「インセイン」
「見たところ、もう鎮静剤の必要はなさそうですね。睡眠導入剤も大丈夫そうですね。とりあえず二、三日はいつも通りに過ごしてみて、また何か不安なことがあったらいつでも来てください」
診察を終えた祐二が玄関の自動ドアを越えて外に出ると、雲一つ無い青空と強い日差しが彼を出迎えた。その空模様はまことに清々しく、まるで邪悪などいないと主張するかのように健やかで澄み切っていた。
それは祐二の心とは対照的な姿だった。まるで「この世は光に満ちている」と言わんばかりに燦々と輝く太陽の光を浴びながら、祐二はその何も知らずに光り輝くように見えた太陽に唾を吐きかけたくなった。
無知とは幸せである。この世には人間、それどころかこの宇宙に存在する生物全てが太刀打ちすることの出来ない、極限の暗黒が存在するのだ。祐二は精神の健康と引き替えに、その知らなくてもいい知識を手に入れたのだった。
氷漬けになったダンジョンの最奥部でダゴンと対面したのは、今から数えてもう一週間も前のことになる。そしてそこでダゴンと対峙し、闇の殻の奥に潜む「それ」を目の当たりにしてから、祐二の記憶はぷっつりと途絶えていた。
次に目を覚ました時、彼は病院のベッドの上にいた。彼は水色の貫頭衣を着せられてベッドの上に寝かせられており、腕には点滴が刺されていた。
そして覚醒と同時に、彼は全身に鋭い痛みが走るのを感じた。驚いてシーツをはねのけ、上体を起こして両手を見てみると、そこには誰かに引っかかれたような細長い傷がいくつも刻まれていた。体が魚で無くなっていたのだが、そんなことはこの際問題ではなかった。
腕だけではない。顔、首、胸、腹、足、視認できる全ての箇所に謎のひっかき傷があった。それらは全てその時に噴き出たであろう血が固まって赤々とした痕を残しており、見るからに痛々しかった。
「あっ」
不意に左の方から声がした。そちらに顔を向けると、そこには入り口のドアを開けたまま中に入っていた看護婦がこちらを見つめながら立っていた。目を見開き、口を両手で覆ったその顔は驚愕に満ちていた。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
看護婦が早足で駆け寄り、ベッドのそばで姿勢を低めながら祐二に問いかける。正直言って大丈夫では無かった。しかし状況が把握できなかったので、祐二は曖昧に頷いた。
「ああ良かった。ところであの、私の顔はわかりますか? 自分の名前は? 言葉は話せますか? ちゃんと覚えてますか?」
看護婦が次々問いかける。相手の反論を許さない一方的な物言いに覚醒したばかりの頭ではついていけず、祐二は心の中で困惑した。しかしそれを聞いている内に、彼は同時に一つの違和感を覚えた。それは質問の内容よりもずっと大きな違和感だった。
「大丈夫ですよね? 落ち着いてくださいね?」
なぜか看護婦が怯えていたのだ。先方はそれを隠そうとしていたが、時折目が泳いでいたり、口元が軽く震えていたりと、完全にそれをカバーすることは出来ずにいた。
「と、とりあえず主治医の方を呼んできますから、そこで静かにしていてくださいね」
そんな祐二を後目に、その看護婦はそう言って部屋から出ていった。まるで逃げるような身動きの早さであった。祐二は訳が分からなかったが、言われた通り大人しくしていた。
それから一分もしないうちに、先程の看護婦が一人の壮年の男を引き連れて再びやってきた。白髪交じりの年季の入った男だった。看護婦は男のことを「先生」と呼び、そしてそう呼ばれた男も看護婦の方を向いて何か小声で話しかけた。
「ここは私に任せて」
何を言っているのか聞こえなかったが、それだけはなんとか聞き取ることが出来た。そのうち看護婦は祐二と男に軽く頭を下げてから退室し、白衣姿の男はそれを見届けてから祐二の元に近づいた。
「落ち着いているみたいですね。良かった」
「何がどうなってるんですか」
我慢の限界だった。ここで祐二は自分の疑問を一気にぶちまけた。男は何も言わずに祐二からの問いかけに耳を傾け、そして相手が言い終えたところで、男が祐二の方を見ながら言った。
「まず順を追って説明しましょう。まずあなたは孤児院で倒れているところをここに運ばれてきました。発見したのはそこにいる子供達です。彼らはそこでパソコンの前で倒れていたあなたを見つけて、こちらに通報してきたのです」
「……それは俺だけなんですか?」
「いえ、もう一人もここに運ばれてきました。榊時子さんという方です。お知り合いですか?」
大恩人だ。祐二はそのことは告げずに黙ってうなずく。医師はそれを見て「そうですか」と短く答えた後、一度咳払いをして祐二に言った。
「とにかく、あなたと時子さんは同じ時刻にこの病院に運ばれてきました。その時お二人に意識は無く、こちらの呼びかけにも応じませんでした。幸いなことに脈拍、呼吸ともに正常で、命に別状はないことはわかりました」
「副作用とかは? 体に異常は?」
「そういったものもありません。その時はただ意識を失っているだけでした。そしてこちらに搬送されてからちょうど三時間後に、あなたは一度目を覚ましたのです」
「え?」
全く覚えがなかった。自分が目覚めたのは今日が初めてではなかったのか?
