「サンサーラ」
現人神達三人を打倒した後、ティアマトと彼女に付き従う数百の神々は分裂し、その場で争いを始めた。ティアマトまでもがそれに進んで参加し、忘れ去られた神々はそれまでの鬱憤を晴らすかのように同じ神を相手に暴れ回ったのだという。
「私はその一部始終を見ていました。あなた方が神々に打倒されてからずっと、私は土星での一件を見つめていたのです」
ブラフマーが自分の立ち位置とあれからどうなったかについてを祐二に説明していく。その中でブラフマーのしていたことを知った祐二は不愉快そうに眉をひそめた。
「見てたのに助けようとは思わなかったのか」
「私はいわゆる概念が形になったような物ですから、まだ決まった姿を持ってないのです。それに」
「それに?」
「私も地味神の集いの一人ですから」
「お前もかよ」
祐二が疲れたように言葉を吐く。しかし確かにブラフマーという神は聞いたことがない。
そんなことを考えていた祐二に対し、ブラフマーが続けて言った。
「さすがにティアマトのやることには同調出来ませんでしたが、だからと言って、あの時は現人神に加勢しようとも思いませんでした。同胞に刃を向けることは出来ませんでしたからね」
「まあそれもそうだよな」
「ですが今考えると、あの時無理矢理にでも止めておくべきだったと思います。そうであれば今頃こんなことにはなっていませんからね」
ブラフマーはそうこぼした後で説明を再開した。現人神達を数の暴力で葬った彼らは、その暴力を今度は身内に向けたのだ。
数百もの神が同時に力を解放したのだ。それがどのような結果を招くかは、神話に疎い祐二でも大方の想像がついた。
「破壊されたのか」
何が、とは言わなかった。この状況を見ればどれを指しているのか一目瞭然だった。
その祐二の問いかけに、ブラフマーは「その通りです」と答えた。
「誰が直接の引き金となったのか、何が原因でこのような事になったのか。今となっては何もわかりません。理性と良識を捨てた神々が思いのままに力を奮い、その結果こうなった。今わかっているのはこれだけなのです」
ブラフマーの言葉は、祐二の心に重くのしかかった。しかし同時にブラフマーのその言葉は、彼に一つの推論を立てさせた。
「理性と良識を無くした?」
理性を失わせる。
争いを生む。
不和と争い。
「エリス?」
祐二が呟く。まさかこれも、あの不和の女神がし向けた事なのだろうか?
「あいつが煽ったって言うのか?」
祐二が虚空に向かって問いかける。その言葉は著しく抽象的であったが、彼の心を読み、彼の言わんとすることを察したブラフマーは、それに対する明確な答えを用意した。
「私には詳しいことはわかりません。ですがエリスがそれまでの集いの中で神々に接触し、その心中に不和の種を撒いていたこともまた否定できません」
「それも今となってはわからない?」
「残念ながら」
悲嘆と諦念の籠もった声でブラフマーが答える。祐二も脳内に響くそれを聞いて、居心地が悪そうに顔をしかめた。
今更何をしようが状況を覆せない。それが一番歯痒かったのだ。
「うん……」
祐二の足下で眠っていた美沙がうめき声を上げたのは、まさにその時だった。祐二は咄嗟にその場に腰を下ろして美沙の肩を掴み、軽く揺さぶりながら声をかけた。
「美沙? 美沙!」
「う、うう……」
その声に反応するように、美沙が目を閉じたまま顔をしかめる。それから彼女はゆっくりと目を開き、その視界に祐二の顔を納める。
目を覚ますと、その目と鼻の先に祐二の顔が近づいていた。しかもその顔は茶化す余裕が無いほど必死なものだった。完全に意識を取り戻した美沙は何がどうなっているのかまるでわからず、パートナーの少年に肩を掴まれ必死の形相で見つめられたまま、ただ両目をぱちくりさせた。
「なに? どういうこと?」
そして唖然とした調子で声をかける。それを見た祐二は肩の力を抜き、大きく息を吐いた。良かった。こっちの方は大事にならずに済みそうだ。
「ちょっと、なんなのよ。いきなりどうしたってのよ?」
一方の美沙は、目の前でそんな態度を取った祐二を見て不安そうに問いかけた。まるで自分がそれまで死にかけていて、今になって息を吹き返したような、そんな印象を与えたからだ。
そしてそう思った美沙は不安げな表情のまま周囲に目をやり、さらに自分の周りで起きている異変にも気づく。彼女の不安はさらに強くなった。
