「女神の鉄槌」
カナンのダゴンが起きあがる。そのダゴンの顔面めがけ、クトゥルーのダゴンが再度拳を振るう。
「ふん!」
かけ声とともに巨大な人影が正拳突きを見舞う。拳がカナンのダゴンの顔面を正面から捉える。厳めしい顔が一瞬大きく凹み、拳が離れると同時に口と鼻から黒い血液が勢いよく噴き出す。
「ああああああッ!」
クトゥルーのダゴンがもう片方の腕を腰溜めに構える。そしてがら空きの脇腹に狙いを付け、そこに握りしめた拳を叩き込む。
渾身のボディーブロー。弾丸の如き鋭さと砲弾の如き重さを備えた巨人の拳が脇腹に突き刺さる。重い一撃を食らったカナンのダゴンが、その体躯を大きく「く」の字に折り曲げる。そしてカナンのダゴンはそのまま、力が抜け落ちたかのように街の上に崩れ落ちる。
「また来るぞ!」
「逃げろ!」
その「落下地点」にいたプレイヤー達が蟻の子を散らすように逃げていく。その内の何名かは逃げきれずに巨神の下敷きとなり、一瞬でHPを削られて予め設定していた復活地点に飛ばされる。その場は一瞬で阿鼻叫喚の場と化し、それまで飛び交っていた興奮と高揚のかけ声は一瞬にして悲鳴に変わっていった。
「おい、まずいぞ!」
「こっちに飛んでくる!」
「走れ走れ!」
おまけに倒れ際にカナンのダゴンが手放した剣が宙を舞い、そこから離れた場所にいたプレイヤー達の方めがけて飛んできた。激しく回転しながら上空からこちらに向けてすっ飛んでくる巨大な鉄の塊を目の当たりにして、そこにいたプレイヤー達もまた恐慌状態に陥った。
剣が地表に突き刺さる。激突音が鳴り響き、衝撃が周辺のプレイヤーを根こそぎ吹き飛ばす。レベルの低い、もしくは最大HPの少ないプレイヤー達はそれだけで復活地点送りとなった。
「どうすんだよこれ!」
「離れろ! こっから離れるんだ!」
「何がどうなってるんだよ!」
「いいから逃げろ! 逃げろ逃げろ!」
その混乱は全てのプレイヤーに伝染していた。カナンのダゴンの近くにいた者達は恥も外聞も投げ捨てて我先にそこから逃げ出していき、遠くにいた者達は呆然と二体の巨人の争う姿を見つめていた。
もはや自分達で対処できる状態ではないことを悟ったのだ。
「貴様のせいでこちらが迷惑しているのだ! 恥を知れ!」
そんな遠くから見つめる者達の前で、人型の闇が再び叫ぶ。そして闇はカナンのダゴンに近づくと同時に両手を頭上に掲げ、左右の手を固く組み合わせた。
その体勢のまま、背筋を反らして大きく勢いをつける。狙いはカナンのダゴンの顔面。しかしこの時、人影の腹はがら空きだった。
その腹部めがけて、カナンのダゴンが起きあがると同時に拳をお見舞いする。外向きに弧を描いて放たれたパンチが人影の脇腹を正確に捉える。予想外の奇襲を受けて人型の闇、クトゥルーのダゴンが大きく体勢を崩す。その隙を逃がすまいと、起きあがったカナンのダゴンが反対の拳で相手の顔の側面を殴りつける。
「よくもやってくれたな!」
今度はクトゥルーのダゴンが倒れる番だった。顔面をしたたかに殴られ、氷河の中に沈むように倒れていく。その間に完全に体勢を持ち直したカナンのダゴンは進行方向上にある街を地盤ごと叩き割りながら進んでいき、ゆっくりとした歩調でクトゥルーのダゴンの元へ進んでいく。
もはや人間達のことは完全に眼中に無かった。
「貴様ばかり目立ちおって! 許せん!」
「外様に追いやられて僻み根性ばかり強めたか!」
カナンのダゴンの声に答えるようにクトゥルーのダゴンが起きあがる。そして両者は互いに両腕を持ち上げ、それぞれの手を頭上で掴みあった。
「そんなだから悪魔に堕ちたのだ! 太古の神が聞いて呆れる!」
「若造が出しゃばりおって! 貴様の言葉など聞く耳持たんわ!」
手を掴みあったまま、影と巨神が口汚く罵り合う。どちらが先に崩れると言うこともなく、両者の力は完全に互角だった。
「単純に貴様は人気がないのだ。愚か者め、己の立ち位置を素直に受け入れたらどうだ?」
