頑固爺で悪かったね
◆前史
四九歳の春、その専門学校に入学した。新しく勉強を始めるのなら五〇前、と思っていたからだ。
世紀が改まった、と言う世の中の興奮は、三か月も経つと鎮まっていた。私に関しては年初から、そんなことに浮かれている場合ではなかった。仕事に区切りを付けなければならない。時間を見ては挨拶回りもしなければならなかった。これが苦痛だった。
眼疾により、四〇歳で失明宣告された。
眉間に激烈な痛みが起きた。オフィスのそばの眼科に行ったが、視力検査もできなかった。片時も目を開けていられないのである。再診で、メガネを処方された。
「片目で風景を見ているようです」
と訴えた。
「メガネとはそういうものですよ」
医者は取り合ってくれなかった。
地下鉄の構内で通行人の足を踏んでしまうことがあった。相手は立派な身なりの紳士だった。公衆の面前で叱られた。ひたすら謝罪しながらも
(なんで、あれが見えなかったのだろう)
自分に起きている異変で、私の頭はいっぱいだった。
翌日、地元・埼玉県I市の眼科医院で診てもらった。症状を伝えると、簡単な検査の後、大学病院に紹介された。
大学病院では検査に次ぐ検査で、私の目は悲鳴を上げていた。
「今日、誰ときてますか?」
医者が訊くので、妻が一緒です、と答えた。
「じゃあ、呼んできて」
妻とおさな児を前に、医者は言った。
「あなた、失明しますよ」
医者の宣告とは裏腹に、視覚障害の仲間は
「向野さんの場合、一生見えてますよ」
などと太鼓判を押してくれた。何を根拠に言っていたのだろうか。一○年近く仕事を続けたが、限界がきたことを痛感した。そこで、鍼灸マッサージ師になるため、リハビリ施設として設けられた国立の専門学校に入学することにしたのだった。
(これから、どうなっていくのだろう)
ウィークデーに一人、花筏を眺めながら、増大する不安と戦っていた。
もう帰る職場もない。あれらの営みとは別世界に、私は漕ぎ出してしまったのだ。しかし、私にも夜が来て朝が来て、ついに入学式当日を迎えた。
知(天)命を前にした新入生に、四二歳のママが付き添った。
◆出会い
専門学校は大学病院のそばにあった。学校には寮が設けられ、学生の大半は入寮していた。
一学年三クラスだった。私のクラスは一四人でスタートした。うち、女性が四人いた。クラスの平均年齢は四九歳だった。私がちょうど平均値だった。最年少は一八歳、最高齢は五八歳だった。
目の状態は、ほぼ全盲で点字使用が三人いた。後は拡大読書器やルーペを使っている者が多かったが、私は墨字の教科書(主に大活字)が裸眼で読めた。
前職は会社員からフリーター、学生、無職などと、これまたバラエティーに富んでいた。ただ、ここに至った経緯には共通したものがあった。誰もが絶望の淵から這い上がってきていた。
「みんな、三年後には笑って卒業式を迎えような」
クラス全員が初顔合わせした懇親会で、長老の一人が言った。
名前を丸岡といい、大手ゼネコンに勤めていた男だ。特有のパワーがあった。
丸岡のほか、山本、武田、坂井、そして私こと向野は、よく連れだって飲みに行った。年齢が近く、普段着で会話ができたからだ。「G5(ゴールデン・ファイブ)」などと悦に入り、秘密結社めいた雰囲気があった。
口さがない学友からはジジイ・ファイブなどと陰口をたたかれていたことを、後に聞いた。それは仕方ないことだろう。お互いに「丸爺」「山爺」「武爺」「坂爺」「向爺」と呼び合っていたのだから。
◆それぞれの事情
G5は飲酒習慣を除いて、クラスはもちろん学年の範となっていた。体育大会などのイベントにも進んで参加し、何人かは学友会の役員も務めた。
学業成績もよく、山爺などは若い者が授業を休むと説教していたものだ。
二年に進級したのは一三人だった。
G5で卒業旅行ならぬ進級旅行に行った。酒を飲み、遅くまで語り合った。足並みそろえ、結束して行動したのは、それが最後だった。
