2-4 過去を失うというコト
剣道部主催の一種のパフォーマンス、僕とリュウによる一本勝負の剣道対決は、リュウの勝利に終わった。ただし、間一髪ではあったのだが。
観客から見ると僕が押しているように見え、最後も僕が面を決めたのに負けたのは僕だったので、何が何だか、といった様子だったらしい。剣道というスポーツは素人が見ても、何が起こっているのか分かり辛い所があるので致し方ない。
結局の所、僕が敗れたためにリュウを剣道部に引き入れるということは叶わず、さらに僕はリュウの言うことを聞く羽目になってしまった。
さらに言うと、美咲の叱責も受けることとなった。
「いや、確かにリュウくんの動きは今までに見たことないくらいだったけど、あそこで抜き胴があることくらい想定しておかなきゃ! 完全に出し抜かれてるじゃん」
「いや、そうは言ってもさ、リュウの構えから見ても面を狙ってるとしか思えなかったんだよ。あそこから抜き胴を打ってくるなんて思いもしてなかったんだ」
「そこが甘いんだって。はー、また明日から私がしごいてやらないと」
僕はそれを聞いてゲゲッ、と後ずさりする。それを近くで聞いていたリュウは、ケケケと小さく笑っていた。
「どーせ、僕の見て適当にやったんだろ」
リュウだけに聞こえるようにボソッ、と言う。
「そーだな。あそこに決めても一本なんだって分かったから使わせてもらいました。あざーす」
そんな軽い気持ちで決められるのだから、こいつは……。
このリュウという男の子の潜在能力がどこまであるのか、見てみたい気もしていたのだった。
そして、その週末。僕は、リュウとの約束を果たすために、大宮駅前で待ち合わせをしていた。地元の春日部駅からは、電車で20分くらいだ。
「どうしてこんなことになったんだか……」
元はと言えば、自分の発言がきっかけでリュウとの剣道勝負になってしまったのだ。まあ、確かに自分で撒いた種と言えばそうかもしれない。
「それでも、なんだかなぁ」
全てのことがリュウの思い通りになってしまっているような気がして、癪なのも事実だ。
それに……、
「……遅い」
待ち合わせ時間はとうに過ぎていた。こうして10分も律儀に待っているが、来る気配がない。もう帰ってもいいかもしれない。
そう思い始めた時だった。僕の視界の右側から、かなり高級そうな車――名前なんかは想像もつかなかったが――が走ってくるのが見える。うっわー、豪勢だなー、とか思っていたらなんとそれは僕の目の前に停まったのだ。
助手席のウィンドウが開かれる。そこから顔を覗かせたのは、見た目からして変人っぽさが滲み出ている三十代くらいの男だった。
「あー、キミ。悪いんだけど、この辺で頭のツンツンしたガキ見なかったか?」
いや、それって完全にリュウのことですよね。それ言うなら僕もガキなんですけど、と思いつつも返答する。
「たぶん、それ僕の待っている人です」
男は一瞬、「む?」と言って僕のことをまじまじと見つめていたが、やがてニヤリと笑う。
「そうか、キミが越谷くんか。どうも初めまして」
「は、はあ……、どうも」
正直な所、こんな変な男に話しかけられる覚えなどない。リュウからは、ここに集合するということしか聞いていなかったので、どこに行くのかも、誰と会うのかも知らなかったのだ。
男の風貌は、本当に奇妙だ。髪は長く、肩の近くまで伸びている。四角い眼鏡と細い目は、聡明さを物語っているようでどこか底の見えない冷たさも感じさせた。
学者、というのがまさにピッタリな感じだ。なのに、着ている服はヨレヨレのワイシャツに半パンという何ともラフ、というかみすぼらしい格好。この格好でこの車に乗るか? 普通。
僕が疑惑の眼差しで男を見ていると、運転席の方からまたもや男が顔を覗かせる。
「教授。こんなところにいつまでも車を停めておけませんよ。ここ、駐停車禁止ですから」
運転席の男の方は、きっちりスーツを着こなしており、しっかりとした顔つきで、実直そうであった。
教授と呼ばれた男は、振り向きもせずに答える。
「まあ堅いことを言うな、渡辺くん。それより越谷くん、ちょっと君に興味があるんだが身体を貸してもらえないかな……?」
不気味な笑いを込めて話す教授。……って身体!? ちょっとちょっとヤバいって!
