1-1 深淵への入口
――ここはどこ?
いくらかのパニックと不安に襲われながら、僕は周りを見渡す。よく知っている場所のはずなのに、何故か心許ない気持ちが湧き上がってくる。
僕は自分の教室にいる。間違いなくそうだ。だけど、どうして誰もいない。そして、どうしてまったく色がない?
何より僕は、さっきまで下校していたはずだ。美咲と一緒に歩いていたはずだ。それが突然怪しげな光に導かれて、そしてその後ここに……。
だけどおかしい。どうして突然こんな所に? 考えれば考えるほどどうして、が積み重なっていく。どうしたら出られるのか、どうしてこんな所に閉じ込められたのか、何も分からないのだ。
どうなってるんだ、この世界は。
僕は、そう考えてハッ、とする。
――この世界?
自然とそのように考えている自分に気付き、寒気がする。どうして、ここは自分たちの住んでいる世界とは違う世界なのだと考えてしまったのだろうか。
分からない。何も、分からない。自分の思考すら手に負えない。
だけど、何も分からない以上、進んでみるしかない。
僕は、立ち上がって一歩を踏みしめる。
この、モノクロの世界での第一歩を。
◆ ◆ ◆
時は昨日まで巻き戻ってゆく。
僕は、部活を終え、家へと帰宅する道を歩いていた。
いつもと変わらない毎日。朝、目覚めて学校に行く。一日の授業を受けて部活をし、帰宅する。そしてなんやかんやして寝る。この何も変わり映えのない日常がこれからも続いて行くのだろう。
だが、今年はそうもいかない。何しろ、僕たちは中学三年生になる。高校受験というものも来年に迫っているのだ。正直なところ、そんな実感はまったくないのだけれど。
それでも、この街に来て四年になり、僕はやっとこの街で平穏の日々を、日常と呼べる日々を得られたと思っている。
だから、受験もあるけど、もう少しだけこの日常の中にいたい。この平穏な日々を大事にしたい。
毎日がメチャクチャ楽しいわけではないけれども、安定していて、心配事だとか、心の中の靄を気にしなくていいこの日常を。
「ってい!」
「ぬわぁ!」
僕は、頬にヒンヤリと冷たい感触を覚える。ニヒヒ、と悪戯っぽく笑いながら隣を歩いていたのは濱野美咲。僕の数少ない友人だ。
「またぼーっ、としちゃって。何考えてたのさ、コウ」
僕は不平を垂れながら、美咲に向き合って答えた。
「またって何だよ、またって……。別に、大したことじゃないよ。そっちこそいきなり何だよ」
「いや、だってコウが私のこと置いていったんでしょ!? 他の子に聞いたらコウは帰ったって言うからビックリして追いかけてきたんだからね!」
そういえば、今日は部活が終わってから何となく学校を出てしまったので、美咲を待つということがすっぽりと頭の中から離れてしまっていた。
「あー、ごめん……、うん、やっぱりぼーっ、としてたみたいだ」
「ほらね、よくそういう状態になっているんだから、コウは」
そして「ほれ」と言いながら僕に押し付けてきた缶ジュースを手渡す。
「……サンキュ。でもまだ寒いんだからそんなもん押し付けられたらビックリするよ」
「だから冷たいのにしたんだよ。コウの目が覚めるようにってね」
美咲はそう言って、自分の分の缶ジュースを開ける。そんな美咲の姿は堂々としていて、男の僕が気圧されそうなぐらいだった。
肩まで伸びた髪はとても美しい。その髪が風に揺られて靡いている様子は、何と言うか艶めかしいという表現が似合う。道着を着ると、まさしく和風美人といった装いになる美咲は校内の憧れの的となっているのだ。
季節は春。僕たちは中学三年生になった。幡多中学校剣道部も新入生を歓迎しようというムードで盛り上がっている。ただし、目ぼしい新入生はまったくもって見つかっていない。
新しい季節。新しい学年。新しいクラス。そういう環境にワクワクしている人たちも少なからずいる。おそらく隣を歩いている美咲も例外ではないだろう。最近はウキウキしているのがはっきりと見てとれるくらいの表情で登校している。