何の心配事もなかった一年次と比べ、二年になると、さまざまな問題が持ち上がってくる。眼疾を初めとした健康問題もそのひとつだ。成績が伸び悩む者も出てきた。卒業後の進路についても、考えておかなければならない。また、毎日顔を合わせていると、世俗にまみれた地肌も見えるようになる。
私はそれまでに何度か、勤め先などから送別会を開いてもらったことがあった。 独立開業時、さらに今回の離職に際しては、いくつかの組織が前途を祝し酒宴を催してくれた。最後の謝辞のたびに、涙をこらえるのに難儀した。
専門学校の先輩は送別会の帰り、山手線で、遠ざかる線路を見ながら声を殺して泣いた、と語っていた。
(あんな思いは二度としたくない)
私も、懲りていたので、治療院を開業することにしていた。勤めると、必ず定年退職の時がめぐってくるからだ。それも、そう遅くない時期に。
開業と決めていたので、卒業して即通用する技能の修得を心掛けていた。
「鍼がうまくなりたいのなら、あんまをやっておけよ」
と教官にアドバイスされ、部活はあんまを選んだ。
一年次から先輩を訪ね歩き、技術指導を受けていた。山爺に誘われて、鍼の研究会にも入った。
山爺もまた、技能修得には貪欲だった。
「向爺。あんた、いろいろなところで勉強しているようだから、オレを治療してくれないかい。もちろん、金は払うよ」
治療後、その金は二人で飲んだように記憶している。
◆縮図
概して、年長者は学業に熱心だった。後がない、からだ。
国家試験が待っている専門学校の場合、その合格率を競いがちだ。私の専門学校も例外ではなかった。いきおい、点数至上主義、点取り虫になる。
定期考査はたいてい本番の国試の形式で行われた。四択で二〇問、一問五点で一〇〇点満点だった。
いつの定期考査だったか、習っていない範囲から出題されたとかで、どこかのクラスからクレームがついた。
学校側で協議し、その問題だけ全員が正解とすることになった。
担当の教官から、試験の講評時に説明があった。私は思わず手を挙げた。
「ちょっと待ってください。国試でも、習っていない範囲から出題された、とクレームをつけるのですか。五点は要りません。そんなことで五点欲しいと思っている人間は、このクラスには一人もいませんよ」
私の独断だった。
若い教官だった。申し訳ない気はあったが、安易な学校の姿勢に唯々諾々と従うと思われたくなかった。
「うん。向爺、よく言った」
山爺は飲みながら、何度も頷いていた。
私の一言くらいでは学校の方針は覆らなかった。覆っていたら、私は多くの学友から目の仇にされたに違いない。
それでなくとも、権謀術数が渦巻いていた。単に社会の縮図、ミニチュア版に過ぎない。当然ながら、聖人君子の集まりではないのだ。
三年次の秋、あんま部は全員集まるよう連絡があった。二年次に私は部長をしていたが、もう隠居の身だった。
部員の中に温泉地でマッサージのアルバイトをしている者がいると、保健所に投書があったらしい。学校にも投書があり「そんなやつは国試の受験資格を与えるな」と激しい口調で結んでいた。
部員は説教された。散会になろうという直前、私は発言を求めた。
「最近、どの専門学校も国試の合格率を上げることに躍起になっています。技術の修得がおろそかになってはいませんか。確かに無資格でアルバイトをするのは悪い。そんなことをしている者はここには一人もいないはずです。学校として、技能の向上についてどう考えているのですか」
部員たちの目が教官に注がれた。
「実は、先日も、うちの卒業生から、同じような指摘を受けました」
として、問題意識は持っていると、釈明があった。
「向野さん。よく言ってくれました」
教官が退出した後、後輩たちから声が掛けられた。
◆短気は損気
山爺は信州の出身だった。神童だったらしく「もう少しで東大に受かっていたよ」などと、うそぶいていた。
