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三月の空 side:Novel

作者: 郁花




 恭ちゃんの、夢を見た。




 恭ちゃんの夢を見て目が覚めた朝は、現実と夢の境界線がわからなくて、思考も身体もぼんやりとして重たい。夢で見た出来事は私の作り事なのか、それとも忘れていた記憶なのか、まるで判別できないほどに、それは精巧に緻密でリアルだ。


 例えば、近所の公園の砂場でのこと。ぽてぽてと歩く幼い恭ちゃんが、私を「かなこ」と呼んだ、その瞬間、いつも朗らかな恭ちゃんのおばさんが恭ちゃんに容赦ない拳骨を落とした。

『あんた他所様のお嬢さんを呼び捨てにするなんて、そんな真似はかなちゃんを嫁さんにもらってからにしなさい』

 恭ちゃんはそりゃあもうわんわん泣いて、私はおろおろして、私のお母さんはまあまあと恭ちゃんのおばさんを宥めてた。

 それ以降、恭ちゃんは私を「かなちゃん」と呼んだ。このエピソードは私の一番古い記憶であり、思い出せる限りの一番小さい恭ちゃんだ。同い年の子供がいることで母親同士が仲良かった私達は、物心つく前から毎日のように一緒に遊んでいた。いつも一緒だった。それが当たり前だった。


 例えば、幼稚園の制服を着た恭ちゃんと私。えんじ色のベストとベレー帽、白いタイツ。当時、私は同い年の子の中で一番背が高かった。四月生まれの私に比べて、三月生まれの恭ちゃんは幼稚園でも目立つほど小柄で、一緒に遊んでいると大抵私が姉だと間違われた。でも恭ちゃんは誰よりかけっこが速くて、縄跳びも上手で、だから近所の子供グループで遊んでいても、恭ちゃんを馬鹿にする子は誰もいなかった。

 一方の私はかけっこも縄跳びもそこそこに、本を読むのが何より好きで、あんたはポテトチップスと絵本を与えておけばまあ静かな子供だったわよと、お母さんが昔の話をする度にそう言うくらいの本の虫。そのおかげか小学校へ上がる前にして、ひらがなもかたかなも、小学校低学年程度の漢字も、私は苦労もなくすらすらと読めていたし書いてもいたようだ。

『ガムをふたつ、チョコひとつください』

 でもそんなのは、駄菓子屋ですらすら計算してお菓子を買う恭ちゃんと比べたら、本当に大したことではなかったと思う。皆からお小遣いをほんの少しずつ集めて、より多くのお菓子を皆で均等に分けれるように買うのは、いつも恭ちゃんの担当だった。


 例えば、赤いランドセルを背負って俯いて歩く私と、急ぎ足でどんどん離れていく黒いランドセルの恭ちゃんの背中。それは小学校時代の通学路。一緒に帰った最後の記憶。

 ある日、お互いを「恭ちゃん」「かなちゃん」と呼び合う私達を、クラスの男子達が囃し立てた。何を言われたかはもう覚えてないけれど、そんなふうにからかわれるのはものすごく嫌で、何か言い返してやりたかったのに何を言っていいのかわからず、結局何も言えなかった。恭ちゃんも何も言わなかった。でもものすごく怒っていた。話し掛けることを躊躇うほどの怖い顔をしてた。

 恭ちゃんはその日を境に、私を徹底的に避けた。一緒に遊ぶことも、一緒に帰ることも、「かなちゃん」と呼ばれることすらなくなった。どうしても用があって会話をしなきゃいけない時は、私を「田口」と呼んだ。そうなると私も「恭ちゃん」と呼ぶことが憚れて「相田君」と呼ぶようになった。それはとても悲しくて奇妙な違和感を感じたけれど、それが普通のことで、きっと正しいことなのだと受け入れた。

 翌年はクラスも分かれて、私達はすっかり他人になった。


 例えば、そう、あれは夕暮れが差し込む、誰もいない廊下。野球部の練習の喧騒に混じり、吹奏楽部の楽器を吹き鳴らす音が遠くから聞こえていた放課後。

 修学旅行の実行委員会か何かだったと思う。各クラスから二名ずつ選出された十名の中に私と恭ちゃんがいて、特に恭ちゃんは委員会の副委員長に選ばれて毎日とても忙しそうだった。