「ごめんね、越谷くん。話は後だ。リュウくんが来たらそこのコンビニの駐車場に来てくれ」
運転席の男、渡辺さんはそう言うと、有無を言わせず車を発進させた。教授の「ちょっと待て、越谷くん、越谷くーーーーん!」という叫びだけが虚しく遠のいていく。
……何なんだ、あの人は。
その時、視界の右側から今度は走ってくる人影が見えた。あのツンツン頭はわざわざ確認するまでもない。
「悪ぃ! 遅れた!」
リュウは、走ってきながら手を合わせる。僕はそれに対して大袈裟にため息をついた。
「ホント、僕だからまだいいけど女の子相手でもこんなに待たせるつもりなの?」
「いやー、ちょっと場所が分からなくて……」
「はあ、……もういいよ。アイスで許してあげる」
「まじ!? ありがとー、コウ!」
本気で嬉しそうにしているリュウ。それを見ていると、なんだかどうでもいいか、と思ってしまうのが自分でも不思議だった。
だが、アイスは一番高いやつを要求してやろう。
「で、まだ車は来てないのか?」
「来たよ。真面目そうな男の人と、ものすごく変なおじさんが乗った車がね」
それを聞くとリュウは、「えっ」と言い少し後ずさりする。
「おい、その変なおじさんって眼鏡かけたおっさんか?」
「うん」
「ちょっと気味悪い?」
「まあ、うん」
「俺、帰るわ」
「うん……、って待った待った! 何でだよ! おかしいでしょ!」
本気で来た道を引き返そうとするリュウの腕を必死に握って留まらせる。
「だって、あれは無理! あのおっさんが来るとか聞いてないし! クソ、渡辺の野郎、嵌めやがったな……」
よく分からないが、あの教授という男はリュウにとって天敵らしい。まあ、無理もないか、あの変人っぷりはちょっと度を過ぎている。僕もさっき、身の危険を感じた。
「とりあえず、あのコンビニの駐車場で待ってるらしいからさ、行こうよ」
「むー、分かった」
仕方ない、といった様子でリュウは渋々ついてきた。
おかしいな……、連れてこられたのは僕の方なんだけど。
コンビニの駐車場に停まっていると言っていたが、目立ちすぎてすぐに分かった。コンビニ客の目を引いているようで、少しオドオドしてしまう。
「やあ、待ってたよ」
僕たちの姿を見つけたのか、教授が車から降りてくる。僕の少し後ろで、「うわ」という声が聞こえた。
「やっぱいたのかよ、アンタ」
「何だよー、久しぶりだっていうのにつれないなー、リュウは。僕の方はずっと会いたかったっていうのにこの頃は避けるようにするから」
「そりゃアンタの態度に問題があるんだよ。っていうか、久しぶりっつっても一か月くらいだろ」
「いいじゃないか、そこは気分の問題だって。それより、そろそろ身体の方を見せてくれないかな?」
「だー、そういうとこだって!」
リュウが迫りくる教授から逃げ惑うという構図。あの強気なリュウが本気で苦手にしていることがよく分かった。
「ごめんね、わざわざ来てもらって」
そして運転席の方からはもう一人の男、すなわち渡辺さんが出てくる。
「いえ、リュウに連れてこられたもんですから。……で、どこに行くんですか?」
「そうだね、とりあえず車の中で話そう」
そして、嫌々といった様子のリュウと、鼻息の荒い教授を乗せて車はコンビニの駐車場から再び走り出す。
「さて……、運転しながらで悪いけど話の最初の方だけ話そうか。僕は、渡辺勇作。警察庁警備局警備企画課分化世界対策室室長だよ」
運転をしながら、渡辺さんが話す。
「……ってなんて言いました? 警察庁?」
「彼はね、いわゆるエラーイ人なんだよ。ほら、越谷くんも刑事ドラマとかで見たことあるだろう? あのいけすかない感じの官僚組だよ。彼、こう見えてもエリートなんだから」
教授がそう言って渡辺さんの肩をポンポン、と叩く。「あ、危ないですって」、などと言う姿はなるほど、偉い人には見えない。
