92.切り札
明朝、ブランシュ男爵は深い眠りについていた。数年前に逃がしてしまった猫を昨夜、再び手に入れることができて気分が良かったのだ。昔よりも言うことを聞かず生意気にも抵抗されてしまったが、徐々に飼い慣らすのも悪くないと思い直し、酒を呷った。
夏が間近に迫っているから外は明るい。しかし、起きるにはまだまだ早い時間。
ドッガァアアンッ!
けたたましい轟音と共に屋敷が揺れる。ブランシュ男爵は飛び起きるように目を覚まして叫んだ。
「なんだ!何があった!?」
まだ寝ぼけ眼のままブランシュ男爵は辺りをきょろきょろと見回す。同時に使用人がノックもせずに扉を勢いよく開け、寝室に入ってきた。
「男爵様、早朝に失礼致します!武器庫が爆発しました!現在、状況を確認中です!」
「何!?一体どうすれば武器庫が爆発するんだ!」
ノックもせずに入ってきた使用人への怒りは、報告された内容によって掻き消される。そんな有り得ない状況に追い討ちをかけるかのように、他の使用人が転がり込むように現れた。
「男爵様、ご報告です!」
「今度はなんだ!」
「侵入者によって、ルカ様が連れ去られました……!」
「何だと!?見張りは何をしてたんだ!すぐに追いかけて連れ戻せ!」
「は、はい!現在、騎士を動員し追跡中ですので、おそらくすぐに捕まえられるかと……」
「どんな手を使ってもいいから確実に連れ戻してこい!」
ブランシュ男爵は苛立ちを隠せず足を踏み鳴らす。数年ぶりに再会したルカは少年の頃よりずっと美しく成長していた。それこそ妻であるエリザよりずっと魅力的に映った。エリザは結婚してから浪費癖がつき、傲慢な振る舞いが目につくようになったのだ。
そんなエリザとは違って、小動物のように震えるルカからは相変わらず庇護欲がそそられ、加虐心が芽生える。ご馳走を目の前で横取りされたような不快感に、ブランシュ男爵はすぐさま命令した。
「アイツを今すぐ呼んでこい!」
「まだ眠っていらっしゃるかと思いますが……」
「叩き起こせばいいだろう!無理やり引き摺ってでも連れて来るんだ!」
「わ、分かりました……!」
バタバタと使用人が部屋を出ていくのを目で追ったブランシュ男爵は焦燥感を落ち着かせる為に、何度もその場を行き来した。屋敷の中には人が駆ける音と、何かがぶつかり合う衝撃音が響き続けている。
しかしいくら待とうとも、ルカを連れ戻した報告は届かない。苛立ちだけが募っていく中で、先にブランシュ男爵の元を訪れたのは彼の方だった。
「ふわぁ……一体こんな早朝からなんの騒ぎなの?睡眠を疎かにすればお肌が荒れちゃうのに、これじゃあおちおち眠っていられないわぁ」
いかにも寝起きだという顔で現れたアレックスに、ブランシュ男爵は口にしかけた文句を寸前で飲み込んだ。彼の助けが必要な今、機嫌を損ねるべきではないと思い直したのだ。
「ルカが攫われた。すぐに連れ戻してこい」
だから寛容な心で手を振って命令した。この男が向かえば、これ以上気を揉む必要もないだろう。なぜならば、あのお方が直々に寄越してくださった人物だからだ。
しかしブランシュ男爵の予想とは反対に、アレックスは疑問に首を傾けて拒否をした。
「やぁよ。どうしてアタシが行かないといけないの?最後の仕事が昨日は夜中までかかったから仕方なく泊まったけれど、もうここにいる必要だってないのよねぇ」
「なっ!」
耳を疑うような発言にブランシュ男爵は開いた口が塞がらない。アレックスは「少し早いけれど、もう起きちゃったことだし帰ろうかしら?」と呑気に欠伸をする始末だ。
「ま、待て!」
背を向けて本当に帰ろうとするアレックスの興味を引くために、ブランシュ男爵は以前、偶然聞いてしまった話題を持ち上げた。
