幕間 変わったものと、変わらないもの
ガッシャーン!
何かが割れるような大きな音に、キオンはビクリと肩を震わせた。癇癪を起こす子供の声は離れていても聞こえてくる。
どうやら今日もまた始まったらしい。
キオンは小さく息を吐き出す。そして、持っていたペンを机へ置いて立ち上がった。
「アンタのせいで私の大事なドレスに汚れがついたのよ!どうしてくれるわけ!?」
「申し訳ございません公女様、決してわざとではありませんでした。どうかお許しください…っ」
騒ぎの在処へ向かえば、そこには激昂している少女と、床に平伏する侍女が居た。侍女は頭から服が濡れていて、この状況から推測すると多分紅茶を被ったようだった。被ったというよりも、かけられたの方が正しそうだけど。
「リア、何があったの?」
これ以上、少女を刺激しないようにキオンは慎重に尋ねた。アリアはキオンを一瞥した後「この女が私のドレスを汚したのよ」と不愉快そうに答える。
アリアが示した箇所には、確かに茶色い染みが付いていた。何とか視認できるくらいの大きさの染みが。
「とりあえず、そこの……」
「シエナと申します」
「そう、シエナは一旦下がって」
「ちょっとお兄様は勝手なことしないでくれる!?あなたはクビよ!」
このままアリアの前に居させるのは良くないと判断したキオンは平伏す侍女へ命じる。しかし、その対応が気に食わないアリアがすぐに割って入った。
「リアも、勝手にクビにしたらまた父さんに怒られちゃうよ?」
以前アリアは侍女を勝手に辞めさせ追い出そうとした事がある。あまりの横暴さに、アリアを溺愛している父もさすがに注意せざるを得なかった。
その時のことを思い出したのか、アリアが「うっ…」と押し黙る。
それに、今は人手不足なのだ。主にアリアの周辺が。公爵家の公女ともなれば仕えたい人達で列が出来てもいいはずなのに、列が出来るどころか逆に逃げていく始末だ。
だから、貴重な侍女を失うわけにはいかなかった。
「また公女様が侍女をクビにしそうになったらしいわよ。公子様が止められたようだけど……」
「多分シエナもそのうち辞めるわね。いつまで持つのかしら」
通りがかった廊下から、ひそひそと囁く声が聞こえる。まだ半刻も経っていないのに既に回る噂話にキオンは溜息をつきたくなった。全てアリアの自業自得ではあるけど、それでも大事な妹を悪く言われるのは気分が良くない。
公爵家にいるうちはまだマシだとして。このままアリアが成長すれば、更に批判や悪い評判が増えるだろうと簡単に予想がつく。
本来ならば兄である自分が妹を導くのが正しいのだろうが、キオンがアリアへ何か言った所で、アリアの振る舞いが変わるとも到底思えなかった。
「リア、一緒にお茶しよう!」
それに最近は自分へ笑顔を向けてくれることもなくなった。今もこちらをひと目見て、すぐにふいっと首を逸らされた。どうやら先程アリアを止めたせいで、機嫌を損ねたらしい。
少し悲しくて、寂しかったけれど、キオンは気にせずに話しかけた。また笑った顔が見たくて。
***
「お兄様?」
どうやらぼんやりしていたらしい。リアに呼ばれて、ハッと意識が戻ってきた。
「リアもう読み終わったの?」
表紙に『淑女の嗜み』と書かれている本へ視線を向ければ、リアは苦笑いながら頷いた。どうやらそんなに面白くなかったらしい。
最近はそういった本をリアはよく読んでいるけど、いつも少し退屈そうにしている。
最低限のマナーは習っているのだから、無理に読まなくてもいいのに。
以前とは違い、本を読むことが好きになったと思っていたけれど、そういうわけでもないようだ。
〝以前とは〟と、既に慣れたこの状況が何だかおかしくて、夢心地のまま目を閉じた。
「お兄様、寝るなら横になったら?」
「いいの。少しだけ……」
――初めに違和感を感じたのはいつだっけ。
『リア、今日楽しみだね!』
『?はい。とっても楽しみです』
普通に返事をしてくれた時か。
『キオンいい加減諦めて……?』
初めて名前で呼ばれた時か。
『リアが作ったの?』
『うん、お兄様にあげるためにね』
お菓子を作ってくれた時か。
自分に対してだけじゃない。
大量に買っていた装飾品やドレスを欲しがらなくなり、使用人への対応も見違えるほど急激に変わった。毎日ワガママばかりだった性格も。
……まるで別の人物が自分の妹へ乗り移ったのではと、滑稽な考えをしてしまうほど。
もしも全てが変わっていたらキオンは馬鹿な問いだとしても、聞いてしまっていただろう。
だけど好きなケーキや、お気に入りの装飾品。
『じゃあそこに行こう!』
『そうですね。せっかく首都まで行かれるのですから、アリア様が行きたいところへ行くのが一番だと思います』
『……うん、二人ともありがとう』
ずっと見たかった笑顔も、確かにキオンが知っているアリアと同じだった。
『今までも笑ったことくらいあるじゃん』
そうアリアは言っていたけれど、やっぱり違う。
異変が起きた日からアリアは以前よりも笑うようになったとはいえ、その笑顔はどこか壁を感じて。余計、アリアが違う人のような錯覚を覚えていた。
笑い方以外にも、初めて知ったことがある。
『やっぱり首都には行きません。面倒になったので!』
誰かの為に自分の望みを諦められること。
『断るわ。貴方は私のタイプじゃないから』
震えていても、真っ直ぐ立ち向かえること。
『手出して』
大事にしていた物を誰かの為に手放せること。
『このクソ××!今、誰に手を出して…!!』
キオンの為に怒ってくれること。
痛い背中も全部吹き飛んでしまうほど――嬉しかったことも。
変わったことが沢山あり過ぎたけど、それでも不思議なことに、目の前に居るアリアは自分の妹だとすんなり受け入れられていたのは。
これから先どんな変化が起きたとしても、結局、キオンの答えは一つだったから。
アリアが大事な妹であることだけは、きっと一生変わることはないと、キオンはもう知っていた。