大学には行かず、家業の建設業を手伝った。そのせいか、指が太く、ゴツゴツの手をしていた。向上心があり、独学で、難関資格もいくつか取っていた。
山爺は奥さんとは、離婚していた。娘さんが一人いたが、行き来はなかったようだった。都内のアパートで長く一人暮らししていた。
短気だった。
通学途中、駅前で工事車両と接触しかけた。口論になり、怒った山爺は
「さあ、轢いてみろ」
と、道路に仰向けになった。
興奮冷めやらぬ体で、ある朝、私に報告した。
離婚は山爺の短気のせいか。
「オレは今でも女房を許さない」
と言っていた。
ただ、短気については、上には上がいる。
学友会の先輩と飲んでいて、意見に食い違いがあった。山爺がカッとなって「バカ!」と言ったところ
「ワシがバカなら、お前は百万倍の大バカだ!」
と、やり返されたらしい。
私はこの歴史的な場面に、残念ながら居合わせなかった。
とにかく意に沿わないことがあると、へそを曲げた。
酒席で一八番を熱唱していた。山爺は歌う時いつも直立不動だった。ところが、不心得な連中は雑談に興じて、まるで聴いていなかった。
腹を立てた山爺は
「オレはもう歌わないよ」
と、中断してしまった。以来、その種の集まりでは、山爺の美声は聴けなくなった。
◆器用貧乏
歌は、確かにうまかった。
G5の中では丸爺も歌い込んでいた。丸爺は私をライバル視していた。ただ、丸爺の持ち歌は任侠ものだった。私の酒場演歌と違って、一般受けはしなかった。
他方、唱歌を得意とする山爺は、東京都のカラオケ大会に出て上位入賞したことがあった。山爺に言わせれば
「優勝者より、オレの方がうまかった」
と、いうことになるらしい。
「向爺よ。オレは歌手になることにしたよ」
山爺は素面だった。
よくよく聴いてみると、カラオケ大会の後、レコード会社から連絡が入った。CDを出さないか、という話だった。費用は特別に安くするとは言っているが、山爺の蓄えはゼロだった。幸い、前に勤めていたタクシー会社の社長が資金援助を申し出てくれた。
歌手デビューの話はそれ以後、一切でなかった。眠りかけた児を起こしてはと、私も余計な詮索はしなかった。
山爺の進路の芽がひとつ摘まれた。
多才だった。落語も好きで、精通していた。
ある教官が消化液の授業で、古典落語『蛇含草』を熱演した。私にはざぶとん五枚ものだったが、山爺は
「オレの方がうまいけどな」
と、見下していた。私は山爺の落語を聴いてないので、ジャッジのしようがなかった。
◆還暦祝い
歌手の夢が絶たれても、山爺は落ち着き払っていた。
「いやね。タクシー会社が治療院を出すことになり、オレはそこに就職するんだ。こんな年寄りが最初に就職が決まって、みんなには悪いね」
山爺はクラスメイトへの心配りも忘れなかった。それはそれで、級友もうらやむ話だった。
二年の初冬、山爺は還暦を迎えた。学校の近くの餃子屋で祝った。赤い物は身に着けていなかったが、好々爺そのものだった。
人間万事塞翁が馬。よいこともあれば、悪いこともある。
「向爺よ。あんたなら分かってくれると思うけど、オレは小説家になることにしたよ」
山爺は神妙な顔で言った。
なんでも、タクシー会社の社長が引退した。息子が後を継ぎ、方針転換となったらしい。潮目が変わったのだ。
「山本さん。あんた、文才があるから作家になってはどうだ。それがいいよ」
元社長の言によほど説得力があったのか、山爺はその気になってしまった。
「オレも、そういう道がある、とはかねがね考えていたんだ」
人の心は深遠である。初めて聞く話だった。私は文学好きなので、もっと早く打ち明けていれば、文学談義に花が咲いていたことだろう。
今にして思えば、山爺はいい感性を持っていた。
卒業式の送辞で、私は厳粛だが暗い雰囲気を和らげるべく、笑いを取るくだりを準備した。
卒業生の学年には皆勤賞が何人もいたことを例示して、学業熱心を誉めた。さらにスポーツ大会などにも奮って参戦、並外れた運動能力のお陰で
