幕間 いつか来る日
「エメル!こっちだ!」
「ちょ、ノア待って、うわぁあ!」
「はははは!」
エメルは今、泥まみれのまま、空を見上げていた。もちろん、好き好んでこんな格好になっているわけではない。
「はぁ……本当に勘弁してくれない?もう泥遊びするような年じゃないんだけど」
しかも、自分を泥まみれにした張本人は泥一つ付いてないから余計解せなかった。
不服なエメルを覗き込んだ、相棒のノアがニカッと笑う。
「たまにはこういうのもいいだろう!ほら、手を貸してやるから」
「ほんと仕方ないな……なんて言うわけないだろ」
ノアから差し伸べられた手をエメルは掴んで――思いっきり引き寄せた。
「おお!?」
べしゃっと、ノアが泥に突っ込んだ音が鳴る。それを見てようやくエメルの溜飲が下がった。
エメル・スコット七歳。
少し抜けているけど優しい父と、しっかり者の母の三人で暮らしている――平民だ。
決して裕福とは言えないけれど、毎日はそれなりに楽しくて満足している。
一つだけ不満があるとすれば、唯一の友人でもあるノアの奇想天外な行動に振り回されるくらいだ。
「それで?俺が泥まみれにされてまで見せたかった物って何なの?」
「ああ、そうだったな!」
自分も泥まみれになっているのに、ははは!とノアは楽しそうに笑う。そして大人の手のひら程ある大きな卵をずいっと、エメルの目の前へ差し出した。
「これを見てくれ」
「何これ?」
「卵だ!」
「それは見れば分かるよ。何の卵かって聞いてるの」
ため息混じりにエメルは尋ねた。大方、巣から落ちた鳥の卵辺りだろうと結論付ける。
しかし、エメルは忘れていたのだ。自分の友人は厄介事を持ち込む天才だということを。
「これはキングスネークの卵だ」
「…………何て?」
瞬間、エメルは自分の耳を疑った。いや、脳が事実を拒否したという方が正しい。
キングスネークといえば、体長一メートル程ある蛇の名前だ。子供なら余裕で丸呑みにされるのだと母から以前聞いたことがある。
「キングスネークの卵だ!」
「二回も言わなくていいから……」
やはり聞き間違いではなかったらしい。
頭が痛くなりそうなエメルに、ノアは更に爆弾を落とした。
「これを一緒に育てようと思うのだが」
「一応聞くけど誰と?」
「もちろんお前とに決まってるだろう。俺の相棒なのだから!」
「はぁ……」
このままでは蛇に食べられ生涯を終えることになりそうだと、エメルは遠い目をした。
――ガサッと茂みが揺れる。
「ノアまさかそれ、盗んで来たんじゃないよね!?」
「いいや。落ちてたから拾って来たんだ」
その言葉を、エメルは純粋に受け入れられなかった。茂みから大きなキングスネークが顔を出したからだ。もしかしなくても、卵を探しに来たのではないだろうか。
「エメル、アイツも一緒に育てよう!」
「この馬鹿!いいから早くそれを下に置け!置かないと今度こそ絶交だから!」
こんな状況でも変わらずのノアへ、エメルは叫んだ。今までも幾度となく絶交宣言はしていたが、今度こそ本気だとノアも分かったのだろう。渋々ながらも卵を下へ置いた。
エメルはノアの手を掴み、じりじりと後ろへ下がる。
「行けるよね」
「当然だ」
そしてノアと目を合わせたタイミングで、地面を蹴った。
「お前、絶対早死するタイプだよ」
本日二度目の空を見上げる。自分と同じく地面に寝転がり、楽しそうに声を上げるノアへエメルは呆れたように呟いた。
「俺は百歳まで生きる予定だ」
「魔法使いになるなら、百歳は難しいんじゃない?」
魔法使いは、他の職種や普通の人と比べて短命だと聞いたことがある。だから長生きするとしても精々、七十辺りが限界じゃないだろうか。
「いいや、俺達ならできるさ」
根拠もないのに自信満々に呟くノアに、エメルは笑った。この男なら本当にそれくらい生きそうだと。
「ていうか、俺も?つまりあと九十三年もお前の面倒を見なきゃいけないってことじゃん」
「そうだな!末永く頼むぞ!」
エメルはノアのように夢や目標は持ってない。
それでも、確かに幸せだった。
この男と未来を語るのは嫌いではなかったし、生涯隣に居ることになるのだろうと思っていた。
いつかお互いに大事な人ができて、結婚したとしても、この関係が変わることはないだろうという自信もあった。
そんな日常に異変が起きたのは九歳の頃だ。
ある日、父と母が出かけたきり二度と帰って来なかった。
「君を迎えに来た。一緒に行こう」
両親が死んだと聞かされショックを受けるエメルの前に現れた人は、父の弟だと名乗った。
その時に初めて、父が貴族だったことを知った。平民の母と結婚することを反対されていた父は、自ら家を出たのだと。
両親を突然失った悲嘆と混乱。見知らぬ叔父への警戒。そして、これからの不安。
全てを簡単に受け止められる程エメルは大人ではなかった。