 それは数年ぶりの恭ちゃんとの接点だったけれど、だからと言って特に会話らしい会話もなく、同じ実行委員ってそれだけで、それ以上もそれ以下もなかった。私達は相変わらず「他人」だった。中学生に上がってもクラスはずっと別々、当然一緒に遊ぶこともなく話すこともなく、そうやって何年も過ぎていたのに、なのになんでだろう。

『恭ちゃん待って』

 クラスで集めたアンケートの集計結果を提出しようとして、廊下を足早に歩く恭ちゃんの背中を見つけた私は、咄嗟にそう呼んでしまったのだ。「相田君」ではなく、私の口から出てきた言葉は「恭ちゃん」だった。

 案の定、振り返った恭ちゃんはとても不機嫌だった。怖い顔だった。舌打ちまでされた。私は叱られた子供みたいにすっかり縮こまって、ごめんなさいと小さく呟いた。

『えっと、あの…相田君、これ』

 おずおずとアンケートの集計を差し出すと、奪うような乱暴さでそれを受け取った恭ちゃんは、くるりと背中を向けてボソリと呟いた。

『…勝手に好きに呼べばいいだろ』

 え、と聞き返した私に、母さんがうるさいんだよ毎日毎日、と恭ちゃんは低く唸った。

『でも皆の前ではやめろよ、いいな』

 それだけ言って、恭ちゃんは歩幅広く廊下を歩いていく。私はひとり立ち尽くして、その背中を見送るしか出来なかった。

 私達が他人同士になって幾年経っていても、母親同士の付き合いは変わらず続いていたのは知っていた。でもまさか恭ちゃんのおばさんが、事ある度に『我が家は男ばかり生まれてつまらない、娘が欲しかった』と家族にぼやいては、小さい頃よく家に遊びに行っていた私を引き合いに出していた、なんてことを知るのは、もう少し後のこと。かなちゃんかなちゃんと連呼するおばさんのおかげで、恭ちゃんにとっての私はいつまでも忘れ去られることなく、「他人」ともちょっと違う、そんな位置にいたようだ。

 私だけが、恭ちゃんを他人だと思っていた。思い込もうとしていた。なんて馬鹿みたいな話だろう。ずっと「田口」と呼ばれる度、「相田君」と呼ぶ度につらくて悲しかった私はどうしたらいいんだろう。

 その日、私に「恭ちゃん」が戻ってきた。涙が出そうだった。


 例えば、そう例えば。あれは受験を控えた夏休み。塾の帰り。私は隣のクラスの男子に呼び止められた。暗がりに浮かぶ街灯の光の下、生まれて初めて告白をされた。付き合って欲しい、と言われた。思いも寄らない突然のことに私は頭が真っ白で、何も答えることが出来なかった。

 だって話したこともない相手に付き合ってほしい、と言われてどうすれば良かったの。友達から、とか、そんなこと言える余裕なんてなかった。

 真っ赤になって困惑する私、俯いたまま顔を上げない彼。お互いが口火を切るのを待っていた。永遠にも似た沈黙の中、私は視線をうろうろと彷徨わせてた視界の端に、彼の肩の向こう、暗闇の駐輪場で、こっちをじっと見ている恭ちゃんを見つけた。

 目が合った、と思った瞬間、恭ちゃんはすいっと目を逸らして顔を背け、背中を向けた。自分の自転車に跨って、勢いよくペダルを漕いで行ってしまった。

『…ッ、ちが、恭ちゃん違う、待って、恭ちゃん!』

 私は悲鳴みたいに叫んで駆け出した。恭ちゃんを追いかけた。猛スピードで走る自転車相手に追いつくわけもなかったのに、私は必死で追いかけた。

 今思い返せば、告白してくれた彼にものすごく酷い態度をとったと思う。返事も返さず、他の男を脇目も振らずに追いかけた。逆の立場だったら立ち直れないと思う。でもその時の私は、一番見られたくないひとに見られたというショックと、きっと勘違いしてるだろう恭ちゃんに誤解だと弁明したいという一心で、恭ちゃんの背中を追いかけることしか考えられなかった。