「黙れ邪神が。貴様の方が知名度が高いのは、単に表に出た月日が浅いからだ。貴様と我とは、年季が違うのだ」
「なに言ってるんだあいつら」
その二神の言い合いは、残った人間達の耳にもしっかり届いていた。そして事情を理解していない彼らはそのやりとりを聞いても、今一つピンと来ない感じで困惑の表情を浮かべていた。
「やっぱりそうだったのか」
一方で、それを聞いた祐二は力なくそう呟いた。なおも魚だった彼は熱狂から醒めて平静を取り戻した周りから浴びせられる好奇の視線をものともせず、ただその場に突っ立って二神の取っ組み合いを見つめていた。
「祐二!」
その魚の元に美沙が駆け寄ってくる。彼女はボウガンを構えながら彼の元に近づいていき、そして肩で息をしながら彼に言った。
「これどうするのよ?」
「俺に聞くな。こっちだって困ってんだ」
「おい! どう収拾つけりゃいいんだこれ!」
そこにロバートも駆け寄ってくる。それから三人は無意味な言葉の応酬を繰り広げた後、無言で取っ組み合う巨人二人を見つめていた。
自分達ではどうしようもない所にまで来ていることくらい、彼らは既に理解していた。しかし頭で理解できても心では納得出来ないこともまたあるのだ。
「このまま見てるしか無いのか」
「確かにほとぼりが冷めるまでこうしてる方がいいかもね」
「変に突っ込んでも返り討ちに遭うだけだろうしな。問題はいつあれが終わるかだが」
「そこはお任せください」
その時、不意に三人の頭に声が響いた。それは彼らのよく知る声だった。
「ガイア?」
「いまどこにいるんだ?」
「すぐに出てきますよ。この場は私が納めましょう」
「何をするつもりだ?」
現人神二人からの問いかけに答えたガイアにロバートが尋ねる。それを聞いたガイアは小さく笑った後、続けて三人に向けて言った。
「こうなった時は、言葉ではなく力で解決する方がいいのです。その方が手っ取り早く済みますからね」
「あいつらを黙らせられるのか」
「当然です。私は万物の神ですから」
祐二からの問いかけにガイアが答える。直後、彼らの遠方にある氷河の水面が銀色に輝きだした。
そこは巨人二人が取っ組み合っている地点のすぐ真横だった。
「なんだ?」
三人がそこに目を向ける。他のプレイヤーもまたその光る水面に注意を向けた。二人の神はそれに気がついていなかった。
やがて光る水面の中から新たな巨人が姿を現した。その巨人は女の姿をしており、顔は柔和な笑みを浮かべ、細身の体を純白のローブで包み込んでいた。背丈はすぐそばにいる巨神達と同じくらいあり、そして水面と同様に全身から銀色の光を放っていた。
「なんだあれ」
「誰だ?」
「マジで誰だ」
遠目からそれを見ていたプレイヤー達は困惑した。敵が増えたと思った者もいれば、これはイベント戦闘だったのかと思う者もいた。思考を放棄している者も少なからず存在した。
自らの想像を超えた強大な存在を目の前にして、矮小な人間達はただ立ち尽くすしか無かった。
「ガイア」
その中で祐二が呆然と呟く。美沙は生唾を飲み込み、ロバートはただただその光景を見入っていた。
その人間達の眼前でガイアがゆっくりと動き出す。両腕を持ち上げ、頭上で握り拳を作る。
「いい加減になさいッ!」
一喝と共に両拳を振り下ろす。二つの鉄拳が巨人の頭部に激突する。
大砲が着弾したような爆音が轟いた。空気を震わせ、体を吹き飛ばすほどの衝撃が人間達を襲う。
「ひいい!」
実際、祐二達はその衝撃に押し負けて尻餅をついていた。他の場所では彼らと同様に倒れ伏していた人間達が大勢いた。
そして苦痛に悶える声を漏らしながら、頭を殴られた二人の巨神はそのまま氷河の中へ倒れていった。轟音と共に二つの白い水柱が立ち上り、それに挟まれるようにしてガイアはその場に立ち尽くした。
「それが出来るんなら最初からやれよ」
身を起こしながら祐二が呟く。その一方でガイアは一仕事終えたような、達成感に満ちた清々しい表情を浮かべていた。