「パラケルスス」
その悪魔が目覚めたのは、結局それから三日後のことだった。そしてその日、起床した祐二が着替えを済ませてから一階に降り、いつも自分達が食事をしている部屋に向かうと、そこには三日前に保護した悪魔の姿があった。
「ハムッ、ハグハグッ、モグモグ、ズビビビビ」
その悪魔は朝っぱらからラーメンとカツ丼を貪っていた。目の前に置かれた二つのどんぶりを交互に引き寄せ、休む間もなく口の中にかき込んでいくその姿は、見ているだけでこちらが胸焼けしそうなくらい強烈な光景だった。
そう思いながら祐二が視線を逸らすと、今度はその悪魔の隣に座っていた時子の姿が目に映った。時子もまた祐二の姿に気がつき、「おはよう」と優しく声をかけながら立ち上がった。
「他の子は?」
「まだ誰も起きてないわ。今はまだ朝の六時なんだから」
「そうか、まだ六時なのか」
「ええ。七時になったら起こしにいくつもりよ」
「じゃあ俺も寝直すかな」
「あら、せっかくだから私を手伝おうとかは思わないの? それくらいしてくれてもいいんじゃないかしら?」
時子が眉を八の字に下げ、瞳を潤ませて祐二を見つめる。困ったことがあった時、時子が祐二に頼みごとをする時に決まって見せる表情だった。
「ねえ、お願い?」
「うっ……」
祐二はその顔に弱かった。こうして時子に「お願い」されると、結局いつもそれを引き受けてしまうのであった。
「……なにすればいいの?」
そしていつものように祐二が折れる。そんな祐二に対して、時子はそれまでの悲しげな表情を一気に明るい物へと変え、「やっぱり祐二君は頼りになるわ」と朗らかな笑みを浮かべた。
「この子のこの辺りを案内してほしいの。お願いしてもいいかしら?」
続けて時子はそう言って、隣に座っている悪魔の方に視線を向けた。祐二も視線を悪魔に向け、どんぶり二つを空にしたばかりの悪魔はその二組の視線に気づいて顔を上げた。
「なんスか? あたしに何か用ッスか?」
その顔は幼さを残した、愛嬌のあるものだった。よく見ると前歯が一本欠けていた。そんな悪魔に時子が言った。
「いえ、あなたのために、あの子にこの街を案内してくれないかお願いしていたところなんですよ」
「こっちの男の子に?」
「ええ」
悪魔の言葉に時子が頷く。悪魔はそれを受けて、祐二の方をじっと見つめる。悪魔の双眸は金色に輝き、不気味な存在感を放っていた。
祐二もまた悪魔を見つめ、暫し互いに無言のまま時間が流れる。そのうち時子が不安そうに顔を曇らせ、悪魔に向けて声を放つ。
「余計なお世話だったですか?」
「……いや、実はあたしもここに来たばっかりで、道案内してほしいなーって思ってたところなんスよ」
悪魔が祐二を見たままそれに答える。そしてその後で顔を時子の方に向け、満面の笑みを浮かべながら言った。
「それにこっちの方こそなんだか申し訳ないッス。介抱してくれて、ご飯出してくれただけでも十分なのに」
「いいえ。困ったときはお互い様ですよ」
「人間の中にも天使みたいな人っているんスね」
「私は天使じゃありません。人として当然のことをしているだけです」
「そりゃそうか。人間はどうやったって天使にはなれませんからね」
悪魔が返し、時子が「まあ、そうなの?」と反応する。悪魔は「そういうもんスよ」とさらりと答え、それを聞いた時子は「なんだ、そうなんだ」と一人で笑い始めた。
「やっぱり人間は人間なのね。そうなんだ、そうなのね、あははっ」
「あのー……」
いきなり笑い始めた時子を見て悪魔が怯んだ表情を見せる。そして悪魔はその顔のまま祐二の方を向き、彼に助けを求めるように言った。
「この人いきなりどうしたんスか?」
「俺に聞かれても困る」
二人して困惑した表情を浮かべる。そのうち正気に戻った時子が「ごめんなさい、ちょっと一人で興奮しちゃった」と謝罪しつつ、祐二の方を向いて言った。
「それはそうと祐二君、頼めるかしら?」
「えっ、あ、はい」
祐二は反射的に頷いた。時子の表情は笑っていたがどこか固く、先ほどの態度の理由について尋ねるのは難しそうだった。そう考えた祐二は素直に時子の頼みに応えることにした。
「じゃあこの悪魔の面倒は俺が見るよ」
「うん。お願いね」
「よろしくお願いするッス」
悪魔もまた時子に食い下がることはせず、すぐに椅子から離れて祐二の元に向かっていった。そして祐二の隣についた段階で時子に「ご飯助かったッス」と返し、時子もまた食器を片づけながら「お昼になったら帰ってきてくださいね」と悪魔に言った。
