87.モノローグ ステファン 1
貧困街――生まれつき貧しい人や、社会から弾き出された人が寄せ集められる区域の名前だ。物心ついた頃から、僕はそこで毎日を生きてきた。
日は殆ど当たらず、お金も食べるものも存在しない、ただ死にゆくためにあるような場所。僕には親も知り合いも居なかったから、一日を生き延びるのも大変だった。
「このクソガキが!誰のモンに手を出してやがる!」
子供が一人で生きて行く方法なんて、たかが知れてるだろう。地面に這いつくばりながらゴミを漁ったことや、パンを一欠片食べるためだけに盗みをしたこともある。
運が良ければ憐れむ大人から施しをして貰える子もいたけれど、僕にはそんな運はなかった。
そしてあの日もまた、僕には運がなかった。
「きゃああ!汚い!触らないで頂戴!」
「このお方が誰だと思ってるんだ!お前のような卑しい人間が近寄っていい方ではないんだぞ!」
空腹にふらついた身体がすれ違った貴婦人のドレスに掠めてしまい、怒った貴婦人の付き人から突き飛ばされ何度も蹴られた。汚いものを見るかのように冷ややかに睨まれながら地面に踏みつけられ、本当にゴミにでもなった気分だった。
痛む身体を引き摺り逃げるようにして迷い込んだ区域で、僕は人攫いにあった。もうこれ以上落ちることはないと思っていた底は、果てしなく続いていく。
生きてるのか死んでるのかも分からずに過ごす中で、僕はアリア様に出会った。
『突然ごめんね。少しいいかな?』
皆が絶望と恐怖に震えている中で響く、その場に似合わない軽やかな声だった。
僕を覗き込んだ彼女は困惑した表情で一度謝罪してくれた後、すぐに他の場所へ歩いていった。一体なぜそんなに平然としているのか理解できなかった。きっと彼女は、人の悪意や不幸とはかけ離れた場所で生きてきたから、この状況を理解できていないんだ。
生きているだけで嫌われることも、時には殴られたりもする痛みや辛さも知らないんだろう。
そう考えると自分が余計に惨めになり、僕は下を向く。皮が剥けたボロボロの足を眺めて、終わりが来るのをただひたすら待っていた。
終わるはず、だったのに。
『帰らないの?』
彼女は再び僕の前に現れた。
『これを売ればそれなりにお金になるはずだから。売った後はまずご飯をしっかり食べて、ちゃんと寝て』
汚いとばかり言われていた僕の手を躊躇うことなく握り、キラキラと光るブローチを手渡してくれる。誰かに握られる手が温かいってことを、僕はこの時に初めて知った。一束の髪が僕の目の前に落ちて、鮮やかな紫が色づく。
女神様が人の形をしているのなら、きっとこの人のような姿をしているのだろうと思った。
『あの……さっきの人は……?』
『アリア・ウォレス令嬢――ウォレス公爵家のご令嬢よ』
『アリア様……』
魔法省の人に教えてもらった名前を、忘れないように何度も心の中で繰り返した。
アリア様がお願いしてくれたおかげで、体調が回復した後は孤児院に入ることができた。
魔法省の人が直々に僕を院長先生に紹介してくれる。屋根がある家に、温かい食事と柔らかな寝床。殴られる心配や、明日の不安も気にせずに眠ることができる空間は、心身の安心と共に、いつか夢から醒めてしまうんじゃないかという恐怖も与えてきた。
その度に僕はアリア様から貰ったブローチを握りしめて、あの日を思い浮かべる。
同じ孤児院の子たちが遊んでいる中でも、僕は隅に座りながらアリア様のことを考えていた。ずっと一人で生きてきたから今更寂しいなんて感じることはなく、いつも一人でいる僕を気に留める人も居なかったし。
「ステファンもこっちに来て一緒に遊ぼう!」
「僕はいい……」
「そんなこと言わないで、ほら!一緒に遊んだら絶対に楽しいぞ!?」
いや、そういえば一人だけ居た。僕が入所した日から懲りずに話しかけてくる人が。
「またソイツのこと誘ってんの?どうせ断られるくせに」
「それは昨日までのことだ。もしかしたら今日は違うかもしれないだろう!」
「何言ってんのよ。さっき断られてたじゃない」
「それはさっきまでのことだ。今は気が変わったかもしれない!どうだステファン、俺たちと一緒に遊ばないか!?」
「僕はいい……」
一度ならまだしも断った後もしつこく食い下がってくるから、ちょっとウザかった。
ノア・ブライトン――僕が入所した日に「兄だと思って気軽に接してくれ!」と彼に手を握られ、ぶんぶんと身体が揺れるほど上下に振られた記憶はまだ新しい。
