「守護天使」
件のアップデートから三日が経った。それまで例のゲームをしていなかった日本人は、尻に火が着いたかのように一斉にゲームをやり始めた。それまで当たり前のように使っていた現実の貨幣が使えなくなり、ゲームで手に入る貨幣を使わなければ売買が出来なくなってしまったので、こうなるのはある意味必然であった。
中には頑なにゲームをせず、未だにそれ以前の生活に固執する人間もいた。しかしそうした人間は二日も経つ頃には完全に心を折られ、結局愚痴をこぼしながらゲームに手を出した。それでも中には「俺は絶対にゲームをやらん」と言って初志貫徹する者もいたが、三日も経った頃にはむしろそういった人間の方が周りから白い目で見られる有様であった。
「日本である現象が起きています。とても奇怪で、意味不明な現象です」
そしてその様子は海外にも広まっていた。それと同時にその怪奇現象を危惧する者も現れた。なにせそれまで使われていた「日本円」が、その本国において使い物にならなくなったのだ。それが貿易や金融でどのような影響を与えるのかは想像に難くなかった。
その一方で、イラストは順調に集まっていっていた。そもそも描けば金をくれると言われれば、絵を描ける者は誰だって絵を描いた。しかしゲームをやっていれば自然と金が貯まるので、絵を描けない人間がそれを不満に思う者は少なかった。絵描きが絵を描く時間と同じくらい金稼ぎに費やせば、それなりに稼げるからだった。
「こんなにもイラストが集まってきたのだぞ。やはり私は天才であったな」
そして三日後、自室でくつろいでいた祐二の背後でアテナが嬉しそうに声をかけてきた。祐二はそれに空返事をしたあと、思い出したように彼女に言った。
「そういえば、他のプレイヤーも守護を降ろせたんだっけな?」
「そうだぞ」
「でもこうやって話すことは出来ないんだよな」
「そうだ。出来るのは現実世界で力を貸し与えることだけだ」
「つまり?」
「ゲームと同じことが出来る」
それを聞いた祐二が後ろを振り向きながら言った。
「戦えるようになるってことか?」
「そうだ。次のアップデートで武器と防具も現実世界で買える予定になっている」
「やりすぎじゃないか」
「そろそろ天使と悪魔が領地争いを始めるだろうからな。身を守る手段は必要になってくるだろうな」
今度は何が始まるんだ? 祐二は不安になってきた。自室のドアを勢いよく開けて中にパラケルススが入ってきたのはまさにその時だった。
「大変ッス!」
「あん? どうした?」
「悪魔と天使が一緒に襲ってきたッス!」
「は?」
祐二が素っ頓狂な声を出す。パラケルススは構わずに続けた。
「だから、悪魔と天使が一緒になってこっちに来たッス! どっちの側に付くかで喧嘩始めたんス!」
そういうことか。祐二は頭が痛くなってきた。彼の後ろで立っていたアテナが感心したように首を振りながら言った。
「やはり私の推理に間違いはなかった。人間世界に本格的に進出した奴らが次に縄張り争いを始めるのは必然だ」
その姿は祐二にしか見えなかったが、逆に見えなくて良かったと祐二は心から思った。
「いい加減にしろ! ここは我々が治めるのだ!」
「ふざけるな! お前達のような野蛮人共に任せてられるか! ここは我々が治めるのだ!」
一階に降りてきた祐二とパラケルスス、そして二人の後ろから一緒に降りてきたアテナは、玄関の外からそうした言い合いが聞こえてきたのに気がついた。そして居間に集まっていた子供達に祐二が「そこでちょっと待っているんだ」と言い残してから外に出てみると、そこでは案の定、天使と悪魔の一団が言い争いをしていた。
「ふざけるな! 人間をお前達に任せておけるか! この野蛮人共め!」
「黙れ黙れ! 人間は元より我々と同じ存在なのだ! 同質の存在と共にあった方が、人間も安心して生活が出来るというものだ」
「あ、あの、そろそろその辺りで……」
そして天使と悪魔の間に入って、時子が困惑した表情を浮かべながら両者を仲裁しようとしていた。しかし彼女の声はどちらの側の耳にも入っていなかった。
「呪われろ! 呪われてしまえ! 貴様達のようなまやかしの存在は一人残らず呪われてしまえ!」
「この悪鬼どもめ、地獄に堕ちろ! 悪魔は地獄にこもっているのがお似合いだ!」
「周りの人たちにも迷惑ですし、お願いですからやめてください」
天使と悪魔の口論は際限無しにヒートアップしていったが、時子はそれでも健気に説得を続けた。そしてなおも両者の間に割って入る時子に対し、最初に反応したのは悪魔の方だった。
「おい人間! 今はこいつらと話をしているのだ! お前は下がっていろ!」
「そうだ。ここは我ら天使と悪魔の闘いの場。無力な人間は下がっていろ!」
それに続くようにして天使も時子を排除しようとする。しかし時子はそれでも折れなかった。
「いえ、その、ですからこういった口論はですね、もっと人目に付かないところで静かにお願いします」
そしてその時子の言葉に対して、天使と悪魔も悪い意味でブレなかった。
「ええい、うるさい! お前達のためにやっているというのがわからんのか!」
「消え失せろ人間! 弱い者がしゃしゃり出てくるな! これは光と闇の闘いなのだ!」
「何を!」
何を言っているんだあなた達は。時子がそう口を開くよりも早く、両者が時子に向けて言葉を放った。
「さあ帰れ! 貴様の居場所はここにはない!」
「虫けらはおとなしくしていろ! 目障りだ!」
