1-4 イレイザー・ワールド
「っていうか、ここには《主》はいないようだな」
一通り、《幻影》を薙ぎ払ったリュウは、手に纏っていた光を消して、僕の方へと歩いてくる。
「一応聞くけど、《主》って?」
「あー、まあそんくらいはいっか。えーとな、《主》ってのは、この世界が出来た原因の本人様の《幻影》だ。つまり、現実世界で記憶を封じられた奴の《幻影》ってわけ。で、そいつがこの世界を管理していて、異物である俺たちを排除しようとしている、ということさ」
排除しようとしてるんなら、大人しくあっちの世界に返してください、って言ってもそうはいかないんだろうなあ……。
「でもたぶん、今の《主》はだいぶ力が抑えられているはずだ。だからお前が心配することはねえよ」
「どうして?」
「現実世界にいるはずの本人が、その《主》と《同期》してないからだ。今ここにいる《主》は、切り取られた記憶だけを頼りにこの世界を統治している。だから、弱い。この世界の《幻影》の強さは、恨みとか悲しみとか、ネガティブな感情が強いほど、強くなるわけだからよ。何の根拠もない恨みってのは、大した強さにならない」
「なるほど……」
つまり、その《主》さえ倒せば、現実世界への扉が開かれるというわけなのか。そしてその《主》は、現実世界の本人と《同期》して、記憶が繋がらない限り、強くはならない。
「ちなみに、《同期》することなんてあるの?」
「まあ、俺たちは積極的に《同期》させるけどな。この世界は、本人に記憶を戻した上で、覚醒した《主》を倒さない限り、無くならないからな」
それは聞いて、僕は不審に思った。
「俺『たち』ってどういうこと? 君を含めて、何かそういう組織でもあるの? わざわざそんな相手に塩を送るようなことをしてまでこの世界を消すための、機関か何かが」
それを聞いたリュウは、少し目を逸らす。だが、その後納得したようにうん、と
頷いて言った。
「ま、まあ、大体合ってるな。……ってか、さっきも言っただろ。お前はここのことはどうせ忘れるんだから、もういいだろ。それより、《主》の場所を探さねえと。だが、これである程度は絞られてくると思うぜ」
「? どういうこと?」
「お前は、あの格技室で初めて《幻影》に出会った。そして、この職員室には《主》こそいなかったが、《幻影》はうじゃうじゃといたわけだ。ってことは、《主》の正体は、この学校の教員。でも、消え去った記憶の舞台は、ここじゃないということだろ」
「……ええっと、そうなった理由がよく分からないんですが……」
色々と、リュウだけが知っている事実を元に、話が進んでいる気がする。そういうのは、ちょっとやめてほしい。
「とりあえずここにいたらまた《幻影》が出てくるから、移動しながら話すぞ。……で、さっきの話か。《幻影》ってのは、現実世界での《主》が関係性の強かった場所と、その付近に現れやすい。でも、《主》自体が現れるのは、消し去った記憶の舞台なんだ。まあ、その範囲が広かったら、どこに現れるかとかは分かんねえんだけどな」
「……消し去った記憶ってのはどんなのなの?」
「基本的には、現実世界の《主》が消したいと願った記憶だ。そんな欲望に、この世界の影たちは、食いつく。で、何だかんだでこの世界を作るらしいよ。この辺は、あんまり詳しくはないんだけどな。まあ、さっき言った通り、ネガティブな記憶ばっかだ。だから、そんな感情が、奴らの力になる」
大体は理解できた。
現実世界の《主》が消したいと願ったネガティブな記憶に反応して、この世界の影たちはそれを食らう。そして、何だかんだがあって、この世界が作られるってわけか。だから、この世界の《主》を倒さない限り、この世界からの脱出はあり得ない、ということなのか。
それにしても……、
「なんだか、時々『らしい』とかみたいな伝聞を挟んでくるんだけど、それはリュウたちの仲間から聞いたことなの?」
それに対して、リュウはうー、とかあー、とか曖昧な返事をするだけだった。
まあ、答えてはくれないか……、と半ば諦め気味になっていた。
僕は、この世界を出たらこの世界に関する記憶が無くなる、ということをまだ実感を持って捉えられていなかった。だから、この世界について色々と聞いておきたい、と思ったのかもしれない。
気を取り直して、僕はまた前を向いて歩き出した。
僕たちは、歩きながら先ほどの道場の方へと戻っていく。正直なところ、僕はリュウの行く所について行っているだけなので、リュウにどのような意図があるのか分からなかった。
道場の付近に来て、リュウは足を止める。
「よし、着いたぞコウ」
「えっ、ここが《主》のいる場所?」
「いや……」