 恭ちゃんがついに暗闇に溶けて見失って、汗みどろの私はその場に崩れ落ちて蹲り、声を上げて泣いた。恭ちゃん、恭ちゃんと繰り返しながら泣いた。

 私は恭ちゃんが好きなのだと自覚した夜だった。


 例えば、やはり恭ちゃんの背中。同じ詰襟の黒の学ランなのに、中学の時とは比べられないくらいに大きい恭ちゃんの背中。背だっていつの間にか見上げるほどに差がついた。

 恋を自覚した翌朝、私は志望校を恭ちゃんと同じ、市内で一番の進学校に変えた。当時の私の成績からしたら背伸びし過ぎだったけれど、私は死に物狂いで頑張って、恭ちゃんの背中を追いかけた。恭ちゃんの近くにいたかった。合格発表の日、私の受験番号を見つけた時は嬉しくて嬉しくて大泣きした。

 二年生になって、小学生の時以来の同じクラスになった。神様なんて信じてなかったけど、もう何度お礼を言ったか知れない。クラスメイトという響き、学校に行けば教室に恭ちゃんがいる毎日。それだけで幸せで、幸せで、きっとこれから先の未来と比べても、あれだけ毎日が幸せだと思う日々はないと思う。

 恭ちゃんが眼鏡をかけ始めたのはその頃。今度は生徒会役員として毎日忙しくしていた。なのに成績もいつも上位で、数学はダントツ一位で、体育祭や球技大会では相変わらずヒーローで、だから恭ちゃんは下級生にも結構人気があって、それはちょっと、と言うかだいぶ嫌だったけど、私は私でそれどころではなく毎日が必死だった。その頃の私は周囲から「恭ちゃんの幼馴染」という認識をされていて、恭ちゃんが目立てば自然と私にも注目が集まるのだ。想像してみて欲しい。私みたいに地味で目立たないタイプが、気づけばいつも知らない女の子に指をさされてヒソヒソとか、居たたまれなくて日々心が擦り減る一方だった。それでも負けるものかと、勉強だって頑張ったし、身だしなみも気を遣ったし、そうやってささやかながら予防線を張ってみたけれどまるで効果はなく、手紙とかバレンタインのチョコとかもらってる恭ちゃんを見るのはものすごく嫌だった。

 でも、それでも、皆のいない時だけだけど、恭ちゃんと呼ぶ時の幸福感を、どう言い表せば良いだろう。私だけが恭ちゃんを「恭ちゃん」と呼べるのよ、と世界中に言いふらしてやりたかった。おばさんに会いに行くという建前で、私は恭ちゃんのおうちに遊びに行く。恭ちゃんちは共働きのおうちだったから、料理とか頑張って覚えて、さりげなくご飯差し入れたりとか、そんな女の子は私だけ。私が一番恭ちゃんの傍にいれる女の子なんだと、そんな優越感をこっそり噛みしめていた。

 ずっと見てた、ずっと追いかけてた。くじけそうな夜もあった。でもそんな私を支えていたのは恭ちゃんの背中。そう、恭ちゃんの背中を見る度思うのだ。追いかけなきゃ、と。

 置いて行かれるのは、二度もあれば充分だった。


 例えば、…例えば、卒業式の後。皆が花を抱えながら友達同士で写真撮り合ったりしてる時、私は恭ちゃんを捜していた。だから、私が誰より先に気づいた。

 恭ちゃんがいない。

 私は恭ちゃんを捜して学校を飛び出した。恭ちゃんの家への道を辿る。走って、走って、そうしてやっと歩道橋の上から恭ちゃんの背中を見つけた。

『恭ちゃん待って!』

 涙の滲むように叫んだ声は車が行き交う音に掻き消されて、恭ちゃんには届かないのだろうと絶望した。でも恭ちゃんは振り返った。私を見た。その奇跡が、このまま死んでしまうかもと思うくらいに嬉しかった。

