「海の神」
その日、日本大陸が海に沈んだ。
一瞬の出来事だった。地震や津波と言った類の前兆も無かった。まるで子供が湯船に浮かべていたおもちゃを水の中にいきなり押し込むように、大陸全てが一息に海の中へと沈んでいったのだ。
あまりにも突然の出来事であったがために、その瞬間まで外を出歩いていた者達は、自分達が一瞬にして水の中に投げ込まれていたことにすぐに気づかなかった。
インスマウス・チャレンジ終了から僅か四日後のことである。
「え?」
人間達は異変を察知するのに数秒を要した。その間、彼らは当たり前のように口を開けて水を体内に取り込んでいた。そしてようやく自分が水没している事に気づいた者達は、まず最初に口を手で塞いだ。
「や、やべ!」
「んーっ! んーっ!」
誰もが無意識のうちにその行動をとっていた。しかし慌てて塞いだ頃には、既に水が口から体内に進入してきていた。そもそも呼吸が出来ない上に、今から数百メートル上空にある水面に向かっても間に合わない。その状態で長続きしないのも明らかであった。
彼らは等しく死を覚悟した。しかし酸素不足に耐えきれず口から手を離した瞬間、彼らはまた別のことに気づいた。
「……?」
苦しくないのだ。視界は揺らめき、空気の泡立つ音も耳に聞こえ、水中で感じられるような浮力もしっかりと全身を包み込んでいる。少し跳んだだけで体が大きく浮き上がり、口を開いて言葉を話せば、喉の奥から空気が大量の気泡となって吹き出してくる。肺の中に水が溜まっている感覚もはっきりと認識でき、服が水を吸って体にまとわりついてくる感覚もしっかりとあった。
「おい、普通にしゃべれるぞ」
「どうなってんだ?」
「なんかケータイも普通に動くんだけど」
それでいて呼吸が出来る。同じく水の中に沈んでいた電子機器や車の類も問題なく動く。陸の上にいるのと同じ感覚のまま、水の中で活動が出来るのだ。混乱しない者はいなかった。そもそもなぜこんなことになったのか、その時点で混乱している者も大勢いた。
「なんだこれは? いったいどうしたのだ?」
「この邪法、これはきっと悪魔の仕業に違いない!」
「おのれ天使どもめ。ノアの洪水よろしく、水責めで我々を一網打尽にする気か!」
そして天使と悪魔も同様に、その混乱の渦中に叩き込まれていた。しかし彼らは世界がこうなってしまった原因を敵対勢力に押しつけることで、何とか平静を保っていた。
「慌てるな! どんな理屈かは知らないが、我々は水の中にいても普通に活動できているのだ。ならば空に上がることも不可能ではない!」
さらに彼らの一団の中には、翼を広げて上空に飛び立ち、遙か上空にある水面を飛び出して外に出ようとする者も現れた。
途中までは上手く行った。水没前と変わらない調子で空を飛び、揺らめきながら日光の差し込む水面まで近づくことが出来た。しかしいざそこから出ようとしたところで、彼らの試みは失敗に終わった。
水面のすぐ上に張られた壁のようなものに阻まれ、外に出ることが出来なかったのだ。
「これはまさか、結界?」
「これも悪魔の仕業に違いない!」
「天使め、どこまで我らを愚弄するのだ!」
猛スピードで水面から飛び出そうと考えていた者は、一様にその結界に頭をぶつけた。どこに飛んでも同じだった。至る所に結界が張られ、水中から飛び出すことは不可能であった。
なお、その結界は日本の領土に沿っても展開されていた。この国から逃げ出すことは不可能であった。
「これは悪魔のしたことだ! ここまで我々と人間を混乱に貶めるとは、許せん!」
「天使の連中がまた馬鹿なことを始めたようだ。このまま奴らのいいようにはさせん! 戦争の準備だ!」
そして光と闇の陣営は、この突然の怪現象を絶好の口実にした。本当の理由などどうでも良かった。
秩序のため、混沌のため。人間以外の全ての存在がそれを受け入れた。もはや止める者も無く、至る所で戦争の準備が着々と進行していた。
