91.モノローグ ラウラ
「おや、ラウラ。また本を読んでいるのかい?小さい子供が読んでも面白くないだろうに」
「眺めてるだけでも面白いよ、おばあちゃん!」
「そうかい。そんな本好きのお前さんに、プレゼントだよ」
「わぁっ、絵本だ……!おばあちゃんありがとう!」
王都から遠く離れた田舎町。そこで私はおばあちゃんと二人で暮らしていた。おばあちゃんは小さな薬屋を営んでおり、私はお店の隅でいつも本ばかり読んでいた。
最初はただ絵を眺めていることしかできなかったけれど、おばあちゃんに文字を教えてもらったおかげで、少しずつ内容も理解できるようになっていったのだ。
本を読む時はいつだってわくわくして、胸が高鳴る。時間が経つのも忘れて物語に没頭するのが私は好きだった。
ただ単純に好きでいた本は、いつしか憧れに変わる。こんな風に心が震える物語を私も書いてみたいと思うようになった。
おばあちゃんが使わなくなった羊皮紙の片隅や土に、拙い話をこっそり綴っていく。初めて書いた話はお世辞にも『物語』とは言えないような出来だったけれど、それでも自分だけの本ができたのが嬉しくて、私はいつも夢中で手を動かしていた。
「ラウラこれを持っていきなさい」
「これは、ノート……?」
「いつも隠れて書いていただろう。前に店にこれを忘れていたよ」
「きゃああ!それは!」
私が以前に書いた一節が記された紙をひらりと振られて、羞恥で顔が熱くなる。あれをおばあちゃんに見られてしまうだなんて恥ずかしくて堪らない。
そんな私を揶揄う余裕もないほど衰弱したおばあちゃんは最期の間際、枝のように細い腕を持ち上げて、私に一冊のノートを差し出してきた。まだ何も書かれていない、白紙のノートを。
「お前さんの書く文章には人を惹きつける魅力がある」
「おばあちゃんが慰めてくれるのは嬉しいけど……誰が見ても下手くそだって分かってるよ」
「上手か下手かが重要なんじゃない。その文字には魂が宿っていると言ってるんだよ」
「たましい……?」
「いくら綺麗な言葉を並べても、魂が宿っていない文字からは何も伝わってこない。だから下手くそでも、今の楽しむ気持ちを忘れずにいなさい。お前が誰かの物語を愛したように、いつかお前の物語を愛してくれる人に出会えるはずだから」
「おばあちゃん……ひっく、ぅ゛……っ」
おばあちゃんが横たわるベッドの上に、ぼたぼたと涙が落ちて、染みができる。鼻を啜りながら泣く私に、おばあちゃんは叫んだ。
「ほら!今だよ!」
「なっ、なにが!?」
「辛い時こそペンを持って、お前の糧にするんだ!もしも寂しいと感じる時にはノートを開きなさい。お前の書いた人物たちが、お前を孤独にはさせないだろうから」
「うぇぇん……無理言わないでよぉ……」
「無理じゃなくてやるんだよ!」
そう言って泣く私に鞭を打ったおばあちゃんは次の日、静かに息を引き取った。眠って動かなくなったおばあちゃんに縋り付きながら涙が枯れるほど泣いて、荷物を纏めた。
『あたしが死んだら、首都へ行きなさい。広い場所で沢山の人と出会って、世界を広げておいで』
おばあちゃんの知り合いだという人が首都からわざわざ迎えに来てくれたうえに、手配されていた孤児院まで送ってくれた。
「ここまで送ってくださり、ありがとうございました。このご恩はいつか必ずお返しします」
「ははっ、君はおばあさんと違って礼儀正しいんだね。気にしないでくれ。昔、貴重な薬草を譲ってもらった恩を返しただけだから」
おばあちゃんはとても腕のいい薬師だったということを、この時に初めて知った。今更後悔したって遅いのに、もっと話を聞いたり手伝ったり、一緒の時間を過ごせばよかったと後悔が押し寄せてくる。