きっと一人でいる僕を憐れんでの行動だろう。だからそのうち飽きてくれると思った。
しかしそんな予想を裏切り、僕がいくら拒絶してもノアが諦めることはなかった。
「ステファン、これから洗濯をするんだが一緒にやらないか?今日は天気がいいから絶好の水浴び日和だ!」
「僕は他のでいい……」
「これからルナやルカと遊ぶんだが、ステファンもどうだ?たまには外に出て空気を吸うのも悪くないと思わないか!」
「行かない……」
「そのジャガイモは俺が切ったんだ!皆からは『ジャガイモばっかりで飽きた』と不評だったんだが、食べて貰えて嬉しいぞ。どうだ?美味しいか!?」
「まあ……」
「おお!?そうか!」
ただ頷いただけなのに、ノアの顔が一気に明るくなった。実際、以前までの食事と比べたらマシどころか寧ろ有り難すぎるくらいだ。たとえ最近はジャガイモばかり出ていたとしても文句を言える立場ではないことは分かっていたから、騒ぐノアを無視してスープを食べ進めた。
***
「さっきから、何をそんなに見てるんだ?」
「……!!」
「おお、綺麗なブローチだな。中に埋まっているのは宝石か?見るのは初めてだ!」
「勝手に見るなよ!」
いつものように一人で静かに過ごしていたある日。背後から突然声をかけられ、僕は跳ねるように飛び上がる。慌てて振り向くと、ノアが僕の手元にあるブローチを興味深そうに覗き込んでいた。
誰にも知られないように気をつけていたというのに、まさか見られてしまうだなんて。急いで後ろ手に隠す僕に、ノアはニカッと笑って頭をぐしゃぐしゃに掻き乱してくる。
「ただ少し気になっただけだ。取ったりするつもりはないから、そう警戒するな!」
「……本当に?」
「当然だ。それはステファンにとって、とても大事な物なのだろう?」
「……うん。僕の宝物」
アリア様はこれを売ればお金になると言っていたけれど、たとえ大金が手に入るとしても売りたくはなかった。
「そうか。それはいいな」
小さく頷いた僕に、ノアは静かに笑う。いつもとは違う、穏やかで落ち着いた声色は何だか別人のようだ。しかしそれは一瞬で、すぐに元のうるさいノアに戻ってしまった。
「じゃあ、秘密も共有したことだし、今日こそは俺と遊ぼう!」
「共有っていうか、あんたが勝手に盗み見ただけ……」
「細かいことは気にするな!ほら、行くぞ!」
「ちょっと、ノア!」
ノアは無理やり俺の腕を掴んで走り出す。
庭でノアを待っていたらしいルナとルカ(主にルナ)は僕に気付くと、顔を顰めて文句を言ってきた。
「えーソイツも連れてきたの?」
「そうだ!今日はチームに別れて鬼ごっこをしよう!」
「のあー、おにごっこするの?ぼくもするー」
「私もしたい!」
「はははは!そうだな、皆でしよう!」
近くで遊んでいた子から、遠くにいた子まで、ノアの一言で皆が一斉に集まってくる。どうやってチームを分けようか悩んでいるノアへ、意外にもルカが真っ先に手を上げた。
「ぼ、ぼく、同じチームは、ノアとがいい……!」
「私も私も!ノアと一緒がいい!」
「おお!ならばルカとアネットは俺と同じチームでやろう。後は……そうだ、ステファンはどうだ?」
「僕は別でいいよ」
「そうか?ならばルナが俺の代わりにステファンと同じチームになるのはどうだろうか!」
「はぁ!?なんであたしが!嫌よ。こんな根暗なヤツと一緒だなんて」
「僕も嫌だけど……」
「ちょっとノア!今の聞いたでしょ!?ムカつくからコイツとは別のチームにしてよ!」
「いいや。今回ルナとステファンは同じチームでいこう!」
その言葉にルナは文句を叫んでいたが、ノアが「決定だ!」と言い切れば、さすがに諦めたのか大人しくなった。相変わらず嫌そうな顔はしていたけれど。
「じゃあ俺たちのチームが先に鬼だ!」
「ノアが来るぞ〜にげろ〜!」
一人が走り出した途端、子のチームは一斉に散らばった。僕も置いていかれないように駆け出す。三十秒ほど経って追いかけてきたノアは驚くほどに足が早くて、あっという間に捕まえられてしまった。
息を切らしながら顔を上げた空は広く澄み渡り、空気が清々しい。頬に当たる風が心地よく、笑い声に包まれた空間は想像よりもずっと居心地が良かった。
アリア様から貰ったブローチがなくなったのは、それから一週間後のことだった。