「エステル・リーヴィス、お前のとこの主人は随分とその聖女にご執心らしいが」
「……!」
「聖女の為ならば命でも投げ打つと聞いたぞ。もういもしない人間に対してそこまでするとは大した信仰心……ぐああっ!」
嘲笑うブランシュ男爵の言葉は途中で途切れ、苦しげな悲鳴が響く。アレックスは片手でブランシュ男爵の首を掴み、そのまま宙へと浮かせる。
「お前如きが易々とボスのことを語るな。殺すぞ」
アレックスが腕に力を込めて首を絞めると、ブランシュ男爵は顔を歪めながら足をばたつかせ抵抗する。首を絞められている手を掴むも全く力が入らないためアレックスの手を引き剥がすことはできず、段々と息が苦しくなっていった。今にでも命が握り潰されそうな状態だというのにも関わらず、ブランシュ男爵は唇の両端を持ち上げる。
「ぐッ……私を殺してあのお方を怒らせたら、お前の主人は困るんじゃないか?」
「チッ」
「ハァッ!ハァ……ハァ……」
アレックスの主の名前を出せば、ようやく首が解放された。ブランシュ男爵は喉を詰まらせるように激しく咳き込みながら、肺いっぱいに空気を吸い込む。
アレックスはそんな男爵に侮蔑のこもった眼差しを向けて忠告をした。
「今回は特別にボスに免じて手伝ってあげるけれど、次また同じようなことがあれば容赦はしないからよく覚えておきなさい」
首を絞められた上に脅迫までされて酷い屈辱だったが、ブランシュ男爵は口を閉じてアレックスを送り出した。本能がそうさせたのだ。
単なる脅しではない。あれは、人間を殺したことのある目だった。
***
同時刻、ルカは一睡も出来ないまま朝を迎えた。膝下までの長さがあるレースが付いた薄手のネグリジェを着せられたルカは、警戒心たっぷりの目で一晩中ドアを監視していたのだ。
そのうえ『ルカの為に特別に新しく注文したベッドだ』と、ゾッとするような情熱的な言葉を囁かれてしまえばベッドにあがることもできなくなり、床に座りながらジッと身体を固めるしかなかった――その時だった。
ドッガァアアンッ!
けたたましい轟音と共に屋敷が揺れる。ルカはびくりと身体を跳ねさせながら、その場から立ち上がった。
「ぐあっ!」
一体何が起こったのか。そんな思考が過ぎるよりも早く、ドアの外で見張りの苦しそうな声と何かが倒れる音が聞こえてきた。
ルカはジリジリと後ろに下がって警戒心を強める。
数秒もしないうちに扉が勢いよく開き、聞こえてきた声にルカは目を限界まで見開いた。
「ルカ居るか!?」
「ノ、ノア……!?」
「良かった。この部屋で合っていたようですね」
「ラ、ラウラも……ど、どうして……」
「話は走りながら説明する。時間がない!行くぞ!」
「え、ええ……?」
混乱するルカの手を掴んだノアがそのまま走り出した。状況を把握しきれないままルカも反射的に足を動かしたけれど、頭の中は疑問で埋まっていた。
「ステファンたちは無事に爆発できたようですね」
「武器庫がルナの記憶通りの場所にあったようで助かったな」
「ふ、二人も来てるの……?」
「当然だ。二人ともルカを心配していたぞ。もうこちらに向かっているはずだから、すぐに会えるはずだ。だから一緒に帰ろう」
「う、うん……!」
ルカは笑って頷く。いつの間にか後方と前方から挟み込むように追っ手が現れていたけれど、ルカはもう怖くなかった。
「雷撃!」
ラウラが防御魔法を張り、ノアは圧倒的な魔力を惜しみなく使って前方の敵を倒す。ルカは後方の敵からの攻撃を防ぎながら、ノアとラウラをサポートする。
後は大広間を出てすぐの渡り廊下さえ乗り切れば、ルナとステファンと合流出来る手筈だった。
「あらあら、お子様相手に随分と手こずっちゃって情けないわねぇ〜」
「伏せろ!」