『辛い時こそペンを持って、お前の糧にするんだよ』
だから私はノートを開く。おばあちゃんの最後の言葉を忘れない為に。その言葉は正しかったと、いつか笑って伝えられるように。
いきなり座り込んでペンを走らせ始めた私に、連れてきてくれたおじさんは困惑する。だけど手を止めることはできなかった。忘れないうちに、この感情を言葉にしておかなければ――
「『その温もりを、私は当たり前のものだと思っていた』か……うむ、いい言葉だな!」
「きゃあっ!あなたは誰ですかっ!?」
「俺はノア・ブライトン――今日から君の家族になる男だ!」
漆黒の髪がしなやかに揺れる。ノートを抱きしめて蹲る私に、ノアは手を差し出した。
***
「ノア、ステファンお待たせ」
「本は借りられたか?」
「うん。二人もルナたちと一緒に帰ってよかったのに」
「ええ勘弁してよ……ルナと帰るくらいなら外で待ってた方が百億倍マシだから」
「待ってる時間も楽しかったぞ!ほら見てくれ!アリア嬢からこれを貰ったんだ!」
ノアは細い巻物を取り出して、満面の笑みで私へ見せびらかしてくる。ステファンが分かりやすく不満を示して、ぶつぶつと呟いた。
「さっきからずっと聞かされてムカつく。言っておくけど、それはただのお礼だからな!」
「お礼?」
「ああ、実はアリア嬢の魔力が増えたらしい。それのお礼だと言ってこれをくれたんだ」
「なるほど……それは魔法スクロールですよね?初めて実物を見ました」
「使い捨てのようだから、大事に使わなければな!」
「分かってるならもっと丁寧に扱えよ!」
元々大雑把なノアにしては丁重に扱っている方だと思うけれど、ステファンからすれば粗雑に感じるらしい。イライラしながら叫んでいた。
「まあまあ、ステファン落ち着いて……それにしてもルカはどうしたんでしょう?急に呼び出しだなんて珍しいですよね」
「大事なお客様が来ているって言われたらしいけど、ルカにそんな知り合いいたっけ?」
「うぅむ、特に聞いたことはないが……」
「でも少し変じゃありませんか?ルカの知り合いならルナも知っているはずなのに、ルカだけ呼ばれるだなんて」
「ああ、確かにあの二人はいつも一緒にいるからな」
「そういえばルカとルナが別々に行動してるのは、殆ど見たことないかも」
ノアとステファンの言葉通り、ルナとルカが別々に行動することはほぼない。まるで一つの魂を二人で分け合っているかのように、ずっと一緒にいるのだ。
「あれルナじゃない?」
「おおそうだな。おーいルナ!俺たちを待っていてくれたのかーー!?」
学校から孤児院までは歩いて約一時間程の距離だから、到着する頃には辺りは真っ暗になっていた。
視界が悪い中で気付いてもらおうとノアが大声でルナを名前を叫び、ぶんぶんと勢いよく手を振って主張する。しかしルナは無反応でその場に一人蹲っていた。
「ねぇ、なんか様子がおかしくない?それにルカもいないし……」
ステファンの怪しむ言葉に私たちは顔を見合わせたあと、ルナの元へと同時に走り出した。
遠くて気付けなかったけれど、顔を目視できる距離まで来ると、鼻を啜る音が耳に届く。
「ルナ!何があった!?」
両肩に手を置いて問い詰めるノアの声でようやく顔を上げたルナは、ぐしゃぐしゃの顔で嗚咽を零しながら言った。
「うっ……ルカ、が……ルカがアイツに連れて行かれちゃった……っ!行かないでって言ったのに、ひぐっ、ぅ……うわああん……っ!」
「落ち着けルナ。俺たちにも分かるように説明してくれるか。アイツというのは一体誰のことだ?」
「ブ、ブランシュ男爵……孤児院に戻ってきたら、アイツがルカを迎えに来たって言い出して……それに、ここも無くなるって……」
「えっ!?」
