ユグドラシル
あの人と二人で、毎日熱心に話し合ったのを覚えてる。
君の名前だよ。
男の子ならケンジ、女の子ならアリサ。
決めるのに、とっても苦労したんだ。
ケンジの方は、あの人の名前から一文字取ることにして、あとは一文字付け足すだけだったから、簡単に決まったんだけどね。
何しろ、たくさん候補がある。アリサ。ぱっと浮かんでくる漢字、そんなにないだろう? 三文字にしようか、二文字にしようか。アの字はなんだ、リの字はなんだ、サの字は……。あんなにぴかぴかしてた漢字辞典が、ものの数週間でボロボロになっちゃってね。あの人も私も一生懸命、君の名前を探してたんだよ。
ふふ……まあ、結局使わなかったんだけどね。
懐かしいなぁ。
君は、産まれたときのこと、まだ覚えてる?
……ここだけの話。すっごく、痛かった。
でも、なんていうのかな。君という一つの命が私の中にあって、がむしゃらに動きながら生きている。君という一つの魂が、私の中でゆっくりと、でも激しく躍動してる。そんな生の鼓動を感じるたびに、君のことがとにかく愛おしくなって、今すぐにでも抱きしめてあげたくて、仕方がなかった。
だから、まあ……都合のいい話。
君の顔見たら、痛みなんて無くなっちゃった。
母性ってそんなものなんだって、横で眠る君の頬を撫でながら思ってたよ。
――結局、私は最後まで、それに振り回されていたんだ。
他でもない、私のたくさんの愛情を一身に受け止めていた君なら、すでにわかっていたと思う。結局私は、「母親」っていう立場の上に墓という名の家を建てて、そこに永住することにしちゃったってわけ。
後悔はしてないよ。する気もない。
最期まで君に尽くせたから。後悔なんて、初めからないんだ。
君が生まれたのは、春のこと。
病院の窓の外には桜が咲いていた。
桃色の香り、とでもいうのかな。甘ったるくはなくて、爽やかで、軽やかで、すっきりした匂い。病室のベッドで君を抱きながら、なんだか不思議な気持ちのまま、私は眠っていた。
包まれてたんだ。優しさとか、そういうものに。
小さい声で君が泣くのを、大丈夫だよって囁きながらあやしてあげたっけ。
君の寝顔があんまりかわいくて、思わずぎゅって抱きしめてみたら、君の熱いぐらいの体温が私の肌にじわって伝わってきて、心も体も暖かくなった。でも、せっかくのお休みを邪魔されちゃった君はまたすぐに泣いたりして、大変だったなぁ。
君の小さい手と足が薄くピンク色に透けてるのが、すごく綺麗だった。この子の中には私と同じ血が流れてるんだ……って思うと、思わず私も、手を太陽に透かしてみちゃったりして。
君の爪が伸びはじめると、なんだか不安になった。ふやふやってしてて、爪っていうよりも硬い皮みたいな感じがする爪。毛布でもひっかかったらすぐに取れちゃいそうだったから、結構神経質になってたんだ。専属の看護師さんにしょっちゅう君の爪を切ってもらってたから、さすがに申し訳なくなって謝ったら、気にしないで、お母さんになったばかりの人ってだいたいそんなものなんですよ、って笑いながら言われちゃった。私も笑ったよ。恥ずかしかったけど、ちょっとだけ、嬉しかったな。
あの人――君のお父さん――は、普段からちょこっと不器用なところがあったんだけど、君を抱く時にはいつにもまして緊張してた。まるでガラス細工でも扱うみたいに、手先がぷるぷるしてたっけ。震えながら私の方を見て、「ねえ、持ち上げても大丈夫なのかな……」って。まったく、おかしくてしょうがなかったよ。私がとにかく笑うから、あの人は若干むってしてたけど、胸に抱かれた君が泣きだしたのを見て、この世の終わりみたいな顔をしながら「どうすればいいの?」だって。
まあ、そんなあの人でも、やっぱり慣れるものは慣れるみたい。ほんの数日もしたら、君のことが可愛くてたまらないってぐらい、心から幸せそうな顔をしてたよ。……抱かれてた君は泣いてたけどね。
その頃の私は、ちょっとだけ体調が悪かった。
出産してすぐの女性は、たいてい健康のバランスが悪くなるものだって聞いたことがあるけど、私の場合は特に悪かったみたい。来る日も来る日も、ごはん一杯分ぐらいの薬を飲まされてた。……うん、それはちょっと言いすぎかな。でも、それまで薬なんてほとんど飲んだことなかった私にとっては、それぐらいに思えたんだ。
粉薬、茶色のカプセル、いかにも着色料を使ってますよって言わんばかりの真っ赤な錠剤、効き目もたくさん、ホルモンがどうたら、粘膜がこうたら、栄養素がなんやら……。
よく中毒症状が出なかったものだなぁ、って今でも感心するぐらいだよ。
