77.天使の子守唄
――歌が聞こえる。優しい、優しい、歌が。
「母さん!!!!」
「こほっ……あら、ノアお帰りなさい」
エメルと遊び終えた夕方。勢いよくドアを開けて家に飛び込むと、台所に立っていた母さんは振り返りながら微笑んでくれる。
「ただいま!!!!」
「ノアもう少し声のボリューム落とせない?耳に響くんだけど」
「エメルくんもいらっしゃい」
「お邪魔します」
挨拶をするエメルは軽くお辞儀をしてから、両手に持っていたバスケットを母さんへと差し出した。
「これ、うちの母からです。ノアと一緒に食べてください」
「まあ、また持ってきてくれたの?いつも貰ってばかりでごめんなさいね」
「気にしないでください。母は人の面倒を焼くのが趣味みたいなものなので」
申し訳なさそうにする母さんへ、エメルが軽く手を振った。その言葉の通り、エメルのお母様のエミさんとお父様のセオドアさんは、普段から俺たち親子に沢山の物を分け与えてくれるのだ。
「ありがとう。なら今度お礼に、手作りの防寒具を贈るわ。今年の冬はとっても寒いようだから」
「それは母も喜ぶと思います。去年貰ったマフラーも温かいと言って、ずっと身に付けていましたから」
その言葉に母さんは嬉しそうに微笑んで、顔を窓の方へと向ける。その視線を辿れば木の葉が色変わり、冬が近づいている気配がしていた。
しかし、窓に視線を奪われたのは一瞬で、すぐに意識はバスケットの方へと戻ってしまう。
「母さん、お腹が空いたんじゃないか!?食事にしよう!」
「ノアが食べたいだけじゃなく?」
「俺も食べたい!!」
「ふふっ、そうね。夕食には少し早いけれど、食べましょうか。良かったらエメルくんも一緒にどうかしら?」
「ああ、俺は大丈夫です。これを届けに来ただけなので」
「なに!?エメルは帰るのか!?」
せっかくなんだから一緒に食べようと誘う俺に、躊躇いもなくエメルはあっさり帰っていく。残念だが無理に引き止める訳にもいかないから、俺は素直にエメルを見送った。
「エメルーー!また明日なーー!!気をつけて帰るんだぞ!!」
「そんな大声じゃなくても聞こえるから。そもそも、歩いてたった数分の距離なのに大袈裟だって」
「それでも言いたいんだ!」
「はいはい。また明日ね」
「ああ!また明日!」
呆れた顔で手を振るエメルに向かって、俺も負けじとぶんぶんっと大きく手を振った。エメルを見送り家に戻れば、母さんが食事の準備をしてくれていて、俺は駆け足でテーブルへと急ぐ。
「母さん!俺がやるから座っててくれ!」
「こほっ、こほっ……ならお願いしようかしら?」
「うん!」
咳をしている母さんがちゃんと椅子に座ったのを確認してから、俺も食事の準備をする。バスケットの中にはパンやチーズ、果物などがビッチリ詰まっていた。その中から俺は乾燥した肉を手に取りシチューに混ぜて、肉がたくさん入っている方をバレないように母さんの方に渡す。母さんがいつもそうしてくれているように。
「さあ、食べよう!」
「ありがとう、ノア」
椅子に座った俺に、母さんが優しく微笑む。大した準備もしていないのに、それでも凄く嬉しそうにしている母さんを不思議に思いながら俺は手を合わせた。
「今日は山で見つけたキングスネークの卵をエメルに見せてきたんだ!卵から孵して使い魔にするつもりだったのに、エメルに『返してこい』と怒られてしまった」
「だから二人とも土で汚れていたのね」
「そうだ!そのうえ、帰り道にパン屋のライナーと鉢合わせてしまって『お前たちが魔法使いになれるわけないだろ』だなんて笑うものだから、勝負もしてきた!」
「元気なのはいいことだけれど、ノアがあまり無茶をしたらお母さん心配になっちゃうわ」
「それなら大丈夫だ!俺は将来、偉大な魔法使いになるのだから。それで母さんを楽にしてみせる!エミさんたちにも恩を返さなければ」
ベッドに横たわりながら意気込むように拳を握ると母さんは嬉しそうに、だけど少し困ったように眉を寄せ、俺の頭を撫でてくれる。
「ノアは優しいのね。ありがとう、ノアがそう言ってくれることがお母さんにとって何よりも幸せよ。……ねぇノア、もしライナーくんの言う通り『魔法使い』になれなかったらどうする?」
「何!?そんなの嫌だ!俺は絶対、魔法使いになりたいのに!」
思わずがばりと起き上がった上半身は、母さんによって再びベッドへと押し戻される。俺はぎゅっと毛布を握って、恐る恐る尋ねた。
「……母さんはどうだった?俺のせいで夢を諦めたのだろう?」
昔の母さんは『歌姫』と呼ばれるほど、有名な歌い手だったと以前聞いたことがある。しかし父さんが亡くなって、俺を育てないといけなくなってからは歌うことをやめて、女手一つで育ててきてくれた。
そんな母さんに有難く思いつつも、俺はいつもどこか申し訳なさも感じてしまう。まだ『魔法使い』にはほど遠い今でさえ諦めることが嫌なのに、母さんはどうして諦められたのだろうか。
「諦めたのじゃなく、守ったのよ。貴方との未来を」
