全く興味がないからね」

少年は笑顔のままそう言った。

「そう」

興味がなさそうに少女は返答した。

「自分で聞いといてその返事はヒドイなあ」

あははと少年は笑った。そのまま少年は上空を見上げた。

「コーサシツのヤツらはここには来れないもの。あなたに連れ戻す意志がないのなら私は構わないわ。それにあなたがここにいるのは私にとってありがたいもの」

「そうだね、確かに外に出でこれるのは僕と君だけだからね」

それから沈黙が続いた。コーサシツの中では大勢の白い服を着た大人たちがてんやわんやになって二人を探していたが厚い金属の壁と強風が騒音をかき消している。

「外はやっぱり気持ちがいいね」

「そうかしら」

「じゃあどうしてここにいるんだい?」

少年は笑顔を崩さず尋ねた。少女は少年の質問には答えなかった。

「あなたはにはナマエはあるの?」

少年は少し不思議な表情をした。

「JPN-1-53-aこれが僕のナマエだよ。君はJPN-1-53-bだろ?」

「それはナマエじゃないわ。ただの番号よ。ナマエはつけた人の想いが込められているものよ。特に人のナマエにはね」

少年にはその言葉が良く理解できなかった。人の想いという抽象的な考えをさも少女が人間であるかのように言ったからだ。

 少年はしばらく沈黙した。少年が知りたいと願った少女のの行動の理由から、遠ざかった気がしたからだ。ここで初めて少年の表情が曇った。

 少女が口を開いた。

「私があなたにナマエをつけてあげるわ。そうね——」

少し少女は考えるとこう言った。

「シェルティなんてどうかしら」

「シェルティ!いいナマエだね!シェルティ!シェルティ!」

少年は満面の笑みで何度も少女がつけてくれた自分のナマエを復唱した。

「じゃあ僕も君にナマエをつけてあげるよ!」

少年は少女につけるにふさわしいナマエを考えた。しかし、全く思いつかなかった。少年にはナマエという概念がまだよく理解できていなかったからだ。少年はうーん、うーんとしばらく唸っていた。すると少女が口を開いた。

「あなたはもう戻りなさい。ナマエの話はもう忘れて私たちは人ではないもの」

「忘れないよ。僕はシェルティで、君は——……」

少年は今にも泣き出しそうな顔で言葉を詰まらせた。

「ね?私たちは何ものでもないもの。特に私はね」

視線を逸らさず少女はそこにいるものに対して強く言った。少年はますます少女が何を言っているのかそして、考えているのか分からなくなった、混乱した、悲しくなった。

「そうだね……。僕はもうコーサシツに戻るよ」

そう少年は言いのこし少女から離れていった。

 少女はまだ眼下に流れる雲をまっすぐ見ていた。




 数日前からのことだ。少女がコーサシツのどこかの部屋に忍び込んだときのこと。その部屋の入り口には何か文字が書かれていたが彼女にそれは読めなかった。

 部屋の外で少女を探す声が聞こえる。少女はできる限り音を立てないようにゆっくりとその部屋の奥へ歩を進めた。その部屋には明かりがなく真っ暗だったが少女の目にははっきりと光を捉えることができた。その部屋にはたくさんの紙があった。その紙はある程度の枚数でひとくくりとして綺麗に装丁されていた。そしてその一枚一枚に黒い模様がついている。

 少女はそこで初めて本を知った。少女はそれらを発見してから怪しまれないようにこの部屋に通った。

 文字はすぐに読めるようになった。この部屋が図書館であることもすぐに理解した。人の哲学と世界観を理解するのには苦労したが、それらを理解した少女の知識は驚異的なスピードで増大していった。そうした中、彼女の好奇心は外界——考査室の外へ向かっていた。外の世界には実際に何があるのだろうか。それが気になって仕方がないのだ。

 しかし、それと同時に自分の存在に対して疑問を抱き始めていた。自分たちが人にシェルティ——モルモット、として利用されていると知ったからだ。

 今日のことだ、少女はいつも通り図書館へ侵入した。しかし、今日は様子が違った。ゆっくりと扉を開いた少女の目に大勢の白衣を着た研究者たちが入り込み、その中の一人と目があった。

 少女の反応は速かった。扉をすぐに閉め、一度の跳躍とともに廊下の壁の大部分を占める強化ガラスを力一杯叩いた。ガラスは約五ミリ四方程の細かい粒となって崩れた。少女の体は廊下から外へと向かう強風とともに外へ放り出され急激な気圧の変化が彼女の体を襲った。しかし、人ではない少女には大した衝撃ではない。

 少女は器用に翼を動かした。始めて動かした翼とそれを撫でる風、眼下に広がる雲の大海。少女は初めての光景にココロがとくんと脈動した。

 少女は考査室が入る建造物——、白い円盤を沢山重ねたような建物、その天辺にたどり着いた。

 彼女は一つ一つ状況を落ち着きながら整理していった。考査室に在籍する研究者のほとんどがあの図書館にいた。図書館へ出入りできる扉は一つだけ。人は急激な気圧の変化に耐えられない。ここにはしばらく彼らは来れないだろう。

 彼女は一息つくと建造物の天辺から雲を見下ろした。あの厚い向こうには彼女の知りたいもの、見たいものが沢山ある。

 彼女は自らの好奇心と役割の間で葛藤していた。

 しばらくすると、少年の声が聞こえた。

「ここにいたんだね」




 少女はまた一人になった。

 少女は立ち上がり、折りたたまれた翼を大きく広げた。彼女の翼は強い太陽光線を目一杯浴びた。

 少女は目を瞑り、空を見上げた。さらに大きく翼を広げ、大きく手を広げ、深く深く、息を吐き、そして吸った。

 強い光に照らされた彼女の表情は、人生で始めて明るくなった。少女は世界の全てが己の人生を賛美しているかのように感じた。

 少女はその体勢のまま倒れこんだ。少女の体は風を切り、眼下の雲に飲み込まれていった。

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