「私たちのクラスは勝利の祝杯ならぬ、敗戦の苦杯を浴びたものです」
と述べたところ、反応したのは山爺だけだった。
「いいぞ! 向爺」
失望して在校生の席に戻る私に、卒業生の一人が深々と頭を下げた。お礼の言葉を聞いた時には、グッとくるものがあった。届くべき人には、届いていたのだ。
◆世間の風
三年に進級したのは一二人だった。翌年二月には国家試験が控えている。
山爺は進級したころから急に目の症状が進んだ。 墨字では国試の受験は無理、と判断し、山爺は点字受験に切り替えた。毎朝、早く登校し、一人カツンカツンと点字の練習をしていた。
真の努力家を見る思いがした。
年が明けると、山爺は寮に入った。通学が大変になってきたのと、一分一秒を惜しむ気持ちもあったのだろう。
どこかに焦りを感じた。
「山爺なら受かるよ」
私は言ってやりたかった。山爺のことだから
「向爺。なんでそんなことが言えるんだ」
と訊いてくるはずだった。
私は二年の秋に国試の過去問を何年分か解いてみて、すべての年度で合格ラインの六割をクリアしていた。山爺や丸爺なら楽勝のはずだ。しかし、そんなことは、この親友にも言えなかった。
G5のうち、四人が国家試験に合格した。 丸爺は特別養護老人ホームに就職が決まった。武爺と向爺は開業、坂爺と山爺は進路が決まっていなかった。
山爺は作家への夢は、あきらめたかどうか定かではない。本人は黙して語らずだった。ただ、クラスメイトのように就活はいっさいしていなかった。
新卒と言っても還暦を過ぎた身。世間の風の冷たさは十二分に分かっていたのではないか。卒業後、アパートの近くの整形外科に、マッサージのパートで出ていた。
◆激震
卒業後も私と山爺、丸爺との交流は続いた。
私は卒業した年の四月、家の近くの貸しビルで開業した。披露パーティーを開いたところ、学校関係では三年の担任のほか山爺と丸爺、クラブの後輩たちも出席してくれた。
「向爺は徳島の出身で、私は信州の生まれです。信州は徳島に非常に助けられておりまして、冬場の野沢菜は南国・徳島から供給されています」
などと、粋なスピーチをしてくれた。
鍼の研究会には欠かさず、三人そろって出席した。二人は日常業務とは関係ないにもかかわらず、熱心に勉強していた。会が終わると、飲みに行った。毎月のように開かれる同窓会だった。
そのうち、治療理論をめぐって私は研究会と考えの相違があり退会した。
迷いは吹っ切れた。患者さんに恵まれ、後輩たちも毎月勉強会に参集するなど、治療家として確かな手ごたえを感じる毎日が続いていた。
「このまま、埼玉に骨を埋めるのかな」
などと考えていた矢先、東日本大震災の激震が襲った。
居ても立っても居られず、白杖をつきながら、災害ボランティアに参加した。そこで目の当たりにしたのは、現代日本にありながら十分な医療サービスが受けられていない被災者の姿だった。
生まれ育った徳島の寒村が、ダブった。
(田舎に帰ろうか)
Uターンを決意した瞬間だった。
準備は極秘裏に進めた。何より患者さんの動揺を恐れた。どこで洩れたか、地獄耳で名高かったクラスメイトの知るところとなり、彼女から山爺に伝わってしまった。
山爺と学校の近くで飲んだ。
「オレも田舎に帰ることは考えているんだ」
そんなことを言っていた。
「そのうち、信州へ訪ねて行くよ」
私は約束した。
◆永訣
ある日、丸爺から電話があった。
「おい、山爺、そうとう悪そうだぜ。今度、見舞いに行ってくるよ」
少し前、山爺が私の治療院にやってきた。
「治療をお願いしたい。料金はちゃんと取ってな」
治療しながら、もう長くないことは感じていた。
山爺は糖尿病の合併症で目を悪くした。食事療法も本気でやったようではなく、ジワジワとあちこちが蝕まれていた。
やはり、ほどなく、山爺の訃報がもたらされた。娘さんが山爺の携帯電話を見て、丸爺と私の番号があったので、連絡してきた。
私鉄沿線にある斎場に行った。