「ここが無くなる!?」
思ってもみなかった話に、ノアだけではなく、私とステファンまでもが叫んでしまう。この数時間のうちに何が起きたのか混乱していると、私たちが帰ってきたのに気が付いた子供たちが孤児院の中から出てきた。
「……のあ?のあだーー!」
「えっ、うそ!本当だ!いつ帰ってきたのー!?」
「おっと」
我先にと飛びついてくる子供たちをノアは両手で受け止め、優しい声で諭しながら彼らの頭を撫でる。
「ああ、ただいま。すまないが今は大事な話をしているから、後で俺と遊んでくれるか?」
「うん!あれ〜?るなないてるの?どこかいたい?」
「るな泣かないで〜!」
「な、泣いてないわよ!」
小さな手に慰められるのは恥ずかしいのか、ルナは涙で濡れた顔を晒しながらも否定した。
「のあーきょうね、きれいな『いし』をさわらせてもらったよー」
「まさか、ブランシュ男爵ってジジイにやらされたの!?」
「おじいさんじゃなくて、おにいさんだよー?いんちょうせんせいのいうとおり、じゅんばんにさわったのー」
「……院長先生?」
ステファンが不審げに目を細めて「まさか」と呟いた瞬間、ノアがその場から飛び跳ねるように駆け出した。
「ちょっとノア!」
ノアの名前を叫んだステファンも走り出し、すぐに後を追いかけていく。
「のあとすてふぁんは、どこにいったの?」
「おにごっこー?」
「二人とも大事な用事ができたの。だから鬼ごっこは後でしましょう。私もルナと行くところがあるから、みんなはお部屋に戻れるわよね?」
「うーん……わかった!」
「やくそくだよ!」
子供たちが無事に部屋へ入ったのを確認してから、ルナの手を引いてノアとステファンの後を追いかける。走りながら大丈夫かと尋ねれば、ルナは鼻を啜りながらも「当然よ」と頷く。
院長室の近くまで来ると、興奮したノアの声が廊下にまで響いていた。
「いい加減にしてくれ。ステファンがどんな気持ちでアレを渡したと思ってるんだ。ここを守る為だろう!?」
「ノアはまだ子供だから分からないかもしれないけれど、あんな小さな宝石一つで経営を続けていくのは不可能なのよ。教会だってもう長い間、聖女が現れていないから力を失いつつあるの」
「……だからここを売ったと?確かに俺はまだ子供だが、何も考えられない馬鹿ではないんだ。孤児院の財政が厳しくなっているのは事実だとしても、ここを運営できる資金は受け取っているはすだ。まさか院長先生が不正をしているわけではあるまいし」
「言葉に気をつけなさいノア!ただ皆が別の場所に移るだけのことなのに、貴方は大袈裟に騒ぎすぎよ」
「どういうこと……?ここを売ったて……」
「あら、ルナとラウラも聞いてたの?言った通り、ここを譲渡することになったの。でも安心してちょうだい。ブランシュ男爵様が他の子たちの行き先も手配してくださるそうだから。それはそうと、ルカが男爵様の養子だったなんて知らなかったわ」
「あたしたちは赤の他人よ!どうしてあんな奴にルカを渡したりしたの!?」
「ルナ、落ち着いて……!」
院長先生の胸ぐらを掴んで本気で怒るルナを止めるけれど、ルナは顔を歪めたまま院長先生を睨み続けている。
そんなルナを院長先生は払い除けて、無表情で言い放った。
「確かにそうね……どうやら貴女は赤の他人みたいよ。ルナもお呼びしますかとお聞きしたら、男爵様は『ルナは要らない』と仰っていたわ」
「……」
「それでも慈悲として次に住む場所は見つけてくださるそうだから感謝しなさい。どうせルカとだって学校に行けばいつでも会えるでしょう。そう大騒ぎしなくても……」
「いい加減にしろよ!」