 私は階段を駆け下りた。恭ちゃんは立ち止まって私が来るのを待っていてくれた。

『恭ちゃんは、皆と打ち上げ行かないの、この後カラオケとかゴハンとか言ってたよ』

 息も絶え絶えに私が尋ねると、恭ちゃんはゆっくり歩き出す。私もその後を追いかける。

『行かないよ。夕方に発つから』

 その背中を追う足が止まった。

『え…』

 混乱した。空気が上手く吸えなかった。声が震えた。

『何それ…』

『荷物、もうあっちに送ったんだ。さっさと向こう行って荷解きしたいし、それにバイト探さないと』

 世界が、灰色になった気がした。

 わかってた。卒業式が来たらお別れだって。恭ちゃんは上京して国立の大学に行く。当然今度も追いかけたかったけれど、それはなんか違うって思ってしまったからやめた。だって恭ちゃんはやりたいことがあって行くのに、私は恭ちゃんの傍にいたいから行くだなんて、それは間違いだと思ってしまったら追いかけることなんて出来なかった。

 高校まではそれが許されたと思う。でも両親に学費とかたくさんお金出させて恭ちゃんを追いかけるだなんて間違ってる、それに。…それに、そんなのが知られたら、恭ちゃんは絶対私を軽蔑する。恭ちゃんは出来るだけ家に負担かけたくないって、受験を控えていてもバイト続けて学費を貯めていたようなひとだ。それをずっと見ていたのに、そんな真似出来るわけなかった。

 恭ちゃんが好きで、好きだからこそ嫌われたくなくて、私は自分の将来と進路を真剣に考えて、恭ちゃんを追いかける以外の選択肢を選ばなくてはいけなかった。皮肉にもその考えはまさに正しくて、恭ちゃんは私の夢を応援する、頑張れって笑ってくれた。それが嬉しくて誇らしくて、悲しくて泣きたかった。

 でもまさか、こんなすぐ行ってしまうなんて。

 私はグッと奥歯を噛みしめて、恭ちゃんの背中を追いかける。

『恭ちゃん、私お見送りに行っていい?』

 は?と恭ちゃんが驚いた顔で振り返る。

『打ち上げ、行くんだろ?』

『恭ちゃん行かないなら行かない』

 即答した私に、恭ちゃんが目を見開いた。それを見て、私は慌てて取り繕った。

『えっと、その、だって、こんな機会でもないと空港なんて行かないし、空港スイーツとか買いたいんだもの』

『川田達と卒業旅行行くって言ってなかったか』

 怪訝そうに眉を潜める恭ちゃんに、私は拗ねた顔で唇を尖らせた。

『…やめたの。皆にごめんって言った。定期代貯めたいから行けないって』

 私は進学先は八十キロ先の短大だ。一人暮らしするか通いにするか迷った末、とりあえず通うことにしたのだ。でも学割があっても電車と地下鉄を乗り継ぐそれは、調べてみたらものすごく高額だった。一人暮らしや寮に入った場合の生活費とそんな変わらないくらいに。

『恭ちゃんみてたら、定期代くらい自分で出そうって思ったから断った。沖縄、行きたかったけど…』

 お母さんも卒業祝いに旅費ぐらい出してくれるって言ってくれたけれど、バイト休みたくないって断った。ものすごく行きたかったけど我慢した。恭ちゃん云々ではなく、私がそう決めた。だから未練は山ほどあるけれど、後悔はしていない。

 そうか、と言って恭ちゃんは少し困った顔で笑った。

『なんか悪いことしたな』

『恭ちゃんは何も悪くないよ、私が勝手にそう思ったんだもん』

 そう言うと、恭ちゃんはそれ以上来るなとか駄目だとは言わなかった。歩くスピードが私に合わせてゆっくりになった。私はそれが嬉しかった。

 家に帰ってすぐ出かける準備をした。次第に黒い雲に厚く覆われていく空を見上げて、そう言えばと思い出す。数日前からずっと、今日の午後から関東以北全域が大荒れになると、ニュース番組の天気予報士が深刻な顔をして注意を呼びかけていたことを。

 いっそ飛行機、飛べなくなればいいのにと、そう密やかに願いながら家を出た。

 恭ちゃんの家に着くと、ちょうど恭ちゃんが玄関から出て来たところだった。さっきと同じコートとマフラーと靴、それと黒のトートバック。学生鞄と制服じゃないだけで、何も変わらなかった。まるで、ちょっとコンビニに買い物行くような、そんな姿だ。

