File2 近所迷惑の怪:1
シャドウ――約四十年前に突如この世界に現れた異形。
現在でさえ存在も目的も謎に包まれたそれは、闇夜に現れては人間を襲い闇に紛れていく。
それを抑制、退治をしようと立ち上がるのが松陰珀十などの《Shadow-Crusader:シャドウクルセイダー》――研究の末によって生み出された《Brave-Ordnance:ブレイブオードナンス》を装備し、シャドウを消滅させることのできる数少ない逸材達。
彼等は、その身を削ろうともシャドウを滅しシャドウを前に立ちはだかっていた。
2042年5月3日土曜日――。
週末の風が吹く肌寒い昼下がり。
美しく清楚な佇まいで及川探偵事務所の階段を上がり扉の前に立つとコンコンとノックをして中へと入っていく学生服を着用した識黎嘉。
「おはようございまー……す」
元気よく挨拶をしようとしていた識黎嘉の目に映ったのは、事務所のソファーでうたた寝するだらしない着方をした黒シャツの珀十と、その膝を枕にして心地良く眠っている赤茶げた髪をした少女だった。
識黎嘉は目を丸くして驚愕していたが、その少女が可愛らしく誘われるようににじり寄っていく。
「か……かわわわわ…………!」
触りたい、けど……こんな可愛らしい子に触れてしまっていいのでしょうか。嗚呼、愛でたい……!
この子はどこの子なんでしょう? 珀十さんの妹さん? 親戚?
どちらにせよ、こんな可愛らしい子とまで繋がりがあるとは――珀十さんグッジョブです!
識黎嘉は勝手に触れてはいけないと屈んで寝顔を観察するだけにした。
自然とニヤけてしまうのを隠しもせず、上機嫌で見守る識黎嘉をいつの間にか起きていた珀十は不気味なものでも見るような目で見ていた。
「何してんだお前……」
「へ!? きゃっ!」
急に話しかけられて驚いた識黎嘉は後ろに転び、机に背中を打ってしまう。
痛がる様子で目を潤ませながら上目で珀十を見やる。
「いつつ……。
もう……起きてたんですか?」
「おい、今は起きてないからいいが、子供に不潔なもんを見せんなよ」
識黎嘉は転んで股が広がってしまい、スカートの中でストッキングの奥でチラリと見える白いレースの入った下着が見えていた。
暫くの硬直の後、指摘事項を速やかに直感すると、羞恥で顔を染めながら体勢を直し咄嗟にスカートを押さえる。
「……見ました?」
涙目で見られながら口籠った震える声で訊かれるが、珀十は気にせずに答える。
「白か。赤とかだったら引いたが、まぁうちで仕事するならそのくらいが丁度いいんじゃ――」
饒舌に説明を説かれる中、識黎嘉が涙目になりながらも無言で珀十の頬にビンタを飛ばす。珀十はそれを抵抗しなかった。
識黎嘉は殺気を垂れ流しにしながらアルバイトとしてお茶を入れテーブルの上に出す。
珀十の頬には識黎嘉の手の跡が赤くなっている。
珀十は、何を怒っているのか触れない方がいい殺気を放つ識黎嘉に対し居心地が悪くなっていた。
ソファーに座り視線を合わせないようにお茶を飲み干していく識黎嘉は、機嫌が悪いようで話しかけられる雰囲気ではないのだが。珀十は、それを気にしない。
「お前が勝手にしたんだろ。今回に関しては、俺に非はないと思うが?」
「わかってますけど……いつもはこんなことはないのに、何故あなたといるとこうなってしまうんでしょうか……!
