2-1 帰還、そして来訪者
平穏の日々が戻ってきた。
僕は、いつものように朝目覚めて学校に行く。
「晃ちゃん。今日は、何のお弁当持っていく?」
おばさんが僕に尋ねる。弁当屋を営む叔母が、僕にほぼ毎朝それを聞くのも、もう習慣となっていた。
「うーんと、いつものでいいよ。唐揚げ」
「毎日唐揚げばっかりだと健康によくないわよー」
そう言いつつも、店の唐揚げ弁当を一つ包み、僕に手渡す。それを「ありがとう」と言って受け取ると、家を出た。
外には、美咲が待っていた。これも、いつもの光景だ。
「おはよう、美咲」
待っていた美咲に声を掛ける。美咲も、笑顔で返事をした。
「おはよう、コウ。……さ、行こっか」
そう言って、僕たちは学校へと歩いて行く。いつもの、平穏な日常だ。
歩きながら、美咲が尋ねてきた。
「ねえコウ。昨日、本当に大丈夫だったの?」
昨日の放課後、美咲の話によると、僕は突然走り出しそのまま長い間いなくなってしまっていたらしい。美咲が家に電話しても僕は帰っていないし、このまま帰ってこなかったら……、と大いに心配したらしい。
だが、しばらくして僕は帰ってきた。美咲は怒って何をしていたのかと問うたが、僕には答えることができなかった。
僕が憔悴しきっているのを見て、美咲も諦めたらしく、その日はそれで終わったのだ。
僕がいなくなっていた間、僕がどこで何をしていたのか、それを知る者はいない。
僕自身も全く覚えていない――――、
「はずだったんだけどなあ……」
「え? 何、どうしたのコウ?」
「いや、なんでもないよ。昨日のことなら大丈夫。ちょっと、用事を思い出して遠くまで行ってただけだから」
昨日した説明を繰り返す。
まあ、まさか異世界にいました、なんて言えないしね……。
問題は、忘れると言われたその出来事を僕が完全に覚えていることだ。
リュウの言葉が間違っていたのか、それとも僕が特別なのか。
あの世界――、《消去世界》でリュウが言っていたことを思い出す。
『俺は、理由アリだからな』
僕が《消去世界》にいた、という記憶を保持したままならば、僕も言ってしまえば「理由アリ」ということなのだろうか? それとも単に、リュウにからかわれただけなのだろうか。それは、あのリュウという少年が僕に接触してこない限りは分からないことだった。
ただ一つだけ言えることは、あの体験は僕にとって嘘でもなんでもないということだった。あの世界で《幻影》とリュウが呼んでいた影と戦ったことは、間違いなく僕の中で一つの経験として存在していた。
平穏な日々を求めていたくせに、あのような体験のことは覚えているのだから、どうにも自分というものが分からない。
それにしても、リュウはあの世界からどこに出たのだろう?
あの世界の出口が、昨日僕が出てきた場所に繋がっているとするならば、彼もまたそこに出ているはずなのだ。それなのに、彼が出てきたような形跡は全くなかったのだ。
昨日、《消去世界》から出た僕は、自分が記憶を保持していることに驚きつつも、リュウが出てくるのを待った。だが、僕を放り出した後、光が再び弾けることはなかった。
考えてみれば、分からないことだらけだ。あんな世界の存在があるのなら、なぜ公になっていない? リュウが言っていたことから、彼が何かしらの組織のようなものから派遣されたといことは間違いないし、僕のように記憶を保持している人間がいるのなら、その組織が公になっていないのはなおさらおかしい。噂にすらなっていないのだ。
それにリュウは、あの世界はまた現れるとも言っていた。《同期》が完了しない限り、《消去世界》が完全に消え去ることはない、と。だとすれば、また僕はあの世界に飲み込まれてしまうかもしれないのか?
