3.現実は物語のように甘くはない
「リア、急にどうしたの?!リア!」
ドンドンドンッ!と扉の叩かれる音が背中越しに響く。私は開かないよう全体重をかけて扉に凭れかかった。心臓が早鐘を打ち、手のひらには汗が滲んでいる。
追いかけてきたお兄ちゃん――キオンが何度も私の名前を呼んでいるけど、応えることができずに口を噤む。……一体なんて言えばいいのかも分からなかった。
混乱する頭を整理するように、目を閉じる。
こういう時、物語に出てくるような主人公なら、自分の運命を変えるために何かしら行動を起こすのだろう。やがて、チートな能力が発現したり、真っ直ぐな性格から皆に愛される存在となる。清らかな心で周囲の人々を照らし、救っていく――それがヒロインだ。
私にはない、綺麗で純粋な心を持ち続けられることが、少しだけ羨ましい。私も昔は、いつか王子様に出会えると信じていた頃があった。物語がハッピーエンドで終わるように、自分にもそんな結末が待っているのだと。
けれど、現実は物語のように甘くはないということを、私はもう知っている。
頭の中が少し落ち着いてきた頃、キオンもようやく諦めてくれたのか、耳を澄ますと外は静けさを取り戻していた。私は安心して息を吐き、これからどうするべきか思案する。
ひか恋のアリアの破滅は多分、第一王子に一目惚れするところから始まっていた。
つまり、答えは一つだけだ。とにかく彼らとは関わらないようにすること。それが一番手っ取り早く確実に、私が生き残る道でもあった。
正直なところ、私が第一王子に一目惚れする可能性は万が一にもないだろうけど、それでも確実を期しておかないと。
この先に来る破滅と、安全安心な日常を天秤に掛けたら、後者に傾いてしまうのは仕方のないことだった。もしも、好き好んで時限爆弾を持つ人間がいるのなら、私と変わってほしい。
アイリスの親友は、とても魅力的なポジションだ。親友という名の特等席で物語を観覧できたなら、どれほど幸せだろう。たとえば、アリアが物語に大して影響を及ぼさない脇役や、名前すらないエキストラだったなら、喜んで舞台に上がっただろう。しかし現実は、アイリスの前に立ち塞がり滅びていく悪役令嬢。
「本当に、よりによって悪役令嬢なんかになっちゃうなんて……」
でも確かに、私はヒロインというタイプではない。ある意味間違ってはないと考えれば、思わず苦笑いが零れた。
「……」
ふと、推しの顔が浮かんだが、私はすぐに打ち消す。ヒロインならともかく、破滅予定の悪役令嬢がノクスにできることなんて悲しいほど何もなかった。しかもアリアはキオンの妹で、第一王子派閥に属しているから尚更だ。下手をすれば、かえってノクスの迷惑になるかもしれない。
やっぱり何も余計なことはせずに、静かに過ごすのが一番だと私は結論付ける。遠くからで構わないから、運よく推しの姿が見れたらそれで満足だった。
一先ず今は目の前の問題から片付けるべく、ベルを鳴らしてシエナを呼べば扉の前で待機していたのかすぐに来てくれた。
「アリア様、お呼びでしょうか」
「今キオン……お兄様はどこにいる?」
「キオン様でしたらオルレアン家の方々と庭園でお茶をされております。ご案内致しましょうか?」
「ううん、大丈夫」
後先考えずに逃げてしまったけど、どうやら交流は問題なくできているらしい。別に彼らの友好を壊したいわけではなかったから、私は内心ほっとした。
「それよりもさっき、オルレアン家の方に失礼なことをしちゃったから気になって」
あの後どうやって収拾したのか知りたい。私の遠回しな言葉の意図はきちんと伝わったのか、シエナが微笑みながら教えてくれた。
「その時のアリア様の顔色が悪かったため、きっと体調が宜しくないのだと心配されておりましたよ。お大事にと言付けを預かっております」
今は顔色が良くなったようで安心致しました、とシエナが続ける。体調不良ね……まぁ一番無難な選択か。顔色が悪く見えたのは多分、小説のアリアのことを思い出したからだろうけど、何にせよ一応は誤魔化せたみたいで良かった。
「そっか、シエナも心配してくれてありがとう。今は何ともないけど、一応もう少し休もうかな」
「畏まりました。何かあればいつでもお呼びください」