『荷物、それだけ?』

『そ。これ以外全部向こうに送ってるから』

『…そっか』

 私は恭ちゃんの半歩後ろをついて行く。近くのバス停から空港行きのバスに乗り、他愛ない話をしながらふと窓の外を見やれば、大粒の綿雪が降り始めていた。空港に降り立つ頃にはうっすらと雪が積もってるくらいに、どんどん雪は強くなっていく。

『なんか冬に逆戻りだな』

『ね。もう三月なのにね』

 空を見上げながら私達は笑う。笑顔を作りながら私は泣きそうなのを必死に堪えていた。もうすぐ、もうすぐ、恭ちゃんは行ってしまう。もう、今までのように会えない。会えない…

 空港内はひっきりなしに館内アナウンスが流れていた。欠航とか遅れとか条件付就航とか、そんな言葉がひっきりなしに飛び交っていた。

 ちょっと行って来る、と断って、私はトイレに飛び込んで鏡とじっくり向かい合っていた。乱れた髪を整え、マフラーの形を整えて、おかしなところはないか何度も確認した。

 決めていたことがある。恭ちゃんを追いかけることがもうできないのなら、しないんだと決めた時に、恭ちゃんに言おうと。この気持ちを伝えようと決めていた。このままこんなお別れだなんて嫌だ、せめてちゃんと終わらせようって。それに、それに、

 もしかしたら、て可能性を信じたいの。

 よし、と気合を入れてトイレを出て、恭ちゃんのもとへ向かう。

『ごめんね、待たせて』

『いや別に。…ほら』

 恭ちゃんは私に紙袋を差し出した。私は目を丸くしながらも受け取った。さっきまでこんなの持ってなかったよね、と見上げれば、恭ちゃんは笑った。

『先に買っておいた』

 えっ、と袋を覗けば、私が空港に着いたら買いたいとバスの中で話していた、有名チーズケーキのロゴが見えた。

『あ、じゃあお金払うね』

『いいよ』

『でも、』

『見送りに来てくれたお礼』

 そう言って笑う恭ちゃんに、私は胸が締めつけられる。もう心というより、心臓そのものが痛いくらいに。

『でも、でも…』

 納得出来ずに言い募る私に、じゃあコーヒー奢ってと恭ちゃんは傍らの飲料自販機を指差した。全然つり合わないよ、と思ったけれど、それ以上反論するのはやめた。長い付き合いだもの、こういう時の恭ちゃんの頑固さはよくわかってる。わかった、と渋々頷いて、私はお財布を取り出して自販機に硬貨を入れていく。

『ありがと、恭ちゃん…』

 恭ちゃんがいつも飲んでる銘柄の缶コーヒーを差し出すと、恭ちゃんもサンキュ、と言った。

『じゃあ俺行くから』

『…!』

『気をつけて帰れよ』

 たったそれだけを言って、恭ちゃんは保安検査場に向かって歩き出す。その呆気なさに息を飲む。

 私が告白の舞台に選んだこの瞬間を、恭ちゃんは普通の顔で踏みにじる。その温度差が悔しくて悲しくて、ぐちゃぐちゃに歪みそうな顔を唇を噛みしめることで堪えて、スウと息を吸った。

『恭ちゃん待って』

 いつも向けられるのは背中。その背中に向かって私は何度この台詞を言ったのだろう。そう思うと情けなくて目が熱く潤む。でもまだ駄目、泣くな私。今泣くのは卑怯だ。泣くな、泣くな、泣くな…

 恭ちゃんが立ち止まり、肩越しに振り返った。私を見た。その射抜くような真っ直ぐな視線に耐えられずつい俯いた。周りの喧騒と館内アナウンスがぐるぐる回り、打ちのめされそうな自分を必死に叱咤する。