それでも、毎日がんばって飲んだ。それまでカプセル剤なんて飲んだことがなくて、飲もうとしては喉に詰まりそうになったりした。でもそのうち、簡単に飲めるようになってきてね。余裕が出てきてからは、どの飲み物と合わせたら飲みやすいとか、こういう飲み方なら安心して飲めるとか、もはや研究してるみたいになっちゃって、はは……。
楽じゃなかったけど、幸せだった。
君の顔を見てるとね、どんな苦しさも、悲しさも、無くなっちゃうみたいに感じたんだ。
嘘じゃないよ。ほんとのこと。
どんな困難でも、君のために乗り越えなくちゃって、そう思えたんだよ。
私の体調がやっと落ち着いてきたころ、外を散歩させてくださいって言ったら、思ったよりあっさり許してくれた。ただ、まだ不安定だからってことで、車いすで行ったんだけどね。
病院の敷地は、テレビで見る豪邸の庭みたいな雰囲気で、あたり一面、色とりどりの花がたくさん咲いてた。私はあの人に車いすを押してもらって、背の高い花の間の道をゆっくり進んでいった。
胸にしっかりと固定された君は、揺れが心地よかったのかな、うとうとしながら目を開けたり開いたり。その仕草がまたかわいくて、何回もほおずりしてあげた。後ろで見てたあの人は羨ましそうな声で、ケンジがいやがってるからやめてあげなよ、なんて言ってた。パパもほおずりしたいんでしょ、って言ったら、バカ言うな、って照れちゃってね。あの人は結構恥ずかしがり屋だから、ふふ。
春が過ぎてからだいぶ経って、外はちょっとだけ蒸し暑くなった。
遠くの方から、蝉の鳴き声が聞こえてくるんだ。すっごく元気な声で鳴いてた。緑色に光る葉っぱたちが、風と共鳴して、さらさら、って動いたり。空を見上げたら、飛行機雲。君の肌よりも白い雲が、静かに、でも速いスピードで、くるくる回って流れてた。
夏だ。清々しい夏。
私たちの横を、病院着の子供たちが勢いよく駆け抜けていった。びっくりして、あの人と顔を見合わせて、一緒に笑った。
いつか、この子もあんな風になったらいいね。
あの人と交わした、そんな他愛のない言葉。
……ねえ、今の君は、どうだろう。
あの子たちよりももっと、元気な子供になっているのかな。
病院の庭で、素敵なものを見つけたんだ。
小さな木。
まだ、地面から芽を出したばかりの木。
いつか、この芽はどんどん大きくなって、葉っぱをつけて、枝を伸ばして、そして――いつの日か、この街を、世界中を、覆うことになるんだろう。
私は想像してみた。
大きな木の周りに、たくさんの鳥たちが飛んでいる。大きな鳥も、まだ幼い鳥も、羽をめいっぱい伸ばし、翼をなびかせて飛ぶ。
枝には虫たちが貼りついて、樹液を吸ったり、かじったり。餌を見つけては食べ、そしてまた次の餌を探しにいく。
真っ青な空の光を受けて、照らされる世界樹の葉。四方八方に輝いて、煌びやかに踊り続ける。
すべてが素敵で、何もかも平和で、広大な緑の景色が心を潤していくような、そんな光景。
綺麗。
そんな世界を、私は夢見ていた。
君がこれから生きていく世界が、どうか幸福に満ち溢れた世界でありますように。
胸に抱いた君を見ながら、私はそう祈った。
病院からは出られなかった。
いろいろあって、まだ戻ることは出来ないんだって。
あの人と二人して、首を傾げてた。もう何か月もたつのに、どうして出られないんだろう、って。
もしかしたら、君の体がどこか悪くなってるのかもしれないと思って、看護師さんに聞いてみた。看護師さんはいつもみたいに微笑んで、どこも悪くありませんよ、って言ってくれた。私はほっとしたけど、なおさら疑問が深くなった。
あんまり私が神経質になるものだから、あの人もだんだんぴりぴりしちゃって、とうとう看護師さんに詰め寄って「いつになったら妻は退院できるんですか!」って。看護師さんはびっくりして、怒ってるあの人をがんばってなだめてた。騒ぎを聞きつけたらしく、私がいつもお世話になってる先生が病室までやってきて、夫さんにだけ話をしたいのですが、って言って、あの人と一緒に部屋から出ていった。
嫌な予感がした。……いや、本当はそうでもなかったかも。でも、今になって思い返してみると、なんとなくそう思うんだ。あの時あの部屋で感じてた、冷房の寒気とか、変に静かな空気とか、何もかもが私のために警告の鐘を鳴らしてくれていたんじゃないか……って。
私は独りだった。病室には他の患者さんもいた。病院の中にもたくさんの人がいた。それでも私は独りだった。胸に抱いていた君すら、遠くにいるような気がしてた。
何が起こるんだろうって、他人事みたいに、考えてた。
君だけを、強く抱いていた。
時間の流れが、とても早く感じた。