リュウは首をゆっくりと横に振る。
「じゃあ、どうして?」
「うーん……、コウ、どこが《主》のいる場所だろ?」
「分かってたんじゃないの!?」
これには呆れた。分かっていたかのように迷いなく歩くので、信じて進んだ結果がこのザマだ。リュウは、苦笑いして頬を掻きながら言う。
「えーと、俺だってこの学校のことよく分かんねえんだよ……。たださ、さっき言った通り、《幻影》が集まりやすいのは《主》に関連する場所と、消し去られた記憶の舞台の付近なんだよ」
「えーと、それはつまり……?」
「そ。さっき道場に《幻影》が現れたのだから、この付近に《主》のいる場所があるかもしれない、っていう俺の予測さ」
まあ、筋としては間違っていない。ただ、この辺で先生が寄る所と言えば……。
「体育館? でも、さっき見たし……。さっきの感じだと、道場自体ってわけではなさそうだよな……。ってことは……、あっ」
「ん? 何か思い当たるところ、あるのか?」
「う、うん……。でも、そことは限らないけど……」
でも、この辺で、となると考えられる場所は限られてくる。
「とりあえずそこに行ってみようぜ。話はそっからだ」
僕は、その場所にリュウを連れて行く。部屋名が書かれたプレートを一瞥して、リュウは「なるほど」と呟く。
「会議室か。確かに、教師たちの集まりそうなところだな」
「う、うん。あとはここくらいしか考えられなかったから……」
「いや、上出来だ。会議でなんか嫌な目にあったとか、そんなことかもしれねえからな。可能性としては十分あるでしょ。……というわけで、お前はここで待ってろ。あと、他の《幻影》に襲われそうになったら一声叫べ。すぐに行くから、そいつで時間稼ぎしろ」
リュウが言ったそいつ、というのは先ほど僕が、《幻影》との戦いで使用した木刀だった。万が一に備えて、道場から失敬した。
この周囲に《幻影》が現れやすいことは、道場に《幻影》がいたことからも明らかだった。会議室の中でリュウが戦っている最中に、僕が背後から《幻影》に襲われる可能性も否定できない。そのため、僕がトドメを指すことはできずとも、ある程度抵抗できるようにしておいた方がいい、という判断からこの木刀を用意したのだった。
「大丈夫だよ。僕だって、せめて足手まといにならないようにはしたいからさ」
それを聞くと、少し呆れたように、だけど感心したような目つきで、リュウが僕を見た。
「ホント、お前って変な奴だよな。ここに来たやつなんて、大抵がパニック状態を起こして大変だっていうのによ。度胸があるというか、ただのバカというべきか」
「少なくとも、リュウにはバカとは言われたくなかったけどね」
「……はあ!? 何だよそれ!」
こうやっていちいち反応してくれるところも面白い。僕はクスクスと笑って、「頼むよ」とでも言うように、リュウの背中をポン、と押した。
「……はあ、お前って面白いな。何だか現実世界でも会いたくなってきたぜ」
ここに関する記憶を失くした僕が、このリュウという少年のことを見たらどう思うだろうか。仲良くしたいと思うだろうか。
たぶん、たぶんだけど――、
「きっと仲良くなれるよ、また一からでも」
そんな気がした。不思議と、そんな感覚に囚われていた。
滅多にそんなことを思わない僕でも、そう思うことができた。それは、この世界のせいなのか、この少年の性格のせいなのかは、分からない。
リュウは、少し目を見開いた。だが、すぐにフッ、と笑って「だな」と同意する。
そして、リュウは会議室の扉を開け、中へと足を踏み入れた。
――殺気立っている。
中の様子を見た僕が、初めに抱いた感想だ。この世界ではどうにも感覚神経が、現実世界とは異なった働きをしているように思える。運動能力も過剰になっているのだが、それだけではなく、何か殺気立ったようなものも、敏感に感じ取ることができるような気がするのだ。
さっきの職員室の時もそうだったが、この会議室からはそれ以上の殺気を感じる。だからこそ確信できた。
ここに、《主》がいることを。
同じことをリュウも感じたのか、早々と《集結》の能力を用いて、光の剣を出現させる。そして、ゆっくりと中心まで歩み出て、そこで立ち止まる。
「おい、ここにいるんだろ。出てこいよ」
リュウが言った。おそらくここにいるであろう、《主》に向かって。
会議室は、長机がカタカナの「コ」の字の形に配置されていて、前方には議長席とでも言うべきか、大き目の机が配置されている。リュウが立っているのは、ちょうどその「コ」の字の中心部分であった。
しばらくすると、またあの僕の内部に語りかけてくるような声がする。
「――やっと来たか、侵入者。待ちわびたぞ」