「確かに、見えないですね」
「コウ、思っててもそれは言っちゃダメだ……」
リュウが呟く。渡辺さんが力なく笑うのがこちらからも伝わった。
「まあ、よく言われるよ……。まあ、警察庁って言っても小さな対策室の室長をやってるだけだしね」
「そこです、対策室ってどういうことですか?」
これに答えたのは教授だった。
「分化世界対策室。政府は、《消去世界》のことをこの世界から分かれて生まれた世界、すなわち《分化世界》と呼んでいる。で、その世界で起こる事件とかを取り扱うのがこの渡辺くんの部署ってわけよ」
「まあ、そういうことだね。だから、一応こんな車も使っていいとは言われてるんだけど、どうにも肌に合わないね……」
「じゃあ、どうして?」
はっきり言ってしまうと、偉くはあっても地味な感じの渡辺さんと、この変人教授が乗るには、ちょっともったいないと思ってしまう。
「僕の希望でねえ、ちょっといい車を出してもらったのさ」
そう口を開いたのは、教授だった。この車に乗ることを希望するなら、それなりの服装には着替えてほしかったと思うのは僕だけだろうか。
「それで、さっきから気になるんですが、あなたは?」
教授という肩書きだけしか今の所分かっていないこの人の名前を聞きたく、問うた。
「僕かい? 僕は教授だよ。それ以上でも、それ以下でもない」
「いえ、名前ですって、名前」
普通尋ねられたら名前を答えないか?
「うーん、名前かー。言いたくはないんだけどねー、教授でいいんだよ、教授で」
「……? どういうことですか?」
訳の分からない僕に対して、リュウが横槍を入れる。
「コウ、このおっさんとまともに話し合えると思ったら大間違いだぜ。適当に流しときゃいいんだよ」
確かにそんな気はしていたが、さすがに名乗るくらいはいいだろうに。
渡辺さんが、補足的に付け足す。
「教授は、これでも《消去世界》に関する研究の第一人者なんだ。うちの対策室はどちらかというと、教授の研究室と連携を取って《消去世界》での出来事を上に報告する、という仕事の方が多いんだ」
「これでも、とはヒドイな」
教授は不服そうに口を尖らせるが、確かにこんなのが《消去世界》について最も多くのことを知っている人間だとは思えない。
同時に、僕が疑問に思っていることへの最適な答えを数多く持ち合わせている人間だとも言える。
「教授、色々と聞きたいことがあるんですけど――」
「おっと、それはうちの研究所に着いてからだ」
「え?」
「今は僕が君に尋ねる番だ、越谷晃くん」
教授が振り向いて、後部座席に座る僕を見る。口元は緩んでいるというのに、目はまったく笑っていなかった。不気味だ。
「越谷くん、キミには失われた過去がある――」
「……ほへ?」
突然言われたセリフは、理解するのに数秒を要した。
「僕に、失われた過去が……、ある?」
「――と言われたらどうする?」
なんだ、もしもの話か……。僕は思わず安堵の息を漏らす。
「そんなの、分からないですよ。昔のことなんて忘れるもんですから。それに、忘れた方がいいことだってあると思いますし」
そう。今のこの平穏な日々が一番いいということもある。過去なんて水に流せばいいのだ。少なくとも僕は、そうでもしないとこの生活を続けることができなかった。
「そうかい。……でも、知りたくはないか? キミの両親が亡くなったあの火事の真相を。キミの知らない事実を、いや、キミが記憶の闇に葬ってしまった事実を、だね」
――ドクン。
僕の中でなにかが蠢く。
どうして、どうして知っているんだ。僕の過去を。
僕が必死で消し去ろうとした過去を。
それに、真相? 僕が葬った事実?
そんなものない。僕が忘れようとしたのは、あの火事があったという事実だけだ。それ以外に何もない。
そう、それ以外には――。