『えっと、その、…』

 恭ちゃんが私を見てる。見てる。きっと真っ赤になってる私に気づいてる。

『か』

 ギュ、と目をつぶって搾り出した声は上ずっていた。

『帰ってきたら、連絡ちょうだいね。遊ぼうね』

 私は精いっぱい笑って見せた。精いっぱいの強がりだった。

 すると恭ちゃんは左手を上げて笑った。

『わかった、連絡するよ』

 でもそれだけだ。それだけ言ってすぐに保安検査場の列に消えた。一度も振り返ることなく、あっさりと私の前から消えた。

 もうどこにもいない。

『…最低』

 ボソリと呟いたら、涙がぼろぼろとこぼれて止まらなかった。

 言えなかった。伝えられなかった。言いたいことひとつだって言葉に出来なかった。

『卒業、できなかった、な…』

 嗚咽に言葉が滲んだ。周囲の視線が気にならなかったわけではないけれど、私は泣きながらバスの停留所へ向かった。外はいつの間にか夜を迎え、雪は風を得て横殴りの様相になり、空はオレンジ色の電灯に照らされて染められて明るくなって、それが憎らしかった。

 真っ暗な闇なら良かったのに。この終わらせることが出来なかった想いを飲み込んでくれたなら良かったのに。好きって、たったそれだけすら言えない私を覆い隠してくれたなら良かったのに。

 この惨めさを、この想いをどうか曝け出さないで。

 ごうごうと、飛行機のエンジン音が空から雪と一緒に降って来て、嗚咽を掻き消してくれたことだけが救いだった。






(あの日、どうやって家に帰ったんだっけ)

 私はベッドの上で膝を抱えて、その膝に額を押しつける。

 恭ちゃんの、夢を見た。

 恭ちゃんの夢を見て目が覚めた朝は、現実と夢の境界線がわからなくて、思考も身体もばんやりとして重たい。夢で見た出来事は私の作り事なのか、それとも忘れていた記憶なのか、まるで判別できないほどに、それは精巧に緻密でリアルだ。

 私の中の十四年分の恭ちゃんの記憶。どの記憶も真新しいもののようにはっきり思い出せるのに、十九歳、二十歳、二十一歳、二十二歳、二十三歳の恭ちゃんは思い浮かべることが出来ない。…当然だ、知らないのだから。

 恭ちゃんはあれから一度も帰省していない。連絡も途絶えて久しい。私達は今度こそ『他人』になったのだ。なのに、私は未練たらしく夢を見る。何度も、何度だって同じ夢を繰り返し、繰り返し。

 例えば、歩くことも覚束ない恭ちゃん。

 例えば、えんじ色のベストとベレー帽、白いタイツ姿の恭ちゃん。

 例えば、黒いランドセルを背負った恭ちゃんの背中。

 例えば、夕暮れの放課後。例えば、暗闇に溶けた恭ちゃんの背中。

 例えば、必死に背伸びして追いかけた恭ちゃんの、大きくなった背中。

 例えば、見送るしか出来なかった、三月の大雪の夜。連絡するよ、とそれだけ言い残した恭ちゃん。何も言えなかった私。一番最低な記憶。



 一番思い出したくない、夢を見た朝だった。






 図書館の敷地内の噴水の近くで、私はコンビニで買ったおにぎりをもそもそと食べていた。

 今日は最悪な一日だ。夢見も悪ければ、仕事も上手くいかない。お弁当作ったのに忘れるというおまけ付きだ。耐え切れなくてとにかく一人になりたくて、三月の寒空の下、こうしておにぎりを食べている。

 食べ終わったら、早く戻って遅れを取り戻さないと。そう思うのに食は進まず溜息しか出てこない。何もかも全部、あんな夢を見たせいだ、ともう一度溜息をつく。

「加奈子」

 二つ目のおにぎりに手を伸ばした時、名前を呼ばれて視線を上げた。

 いつの間にか、目の前にひとが立っていた。ラフだけどきちんとした格好をした男のひと、年は私と同じくらい。彼は腰から折り曲げて、私の顔を覗き込むようにして笑っていた。

 瞬間、私は目を大きく見開いて眼前の男のひとを見つめた。凍りついて動けない私に、彼は苦笑した。

「もしかして、俺のこと覚えてない?」

 面影はある、と思う。黒縁の眼鏡は燻したシルバーに、猫っ毛の黒髪はパーマをあててふんわりとしてアッシュブラウンに変わっているけれど。精悍な顔つき、がっしりとした体格はすっかり大人の男だったけれど、…