「嘘じゃありません。本当に目を覚まされたんですよ。カルテにも記録が残っています」
「じゃあ本当に?」
「はい。あなたは目を覚ましました」
医師の真剣な表情を見て祐二が自分の考えを改める。そして医師の言葉を受け入れた後、祐二はその後どうなったのかを尋ねた。
「うん」
医師は即答しなかった。気まずそうな表情を浮かべる医師を見て、祐二無意識のうちに不安を抱いた。理由は無かったが、とにかく不安になったのだ。
「その、なんと言いますか、言い辛いんですが」
「いいから教えてください」
「わかりました。最初にあなたが目を覚ました時、その、心神喪失と言いましょうか」
「?」
「正気を無くしていたんです」
発狂したのだ。医師はそう言った。祐二は目の前の男の言葉が信じられなかった。
「ベッドの上で目を覚ますなり、あなたはその上で暴れ出したんです。何か言葉にならない声で喚きながら、服を脱ぎ捨てて自分の体を引っかき始めたんです。うちの看護婦一人じゃとても抑えられなくて、若い医師が三人がかりでやっと抑えられたくらいでした」
しかし医師は「真実」を淡々と伝えていく。祐二は頭が真っ白になっていくのを感じた。
「そうして抑えている内に、あなたは再び意識を失いました。その日はそれで終わったんですが、次の日も同じ時刻にいきなり起きて、そのまま暴れ出したんです。それからはそれと同じことが今日まで続けて起きていたんです。落ち着きを取り戻したまま目を覚ましたのは今日が初めてですよ」
医師の話をそこまで聞いて、祐二は額から嫌な汗を流していることに気がついた。あまり考えたくない、想像したくないある考えが頭をよぎったのだ。
「ちょっといいですか」
そして祐二は、そのことを聞かずにはいられなかった。医師の話に割り込んで祐二が声をかける。
「どうしましたか」
「聞きたいことがあるんですけど」
「はい。なんでしょうか」
「その、俺と一緒に運ばれてきた榊時子って人も、俺と同じだったんですか?」
医師は即答しなかった。一度視線を逸らして眉間に皺を寄せた後、再び祐二を見て言った。
「はい。あなたと全く同じ行動を見せました。今は一足先に退院して、自宅療養しています」
雲一つ無い青空の中、太陽が燦々と輝いている。人によっては「気持ちのいい日」と表現するだろうが、もはや祐二は健やかな気分で空を見つめることは出来なかった。
あの青空の向こう、星々の瞬く暗黒空間の中に、途方もない邪悪が潜んでいる。闇に身を横たえ、何も知らない矮小な人類をあざ笑っている者どもがいる。奴らはその醜悪な体を身悶えさせ、あの空の彼方、太陽の遙か向こうからこちらを見つめているのだ。
祐二は先の医者との対話で全てを思い出していた。闇の殻。ダゴン。狂気。
病室の絶叫。
「殺される! 神に食われて殺される!」
「落ち着いて! 安藤さん落ち着いて!」
「ああ、イア! イア! ふかきものども! 違う! 見るな! 俺を見るな!」
深淵が我々を覗いているのだ。
「……ッ」
祐二は自然と早足になった。早く孤児院に帰りたい。しきりのある空間に逃げ込みたい。
そこに入って何が解決するわけでもない。そもそも全て自分の考えすぎかもしれない。それでも今の彼は、一刻も早く「空」から身を隠したかったのだ。
「いけ! やっちまえ!」
「そこだ! 負けるな!」
視界の左隅で天使と悪魔が戦っている。それを取り囲むようにしてギャラリーが集まり、互いに応援や野次を飛ばしている。
愚か者どもが。愚かすぎて笑いがこみ上げてきた。彼らは自分達の頭上に何がいるかもわからず、暢気に内輪もめを続けている。そのまま続けているがいい。まさに無知とは幸いなのだ。
祐二がさらに歩調を速める。歩道ですれ違う通行人が何事かと振り返って彼を見つめる。
彼らの頭上、青空の中、太陽は何も知らずに燦々と輝いていた。