1-2 色彩が失われた世界
どれくらい気を失っていたのか。闇に飲まれた僕が目を覚ますと、そこは教室の机の上だった。
机の上……? これ、もしかして夢オチってやつなのかな?
そう思った。だってあり得ない。何か分からない光を追いかけた先で闇に飲み込まれて違う世界へとやって来ただなんて、そんなことあり得るはずがない。
実際、今僕がいるのは学校だ。いつもの教室、いつもの席、いつもの――、
「……いや、違う」
僕は窓の外を見て感じる。いつもの景色なんかじゃない、と。
僕は状況を冷静に分析する。
やっぱり、何かおかしい。根拠は三つ。一つは、この世界の色が薄暗いこと。薄暗く、なんとなくモノクロ調とでも言うべきか。今にも消えそうな、そんな世界だった。
二つ目は周りに人がいないこと。今は何時か分からないが、あまりにも人気がなさすぎる。夜の学校に来た覚えはないし、そもそも夜の学校は施錠されていて教室まで入れるはずもない。
時間のことを考えて、僕はスマートフォンを確認する。時間は、やはり先ほどの時間のままだ。電波はない。このことからも僕は、あの謎の光を追いかけて、闇に飲み込まれたのだと分かった。
でも、やっぱり最後の三つ目が一番、この世界が異常であることを示している。そう思って僕は窓の外を見る。
そこはいつも僕が見ている風景だった。――――学校の敷地内に限っては。
学校の敷地より外は、存在しなかったのだ。どんよりとした靄がかかって、そこより外に行けばもう帰ってこれないような、そんな雰囲気を醸し出している。
じゃあ、この学校は何なんだろうか。この異常な世界にポツンと浮かんでいるというのか。
ここに閉じ込められていたらどうなるのだろうか。食糧もない。水は出るのだろうか。電気は? ガスは?
ダメだ。こんなところに閉じ込められたままじゃダメだ。なんとか脱出方法を考えないといけない。
そして、僕は立ち上がる。この、モノクロの世界での一歩を踏み出すために。
とは言ったものの、この世界から脱出する術なんて持ち合わせていない。そもそもどうやってこの世界に入ってしまったのかも分からないのだから、脱出する方法も分かるわけがない。
そこで僕は、この世界に入ってしまったきっかけを思い出す。
「あの光……」
僕は、謎の光を追ってきたらここに入り込んでしまったのだ。だったら、その光を探せばもう一度あの闇に飲み込まれることができるのかもしれない。
こんな薄暗い世界だ。あんなに煌めいていた光があるのならすぐに分かるはずだ。
「……よし」
そうと決まれば即行動。いつまでもグズグズしている場合じゃない。僕はまず、教室を出た。
廊下は完璧に現実世界のものを再現していた。だが、やはりどこか薄暗い。ドラマの回想シーンなんかで使われそうな感じだ。それがこの世界の異常さを物語っている。
僕は光を求めて彷徨い続ける。他の教室、体育館、グラウンド。どこに行ってみてもそれは現実世界と同じ配置であり、非常に驚く。試してみた所、電気も点くし、水も出るのだ。これはなんとも不可思議なこととしか言いようがないのだが、何もないよりはよっぽどマシだ。
だが、違和感はある。電気を点けても、大した明かりにはならない。世界に色彩を与えると言うよりもむしろ、黒白をより明確にしているだけのように思えた。やはり、この世界はモノクロ調であった。
水も飲めるし、ちゃんと喉を通るのだが、しばらくすると水を飲んだという感覚が消えているような気がする。水を飲んだ、という事実がなくなってしまっているかのようだった。
そのようなおかしな点はあるにはあったものの、あちら側の世界で見つけた光を追い求める、という目的に関しては変わらない。僕は、元の世界に帰るんだ。
だけど、ここまで見つからないのなら……、次はあそこか。
そう思って僕は通い慣れた道を歩き出す。
向かった先は道場だ。道場と言うと聞こえはいいが、実際のところは格技室という名称で、畳を敷いて柔道を行ったり、その他の格技も行うことができる。
だけど、僕たちにとってはやはり聖地であり、ここが異常な世界だと分かっていても、入るのにはある程度の敬意を持っていかなければ、と感じる。
僕は一礼して、道場に入る。辺りを見渡すが、何もない。
モノクロ調の世界ではあったけど、ここはやはり落ち着く。ここにいると、冷静な自分でいられるような気がしていた。
それでも、何もない。僕が探していたあの光はどこにも見えない。
万策尽きた。そんな気がして諦めかけた、そんな時だった。音が聞こえた。いや、聞こえたというべきなのか? 何といえばいいのか分からないが、自らの感覚に語りかけてくるような、そんな声のようなものが聞こえたのだ。
「――――――――」
「だ、誰だ!?」
僕は必死に辺りを見渡す。だが、薄暗いモノクロの世界には誰一人いるような気配がない。
「――――――――」
耳がグワングワン、と鳴っている。何を言っているのか分からない。どこだ。どこにいる。
気持ち悪かった。自分の内部に語りかけてくるようなこの声の主は誰なんだ? 怖い。どうしてだか、怖かった。僕に話しかけているのではない。僕の内部に語りかけているのだ。