 でも、私の知ってる彼は、私を『加奈子』だなんて呼ばない。顎を擦りながらからかうような顔で笑ったりしない。

「酷いな。お前ついこの間まで、俺のこと恭ちゃん恭ちゃんって追いかけてたじゃないか」

 知らない。知るわけない。だって私の中に、二十三歳の恭ちゃんはいない。…こんな恭ちゃん、知らない。

 私は動揺を押し隠して、無理やり笑顔を作った。

「…あー、恭ちゃんかあ。え、なんかすごい久しぶりだねえ」

「思い出した?」

 隣いい?と言いつつ、そのくせ返事を待たずに恭ちゃんは私の隣に腰を下ろした。

 距離が、近い。

「昼メシ? 随分遅いな」

「うん…まあ、仕事忙しくて」

「そっか、大変だな」

「そんなことないよ、てゆか恭ちゃん向こうで就職したんでしょ? おばさんがちっとも帰ってこない連絡も寄越さないって愚痴ってたよ」

「ははっ、相変わらずお袋のやつ加奈子がお気に入りなんだな」

 快活に笑う恭ちゃんに、私は唇の端が引きつった。

(また加奈子、て呼んだ)

 おばさんのこと、お袋だなんて今まで言ったことなかったのに、と違和感を感じた途端、もやもやとした何かが心の底から溢れてくる。

 本当に、このひとは恭ちゃんなんだろうか。似ているだけの違うひとじゃないだろうか。

「笑い事じゃないよ。…まさか恭ちゃん、家に寄ってないとか」

「すぐ帰る予定だから。お袋の小言なんか聞きたくないしな」

 自業自得でしょ、とチクリと刺せば、加奈子も言うようになったじゃないか、と肩を竦めて飄々と流される。

 違和感、違和感、違和感。その例え様もない気持ち悪さに、私はひたすら作り笑いとどうでもいい話題を続ける。二個目のおにぎりを胃に詰め込み、休むことなくヨーグルトをプラスチックのスプーンですくう。

 苦痛だった。食事が、この不毛な会話が、恭ちゃんに似た誰かの隣にいることが。早く終われ、終われと念じてとにかくヨーグルトを食べる。食べる。食べる。食べ終わったなら、さっさと仕事に戻るのだ。そうとも、遅れた仕事を取り戻すのだ…

 ふと気づけば、恭ちゃんがじっと私を見ていた。窺うように、食い入るように。

「…何?」

「髪、伸びたな」

 警戒して尋ねたなら、恭ちゃんは少し笑ってそう言った。

 かみ。…ああ、髪か。

 私は結ばずおろしたままだった髪を撫でた。最近三十センチほど切り落とした髪だったけれど、そうか、高校生の時に比べたら長いのか、と私も少し笑う。

「そうだね、こないだまでもっと長かったんだけど」

 何だか少しだけホッとした。私が恭ちゃんに違和感を感じているように、恭ちゃんもまた私に違和感を感じているのかと思ったら、少し気が楽になった。

 その時だ。張り詰めていた緊張が緩んだ、その瞬間を狙っていたかのような不意打ちだった。

 恭ちゃんがスッと手を伸ばした。私の髪に触れるか触れないかのギリギリのところまで伸びて、空気の上から髪を撫でるように動いた。

「綺麗になった」


 ああ、

 もう限界だ、と思った。


 グシャリ、と。まだ半分近く残っているヨーグルトをコンビニの袋に突っ込んで、私は笑った。

「やだなあ恭ちゃん、すっかり都会のひとだね。昔はそんなこという人じゃなかったのに」

 どうせ誰にでも言ってるんでしょ、と冗談にして流そうとしたのに、恭ちゃんは肩を竦めて見せるだけだ。

「言わないよ、加奈子だから言ったんだ」


 どろりとした何かが、胸の奥から流れて私を浸食していくようだった。

 なんで、今頃そんなこと。なんで、今更。

 今更、


「…またまたそんなこと言って。まあ悪い気はしないから素直に受け取っておきますけどねー」

 私は無理やり会話を切り上げて立ち上がる。震えるかと思った声は意外に普通だった。

「じゃあ行くね、仕事戻るよ」

「そっか。今度連絡するよ」

 ピクリと肩が跳ねた。でも私はそれに気づかないふりをして笑顔で隠した。

「連絡ならまずおばさんにしなよね」

 そう切り返すと、恭ちゃんの次の反応を見届けることなく私は足早に立ち去った。図書館の煉瓦塀を曲がって、恭ちゃんから見えないところまで、早く、早く、早く!