少なくとも、今僕が一人で考えても答えの出る問いではないことは分かっていた。それでも、なんとなくむず痒い想いがしてならなかったのだった。
色々考えてたせいか上の空になっていたのだろう、美咲が心配そうに僕の顔を見てくる。
「コウ……? 何かあるのだったら、本当に言ってね? もちろん無理にとは言わないけれど……」
さすがに昨日のことを話すわけにもいかなかったので、少し苦笑いしながら言葉を返す。
「あ、あー、うん。大丈夫だよ。本当に、ちょっと考え事してただけだから」
その言い訳もだいぶ苦しいような気がする。そもそも僕は、性格的に嘘をつくのが苦手だ。長い付き合いだから、美咲にはバレているかもしれない。
余計に、変な心配かけちゃってるのかな……。心の中では申し訳なく思いつつも、僕はそれ以上を語ることはできないと感じていたのだった。
そのまま、何の行動も起こせないまま一週間が経った。
行動と言っても、何をすればいいのかさっぱり分からなかった。こういうのって、警察に言えばいいんだろうか? いや、言っても相手にされない可能性が高い。頭がおかしい人と思われておしまいだ。
かといって、いきなり政府に言うのもおかしいし……、ていうかどこに言えばいいのか分からない。さすがに、中学三年生の知識ではキツかった。
だから、心の中でモヤモヤとしたものを抱えながらも一週間を過ごすしかなかった。
この一週間、特に変わったことはなかった。
あの世界の《主》の正体は一体誰なのだろう、と少し気にはなったが、まったく手がかりを得られなかったので考えるのを止めた。それでも、あの教師陣の中に記憶を抜き取られた人がいる、というのは少し恐ろしいことだった。
学校生活も、特に変わることはなかった。あの学校を舞台に戦ったため、職員室に行くときなどは少し身構えてしまっていたものの、しっかりと色彩があるということ、そして何より人がいることからもそれはあり得ない、と最近は落ち着いてきている。
ちなみに、剣道部はと言うと――、
「あー、もう! どうして人集まらないのかな!?」
幡多中学校剣道部女子部主将、濱野美咲は頭を抱えていた。
新学期が始まってからの熱心な勧誘活動も虚しく、剣道部の部員は今の所一人も勧誘できていなかった。部員の減ってきている剣道部だとはいえ、さすがにこれはマズイ事態だった。
僕の代は僕たちを含めても十人近くの部員がいるし、後輩も六人いるのだ。このままゼロ、というわけにもいかないだろう。
まあ、美咲目当てに入った所で美咲は夏には引退してしまう。それが理由で、去年みたいな美咲ブーストは期待できない、というわけだ。
だから、僕もある程度は期待していなかった。それでも、ちょっとひどいよな……。
「確かにな。なんとかしないといけないってのは分かってるんだけど……」
「どうしようもないってのが現実だよねー」
朝、教室に着いてからもその話題が続く。正直、教室の中でも美咲と二人でいると変な噂が立って困ると言えば困るんだけど……。
「まあ、今日部活後にでもいい案がないか探してみようよ。まだ何か手はあるって」
「お、じゃあ久々にコウの家にお邪魔しよっかなー」
「いや、何でそうなるんだよ……、っていうかお前、いっつも迎えに来てるじゃん」
「いやいや、それでも中には最近入ってないし」
そりゃ、年頃の女の子を家に招待なんて恐れ多くてできませんよ。
そんなことを美咲相手に言っても仕方ないか、と思って口をつぐむ。だけど、そういうのは心臓に悪いからナシにしよう、マジで。
「おーい、お前らー、ホームルームすっぞー」
うちのクラス、三年A組の担任である木梨先生が入ってくる。数学担当で、年は若く、いかにも今風な感じの先生だ。というか、どうして先生をやっているのか分からない。まあ、絡みやすい、ということで評判はそこそこ良いらしいけど……。
「よーし、それじゃー、出席なー。……って言っても見りゃ大体分かるか。えーと、欠席なし、よしよし偉いぞ」
木梨先生は、何やら名簿表に書き込んでいるが、話しながら言葉を続ける。