だが、その声は先ほどと違って、はっきりとしていた。おそらく、これが《幻影》と《主》の違いなのだと、直感的に悟る。
そして、リュウの目の前に《主》が現れる。黒々として、他の《幻影》たちよりも、邪悪な感じが表れている。《幻影》に比べると、はっきりとした人型となってリュウの目の前に立ちはだかっていた。
「よく言うぜ。コウを引き込んだのはお前たちだっていうのによ」
「その言い方には語弊があるな。私たちは、私たちの母体となる存在を探して彷徨っていたのだ。それが、この少年が勝手に侵入してきただけだというわけだ。ならば、排除する他あるまい。まあ、貴様のような異物も紛れこんだのだがな」
「人を異物扱いかよ……。まあ、その母体とやらには俺が直々に会わせてやるよ。この世界をぶっ潰すためにな」
「その必要はない。時間ならある、我々はじっくりとあの辺りを彷徨うこととしよう。貴様はここで消されることになる」
「それは、……こっちのセリフだ!」
そう言うと、リュウは《主》に飛びかかる。また、《幻影》のときのように影を切り裂いてくれる、そう思っていたのだが、《主》は黒々とした左腕を伸ばし、リュウの剣を受け止める。
「……くっ!」
リュウは予定外だったのか、《主》の抵抗に対して、次の一手が遅れた。
その瞬間、《主》はカウンターとばかりに空いた方の右腕を、リュウの腹へと突き出す。見事に腹を抉られたリュウは、呻き声を上げて、一、二メートルほど飛ばされる。
「リュウ!」
僕は、堪らず中へと入ろうとする。だが、それをリュウは大声で制止した。
「来るな! ……ちょっと油断しただけだ。俺なら大丈夫だから」
その言葉通り、リュウはすぐに立ち上がる。そして、《主》を一瞥して、もう一度剣を作り出す。
「……タフだな。あっちの世界なら骨が折れていたのではないか?」
「はっ、そりゃあっちの世界での話だ。……ったく、意外と《同期》進んでるみたいだな……」
確かに、殴られた時の音は、かなり嫌な音だった。正直、こんな短時間で起き上がれるような軽い傷で済むとは思えなかった。
リュウの腹の、殴られた部分を見る。すると、先ほどまでは気付かなかったものの、よく見ればそこが少し掠れて、ノイズのように不鮮明になっていた。
「……これは、どういうことだ?」
この世界は、おかしい。そんなことはとうに分かっていたことだが、この世界では人体の構造すら、変えてしまうというのだろうか?
しかし、そんなことを考えている暇はなかった。リュウが、また攻撃を開始する。今度は、攻撃を受け止められても、絶え間なく攻撃を繰り返す。その度に、リュウが《主》を押していっているようにも見える。
状況は、明らかにリュウが有利だ。それでも、不気味だった。表情のない《主》が何を考えているか、僕には想像もつかなかった。
僕の悪い予感は、果たして的中した。リュウの周りに、《幻影》が現れて、リュウに近づいて行く。その数三体。
リュウもそのことに気付いたのか、《主》との間合いを取り、《幻影》を斬りにかかる。《幻影》は一撃で消滅するものの、数が増えると厄介だ。
そして、もちろん《主》の狙いはそこにある。《幻影》との戦いに気を取られているリュウに今度は自ら襲い掛かる。
リュウは、二体の《幻影》を斬ることに成功した。だが、それでも、まだ二対一。
そして、僕はまた《幻影》が現れるのを確認した。
このままではいけない。僕は、居てもたってもいられなくなり、ついに会議室へと一歩を踏み入れる。
「コウ……!」
リュウが必死に叫ぶが、お構いなく僕は《幻影》に向かって木刀を打ちつける。《幻影》は、どうやらガードする、ということをあまり考えないらしく、僕の攻撃をまともに受ける。
それでも、先ほどと同じように、スルリと影を引き裂くだけで、消滅させるには至らない。でも、動きは一時的に止められた。それだけで十分だった。
もう一体の《幻影》が、僕の侵入に気付き、標的をリュウから僕へと変える。二体が、訳も分からないくらいブンブンと腕を振り回して、僕を攻撃してくる。
「う、うわわっ!」
僕は慌てて《幻影》との間合いを取る。さすがに、こんなに振り回されていちゃ、避けきるのは至難の業だった。
「ったく、仕方ねえ……。おい、コウ! 雑魚はお前に任せるぞ!」
「分かった!」
リュウの一言を聞いて、気合を入れ直す。
体は軽い。比較的広い会議室だったので、僕はリュウの戦いから少し離れるように移動を続けた。
形としては、僕が《幻影》二体を、リュウが《主》と《幻影》一体を相手にしている格好だ。これ以上《幻影》が現れないところを見ると、限界があるのかもしれない。