「え? は? どういうこと? どうなってんの?」
「美沙、落ち着いて。ちゃんと全部順番に話すから」
本気で怯え始める美沙に祐二が声をかける。それを聞いた美沙は縋るような目つきで祐二を見つめる。
その雨に打たれた子猫のような目を正面から見つめながら、祐二が美沙に話しかけた。
「よし、まずは落ち着いて聞くんだ。ちょっとショックかもしれないけど、今から話すのは全部本当のことだ。とにかく落ち着いて、今の状況を受け入れるんだ。いいね?」
祐二の言葉に美沙が小さく頷く。それを了承と捉えた祐二は自分も一つ頷き、そして先程ブラフマーに言われたことをそっくりそのまま美沙に伝えた。
「冗談でしょ?」
それを聞いた美沙は顔を青ざめさせた。対して祐二は無言で首を横に振り、それによって美沙の顔はさらに悲劇的なものへと変わっていった。
「もう何もないってこと?」
呆然とした顔で美沙が尋ねる。祐二は今度は首を縦に振る。美沙は一瞬表情をひきつらせ、それから全てを諦めたような顔になって俯き、肩を落とす。そんな美沙との会話を経て、祐二もまた自分達の置かれている状況にようやく現実味を感じるようになった。
もう地球は無いのだ。
「どこにも行く場所が無いってことだよな」
美沙の横に腰を下ろしながら祐二が呟く。美沙は何も言わずに膝を抱き抱え、胸と膝の隙間に顔を埋める。
今や自分達の置かれた状況をはっきりと自覚した二人は、その途方もなく絶望的な現状を前にして、急速にその精神を消耗させていった。特に地球が無くなったという事実は、彼らの心を激しく動揺させ、その心と体に言いようのない疲労感を与えた。亡くして初めてそれの価値に気づくとはよく言ったものである。
その二人にブラフマーが優しく声をかける。
「ところでお二人は、奇跡を信じますか?」
「は?」
いきなりな質問だった。美沙が顔を上げ、不愉快そうに顔をしかめながらそれに答えた。
「どういう意味?」
「言葉通りの意味です。お二人は奇跡というものを信じるのだろうかと疑問に思いまして」
「今の状況でそんなの信じられるわけないだろ」
なげやりに祐二が返す。ブラフマーは下手に謝ったりはせず、前と同じ調子で二人に語りかけた。
「ではもし地球が、いえ、この全ての宇宙が元通りに戻せるとしたら? そんな奇跡が実際に起こり得るとしたら、お二人はどうしますか?」
二人は揃って虚空を見上げた。その顔は猜疑に満ちていたが、同時にその目には僅かな期待の光もこもっていた。
「冗談で言っているんじゃないのか?」
「冗談ではありませんよ。ですが実際にそれを行使するか否かはあなた方次第です」
「……どうすればいいの?」
美沙が立ち上がって問いかける。脳内に響く声はそれまでと同じテンポで語りかけた。
「願うのです。あなた方の望む世界を切に願うのです。私は創造神ブラフマー。あなた方の希望を形に変えることくらい造作もありません」
「じゃあ……!」
「あなた方が真にそれを望むのであれば、喜んで我が力を貸し与えましょう」
二人の心に希望の光が沸いてきた。創造神などという肩書きは今になって聞いた言葉であったが、「なんでそれを今になって言うんだ」と心にもないことを言う気は欠片も無かった。その肩書き自体を疑おうともしなかった。
希望があるのならなんでもいい。正直に言って藁にもすがりたい気持ちだったからだ。
「ですが、それには条件があります」
しかしこの世は甘くなかった。喜びを噛みしめていた二人にブラフマーが話しかける。
「現人神として私の希望も聞いていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
それを聞いた二人はその顔から喜びを消し、表情を一気に引き締める。そして「何をすればいい?」と若干嫌そうに視線で訴える二人に向けて、ブラフマーが声をかける。
「次の世界では、もっと私の信仰が増えるようにしてほしいのです。よろしくお願いできるでしょうか」
何も言えなかった。どこまで逞しい神なんだと呆れるしかなかった。
しかし他に打つ手もない。祐二達は決断した。
「わかった。なんとかしよう」
もっとも、実際に自分達は何をすればいいのか、この時点で二人は何も考えついていなかった。