院長先生の言葉を遮ったのはステファンだった。ステファンの大声で、身体が金縛りから解放されたかのように動き出す。それくらい皆が強い衝撃を受けていた。
「ルナ……」
ルナは床にへたり込み、静かに涙を流していた。薄紅色の丸い瞳から絶え間なく雫が溢れ落ちる。心をボロボロに傷付けられたルナに私は何もしてあげられなかった。
今まで沢山の本を読んできたというのに、肝心な時に一つも言葉が出てこない。
絶望に染まる室内に、声が響いた。
「行こう」
真っ直ぐで、濁りのないクリアな声。
ノアは迷いもせずに言い放つ。
「ルカを連れ戻しに行こう!」
「連れ戻しに行くって、何を考えてるの!?馬鹿なことはやめなさい!人生を棒に振りたくないのなら大人しく――」
「僕も行く。このまま何もかも思い通りにされるのは癪だし」
院長先生の言葉を無視して、ステファンも賛同した。ステファンは黙り込んで下を向いているルナに「おい」と呼びかける。
「いつまで泣いてるんだよ。このままルカを諦める気か?」
「……うるさい」
「なら早く立てよ。そうしている間にルカがあっちの方がいいだなんて言い出すかもしれないだろ」
「うるさいってば!そんなことあるわけないでしょ……!あの家で幸せだったことなんて、一度もないのに……」
「そうか。それなら余計に行かねばな」
ぎゅっと拳を強く握りしめて吐き出すルナに、ノアは手を差し伸べる。しかしルナはノアの手を一瞥してから、顔を歪めて床に視線を落とした。
「相手は貴族よ。かないっこないわ。どうせ行ってもすぐに捕まるのがオチよ。行くだけ無駄に決まってる」
「そんなの分からないだろう」
「分かってないのはノアの方でしょ!アイツらは私たちのことなんて家畜くらいにしか思ってないのよ!ルカが連れていかれた時点でもう手遅れなの!」
ルナは両手で耳を塞いで叫んだ。そうしないと期待してしまうから。もしかしたらルカを取り戻せるかもしれないと、願ってしまいそうになるから。
そんな心を見透かすかのようにノアは膝をつき、ルナの目線に合わせてしゃがむ。
「まだ間に合う。ルカは生きていて、俺たちには戦う術があるのだから。だから言ってくれ、本当の望みを――そしたら俺が、俺たちが叶えてやるから!」
ノアは自分の手を掴まないルナの腕を無理やり引き上げて笑った。ぐしゃぐしゃの顔をしたルナが震える口をゆっくり開く。
「う゛っ、ひぐっ……ルカを、連れ戻したい……っ」
「ああ、当然だ!すぐに向かって……」
「待ってください!」
今にでも走り出そうとするノアを私は引き止める。こうなってしまった以上、行くのを止めるのは不可能だろう。だから私もできる限り力になりたい。大事な家族を想う気持ちは、ノアやステファンと同じだから。
「私に考えがありますので、行くのはもう少し待ってください。ノアの強さは知っていますが、それでもきちんと作戦を立てるべきです」
「僕もラウラに同感。無闇に突っ込んで犬死には嫌だし」
「ルナはもどかしいと思うけど……」
「私にだってそのくらい理解できるわよ」
「ではさっそく作戦を……!」
「立てる前に、まずは院長先生には眠って頂くのはどうでしょうか?」
「そうね。もう夜も遅いし」
「ま、待ちなさい!貴方たち!」
「大丈夫だ、苦しくないよう一瞬で楽にしてやろう!」
「や、やめ……ぎゃああああ!」
院長先生の絶叫が室内を満たす。ステファンが「うるさい」と両手で耳を塞ぎながら不快そうに呟いた。
「では今度こそ作戦を立てましょう」
「作戦を立てたらすぐに行くんだな!?」
「いいえ」
前のめりで落ち着かない様子のノアに、私は首を振って答える。家族のために、本から得た知識を惜しみなく使うタイミングがあるとすれば、まさに今だった。
「向かうのは――夜明けです」