だけど、僕がこの二体を相手することで、《主》の策が一つ消える、というのは確信していた。《主》は、単体ではリュウに敵わないと判断したからこそ、《幻影》の力を借りようとしたのだ。だから、その幻影を分散させれば、リュウの戦いの手助けになるはず。
僕は、リュウとの距離を取り、会議室の後方まで移動した。
バックステップで間合いを取っていたので、背後のことはあまり見ていられない。それでも、壁が近づいていることくらいは、認識できた。
ふと考える。こんなに消極的な姿勢を見せてたら、剣道ならすぐに隙を突かれてやられてしまうな、と。美咲に叱られてしまう。
そうだ。これは剣道の試合だ。相手は、タチの悪いメチャクチャな素人二人。まあ、一本取っても勝ちにはならないけど。
でも、時間を稼げば、それでいい。敵から一本を取られずに、制限時間を切り抜ければいい。それが、この試合での勝ちの条件だ。
僕は、両手でしっかりと木刀を握り、二体の《幻影》を見据える。そいつらは、腕を振り回しながら、徐々に距離を詰めてくる。
「はっ!」
僕は、気合の一声と共に、大きく左側へと踏み出す。《幻影》を二体とも正面から受け止めずに、一体ずつ処理する戦法だ。
教室の角にいれば、二体が同時に攻めて来た際に、左へと踏み出すだけで、一体の攻撃が届かない所まで回避ができる。
逃げているばかりではない。そのまま、《幻影》を斜めに切り払う。攻撃のモーションを起こしていた《幻影》はそのまま固まり、分裂した体を元に戻そうとする。
右から、もう一体の《幻影》が襲ってくる。意外にも速い攻撃だったので、避けることもできない。僕は思い切って、前に足を踏み出す。
そして、思いきり前進して、相手の肩口めがけて木刀を打つ。
その瞬間、鋭い痛みが僕の右わき腹を襲った。
見ると、先ほどのリュウほどではないが、掠ったと思われる部分がノイズのように、ぼやけてしまっていた。
だが、それでも痛みはそれほどではない。痛覚は、現実世界よりも鈍いのだろうか。
僕は振り返ってすぐに次の戦いの態勢に入る。
だけど、それも無用だった。
二体の《幻影》が低い呻き声を上げながら、消滅する。それを見て悟った。
「……遅いよ、リュウ」
消滅した《幻影》の先から現れたリュウに向かって言う。
「わりぃわりぃ、……でも、お前が勝手に忠告無視したんだろ」
まあ、確かにそれはそうだ。
「……で、終わったの?」
「うーん、正確に言うと、まだだ。あの野郎、自分から逃げていきやがった。まあ、どうせまた《同期》させるつもりだったからいいんだけどよ」
ふぅ、と一息ついた。終わった、ということは。
「元の世界に戻れるんだよね?」
「あぁ、その点は大丈夫だぜ。あれを見ろ」
リュウが指し示す所を見ると、先ほどリュウたちが戦っていたところあたりに、僕が追い求めていた光が輝いているのが見えた。
「あれが出口だ。さ、行こうぜ」
だけど、僕には気がかりな点が一つあった。
「……ねえ、本当に僕の記憶って無くなっちゃうの?」
それを聞いたリュウは、少し肩をすくめる。
「そーだな。こればっかりはどうしようもねえ」
「そっか……」
未だに、何となく実感が湧かなかった。この不思議な出来事が、全て自分の記憶とならずに消えてしまうなんて。
でも、そういうものなのかもしれない。僕がここで過ごした非日常は、「無かったこと」になる。そして、僕はあの平穏に戻っていく。
いいじゃないか、僕が望んだことだ。平穏な日々にやっと戻れるんだ。
「……コウ?」
僕は、俯いていたことに気付く。慌てて顔を上げ、出口へと一歩を踏み出す。
出口は、燦々(さんさん)と煌めいていた。これが、現実世界との境目。
「ほら、先に行けよ」
僕は、出口の光へと手を伸ばす。だが、その手を止めてリュウに尋ねる。
「ねえ、一つだけ聞いていい?」
「……おう、いいぞ」
僕は、振り向いてリュウの顔をしっかり見ながら言う。
「この世界って、何て言うの?」
「何だそんなことかよ……」
「そんなことって何だよ」
少ししかめっ面をしてみる。
「《消去世界》だ」
「え?」
「《消去世界》。人々の記憶を消去し、果てには存在そのものを消去しようとする世界。……こんな世界、あってたまるかってんだよ」
《消去世界》。その言葉を僕は、口の中でゆっくりと呟く。
不思議と、違和感はなかった。すんなりと、自分の中に溶け込んでいくようだった。
「ほら、今度こそ行けよ」
リュウはそう言うと、僕の背中を押す。
「わっ」
僕は光に包まれる。この世界に来たときに、闇に包まれたのとは全く逆だった。
僕は、もう一度振り返る。光が満ち溢れていたものの、もうリュウの姿は見えなかった。