「――――――キ…………エ……ロ」
「え?」
今、確かに聞き取れた。今までグワングワンとした音としてしか聞こえなかった声が、はっきりとした音声として聞き取ることができた。そしてそれが、「消えろ」という三音であったことも。
「キ……エ…………ロ!」
僕の周りを闇が包む。違う、道場が漆黒の闇に包まれて黒く淀んでいるんだ。
僕は、慌てて道場の隅に置いてある木刀を手に取る。その木刀もモノクロ調で色を持っていない。それでも、いつものように構えて、一つ息を吐いた。
やけに冷静だ。この世界に来て、僕はなぜか平常心でいられている。これも今まで培ってきた剣道の経験が生きているのかな、などと考える余裕すらあった。
何が起こるのか、分からない。道場は漆黒の闇に包まれたままだ。逃げてしまうこともできるだろう。だけど、僕はこの世界では逃げても無駄な気がしてならなかった。
なぜだか、そう思う。こんな世界、存在すること自体あり得ない話なのに、それを受け入れているばかりか、この世界がどんなものか、何となく想像できてしまう自分に呆れすら覚えた。
しかしそのような思考を吹き飛ばす現象が僕を襲った。
「キエロ…………、キエロ……!」
道場を包んでいた闇が一点に集まり黒い塊となる。それは形を変え、人型のような姿へと変わった。その影は僕に向かって一直線に猛進してくる。
「キエロ……!」
影の右パンチを辛うじてかわした僕は、素早く反撃体制に入る。影の動きを見て、隙はないかと探った。
そんな中でも影はパンチを放つ。そもそもこの影のパンチが当たった所で痛いのかどうかなんて分かりもしないが、試しに食らってみるなんて気にもなれないので、ひたすらかわし続けた。
狭い道場の中で激しく動き続けていても埒があかない。おそらく、先に疲れて隙を見せるのは自分の方だろう。そう思い、僕は勝負に出た。
影の右パンチをかわしつつも、木刀をしっかり倒して一歩を踏み出す。
「はあああ!」
綺麗な胴への横払いが炸裂した。
なのに、その感触はなかった。
「……そりゃ、影だもんな」
などと冷静に分析できてしまう自分も悲しかった。
だが、その一撃で影の動きを一時的に止めることはできた。僕はすかさず次の一撃をお見舞いする。
「やあああああ!」
影の脳天――この際だから影に脳天があるのかどうかは置いておく――に、木刀を一振りする。しかし、そこに手ごたえはなかった。するり、と木刀は空を切るかのように影を真っ二つに割いただけだった。
また影は少しの時間をかけて人型へと戻っていく。
「……こんなの勝ちっこないじゃんか」
僕はこの影を倒すことを諦めざるを得ないと感じていた。だけど、この影を倒さない限り、元の世界には帰れない気がした。だから、僕は木刀を振り続けた。当てもなかったが、逃げるよりはマシだと言い聞かせて。
思った以上に、この世界では体のキレが増しているように思えた。木刀を振るスピードも現実世界より速く感じる。木刀が軽いのか、自分の筋力が増しているのかは分からないが。
それに、動きも非常に軽い。今なら、ジャンプすればいつもの二倍近く跳べてしまうのではないか、という錯覚にすら陥ってしまう。
それでも、体力の限界というものがある。何度も何度も切られては元に戻る影に、僕の疲労感はピークに達していた。体力も、いつもより増しているとは感じるものの、さすがにキツイ。
「せいっ!」
僕は、影の右ストレートをかわし、その腕を斜めに叩き斬る。その部分は一時的には消えるが、それでもすぐに再生してくる。
まったくもって、キリがなかった。どれだけ斬っても、トカゲの尻尾のように再生してくる。その繰り返しの度に、疲れが蓄積していっているのが自分でも感じられた。
そして、疲れは油断を生む。よく、スポーツなんかでも疲れている時に怪我は起こりやすいなんて言うもんだが、本当にその通りである。
僕は、疲れから一瞬の隙を生んでしまった。
影のパンチをかわしながら次の一撃を打つものの、それは影を捉えずに空を切った。
そして大きく一歩踏み込み、影を背後に回してしまった僕は、次の攻撃をかわすために、影の方に振り返る。しかし、その時既に影の腕は、目の前にあったのだ。
僕は、思わず目を瞑る。何が起こるのか、分からない。
ここで、僕は死んでしまうのか。
やっと、平穏な日常を手に入れたというのに。僕を苛むあの記憶から、解放されたと思っていたのに。
…………だが、まだ僕の元にパンチは届かない。
僕は恐る恐る目を開ける。
そこに見えたのは、……光だった。
正確に言うならば、影の腹の部分から突き出している光の剣だった。それはバチバチと音を立てている。
その光はモノクロなんかじゃない。僕が向こうの世界で見た、あの煌めいている光であった。
「グガアアアアアアアアア!」
奇妙な唸り声を上げて、影は消えていく。そして、その先に見えたのは――――、
「……誰?」
見たこともない、なのにどこか懐かしく感じる一人の男の子だった。