「えーと、今日の予定は何だ? ……うーん、まあ特段珍しいこともないか。あ、今日の俺の授業の宿題やってきたか? ……ったく、そんな嫌そうな顔すんなよ、深山。やってないのが丸わかりじゃねえか。ま、後で適当に周りのやつらにでも見せてもらっとけ。他は――、なんもないか。ほいじゃ、時間余ったわ。テキトーに過ごしとけ」
そう言うと、椅子に座って携帯をいじり始めた。この適当っぷりも見事なまでである。まあ、去年に引き続きの担任なので、もう慣れたんだけどね……。
「せんせー、私の席の後ろに新しい席あるんですけど、これ何ですかー?」
うちのクラスの子が声を上げる。それを聞いた途端、木梨先生は突然立ち上がる。
「はっ! 忘れていた! 今日はお前らに転校生を紹介する! お、これドラマとかアニメっぽい台詞だな」
どうでもいい言葉を付け足して、教室の外にいるであろう転校生を呼びに行った。転校生、初めから待たされて可哀想だな。
周りのクラスメイトたちは、色々と噂をしているが、僕にとっては些細な出来事だった。転校生って言っても、僕の生活に影響するような転校生が来るとも思えないし、僕としてはこの平穏な毎日が続くのならそれでよかった。
「ね、剣道経験者だといいね」
席が隣の美咲が話しかけてくる。
「だといいけどな。その可能性は大いに少ないが」
「もー、そうやって夢を潰さないでよね」
いや、そうだとしても三年生だから意味ないじゃん……、その言葉が喉元まで出かかったが、これ以上あれこれ言われるのもアレなので、やむなく飲み込む。
そんなことを考えている間に、転校生が教室へと入ってくる。悠然と入ってくるその姿に、なぜか僕は見覚えがあった。
「――――、ったく先生、忘れてたんじゃねえの?」
そう言いつつ入ってくる転校生。違う学校に初めて来たというのに教師に向かってタメ口を聞くような不遜な態度。そして堂々とした話しっぷり。それは、見間違うこともない。一週間前、あの世界、《消去世界》で僕が出会ったあの少年――、リュウだった。
「って……、え…………?」
僕は声を上げたいのを必死にこらえる。何となくだが、僕がリュウのことを覚えていることは、リュウ自身には知られたくなかったからだ。
先生は苦笑いを浮かべながら、少年に前に出てくるよう促す。少年は教壇に立つと、一通り教室を見渡してから言った。
「大方隆です。どーぞよろしく」
やはり、リュウだった。そのように自己紹介したリュウは、また改めて教室内を見渡す。キョロキョロしすぎだって。
パチパチ、と拍手が沸き起こる。その中でもリュウは、何かを探すかのように視線を巡らせる。その目は、やがて僕の所でピタリと止まった。
僕の姿を確認したリュウは、僕の方へとずんずん歩いてくる。
「おーい、大方。お前の席はそっちじゃないぞー」
忠告する木梨先生のことを完全無視して、リュウは僕の目の前で制止する。そして、ずいっ、と僕の目の前に顔を近づけて言った。
「お前、俺のこと覚えてるな?」
「…………へ?」
いきなりそんなことを言われては、反応に困る。とりあえず、ここは――、
「……何のことでしょうか?」
しらばっくれておこう。
「おい、コウ。絶対お前覚えてるだろ、一週間前のこと。あの世界でのこと」
「いやいや、何のことを言っているか、さっぱりなんだけど」
それでも周りは、「おっ、あいつら知り合いか?」とか、「へー、越谷くんと知り合いなんだ。めずらしー」とか言っている。隣の美咲の目もあるし、誤魔化し切れない。
こんな衆目の中でこんなやり取りを続けられるほど、僕のメンタルは強靭ではなかった。ジトーッ、と僕の方を見てくるリュウに、僕はついに観念せざるを得ないと思って言う。
「……はあ、覚えてますよ。リュウ、だよね」
「やっぱな。てか、なんで嘘つくんだよ。まあ、いいや。こうやって実際にこっちでも会えたんだからな。よろしくな、コウ」
そうやって差し出してくる右手を、僕はついつい反射的に握ってしまう。
それと同時に、僕の中で平穏な日々が音もなく崩れ落ちていくのを感じたのであった。