大広間に足を踏み入れた瞬間、待ち構えていたかのように無数の光剣が降り注ぐ。ノアは肌がざわつく直感に突き動かされ、即座にルカとラウラの前に飛び出して防御魔法を展開させた。
「まあ!凄いじゃない。ろくな戦闘もしたことがない子供が、アタシの攻撃を見抜くだなんて。ちょっとは楽しめそうね」
パチパチとアレックスは拍手をして褒め称えたが、状況を理解したノアは笑ってなんていられなかった。
学校では何度も攻撃を受けたことがあったが、破られたりすることはなかった。しかし怒涛の如く浴びせられた光の剣は、簡単にノアの盾にヒビを入れたのだ。もっと長く攻撃されていたら、完全に割られてしまっていたことを察する。
「ラウラ、ルカを連れて先に行ってくれ」
「……分かりました。行こう、ルカ」
「ま、まって……ぼ、ぼくも残る……!ノ、ノアを、ひとりに、置いていくわけには……」
「大丈夫だ。俺が誰かに負けたことがないことを知っているだろう?だが今の状況では二人を守りながら戦うのは難しそうだ。それでも、お前たちが逃げる時間くらいは稼げる」
ノアは立ち淀むルカへ諭すように優しい口調で背中を押す。あと少し話をしていたかったが、そんな時間はもうなかった。
ルカを逃がすわけにはいかないアレックスが魔法陣を三つ同時に展開させて阻止しようとしてくる。自分よりも遥かに格上な相手を前に、ノアは惜しみながらもルカとラウラから目を離した。
「今だ、走れ!」
「……わ、わかった……ま、待ってるから……!」
ルカとラウラが走り出したと同時に発動されたアレックスの魔法に、ノアは自身の魔法をぶつけて打ち砕く。全てを防ぐことは出来なかったけれど、無事に二人は大広間を離れることができた。それで十分だった。
「悪いが二人を追いかけさせるわけにはいかない」
「あんなゴミのような男の命令は聞きたくないんだけれど……でもアタシも守らなきゃならないものがあるのよねぇ。だから本気でやるけど、悪く思わないでちょうだい」
「手加減は無用だ。お互い譲れないものを守るために全力を尽くすだけだからな!」
「そういう真っ直ぐさアタシは嫌いじゃないわよ」
アレックスの言葉にノアは快活に笑って、今度は自分から攻撃を仕掛けた。
***
「ル、ルナ!ス、ステファン……!」
渡り廊下を抜けて玄関ホールまで到着するとルナとステファンが騎士たちと交戦中だった。ルカが名前を呼べば二人は安心した表情を見せたものの、すぐに何かを堪えるかのようにグッと息を呑み込んだ。
「ステファン、ラウラ、お願いね!」
「そんなに長くは持たないからな!」
「分かってる!――三分あれば十分よ」
何かを言い合うルナとステファンの言葉は聞こえて来るけれど、ルカは話の内容が理解できない。
「お願いね」
「任せて!」
ラウラがルカの元を離れたのと入れ違いで、ルナがルカの元へとやってくる。自分を守るように何故か戦っているステファンとラウラを助けようと動いたルカの身体は、ルナによって引き留められた。
「ふ、ふたりが……た、助けないと……!」
「ルカ、一度しか話してる時間がないからよく聞いて。中心街の三番地にある宿屋の前に荷馬車が止まっているはずよ。運転手にお金を渡して乗ったらすぐに王都から離れて。アイツは諦めないだろうから、暫くは隣国にでも逃げるの。知らない土地に行くのは心細いだろうけれど、それでもあんな奴に貞操を奪われるよりはマシでしょ」
「な、なに言って……?」
「ああもう!大体、この寝間着は何よ!?ほんとにアイツ気持ち悪いんだけど!」
ルナは顔を顰めて叫ぶ。ただでさえブランシュ男爵の性的嗜好なんか知ってしまい最悪だというのに、よりによって自分の兄にこんな薄くてレースの付いた服を着せているから余計に不快だった。
