「海の女神」
シェムハザに捜索願いを出してから一週間が過ぎた。その間、これといった成果は欠片も出ていなかった。
「ごめんなさい。居場所を突き止めるのにはまだ暫くかかりそうです。お詫びの印に今日まで借りていたアザゼルちゃんをお返しします。もうしばらくお待ちください」
そして一週間後にシェムハザから祐二の元に送られてきたのは、そのような文章が記された手紙と巨大な段ボールだった。段ボールの中には体育座りの姿勢のまま縄で縛られたパラケルススが全裸で納められていた。
「うへ、うへへ、うへへへへ」
その体は華奢な作りをしていた。四肢は細く、肋骨が浮き出ていた。こいつちゃんと食事とってるのかと思ったが、祐二の意識はそれからすぐに別の所へ向けられた。
様子が明らかに普通では無かったのだ。意識はあったが、パラケルススの目は暗く濁っていた。口は力なく半開きになり、唇の端から涎が垂れていた。
外傷は無かったが、明らかに普通じゃなかった。いったい何をされたんだろう? そんなことを思いながら、同時に祐二はほんの少し後悔した。
「なるほど、だからここのところログインしてなかったんですね」
「いつ連絡が来るかわからないですからね。さすがにゲームしてる余裕は無いですよ」
祐二の携帯電話に着信音が鳴ったのはその直後だった。相手は藤原浅葱であり、彼女は祐二がこの一週間ゲームにログインしてこなかったことを心配して電話をしてきたのだった。そして祐二からこれまでの経緯を聞いた浅葱は、納得すると共に、また別の疑問も口にした。
「でもそれ、いつになったら見つかるんですか?」
「えっ」
「その神様、雲隠れしてるんですよね。神様が雲隠れって結構凄いことしてると思うんですよ」
「う、うん」
「それで、悪魔って普通は神様より下にいますよね。その悪魔だけに任せてると結構時間経ちそうな気がするんですけど、それ大丈夫なんですかね?」
「・・ああ」
なんか言われてみると確かに難儀するような気もする。あれ? ていうかだんだん不安になってきたぞ。祐二は自分の胃がキリキリ痛みだしてきたのを感じた。
そう思った祐二が電話を耳に当てたまま黙っていると、受話器の向こうにいた浅葱が彼に声をかけた。
「もしそうなら、私が手伝いましょうか?」
「え?」
いきなりの申し出に祐二が戸惑いの声をあげる。その祐二に続けて浅葱が声をかける。
「私の守護も海の神様なんですよ。で、今日本は丸ごと水没してるじゃないですか。だから水繋がりで、何か手伝えないかなと思うんですけど」
「ううん」
言ってることは理解できた。しかしこちらの
事情に他人を巻き込んでいいものか。
「困ったときはお互い様ですよ」
そんな祐二の疑念を感じ取ったかのように、浅葱が受話器の向こうから声をかける。祐二にとってはまさに渡りに船な申し出だったが、それでもまだ気後れを感じていた。
「本当にいいんですか?」
「私は構いませんよ。こっちもこういうことには興味ありますしね」
「じゃあ頼んでもいいですか?」
「もちろん。いつでも歓迎します」
しかし結局は浅葱本人の後押しもあり、祐二は彼女に協力してもらうことになった。それから祐二は浅葱と詳しい打ち合わせをした後、その旨を美沙にも伝えた。
「わかった。じゃあ明日の昼に現地集合ってことで」
美沙は快くそれを了承した。そして彼女との通話を終えた後、祐二は自分が何か忘れているような気がした。
何か一番大事なことを忘れているような気がする。喉に魚の骨が引っかかったような感覚に囚われ、モヤモヤした気分になった。
「ひひ、ひひひっ」
足下から壊れた笑みが聞こえてくる。それに気づいた祐二は声のする方に視線を向け、そして自分が忘れていた物に気がついた。
「へへへ、ひひ、もう限界、限界ッス」
体育座りで縛られていたパラケルススが壊れたように声を放つ。祐二はそれから「まず自分のすべきこと」に気がつき、全裸の少女に触れることに少し躊躇いを持ちながらも、すぐに気を取り直して彼女を箱の中から救い出した。
縄は簡単に解けた。そしてその後、俗に言う「お姫様だっこ」の姿勢で抱き上げながら、その悪魔を自分のベッドの上に寝かせる。そして寝かしつけた後で箱の底に目をやると、そこには丁寧に折り畳まれた彼女の服が置かれていた。
一緒に送りつけるならどうしてわざわざ脱がせたんだ。疑問に思った祐二は、その後すぐに別の問題に気がついた。
「これ、俺が着せるのか?」
ベッドに目をやる。パラケルススは小刻みに痙攣していた。
祐二は頭が痛くなってきたのを自覚した。
翌日、祐二は浅葱の住んでいるマンションの一室で彼女と、そしてもう一人の現人神である美沙と顔を合わせた。パラケルススは家に置いてきた。