広い葬儀場だった。スタッフに案内を乞うと、奥の部屋に通された。受付もなかった。山爺が一人横たわっていた。
「山爺。長い旅だったな。信州に帰って、ゆっくり休むんだよ」
まるで眠っているかのような顔だった。
しばらく待ったが、誰も現れなかった。山爺を一人にしておくのは、忍びなかった。深まる静寂に耐え切れなくなり、私は名刺を置いて、斎場を後にした。
◆山爺への手紙
信州では山の麓まで、雪が降りてきていることでしょう。
徳島は南国とは言え、私の住む町から望むと、遠くの山の頂は白くなっています。
私は二〇一五年に故郷に帰りました。もっとも、完全に徳島県人に戻ったのは二〇一九年です。I市のマッサージ組合の役員をしていて、組合は存亡の危機にありました。任期途中で投げ出すわけにはいかなかったのです。また、治療院の継承問題もありました。
そのため、日曜の夜に、高速バスで徳島を出て、月曜の朝、新宿着。月曜・火曜とI市の治療院で仕事をし、夜行バスで徳島に戻っていました。
毎週、徳島とI市を往復する私を見て、患者さんは
「まさか、四国に帰っちゃうんじゃないでしょうね」
と、言うようになりました。
私は苦しいウソをつき続けました。しかし、強行軍が祟ったのか、目の症状が進みました。新宿駅で迷うようになった。一〇年以上通った治療院の周りで迷うようになった。往診先の庭でも迷子になりました。
決断するしかありませんでした。
私が徳島に引き籠ったのを機に、勉強会の後輩たちが秘境観光にきてくれました。その中に、盲導犬ユーザーがいました。山爺も知っている男です。
「ずいぶん危険な場所が多いですね。絶対、盲導犬が必要ですよ」
親切な助言に従い、私は盲導犬ユーザーになりました。
現在、妻と長女、二女、孫娘、それに盲導犬のエヴァン、埼玉から連れてきたミニチュアダックスフンドのシモン、合わせて五人と二頭家族です。
ところで、山爺に別れを告げてから半月後、娘さんに会いました。
両親が離婚に至った原因を語ってくれました。
娘さんが小学校に上がり、時間に余裕のできた奥さんはパートに出るようになったそうですね。
山爺はその頃、資格取得のために猛勉強していて、家族に構う余裕がなかった。娘さんも「寂しかった」と言っていました。奥さんはなおさらでしょう。
奥さんが勤めから少しでも遅く帰ると、山爺は怒った。
あの夜も忘年会の二次会まで出て遅くなってしまっただけでした。送ってきた上司が男性だったので、山爺は切れた。資格試験の受験は目前に迫っていた。山爺は翌日、一方的に離婚を言い渡したそうですね。
奥さんはシングルマザーとなって苦労しました。再婚話もいくつかありました。娘さんも反対はしませんでした。しかし、奥さんは再婚話には乗りませんでした。山爺がいつか許してくれ、迎えにきてくれる、と思っていたのです。
葬儀場で娘さんは一人、山爺を送ろうとしていました。一本の電話が入りました。奥さんからでした。上京して、葬儀場の入り口まできている、という。葬儀のことは連絡してありましたが、奥さんは入院中で、しかも脳梗塞により体が少し不自由でした。病院に無断で抜け出したのです。
娘さんは山爺を一人にして、奥さんを迎えに出ました。私と行き違いになりました。
元G5の消息です。
丸爺はとうに特養を退職し、外国旅行などもしているようです。外国で撮った写真入りの年賀状が、今年もきていました。坂爺も弁当屋のバイトを辞め、奥さんとのんびり暮らしています。家が近くなので武爺から誘われ、よく飲みに行く、と言ってました。武爺は相変わらずです。飲むと暴走し、かつ、記憶をなくすようです。一番長生きするかも知れません。
山爺との約束、忘れていません。女房も退職してフリーになったので、そのうち訪ねて行きます。
◆再会
山爺が夢枕に立った。
「向爺。ありがとう。女房には、オレから謝ったよ。間に合った」
「うん。山爺、よかったなあ。最後の最後は独りじゃなかったんだな」
(了)