彼らはそれを隠そうともしなかった。一方で人間達もそれを見て警戒心を抱いたりはしなかった。対岸の火事と高を括っていたからではない。そもそも自分達のことで手一杯で、それどころでは無かったからだ。
「で、実際のところ何が原因なんだ?」
そんな調子で人間が必死に今の環境に適応しようとあがき、天使と悪魔が戦争の準備を進めている中で、祐二は自分の部屋でガイアにそう尋ねていた。現在ここには祐二とガイア、そして彼と同じく現人神である美沙と悪魔のパラケルススもおり、全員が等しく水の中に沈んでいた。
「すげーッスね。なんか喋るたびにゴボゴボ出てくるッスよ」
自分の口から出てきた気泡を見上げながらパラケルススが驚きの声を上げる。それを無視して祐二がガイアに再び問いかけた。
「何か知ってるなら教えてくれ。これは何がきっかけで起きたんだ?」
「ええ、まあ」
ガイアの返答は歯切れの悪いものだった。祐二と美沙は不思議そうに首を傾げ、彼らに向けてガイアが言った。
「首謀者は既にわかっているのです。ただ、こちらもこちらで頑固といいますか、人の話を聞かないといいますか」
「わがままなんですね」
「そういうことです。自分はこの世の全ての頂点に君臨しているのだと本気で考えているようなタイプです」
「うげえ」
美沙が露骨に顔をしかめる。その彼女の気持ちはよくわかった。また面倒なことになりそうだ。不安を感じながらも祐二が尋ねた。
「それで、その神はなんていう名前なんですか?」
「ティアマトと言います」
聞いたことのない名前だ。そう思った祐二がパラケルススに目を向けると、彼女の首を横に振った。
「聞いたことねーッス」
「どんな神なの?」
「海の神ですね。万物の母とも呼ばれる大地母神です」
「性格は?」
「ちょっとしたことでキレやすい」
「あんまり関わりたくないんですけど」
最悪の想像をした美沙が軽い頭痛を覚えながら反応する。祐二も同様に険しい表情を浮かべながらガイアに言った。
「それで、そのティアマトはどこにいるんだ?」
美沙の気持ちもわかるが、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。祐二の言葉にガイアはうなずき、そして二人をじっと見据えながら言った。
「わかりません」
は?
「雲隠れしてしまいました」
ふざけてんのか。二人は違い意味で頭痛を覚えた。
そんな二人に弁解するかのように、ガイアが慌てた調子で続けて言った。
「ご安心ください。ティアマトの居場所の手がかりを知っている者なら検討がついています。まずはそちらに接触してください」
「そっちはどこにいるかわかってるのか?」
「はい。そちらは絶対大丈夫です」
本当に大丈夫なのだろうか。不安を感じつつ、二人はガイアの言葉を待った。そしてガイアは一度咳払いをした後、改めて現人神二人に向けて言った。
「その神の名はアムピトリテと言います。ティアマトと同じ海の神です」
「別の海の神か」
「それで、その神はどこにいるの?」
「ポセイドンの宮殿です」
「ポセイドン?」
祐二が虚を突かれたように呆気にとられた表情を浮かべる。こんなところでまたその名前を聞くとは思わなかったからだ。その横では美沙もまた彼と同じ顔をしていた。
「なんでそこにいるんだ?」
「アムピトリテはポセイドンの妻なんですよ」
「ああなるほど。そういうことか」
「それで、そのアムピトリテはどんな性格なんだ?」
「いい人ですよ」
えらく抽象的な回答だった。その質問をした祐二は困った顔をしながらもう一度尋ねた。
「どんな性格なんだ」
「いい人ですよ?」
しかしガイアも動じなかった。目の前の女神はにこやかな笑みを浮かべながら、それ以上の台詞を吐こうとはしなかった。
「大丈夫です。アムピトリテは人間には比較的優しい神ですから」
嫌な予感しかしなかった。