「あら珍しい。普通ならこういうことには自分から首突っ込んでくると思うのに」
「今は家で休んでるよ。シェムハザに何かされたみたいなんだ」
「何されたのよ」
「それは聞いてない。今は落ち着いてるけど、そこで何されたかについては絶対に口開こうとしないんだ」
それについて疑問を抱いた美沙に、祐二が難しい顔を浮かべながら答える。それを聞いた美沙は「本当に何されたのかしら」と首をひねり、テーブルを挟んでそれを聞いていた浅葱は「シェムハザって誰ですか?」と別の疑問を口にした。
「ああ、ええと、シェムハザって言うのはですね」
その問いに対しては祐二が答えた。シェムハザ。アザゼル、もといパラケルススの同胞であり、地上に進出している悪魔達の総大将。祐二はその首領格にティアマト捜索の依頼を出したことも付け加えて説明した。
「要は凄い悪魔ってことですね」
祐二の説明を聞いた浅葱はそう答えた。ざっくばらんにも程がある言い方だったが、言ってしまえばその通りであった。
「それより、藤原さんはどうやって探すつもりなんですか?」
そこでこれ以上話を脱線させまいと考えた美沙が言葉を挟む。それによって祐二と浅葱もここに集まった本来の目的を思い出し、そして浅葱は美沙に目を向けて腹案を披露した。
「私の守護の、ワダツミの力を借りるんですよ。お二人は確か現人神で、神様と話が出来るんですよね?」
「はい。そうです」
「ワダツミは海の神でしたっけ」
祐二の言葉に首肯してから浅葱が続ける。
「今のこの一面水浸しになってる状態なら、ワダツミの力を十分活かせると思うんです。どうですかね」
祐二と美沙は顔を見合わせた。どうかと言われても実際どうなるのかは二人にもわからなかったが、魅力的な申し出であったのも確かであった。
「じゃあやってみましょうか」
美沙が答え、祐二も頷く。浅葱は嬉しそうに頬を綻ばせ、それから首を回して自分の後ろに目をやった。
「私は見えないんですけど、今いますかね?」
「今ですか?」
自分の背後を見やる浅葱に言われて、祐二達が彼女の後ろに視線を送る。彼らがそこに目を向けた直後、そこから一人の人間がせり上がってくるようにして姿を現した。
「あ、出てきた」
祐二が無意識のうちに呟く。美沙も小さく頷き、彼と共にその浅葱の背後に出現した人影に注目した。後ろを向く浅葱の目には壁際に置かれたパソコンしか映っていなかった。
現人神の目に見えたのは死装束のようにも見える白い着流しを身につけた一人の女性だった。顔つきは若く、体はしなやかに引き締まっていた。目は透き通った青に染まり、穏やかに微笑んでいた。
「現人神よ。話は聞いております」
その女性がゆっくりと言葉を放つ。そして自然と背筋を伸ばした現人神に向けて、その女性は続けて言葉を述べた。
「私はワダツミ。今はこの者の守護をしております」
浅葱の耳には何も聞こえていなかったが、祐二達はその神の言葉をはっきり聞くことが出来た。そして浅葱も目の前の現人神二人が何もない空間に視線を向けながら真剣な表情を浮かべていたのを見て、自分の降ろしていた神が何か話をしているのだろうなと想像することは出来た。
「この者、藤原浅葱の言う通り、確かに私の力を使ってティアマトを探すことは出来るでしょう」
「そうなのか?」
「今のこの場の状況を鑑みれば、容易いことです」
そしてワダツミはいきなり結論から切り出した。前置きもなく断言するワダツミを前に祐二は軽く驚いたが、ワダツミ本人はそれを不思議に思うこともなく頷きながら言った。
「ですが、個人的にはティアマトを探すのは少し躊躇われますね」
しかし突然ワダツミが口調を切り替える。言葉のトーンが下がり、表情も暗いものへと変わっていく。
「なぜ?」
「どのような理由があるにしろ、同胞を売るようなことは気が引けるということです」
「同胞ってどういうこと? あなたとティアマトは同じ神話世界の人なの?」
美沙の問いかけにワダツミは首を横に振った。それからワダツミは美沙の方に視線を向け、ゆっくりとした調子で口を開いた。
「私とティアマトはそれぞれ異なる世界の神話の住人です。ただ、同じ集まりに属していたというだけですね」
「その集まりの名前は?」
祐二が尋ねる。嫌な予感がした。これで何度目だ。
軽く自己嫌悪していた祐二の目の前でワダツミが言った。
「地味神の集い、という物ですね」
予感的中。お前もか。
祐二は眉間を指で押さえた。美沙は「そうなの?」と言いたげに呆けた表情を浮かべていた。
浅葱はワダツミが何を言っているのかわからなかったが、現人神二人の態度から何か面倒なことを言われたんだろうなと察することは出来た。
「余計なことしちゃったかな」
浅葱は誰にも聞こえない程度に呟いた。正直後の祭りだった。