だが、僕にとっては今まで通りが一番だった。今の日常が壊れることが何より怖いと感じていた。今のままでいい。現状維持が一番。
「ていうかさ、コウ。また最近何か変なこと考えてない?」
「何だよ、変なことって」
突然の美咲の質問にむすっ、とする。さっきもそうだけど、そんな言い方だと僕が常にぼやっと、変なことばかり考えている人間だと思われてしまう。まあ、外れてはいないのだけれど。
「だって、コウったら時々何考えてるか分からないんだもの」
傍から見るとそう見えるのか。特段色々と考えているわけでもないつもりなんだけど、僕の表情ってそんなにも読みづらいのかな。
「そんなことないよ。僕なら大丈夫だから」
そう言って誤魔化す。いや、誤魔化しているという表現はおかしいか。だって実際大丈夫なんだから。
そうして一日が終わっていく。これが、僕の――、越谷晃の一日であり、何の変哲もなく、かつ、かけがえのない日常なんだ。
◆ ◆ ◆
そんな日常だったはずだ。
それがあの時、あの瞬間、一瞬にして崩れ去った。
僕は、一気に非日常へと、誰も知らないような領域に足を踏み入れてしまっている。
モノクロの世界を一歩一歩、進んでいくが、何かが起こる気配もない。それは同時に、僕がこの非日常から簡単に抜け出せないということをも意味していた。
この世界――と呼べるべきものなのかは分からないが――は、何がどうなっているというのか? どうして僕以外の人間はいないのか?
いや、考えても始まらない。この場所のことに関して、あまりにも無知すぎる。
だけど、それでも僕は歩き続けていた。
歩かないと何も変わらないから。そう思って歩き続けた。
そして気付く。結局、僕の中にも変わりたいと、何かを変えたいという願望があったのだと。
思えばこの世界に導かれた原因も、謎の光に惹かれたからであった。
あの光に僕は何を思ったのだろうか?
何かを変えてくれる光だと思ったのだろうか。あの光を追いかければ、自分も一歩踏み出せるのかもしれないと考えたのだろうか。
分からなかった。どうしても、今の僕には分からなかった。
◆ ◆ ◆
次の日の朝、僕は目覚める。
今日もまた一日が始まる。別にそれをどうこう言うつもりはないし、特段嫌なものだとも感じてはいない。今日という一日が始まる以上はそれに従うし、体が自然といつもの朝を迎えるようにシステムされているのだった。
機械みたいな人間だな、僕って。でも、一日が始まるからといって「今日も一日が始まるぞー、楽しいなー、はっはっはー」なんて口に出して言えるはずもないんだし。
「今日も一日が始まるぞー、楽しいなー、はっはっはー」
僕の隣に並んで歩いている美咲は、突然そんなことを言いだす。……僕の思考でも読んでいるのだろうか。
「つくづく美咲って単純なんだなって思うよ……」
「いきなり何よ! ひどいなー、一日を精一杯楽しもうっていう私の宣言じゃない! それとも何? コウは、今日もいつもの退屈な一日が始まるー、とか思ってるの?」
「え、そ、それは……」
非常に図星なんです。
「はー、だからいっつもそんな風に考えてるからダメなんだって。まあダメってほどじゃないけど。たまには前向きに、ね。今日は何かいいことあるかもしれないって思ったらいいじゃない。ほら、例えば今日の昼ごはんは何だろうー、とかさ」
「今日の昼ごはんは、いつものやつ。ほら、店で出してる唐揚げ弁当」
両親を失くした僕は、父親の妹である叔母の家に預けられた。ちなみに、家は弁当屋を経営しており、よく僕の昼ごはんはそこから支給されることとなっていた。
「あ、そうなんだ……。じゃ、じゃあ、今日の部活はどんな新入生が来るのかなー、とかさ」
「たぶん期待薄だね。今年は剣道経験者がいないんだし」