「昼ご飯ももらっていいんスか?」
「ええ、いいですよ。こうして会えたのも何かの縁ですから」
「マジで? 助かるッス!」
悪魔が目を輝かせる。そして悪魔は見るからに上機嫌になり、祐二の腕を取って「さっ、案内するッス! 案内するッス!」と子供のようにはしゃぐ。祐二はありがた迷惑な顔を浮かべながら時子に顔を向け、「じゃあいってくるから」と言ってから悪魔と共に玄関へと向かっていった。
その二人を見ながら、時子は「いってらっしゃい」と優しげに微笑みながら手を振った。
「あの人は優しい人ッスね」
そうして外に出た後、暫く二人で通りを歩いたところで悪魔がぽつりと呟いた。早朝ということもあって通りは人の気配が少なく、そのどこか物寂しい道を進みながら祐二が言った。
「まあ、時子さんはいつもあんな感じだからなあ。お人好しって言われても仕方ないくらい優しいんだよ」
「トキコサン? あの人、そういう名前なんスか?」
「ああ。榊時子。あそこの管理人みたいな人だよ」
「管理人……宿か何かやってるんスか?」
「孤児院だよ」
祐二がさらりと答える。それを聞いた悪魔が一瞬気まずい表情を浮かべ、そしてそれに反応した祐二がそのままの語調で言った。
「気にしなくていいよ」
「いいんスか?」
「ああ。変に気負う必要とかないから。いつも通りに接してくれればそれで十分だからさ」
そう言ってから祐二が足を止め、悪魔に向き直る。そして何事かと不思議に思う悪魔に向けて手を差し出しながら祐二が言った。
「俺は安藤祐二。よろしく」
「え、あ、名前? そういえばまだ名乗ってなかったッスね」
若干戸惑った後、その祐二の腕を握り返しながら悪魔が言った。
「あたしは、そうだな……パラケルススって呼んでほしいッス」
「パラケルスス? それが名前?」
「そうッス。まあ本当のことを言うと、大昔にあたしをハメた人間の名前なんスけどね」
「どういう意味だ?」
「いやね、下っ端の悪魔とか天使とかって、いちいち自分の名前決めたりしないんスよ。別に名前で呼ばなくても、なんて言うのかな、テレパシー? とか、霊感? みたいなもので、誰が誰だか区別出来るんスよね」
パラケルススがスラスラと解説していく。祐二は「それはそういうものなんだな」と深く考えないことにした。
そんな祐二の顔をじっと見つめながら、不意にパラケルススが声を上げた。
「ていうか、ああ! 安藤祐二って、あの安藤祐二ッスか!」
「い、いきなりなんだよ」
「あなた、あれッスよね? 現人神になった人ッスよね?」
「そうだけど、なんでそんなこと知ってるんだよ」
相手の勢いに気圧されながら祐二が返す。パラケルススはニンマリ笑いながらそれに答えた。
「そりゃ知ってますよ。だってあれ作ったのあたし達だし」
「え? それって、悪魔が作ったってことか?」
「悪魔だけじゃないッスね。天使も絡んでますし、それ以外の神様も殆ど絡んでるッス」
「どういう意味だよ」
「言葉通りの意味ッスよ」
パラケルススがあっさりと言ってのける。祐二はさらに追求しようとも思ったが、彼が何か言おうとする前にパラケルススは祐二の元から離れ、数歩前を行きつつ祐二の方を向いて手を振りながら彼に言った。
「ほらー! 早く行くッスよー!」
パラケルススの顔は心から今の状況を楽しんでいるように見えた。祐二は変に追求することを諦め、今の自分の仕事に専念することにした。
同じ頃、時子はパラケルススの食べた分の食器を片づけながら、一人物思いに耽っていた。
「……」
時子の頭の中では一つの言葉がぐるぐると回っていた。自分が保護したパラケルススの放った一つの言葉。
「人間はどうやったって天使にはなれませんからね」
時子はずっとその言葉を脳内で反芻していた。そしてその言葉を頭の中で反響させる度に、彼女は寂しさと悔しさのない交ぜになった、複雑な感情を味わっていた。
「馬鹿ね」
時子が言葉を漏らす。洗い終えた食器を感想用のラックに立てかけ、蛇口を捻って水を止める。
「本当に馬鹿なんだから」
水滴の浮かぶステンレスのシンクを覗き込みながら時子が呟く。頭の中には一人の影がいた。影は蜃気楼のように揺らめきながら形のない目でこちらを見つめ、やがて音もなく立ち消えていく。
「……やめましょう」
やがて時子はそう言い放ち、雑念を払いつつ流しから離れていった。そしてタオルで手を拭き、子供を起こしに二階へと向かっていった。
これが今の自分の仕事。今の自分の居場所だ。時子はそう考え、過去から意識を引き戻していった。