40.私のモットー
冷たい雫が頬を伝った。
「プッ……アハハッ!きったな〜い!」
頭のてっぺんから靴先まで、全身がびっしょりと濡れていく。そんな私の姿を、周囲はクスクスと嘲り笑う。
その中には、数日前までは友人だったはずの彼女もいた。
「ねぇ、ちょっとやりすぎじゃないかな……?」
「も〜麗奈は優しすぎ。こんなんじゃ全然足りないから」
「そうよ。あーーいい気味だわ。ちょっと顔が良いからって調子に乗って、ずっとムカついてたのよね」
「麗奈が先輩のこと好きだって知ってるくせに、興味ありませんって顔しながら裏で近づいてたなんてほんと最低」
人付き合いがあまり得意ではない私とは違い、明るくいつも皆の中心にいた唯一の友人。一週間前、彼女の好きな先輩が、よりによって私に告白してきた。
もちろん私は先輩に対して微塵も特別な感情はなかったけど、周囲は『親友の好きな人を奪った女』だと非難した。
暫く我慢すればいいと思った。
そうすれば、またいつも通りに戻れると。
「麗奈――って、何かあったのか?」
「せ、先輩……!」
「一体どういう状況だ?」
「こ、これはその……」
放課後のHRが終わったのか、私をこの地獄に突き落とした男が顔を出し、彼女の顔がサッと青くなる。
バケツを手に持った女が、彼女を庇いながら説明した。
「実は春野さんが麗奈に水をかけようとして……私が止めに入ったらもみ合いになってしまったんです」
「何だと?麗奈、それは本当なのか?」
先輩が尋ねる。私は顔をあげた。視線が一瞬交わったけれど、彼女はすぐにあの男へと向き直った。
「はい……」
肯定する声に、少しずつ足元が崩れていくような感覚がした。「前から裏で麗奈をいじめてたと聞いたぞ」「そんな女だと思わなかった」と叫んでいる男の声が、やけに耳障りで頭が痛い。
「おい、聞いてるのか――」
「触らないで」
パシッと、肩を掴まれた手を払い除ける。その態度を責める声が聞こえたけど、無視してバッグを手に取った。
「先輩、手が……!」
「これくらい気にしなくていい。それよりも麗奈は大丈夫か?何かあればすぐに言えとあれだけ言ったのに」
教室を出る直前、後ろからそんな会話が聞こえてきたけど振り返りはしなかった。
彼女は何年も一緒に過ごした友人よりも、出会って数ヶ月の男を選んだのだから。
いや、もしかしたら友人だと思ってたのは私だけだったのかもしれない。
さながら私は二人の恋を邪魔する悪役だった。
「やだ、なんでびしょ濡れなわけ?床濡らさないでよ」
家の扉を開くと偶然居合わせた母親が眉を顰めながら、すれ違い際に呟く。
水で張り付いた髪が、酷く鬱陶しかった。
***
久しい感覚だ。優越感に笑っている女子生徒たちに不快な記憶が蘇る。ネクタイの色が青だから、相手はどうやら二年生のようだった。
今すぐ出て行ってアイリスを見下ろすあの女の髪を鷲掴みするのも悪くなかったが、一度止まる。まずは状況把握が先決だった。
「ちょっと押しただけなのに大袈裟ね。そうやってか弱いフリして、普段から取り入ってるのかしら」
「エメル様の妹ってだけで、カイル様やキオン様にも近づけるなんていいご身分だわ」
普段は関わりのない二年生。まさかとは思っていたけど、予想を裏切らない発言にうんざりしそうだ。
恋愛一つのために何故そこまで敵意を持つのか、私には理解できなかった。
この学校では貴族も平民も平等で、身分の上下は存在しない。とはいえ、アイリスは仮にも公爵令嬢なのに。どうせなら私を呼び出してくれれば良かった。私なら黙ってやられることはなかっただろう。
……いや〝だからこそ〟アイリスだったのか。
アイリスなら私とは違いやり返さないだろうし、誰かに言いふらしたりもしない。現にこうして目撃するまでは私も気付かなかったわけだし。
彼女たちは愚かではあったけど、間抜けではないようだった。
「なによ、その目は。生意気ね。いいわよ、エメル様たちに言いふらしても。お友達のアリア・ウォレスがどうなってもいいならね」
唐突に飛び出た自分の名前に私は目を瞠る。聞き間違えたかと思ったけど、どうやら違うらしい。先程よりも一歩近づいて耳を澄ました。
「もし私が『虐められている』なんて言ったら、皆どう思うかしら?彼女を信じる人なんていないでしょうし……ああ、それとも『裏では男と遊びまくってる』とかの方が刺激的かもしれないわね」
その後も女は私の外聞を下げるための様々なネタを囁いた。自分の言う通りにしないのなら、それらを流すということだろう。正直なところ別に構わなかったんだけど。
そんな事よりも、アイリスがずっと一人で耐えていた理由の方が打撃を受けた。
……まさか私のためだったなんて。
こんな事に付き合うなんて時間の無駄だから、さっさとエメルにでもチクってしまえばいいのに。エメルならきっと後は上手く収拾してくれるだろうし、アイリス自身を守るためにもそれが一番いいだろう。
「アリアには手を出さないでくださいっ!」
ぐっと拳を握ったアイリスが真っ直ぐと見据える。
そんなアイリスを見ていたら、自分がまるで価値のある人間かのような錯覚をしてしまいそうだった。
「なら覚えておくことね」
昼休みが終わる鐘が鳴り響く。最後にそう言い残して三人は去っていった。
言われなくても、忘れてあげるつもりはない。
アイリスは立ち上がりスカートについた土を払う。姿が見えなくなるのを確認してから、私も一年の校舎へと戻った。
「アリアおかえりなさい!どこに行ってたの?」
「散歩だよ。アイリスは?」
「私は図書館に行って来たわ」
教室へ入ると既に席に座っていたアイリスがぱぁっと明るい表情で話しかけてくる。先程のことはなかったかのように。
「そう。勉強は捗った?」
「ええ!」
「ならよかった」
きっと明日からはもっと捗るはずだ。今から楽しみだった。
「アイリス、今日も図書館に行くんだよね?」
「ええ、そうよ」
翌日。昼食を終えたアイリスへと尋ねれば、彼女は思った通りに頷いてくれる。私はにこりと笑った。
「それなら丁度いいね」
「え?」
「お兄様から昼休みに図書館に来てほしいって伝言を預かってたから」
「キ、キオンが……?」
アイリスの瞳が揺れる。困った表情を隠しきれていないのが可愛くて、思わずキオンが呼んでいたのは嘘だと真実をバラしそうになった。
「実はその、図書館の前に行く場所があって……」
「後でも全然大丈夫だと思うよ。でもあまり遅いとお兄様が探しに行っちゃうかも」
その言葉にアイリスは焦った顔で立ち上がる。私は「行ってらっしゃい」と緩やかに手を振った。
これでアイリスは図書館へ向かったはずだ。まぁ、正確には、キオンが自分を探しにきてしまう可能性があるから〝図書館に向かわざる得なかった〟わけだけど。
「さて、じゃあ私も行こうかな」
アイリスが戻ってくる前に終わらせたいから、のんびりしている余裕はなかった。
目的の場所へと歩いて行くと既に昨日の三人はそこで待っていて、現れた私に驚いて目を丸くしている。
私のモットーは、借りた借りは返すことだ。
「こんにちは、先輩」
そしてそれは、善意に限られた事だけではなかった。