扉が閉じたのを確認して息を吐く。このまま本当に休めたら良かったけど残念ながらそうもいかない。乗り切れたのはあくまでも一時的にだけ。言い訳として何度かは使えたとしても、この先ずっと体調不良で通すのは限界がある。
つまり、それ以外の方法が必要だということだ。
……覚悟を決める時がきたのかもしれない。
***
何かを手に入れる時は、少なからず対価が必要だ。
お金を得るために、時間や労力を使って仕事をするように。
何かを手に入れるためには何かを失わなければならない。思いがけない幸運によって、なんの対価もなく欲しいものをただ手に入れることができる人もいるだろうが、普通はそれ以外の人が大多数だろう。そう、例えば今の私みたいに。
「アリア、今日は一体どうしたんだい?朝までは楽しみにしてたじゃないか」
「そうよ。お友達ができることあんなに喜んでいたのに……急に走って部屋へ戻ったときはびっくりしたわ」
オルレアン家の人達が帰宅した、夜。
予想通り今日のことをアリアの両親二人から尋ねられた。そわそわと私の横で反応を覗うキオンもいる。
そうだ。アイリスとエメルに意識をとられすぎて、その時は全く視界に入らなかったけど、今日は両家の両親もその場に居た。私の奇行の理由をすぐにでも問いたかっただろうに、何とかその場を収めて、今の今まで我慢していたアリアの両親二人には申し訳なかった。
今だってもっと怒ってもいいはずなのに、怒るよりも先に心配をして理由を尋ねてくれているのだから、アリアは愛されているなと思う。私とは雲泥の差だ。
……両親からの愛なんてとっくの昔に諦めたのに今更何を。私は暗くなりそうな思考を振り払った。
これからすることに良心は痛むが将来アリアが破滅してもっと悲しむことになるよりは全然マシだろう。
私はついに覚悟を決めて口を開いた。
――子供らしく、且つアリアらしく、ワガママに。
「あの子たちと仲良くするなんて嫌よ、絶対しないから。私は友達なんていらない!」
「リ、リア?」
戸惑ったキオンがアリアの名前を呼ぶ。目の前の両親二人も驚きつつも、何とか宥めようとしてくる。
「アリアも友達を欲しがっていたじゃないか」
「そんなものもういらないっ!」
「一度話してみて、それから決めるのはどう?」
「いやいやいやッ!絶〜ッ対に嫌!私はあの子たちに会いたくなんてないから!」
必死に説得しようとする両親を全力で拒否する。
社会人としての自我が悲鳴を上げているけど、これくらいの犠牲で済むのなら受け入れるべきだ。困ったように眉を下げるアリアの両親を視界に映しながら、私は作戦が成功する予感を感じた。
その後も攻防戦は続いて私の予想通り、その日、先に折れたのは相手側だった。
「リア」
「……」
「リ〜ア〜」
「……」
但し、一人を除いて。あれから三日も経ったのに未だにキオンが諦めてくれない。今日も朝からずっと私の後ろを付いてくる。あまりにもしつこくて、つい頷きそうになったくらいだ。だけど私だってあそこまでしたのだから、絶対に折れるわけにはいかない。
「リアも行こうよ」
「行かない」
「二人もリアに会いたいって」
「私は嫌」
お願いだからもう諦めてほしい。最初のうちは私もそれなりに真面目に受け答えしていたけど、今ではもう聞き流している。にも関わらずこれだからキオンの忍耐力はすごい。
「何度言われても無理なものは無理!」
ここまで言っても納得してない表情にため息が出そうになる。だからだろうか、頭で考えるよりも先に言葉が溢れた。
「キオンもういい加減諦めて、……?」
突然、水を打ったように静かになったキオンに疑問に思いつつ振り向けば、キオンはなぜか衝撃を受けたようにその場で固まっていた。
「急にどうしたの?」
「今、ボクのことキオンって……」
「え?あ、うん?」
言われてみればそう呼んだかも。今までは意識してお兄様って呼ぶようにしてたけど、さっきのは完全に無意識だった。
でも、名前を呼んだくらいで何をそんなに驚いているのか。もしかして名前で呼んで欲しいってことかな?
「キオン?」
「…!」
「え、ちょっと!」
だからもう一度名前で呼んでみたけど、どうやら違っていたらしい。さっきよりもショックを受けたような表情で、私と逆方向へ走って行った。
一体何を間違えたのか分からない。キオンの背中を眺めながら、一人首を傾けた。