ついでに言うと今まで見学に来た新入生のほとんどが美咲目当て。大体一日見て、満足して他の部に行ってしまう。そのため同じ子が二日連続で来たためしがない。
「もー、どうしてそうやっておもしろくないって思い込むかなー。もしかしたら何かあるかもしれないじゃない。例えば、唐揚げ弁当の唐揚げが今日は一個多かったとか」
「……ずいぶんと小さな幸せだな」
「そういうのでもいいの! だって突然違う世界に行けるなんてそんなお話みたいなことがあるわけじゃあるまいし」
「違う世界、か」
本当にそんなものあるのかな。いや、ないだろう。
この世界は平凡で、不条理に満ち溢れている。そのことは、僕のこのたった十五年の人生で痛感してきたことだった。
「だからコウってば、ぼーっ、としない!」
「ぐへっ!」
いきなり美咲に背中を叩かれる。この暴力女め。
それでも心配してくれてるんだな、ってことは言葉の節々からも感じ取れる。
だから、今は素直に従っておいても……、まあいいかな。
◆ ◆ ◆
僕は歩きながら、美咲のことを思い出す。
正直言って、お節介すぎるところもあるけれど、僕のことを本気で案じてくれているということは痛いほど分かっていた。
両親を失くして、この街にやってきた僕。その事情を知ってか、何かと美咲は家が近い同級生というだけで色々と世話を焼いてくれた。
あいつは今、僕がいなくなって何を思うのだろう?
僕がいなくなって、心配しているだろうか? おおざっぱな性格をしてるくせに、そういうところだけはやけに繊細なあいつのことだから、僕がいなくなってオロオロしているかもしれない。
心の奥がチクリと痛む。やっぱり、美咲に心配はかけたくなかった。
だから、この場所から出ないといけない。どうすれば、元いた所に戻れるのかなんて見当もつかないけれど、それでも何とかしてここから出ないといけない。
僕のためだけじゃない。僕のことを支えてくれ、心配してくれる人のためにも。
◆ ◆ ◆
窓の外はいつもと変わらない景色が広がっている。
いつもと同じ時間割。いつもと同じ席。いつもと同じ先生。いつもと同じ授業。そのサイクルは非常に退屈させるものだった。窓際の席に座る僕は、思わず授業そっちのけで窓の外を見てしまう。
でも、その先に広がる景色も、いつもと変わらない。
僕は、こんな退屈な毎日を心から好いている。これ以上、何も求めてはいけない。そう思っていた。
なのに、どうしてだろう。僕の心の奥底が何かを求めている。最近、そんな気がするのだ。最近になってようやく、平和な日常に落ち着いたと思っていたのに、僕の心は非常に矛盾していた。
僕は何を求めているのだろう。何が、この渇いた心の奥底を満足させるのだろう。
その時だった。
「…………!?」
僕は、窓の外で何かが弾けるのを確かに見た。弾けた、というべきなのか。バチバチと、電気が流れているかのような、そんな光景だった。
思わず目を擦ってもう一度よく見てみる。しかし、それが再び見えることはなかった。
気のせい……? でも、見間違いのようには思えない。電線だとか、そういう可能性も考えたが、それにしてはあまりにも近すぎる。
僕は、どうにも窓から視線を外すことができずにいた。
ちなみに、その後もずっと窓の外を見ていた僕が、先生にキツく叱られたのは言うまでもない。
「どしたの、コウ? 授業中ずっと外なんか見ちゃってさ」
部活に向かいながら、クラスも同じである美咲が話しかけてくる。
「いや、なんでもないよ。なんかないかなー、って見てただけ」
「それにしても見過ぎだよ。……まーた変なこと考えてたんじゃないよね」
ずいっ、と美咲が顔を寄せてくる。いや、近いって近い。
「……そ、そんなことないよ」
「ふーん、ならいいけど」
意外にもあっさりと、美咲は僕から顔を遠ざける。
「でも、何かあったらすぐ言うんだよ。コウって何でも一人で抱え込みがちだから。じゃね」