「……いい加減にしてください!」
しかしその罵声が時子の心の琴線に触れた。次の瞬間、それまで溜まっていたフラストレーションが爆発したかのように、時子が声を荒げて言い返した。それはパラケルススはおろか、祐二でさえも今まで聞いたことのないくらい大きな声だった。
ここに子供達がいなくて良かった。祐二は心からそう思った。
「みんな迷惑してるんです! 口喧嘩なら余所でやってください! 縄張りとか本当にどうでもいいんです!」
「なんだと?」
「貴様、口の利き方に」
「帰ってください! お願いします!」
目を細め、怒りの表情で時子が両者を睨みつける。それを見た天使の側は「神の子」からの本気の抵抗を受けて一瞬たじろいだが、悪魔は怯む以上に怒りを爆発させた。
「この人間がぁ!」
「まずい!」
アテナが叫ぶ。背を押されるようにして祐二が駆け出す。彼の目の前で悪魔が腕を振り上げる。
それを見た時子が咄嗟に顔を背け、その顔を庇うように両手を持ち上げる。
間に合わない。
「つけあがるんじゃねえ!」
悪魔の拳が激しくなびく時子の髪に触れる。
直後、堅いもの同士がぶつかり合う鈍い音が聞こえてきた。
祐二は動きを止め、その場で立ち尽くしていた。アテナもまた彼のすぐ後ろに立ちながら、目の前の光景を驚きの表情で見つめていた。
そこには顔を庇ったまま無傷で立ち続ける時子と真後ろに吹き飛ばされた悪魔、そして時子の背後に立ち、鬼の形相で天使と悪魔を睨みつける新たな一人の天使の姿があった。
「この者に触れることは、私が許さん!」
赤い甲冑を身に纏ったその天使は、目を細めながら己の同族とその敵対種族に向けて一喝した。それまで周りの迷惑も考えずに声を大にして口論をしていた天使と悪魔は、その自分達より大きな背丈を持った天使の姿と声を前にして、先ほどまでの喧しさが嘘のように萎縮しきっていた。
「な、なんでお前がこんなところに」
「ウリエル様! こ、これは違うのです。我々は悪魔からこの地を守ろうと……!」
悪魔が見るからに動揺し、天使が必死に自己弁護を図る。しかし時子の背後に出現した天使――大天使ウリエルはそんな両者を見て「黙れ!」と再び喝を飛ばし、天使と悪魔は親に叱られた子供のように怯えきった表情を浮かべて仲良く口を閉ざした。
「人が嫌だと言っているのに、それを無視して平然と口論を続けるとは。この阿呆どもめが!」
「は、はい!」
「ごめんなさい!」
「え、なに? なに?」
そして背後に立つ天使の姿を視認できない時子は、目の前でいきなり怯えだした天使と悪魔を見て困惑していた。パラケルススがその光景を見ながら「やっちゃったなー」と呟きつつ祐二の元に歩み寄り、アテナは「あ奴の方から動いたのか」と納得したように言った。
「大天使様の逆鱗に触れちゃったみたいッスね」
「あの調子ならもう大丈夫だろうな」
「でもこれ、後でどうしようかな。なんて言えばいいんだ?」
祐二はこれが終わったら時子にどう説明しようかと頭をひねっていた。もはや誰もこの状況に危機感を抱いていなかった。
「これ以上この者に迷惑をかけるというのなら、今度は私が相手になるぞ!」
そして安心しきった三人の前で、ウリエルは彼らの期待通りの働きをした。腰の剣を引き抜き、それまで騒ぎ立てていた天使と悪魔に向けてそれを突きつけながらそう声高に宣言する。全身から放たれる光がより一層強いものとなり、天使と悪魔はその全身を焼き付くさんとするほどの強烈な光を正面から容赦なく浴びせられた。
「わかったか!」
「し、失礼しましたーッ!」
その殺気さえも混ざったウリエルの気迫をぶつけられた白と黒の者達は、蟻の子を散らすように逃げ出していった。そして天使と悪魔がいなくなった後、ウリエルは一息ついて肩の力を抜き、剣を鞘に納めた。
「もしかして、あれ守護ッスかね?」
「時子さんはあのゲームやってないと思うぞ」
その様子を見ながら、パラケルススが祐二に尋ねる。祐二はそう返しながらアテナの方に向き直り、今度は彼女に尋ねた。
「実際どうなんだ? ゲームやってない人が守護を降ろせるのか?」
「まず無理だ。ゲームにログインして実際に守護を降ろさなければ、それが現実世界に反映されることはない。既に何かの理由で現実世界に来ていた神が、自分の意志で人間に手を貸すこともあるだろうが」
そこまで言って、アテナがその白魚のようにすらりとした指で自身の形の整った顎を撫でる。そうしてしばし考え込んだ後、再び祐二の方を見てはっきりと言った。
「まずありえないだろうな。実際に起こり得ることでは無いのは確かだ」
「そうか」
「それはそうと、あの人こっち見てるッスよ?」
そうパラケルススに言われて祐二が顔を上げる。そこには何がなんだかわからずに、助けを求めるように呆然とこちらを見つめてくる時子の姿があった。そして件の大天使も、寄り添うように時子の背後にくっついていた。
「一から全部説明した方がいいんじゃないッスかね。それからあの、ウリエル? って天使にも事情を聞いた方がいいと思うッスよ」
「ついでにあの者にもゲームをやらせよう。せっかくの機会だ。逃がすわけにはいかない」
パラケルススが提案する横でアテナが目を輝かせる。その女神からの言葉を軽く聞き流しながら、祐二は時子の元に歩いていった。
「時子さん、中でちょっと話したいことがあるんだ」
さて、どうやって話そう。あとついでにウリエルからも話を聞いてみよう。