 図書館の角を折れて、私はようやく立ち止まった。壁に張りつくようにしてそっと背後を窺えば、恭ちゃんはすっかり私のことなど興味の失せた顔で、ただ枯れた噴水を眺めていた。

 私の知らない、大人の男の顔をしていた。

 緊張がゆるゆると解けて、私は背後の煉瓦塀に体重を預けた。手持ち無沙汰に、お腹の前で手を組んで、指同士を絡ませる。

 『連絡するよ』。五年前と同じ言葉。私が五年間縋り続けた言葉。

 でも恭ちゃん、気づいていないんだね。恭ちゃんのデンワのアドレス帳にいる私は、とっくにどこにもいないんだよ。

 メールをするのはいつだって私。送っても送っても一度も返ってこなくて、気まずくて、だんだん間隔が長くなって、用がなければメールしてはいけないような気がして、だから、ケータイの盗難に遭った時に思い切って解約してキャリアも変えた、このことなら充分報告できる、と思って。なのに、そのメールは宛先不明で戻ってきた。慌てて電話しても、ただ無機質なアナウンスが流れるだけで。

 あれから四年。恭ちゃんが私のデンワに繋がらないことに気づいていない、ということは、五年間一度も連絡くれなかったんでしょう。約束したのに。帰ってきたら連絡するって、そう言ったくせに。

 なんでここにいるの、とか。いつ帰ってきたの、とか。なんで帰ってきたなら連絡くれないの、とか。聞きたいことはたくさんあった、言いたいこともいっぱいあった。なのに恭ちゃんは、

 恭ちゃんは、…

「…なんで、私だけ」

 ギリ、と握りしめていた指に力が入る。

 あれから五年だ。なのに恭ちゃんは、昨日ぶりに会ったような顔で笑う。私の知らない顔で、私を嬉しがらせるような言葉を無造作に言うのだ。私に無関心なくせに、そうやって私を平気で傷つける。

 私だけが苦しい。苦しい。こんなふうに傷つくのも、泣くのも、馬鹿みたいに繰り返し恭ちゃんの夢を見ては、会いたい会いたいって泣いて、泣いて、泣いて。

「もうやだ、こんなの…ッ」

 なんで忘れられない、なんで憎むことすら出来ない。なんでこんな、もう恋なんて綺麗な名前で呼べない気持ちを抱えて生きていかなきゃいけないの。

 あの日、五年前の卒業式の夜、想いを言葉に出来ていたらとっくに気づけていたはずだった。恋をしていたのは、私だけだった。わかっていたのに。

 なのに私は、またも期待している。今度こそ恭ちゃんは連絡をくれる。今度こそメールをくれるかも、電話をかけてくるんじゃないかって。そうして繋がらない電話番号とメールアドレスに気づいて、必死に私の連絡先を探して、『お前、デンワ変えたなら言えよ』と怒ってくれるのを待ってる。そうしたら私は、『先にデンワ変えたの恭ちゃんじゃないの、私はちゃんと言おうとしたもの』と言い返すのだと。

 …なんて馬鹿な私。そんなことあるわけないのに、わかってるのに、それでも都合のいい未来を想像してる。未だ私は、雪に混じってごうごうと飛行機のエンジン音が降る夜に取り残されたままだ。いつまでも卒業できない恋にすがりついて、恭ちゃんの名前を呼んで、泣きながら背中を追いかける。

 あの時、気持ちを伝えていたなら、違う未来があったのだろうか。

 泣き腫らした目で、空を見上げる。同じ三月の、けれどあの日とは違う、灰色の雲もなく雪も降らず、ただ澄み渡った青空を。

「……………き」

 あの日、言葉に出来なかった想いは、

「恭ちゃんが好き」

 あと何回、春を迎えたなら。










 お読みいただきありがとうございました。

 2015/06/28、北ティアにてコミカライズ分を合わせた「三月の空 fromK」を発刊予定です。よろしくお願いします。

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