そう言って女子更衣室へと消えていく美咲を見ながら、保護者かよ、というツッコミをせざるを得なかった。ただし、独り言だったが。
その日の部活もいつも通りのメニューをこなすだけだった。だが、剣を振っている時間だけは、僕のよく分からない思考も、先ほどの光のことも忘れさせてくれる。僕の一日の中で、最も無我になれる時間であった。
だけど、しんどいのはしんどい。さすがに毎日にもなると疲れてくるし、最後の方は楽しむことなんてできやしない。いや、楽しめるやつなんていない、間違いなく。
「あー、今日も楽しかった!」
いや、いた。しかも隣に。相変わらず能天気な発言を繰り返す美咲のことを心底うらやましいと感じていた。
僕たちは、家へと向かう道を歩いていた。この構図は昨日と同じだ。ただし今日は昨日と違ってちゃんと美咲のことを待ってやった。
「楽しいか? 新入生、来なかったじゃん」
ついでに言うと、唐揚げ増量もなかった。
「いいのいいの。だって練習だってメニューはいっしょでも、毎日変化があるじゃん。コウだって変ってるんだよ」
「僕も?」
「そうそう。コウのスタイルとか毎日工夫してるんだなー、って伝わってくる。なんだかんだ色々考えてるんじゃない?」
それはお前が相手だからだよ、という言葉を飲み込む。
県内でも屈指の実力を持つ美咲。その美咲に対抗しようと思うのなら毎日同じことをしているのでは歯が立たない。
僕を必死に奮い立たせるのは女に負けるわけにはいかない、という男としてのギリギリのプライドだった。まあ、僕もよく女の子みたいって言われる顔だけど。
「……そうだね。確かに違うのかもしれない」
「でしょでしょ! ほら、そういうことにも楽しみを見出さなきゃ。人生って楽しまなきゃ損だって!」
僕は力なく笑う。本当に、こいつは僕のことを分かっているのか分かっていないのか。
――――バチバチッ!
「――!!」
今、確かに音が聞こえた。
美咲のお陰ですっかり忘れていた。あの授業中に見た謎の光。あれは見間違えなんかじゃなかったのだ。
僕はその光を見つけようと辺りを見渡す。
「どうしたの? コウ?」
心配そうに美咲が見てくるが、僕はそんなことはお構いなしにもう一度その音を聞こうとする。
突然辺りを見回していく僕の姿は美咲から見たらかなり奇異に映るだろう。
「ねえ、コウってば」
だが、それでも美咲の言葉は無視して、僕は周りを見渡す。
そして見つけた。小さな路地にそこだけ周りと明らかに違う光が弾けているのを。
「ごめん! 美咲!」
僕は無我夢中でその光へと手を伸ばす。その光が美咲に見えているかどうかなんて分からない。もしかしたら、僕の見間違いなのかもしれない。
それでも、僕はその光を追う。僕が掴もうとしたその光は、掴もうとする毎に消えて、また違う場所で弾ける。
その繰り返し。ただ、僕は走り続けた。
段々とその光が大きくなってきている気がした。より大きく、より強く。それは弾け、大きなエネルギーを生み出す。
しかし、それにも終わりが来る。
「……行き止まり?」
僕が掴もうとした光が消え、次の光を探そうと前を見た瞬間、そこが行き止まりであることに気付いた。
僕は、逆方向に光があるのかと思って振り返る。しかし、そこには何もない。
ここまでか。そう思った瞬間、僕の周りが震撼する。いや、そのような衝撃を感じた。
「な、何だ!?」
僕が掴もうとした光は今、僕を囲んでいた。僕の周りでバチバチと、今までにないエネルギーで弾けていた。
何が起こるのか、全く想像がつかない。この光が僕に何をするのか、全く分からない。
でも、不思議と怖くはなかった。
世界が揺れる、揺れているように見える。僕の周りの光が、今にも爆発しそうな勢いで弾けている。そして、僕は見た。僕の周りの世界が歪むのを。
世界が闇に包まれる。僕は何かに吸い込まれる。僕を闇が包む。
――僕は世界から隔離される。