毎日病室のベッドの上で、君の顔を思い浮かべながら眠った。産まれてから半年以上たって、君もだいぶ大きくなってきてた。ずっと病室にいて一緒に過ごすのは良くないと思ったから、夏の半ばくらいから、あの人が代わりに家まで連れ帰ってお世話をしてくれるようになった。仕事はどうするの、って聞いたら、育児休暇取ったんだ、って。
君と会えない日は寂しかった。胸が痛んだりしたこともあった。君をこの手で抱いてやれないことが悔しくて、何度も声を出さずに泣いた。まだ私には、君が必要だった。
申し訳なくなると同時に、怒りもわいてきた。なんで退院させてくれないんだろうって、あの時と同じ疑問がまた浮かんできた。その怒りを露骨にぶつけることもあった。聞いたってどうせ教えてくれないんでしょう、なんてすねたこともあった。でも、私がどんなひどいことをしても、看護師さんたちは優しく微笑んでくれたし、日常生活もまったく変わらなかった。
私はなおさら空しくなった。
一体、私のどこがおかしいっていうんだ。
君を抱けない苦しみが私を焼いた。悪夢だって何回も見た。疑いと焦りにはさまれて、どうしていいのかわからなかった。精神的に、追いつめられていた。
それでも私には何もできなかった。ただ君が元気に生きていることを祈るしかなかった。あの人が君を懸命に護ってくれていることを祈るしかなかった。また君をこの手で抱けるようにと、そう願うことしかできなかった。
無力だった。私にはもう、どうしようもなかった。
お別れは言いたくなかったから、あの人にも、何も言わなかった。
言わなくても、すでに知っていたのかもしれない。
私の、どうにもならない体の事情、とか。
死ってものが、こんなに近くまで来るなんて、今まで考えたこともなかった。
でも、どうしてかな。私はすごく、落ち着いてた。
先生から私の病気について聞かされて、それでも私は、特に何も感じなかった。もうこれで君に会えなくなるんだ、残念だな、って思ったぐらい。きっと、長い間擦り切れ続けてた私の心は、もうすぐで壊れそうなほど傷ついていたのかもしれない。傷を傷だと理解しないことで、もうこれ以上傷つけられないように、逃げていたのかもしれない。
でもどうなったって傷は傷だし、結局私の心が傷だらけなのに変わりはなかった。私は個室の病室に移された。ここが私の死に場所なんだろうなって考えると、すごく奇妙な感じがした。
君はしょっちゅう、面会に来てくれるようになった。あの人はいつも、来てすぐに君を私に抱かせてくれた。君の熱い体温を肌で感じて、それだけで私の心は安らぐみたいに暖かくなった。
君の手が、私の病気を溶かしてくれないかなって、思った。
君の小さな手を胸に当てて、そのまま目を閉じていると、私の心は内側から洗われていくような気がした。
私はただ、君と一緒に眠りたかった。満足にご飯も食べさせてあげられなくて、ろくに一緒にいることもできなくて、本当に駄目な母親だったけど、それでも君を抱いていたかった。だんだんと大きくなる君のことを、せめて母親らしく、受け止めてあげたかった。
どう転んだって、戻りはしない。それでも私は、転がった。
君を愛することが、私にできる最後の手段だったんだ。
いつの日か見た世界樹の夢を、私はまた想像してみる。
ねえ、君の目には、この世界はどんな風に映ってる?
底抜けに明るくて、満ち溢れていて、幸せで、楽しくて……。
そんな世界だったら、いいな。
私は後悔してないよ。
君という生を授かったこと。
君という生に触れられたこと。
ぜんぶぜんぶ、愛おしくて仕方がない。
だから言っただろう?
後悔なんて、初めからないんだ。
私はここで終わりだけれど。
君にはまだ、たくさんの未来が残ってる。
もしかしたら、君が望んでいる通りにはいかないかもしれない。
試練も困難も、そこにはたくさんあるかもしれない。
でもきっと、君なら乗り越えられるって、信じてる。
他でもない、私とあの人とのたった一人の子供だから。
君ならきっと、大丈夫。
私はずっと、そう感じてるんだ。
あの人と二人で、毎日熱心に話し合ったのを覚えてる。
君の名前だよ。
きっとまだ君は、私の愛する君のままだ。
そう信じてる。
2012/7/08 追記
本来は、最後の一節の前に映画館のシーンを入れていたのですが、都合上削除することにしました。
続編への布石のつもりだったのですが、残念ながら続編を書く余裕も情熱もなく、このままだとなんだか変な感じだったので一つの作品として落ち着かせるということに。
プロット自体はあるんですけど(脳内に)、どうも筆がのらない感じです。なんせ好き勝手書いてるものでですね……。
そういうわけで、該当の数文は削除いたしました。ご了承くださいまし。
暇 隣人