言われている内容が全く理解できなくて困惑しているルカをルナは強く抱き締める。
「ル、ルナ……?」
「弱くて引っ込み思案で純粋すぎるルカを行かせるのは不安で堪らないけれど、ノアを一人置いていくわけにはいかないの。元はといえば、あたしが巻き込んだようなものだし」
ルカを抱き締めて目を瞑ると、ルナの脳裏には作戦が実行される直前の記憶が浮かぶ。
『魔法スクロールはどのタイミングで使うべきだと思いますか?』
『やっぱり最初だろう!ルカの元へそれで皆で飛んで行こう!』
『全員で行ったら動きにくいんじゃないの?それに、最初より後の方がキツくなるだろうし、あたしは後で使った方がいいと思う』
『そうですね。魔力は使えば減っていきますし、戦闘が長引けば屋敷から出るも難しくなりそうです。ステファンはどう?』
『僕も、最後に全員が集まった時に使ったらいいと思う……』
『そうだな。では、全員が集まったら使うことにしよう!だが、本当にどうしようもない時は、その時集まった者で使うんだ!それでいいだろう?』
ノアらしくない提案だと、その場にいた誰もが思った。普段の彼ならば、誰かを取り零す選択肢はないから。それですぐに気が付いてしまったのだ。もしもの時、ノアは自分が囮になるつもりだということに。
だから三人で決めた。合流する時にノアが居なかったら、ルカだけ逃がそうと。
『ルカさえ逃げ切れば僕たちの勝ちでしょ』
ステファンの言葉を思い出したルナは笑って魔法スクロールと一緒に小袋を取り出す。依然としてルカを送り出す不安は胸の中に漂っていたけれど、魔法スクロールを破る手の動きに迷いはない。だって、ルナたちは勝ったのだから。
「ちゃんと逃げ切るのよ」
「ル、ルナ……!」
遅れて状況を察し手を伸ばしてくるルカを押して、ルナは拒否をした。人生で最初で最後の拒絶だった。
古びた紙に魔法陣が浮き上がり、ルカの足元から光が溢れルカの全身を包んでいく。瞬きした次の瞬間にはルカの身体は中心街まで飛ばされていた。
ルカは急に変わった状況に呆然としながらも、傍らに落ちていたルナから押し付けられた小袋を開く。
「ぁ……あぁぁ……」
小袋の中には少額のお金と、ステファンが命よりも大事にしていたブローチが入っていた。
手が震え、視界がぼやける。ルカは呻きながらその場で泣き崩れた。
自分を助けに来たせいで皆にこんな選択をさせてしまった申し訳なさと無力感。どうして自分なんかを生かしてしまったのだという非難。そして、一緒に戦わせてもらえなかった絶望まで。全てが混ざり合い、ルカは泣き叫んだ。
――その時、近くの宿屋に荷馬車が止まる。ルナが言っていた三番地だった。ルカはハッと顔をあげて駆け出し、運転手にありったけのお金を差し出した。目には光を宿して。
「こ、これで!がっ、学校まで、の、乗せてくれませんか……!?」
最初は不審げにしていた運転手だったものの、差し出された銀貨を見て表情を変える。通常、運転手の一日の給料は二から十銀貨程だが、差し出された銀貨はその倍はあった。学校もこの場所からは十五分程でそう遠くない距離だ。
運転手は喜んで荷馬車を指さした。
「おう、乗りな!」
「あ……ありがとうございます……!」
ルカは深く頭を下げてお礼を伝えてから、荷馬車に乗り込んだ。学校へ向かっている最中は、心臓がずっと走って不安に押し潰されそうだったけれど、ルカはもう泣かなかった。
学校へ到着したルカは必死に走って目的の人物を探す。ルカに対する様々な視線が突き刺さっていても、気にしている余裕なんてなかった。
「ぁ……アリアさま!」
ようやく見つけた人の名を、大声で呼ぶ。
振り向いた紫色の髪がふわりと風に揺れた。