だけど結局、エメルは自分を迎えに来た男に着いていくことにした。それしか選択肢もなかったし。
頷いたエメルに、叔父はすぐに出発する準備を始めた。僅かな持ち物を纏めながら、エメルはノアのことを思い出す。
「……ノアには落ち着いたら言えばいいか」
その選択を、エメルは後に後悔することとなる。
***
公爵家での暮らしは思っていたよりも大変で、だけど辛くはなかった。
マナーや貴族としての教養など覚えることが沢山あって、毎日が一瞬のように過ぎていく。
最初は慣れなかった勉強や、身支度を手伝われることにもいつしか慣れた。
「叔父様、少しお聞きしたいことがあるのですがお時間宜しいでしょうか?」
「ああ、大丈夫だ。それよりもエメル、そろそろ叔父様ではなくお父様と呼ぶのはどうだろうか」
「急かすのは良くないわあなた。エメル、無理をせず自分のペースでいいからね」
「……はい」
だけど一つだけ。両親とノアが居ない日常に慣れることは中々できなかった。
そのように一年が過ぎていき。ようやくエメルは外出することができた。
「ノア居る?」
真っ先にノアの家へ向かい、戸を叩く。しかし誰も出てくることはなかった。
やっとここまで来れたのに、不在だなんてタイミングが悪いとエメルは肩を落とす。
それでも、次はいつ来ることができるか分からないから可能な限り待つつもりだった。
「君、そこの家の子と知り合いかい?」
どれくらいの時間が経ったのか、エメルは声を掛けられて振り向いた。
「友達です。不在のようなので帰ってくるのを待っていました」
なるべく目立たない格好を選んできたが、それでも護衛を連れていれば目立つ。
怪しくないと伝えるために、声を掛けてきた老人へエメルは事情を説明した。
「……その子の母親は先月に亡くなってね。今は誰も住んでいないよ」
「…………え?」
まるで鈍器で殴られたような衝撃だった。理解できない……いや、理解するのを脳が拒んでいた。
「ノア、は……今どこに……」
ノアは母親と二人暮しだったはずだ。じゃあ、今は一体どうしているのか。
「さぁ、そこまではね」
「そうですか……ありがとうございました」
ぐらぐらと胃が揺れて気持ち悪い。何とかお礼を伝えたけど、足元が崩れたようにおぼつかなかった。
「エメルおかえり」
「お兄様、お帰りなさい!」
「会いたかった人には会えたかしら?」
温かな声に出迎えられて、エメルは顔を歪ませた。いつものように笑いたいのに、言葉が出てこない。
代わりに、熱い涙が頬を伝う。
「はは、」
何が友達、何が相棒だ。俺はノアが一番辛い時、側に居てやることもできなかった。なぜ、もっと早く会いに行かなかったのかと後悔ばかりが押し寄せる。
綺麗な家に、新しい家族。泥まみれになっていた以前と今では大違いだった。
「エメルどうしたんだ?何かあったのか?」
「……何でもありません、父上」
初めは慣れなかった呼び方も、今では慣れた。そしてきっと、この胸の痛みすらいつしか慣れて、消えていくのだろう。
そうして自分だけ幸せに生きていく。
そんなの、許せるはずがない。
本当の家族と、大事な友を失った自分に慣れたくなんてなかった。
「お兄様……」
アイリスが躊躇うように、エメルの名前を呼んだ。一昨日からずっと遠慮がちなアイリスに、エメルは苦笑う。理由は何となく分かっていた。公女と話した翌朝、アイリスの瞼が赤く腫れていたから。
「ごめんアイリス」
「なぜ、お兄様が謝られるのですか……?謝らなければいけないのは私の方で……っ」
「違うよ」
今にも泣きそうなアイリスの言葉を遮って、エメルは否定した。
「……ちゃんと向き合いたいけど、まだ心の整理がついていないんだ。だから、もう少し待っててくれる?」
エメルはアイリスと目を合わせて笑った。それはいつもの作った表情とは違う、ぎこちない笑顔だった。
『目の前にいる家族をちゃんと見てあげてください』
公女の声が頭の奥で響く。父上だけじゃない。血が繋がらない母上やアイリスも、初めからずっと俺へ向き合ってくれていた。
『どんな時間を一緒に過ごして、どんな言葉を積み重ね、どんな存在になったのか。私はそれがもっと大事なことだと思ってます』
三年の月日は決して短くはなかった。
交わした言葉だって数え切れない。自分にとってどんな存在になっていたかなんて、本当は全部分かっている。
『エメル、アイリス!』
父上が駆けつけてきて、抱きしめられた瞬間に感じた感情が何なのかも。
家族だと認めたくなかったのは自分の方だった。
両親とノアのことを忘れた日なんてない。大事な人達を失ったことを思い出す度に胸が痛み、後悔が押し寄せる。
……やっぱり今はまだ素直に認められる程、気持ちが追いついていないけど。
だけどもう、言い訳するのはやめて自分の心と向き合うことにした。
『たとえ血の繋がりがなくたって、お互いが〝そう〟思えるのなら、家族になれます』
いつかそう思えるように。




