踏み込む
至らない文章ですが、ご一読いただけたら嬉しいです。
黒のSUV車の車内は綺麗に片付いていた。三神の香水とは違う柑橘系の爽やかな嫌味のない香りがしていた。史佳が助手席に座り、宇佐美はその後ろに座った。三神の提案で宇佐美の家から回ることになった。車内でも宇佐美の気遣いが発揮され、会話はとても弾んだ。お陰で史佳は襲ってくる睡魔にかろうじて打ち勝てた。
宇佐美の家の近くに到着し、深夜にも関わらず元気な様子で挨拶をして帰って行った。史佳は自宅近くのコンビニを伝え、三神がナビを操作する手元を見ていた。相手に不快感を与えない切り揃えられた爪と華奢な印象を与えつつ関節が目立つ指。そしてシンプルなデザインのイエローゴールドの指輪をよくも悪くも引き立てる左手。
「それじゃ、行こうか」
三神は車を発進させた。
しばらくは宇佐美のことや最近の取引先について話していたが、ふと会話が途切れた。音量をおさえた音楽がBGMのように心地よく流れていた。
史佳の記憶はそこからなくなった。
目を開けると、胸の辺りからベージュのブランケットがかけられていた。どうやら睡魔に負けてしまったのだとすぐに気づいた。車内は史佳が寒くないように適温に保たれ、エンジン音だけが静かに聞こえていた。ナビに設定されたコンビニの駐車場だったが、店舗からは少し離れた場所に車が止められていた。腕時計を見ると深夜1時を回ったばかり。あまり長くは眠っていなかったようだが、このタイミングで眠ってしまったことに罪悪感が芽生えた。隣に顔を向けると、シートの背もたれに身体を預け、顔を史佳の方に傾けるように目を閉じている三神がいた。
魔がさしたのか、気の緩みだったのか、今でもなぜそうしたのか答えられないが、史佳は手を伸ばし人差し指と中指の指先で三神の頬に触れた。三神の目が開いた。
「あっ」
史佳が思わず声を発して手を引っ込めようとした瞬間、三神にその手を掴まれた。決して強い力ではなかったが、振り払うことができなかった。史佳の手を掴み、目線を史佳に向けて、三神はふっと笑った。そして、そのまま史佳の手を口元に近づけて、手の甲に唇を当てた。史佳は思わず手を引こうと力を入れたが、先ほどより強い力を感じて諦めた。
(あぁ、つかまった)
史佳が目線を三神に合わせると、史佳の手を離した三神の手が史佳の後頭部に回り、身体ごと引き寄せられた。唇が重なって、一瞬触れてすぐに離れた。もう一度触れてから唇が離れ、そのままの距離を保って、三神は視線を下げたまま史佳と額を合わせた。
「起きたね。気持ちよく眠っていたから起こすタイミングを逃したよ。…と言うのは口実で。もう少し君といたかったんだ」
甘く、優しい声が史佳の耳に届いた。
「ごめん、迷惑なら、これ以上は何もしない」
「その言い方はずるいです。選択権を私に委ねてる」
「俺はこのまま君とどうにかなりたいと思ってる。でも、自分の立場も分かってる。最後の一押しを君に委ねて甘えてるね」
ずるくて甘い罠で絡めとるこの男は、一体いつから私の気持ちに気づいていたんだろう。
「ずるくてひどい人」
微笑みながら今度は史佳から三神に口づけた。数秒触れた唇を離すと同時に後頭部に置かれた三神の手が緩んで、2人の距離がわずかに離れた。三神は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「このまま君の家まで案内してくれないか」
甘い声、優しい口調は変わらず妖艶さを含んだ声で三神が囁いた。史佳は小さく頷いた。
そして、三神との人には言えない関係が始まった。
お読みいただきありがとうございます。
もうしばらく続きます。お付き合いいただければ幸いです。