じっと答えを待っていた俺に、母さんは静かに目を閉じて答える。俺は唇を尖らせながら不満を示した。
「うぅむ。俺にはよく分からないぞ……」
「ノアにはまだ早かったみたいね。ほら、もうそろそろ寝ましょう。明日もエメルくんと遊びに行くんでしょう?」
「うん……母さん、いつもの歌って……」
ポンポンとお腹を優しく叩かれて、段々と瞼が重くなっていく。母さんは「ええ」と微笑みながら優しく、柔らかな声で子守唄を歌い始める。その歌を聞いていると、あっという間に意識が遠くなるから不思議だった。
「エメルが言ってたんだ……母さんが歌う声は天使のようだって……だからこれは天使の子守唄だな……」
もう少しだけ歌を聞いていたいのに、俺の意志とは反対に意識がゆっくりと遠くなってしまう。完全に途切れる直前「おやすみなさい、ノア」と囁く母さんの声が聞こえたような気がした。
***
九歳の冬、エミさんとセオドアさんが亡くなった。馬車の事故だった。それはあまりにも突然の出来事で、俺は二人が亡くなった事実を受け入れることができないまま、エメルの家へと走る。
『ノアくん、もしも私たちに何かあった時は……どうかエメルのことをよろしくね』
『縁起でもないことを言うのはやめてくれ!エミさんたちがいなくなるだなんて嫌だぞ、俺は!』
『あくまでも例えの話よ。エメルは自分の感情をすぐ飲み込むところがあるでしょう?だからノアくんが傍にいてくれたら、私も安心できると思って』
『うぅむ……』
『だからお願い。もしもエメルが一歩を踏み出せない時は、ノアくんが強引にでも背中を押してあげてね』
エミさんは常日頃から、そう言って俺にエメルを託していた。その約束を果たすとしたら、きっと今なのだろう。息も切れ切れにエメルの家のドアを開く。
「エメル!」
しかし、開いたドアの先には誰も居なかった。後から知ったことなのだが、どうやらエメルは親戚の家に引き取られたらしい。高級そうな馬車が迎えに来ていたと、俺は人伝てに聞いた。
すぐにでもエメルを探しに行き、一目でも顔を見たかったが、エミさんたちが亡くなってからは生活に余裕もなくなった為そんな時間はなく。身体の弱い母さんを少しでも楽にさせるために、俺は日雇いの仕事を毎日詰め込んだ。
母さんが亡くなったのは、それから一年が経った、ある冬の日のことだった。
「母さん帰ったぞ!……母さん?」
「ごほっ、ごほっ……」
「どうした具合が悪いのか!?待っててくれ、すぐに医者を――」
「……ノア、こっちに来て」
医者を呼ぼうとした俺を引き止め、母さんは自分の元へと呼んだ。俺は言われるがままにベッドに横たわる母さんの元へ駆けつけ、白くやせ細った手を取った。
「ノア、医者は呼ばなくていいわ。……いつの間にか、こんなに大きくなったのね」
「ど、どうしたんだ、急に……呼ばなくていいわけないだろう……!金の心配ならしないでくれ!今日だって――」
「ノア」
俺の言葉を遮り、母さんは静かに首を振る。繋がれた手が震えて、視界がぼやけていく。だってこれではまるで、まるで……母さんが死んでしまうみたいじゃないか。そんな思考が過ぎって、すぐに振り払う。
「母さんどうかもう少しだけ耐えてくれ!魔法学校に入ったら絶対に誰にも負けない魔法使いになってみせる!だから、だから……!」
「ええ。ノアはきっと、素敵な魔法使いになるんでしょうね……ごほっ、その姿を見られないことがこんなにも残念になるだなんて昔の私には想像つかなかったわ」
俺が夢を叶えるその瞬間には、母さんが居なければ意味がないと言うのに、母さんは他人事のように話してくる。ボロボロと涙が流れている頬まで手を持ち上げて、母さんはぽつりと静かに呟いた。
「本当はね、少しだけ怖かったの……歌い手になるのは、私にとっての夢で生き甲斐いだったから。でも産まれた貴方を見て、そんな悩みは吹き飛んだわ。ノアの成長を隣で見守ることが私の生き甲斐に変わったの……」
「嫌だ、やめてくれ!聞きたくない!母さんが居なければ夢なんてなにも意味はないのに!」
ゆっくりと思い出を語る母さんへ言葉を返したいのに、口から出てくるのは『嫌だ』という子供の癇癪だけだ。嗚咽を漏らしながら、ボロボロの顔でみっともなく俺は母さんに縋り付く。
「ノア、こっちを向いて。顔を見せて」
「うっ、うう……っ!」
「貴方を一人遺していくお母さんを許してちょうだい。愛してるわ……ノア」
「……っ、俺だって、……愛しているぞ、母さん」
一人親だったことも気にならないほど、沢山の愛情を注いでくれた母さんに向かって、俺はぐしゃぐしゃの顔で笑う。
「……母さん、歌ってくれ……」
人が誰かを忘れる時、最初に思い出せなくなるのは『声』だという。だから聞かせてほしかった。
永遠に消えることはない、そんな歌を。
――歌が聞こえる。優しい、優しい、歌が。
母さんは力尽きるその瞬間まで、綺麗な声を響かせていた。
エミさん、セオドアさん、エメルが居なくなり、最後には母さんまでも俺を置いて行ってしまい。
大事な人も、夢も、もう俺には何も残されてはいなかった。