不思議でならないので、何かされているのではないかと疑ってしまうのは仕方がないと思います」
「うへぇ~……冤罪だぁ、訴えてやる~」
冗談で言ったのは気付いているはずだが、識黎嘉の視線はより強くギロリと睨み付けるようにして向けられた。
「ン…………だれか来たの?」
騒がしかったのか珀十を膝枕にしていた少女が体を起こした。
垂れ目で目の下にほくろがあり、赤茶げた髪を後ろで括っているワンピースを着こなした少女。
寝起きだからか珀十にしなだれかかるようにして目を搔いていた。
また、その仕草が可愛く識黎嘉は、それまで怒っていた感情はどこへいったのか視線が少女の方へ串刺しになっていく。
「か、かわいすぎます……」
「こいつは、下のカフェの三ノ輪夫婦の娘で三ノ輪恋華っつーんだ。
妙に懐かれてな、偶にここで俺と一緒にうたた寝するんだよ」
「う、羨ましいです……」
「生まれた頃から面倒見てやってるからな。まっ、年期が違うってやつなんじゃねーか?」
「うぅぅ……初めてあなたを羨ましく思いました。正直、妬ましいので、場所を変わって下さい。わたしも仲良くなりたいです!」
識黎嘉が素直に悔しがっているので上機嫌になっていくものの、恋華に服の袖をクイクイと引っ張られるので振り向いた。
「ねぇお兄ちゃん、この人だぁれ?」
「お、お兄ちゃん……」
識黎嘉の琴線に触れたようで羨ましそうに目を輝かせて恋華を見ていた。
「俺が雇った社畜だ。恋華も扱き使っていいぞ」
「シャチク?」
「ハクトさん、子供に変なことを教えないでください!」
「冗談だって……」
もうビンタを食らうのが嫌だったので苦笑しながら訂正する。
「この人はアルバイトの佐伯識黎嘉だ。今週から一緒に働くことになったから、レンゲも教育してやってくれ」
「うん、わかった!」
「よろしくねレンゲちゃん」
「はじめまして、よろしくお願いします」
小学生の挨拶らしいお辞儀と言い回しに識黎嘉は名状しがたい喜びを感じるのだった。
俺たち、及川探偵事務所としての仕事は依頼が無い時は通常暇である。
疎らな客が入る下のカフェを羨ましく思ってしまうほど、依頼が来ていないか度々エイムに確認してしまうほど、だらけて二度寝でもしようかと思案してしまうほど、それはもう暇なのだ。
珀十は、識黎嘉が事務所内の掃除をしている中、恋華が帰っていったソファーの上で横になりそんな事を考えていた。
「ハクトさん、依頼が三日前以来一つも来てないなんて、こんな事ありますか!?」
「……なんだ、そのダジャレ、面白くないぞ。暇なのか?」
「…………暇です……! けど――ダジャレで言ったつもりはありません!
そもそも、こういう仕事ならばチラシなどの宣伝戦略をしないといけないと思いますが!?」
だらけた口調に冗談も混ぜられ、飽れるように説教ぽくなってしまう。
「まあ仕方ないだろ。依頼が無いってことは、困ってるやつがそれだけ少ないってことなんだから、それはそれでいいんじゃね?」
「違いはないですが、そんなのんきでいいんですか?」
「のんきにもならなくちゃやってらんねーんだよ。
そんなに暇なら、街の見回りにでも行くか?」
「――はい! そうしましょう!」
こいつも掃除するだけの毎日に飽きたってことだろう。見回りと聞いていきいきしやがって――まっ、バイトならそのくらいが丁度いいのかもな。
「んじゃま、行くぞぉ~」
力の抜けるような呼び掛けに識黎嘉は苦笑いしながら、はい、と返答した。
◇◇◇
東京都練馬区光ヶ丘の街を歩き始める二人。
識黎嘉は、事務所の中でいるより楽しそうに街並みに目をやりながら珀十の隣を歩いている。
「今日は、何処へ行くんですか?」
「……いや、特にこれといってはねぇな。
平日の内に結構回ったからな。シャドウも光ヶ丘だけに出るって訳じゃねえし、特に意味がある見回りじゃないよな」
「えぇぇ……事務所に依頼人が来たらどうするんですか!?」
「エイムが呼んでくれるし、もしかしたら掲示板の方に依頼が入るかもしれないからどっちでもいいと思うぞ」
珀十の適当さに呆れているのを、納得させるだけの理由があった。
それをこれでもかと得意気に話し始める珀十は抽象的に見て、子供を騙すペテン師のようだ。
「掲示板をやっているんですか? デコードで?」
「お前も見たんだろ、デコードのサイトを」
「あ~、あの他社の検索結果に埋め込んだサイトですか?
でも、あのサイトには掲示板なんてなかったような……?」
「お前は十八歳未満だったから掲示板の機能がオフになってたんだよ。ガキの悪戯にまで面倒を見てやれないからな。
十八歳未満は、お前みたいに事務所に直接出向いてくる奴だけデコードとして依頼を受けるんだ」
「結構考えているんですね」
「俺が考えたんじゃないけどな」
珀十は終始ぶっきらぼうに話を進めていたが、識黎嘉にとっては全てが初めてのことで目を輝かせて訊いていた。
二人の歩く様子が、まるで一組の恋人ではないかと思われるほどの視線を浴びているとは気付かずに。
暫くして腕に着けているブレスレット型コネクション端末が振動し、通知があるのを報せてきた。
二人は、ウェアラブル端末を操作し3D投影で掲示板の内容を表示する。どうやら掲示板に依頼が入ったようで、その内容が映し出されているようだ。
「依頼みたいですね。
団地密集地の真夜中の公園で騒音ですか……。管理人からの依頼みたいですけど、これ本当にデコードに来た依頼なんですか? どちらかといえば探偵事務所の方、もしくは警察にでも届け出るような内容と思いますが」
「よく見ろよバイト君、下の方まで行くと――『一度注意しに行こうとしたら真夜中に黒い野獣を見かけて外に出るのを断念しました。
また、近所の人に尋ねたところ確かに騒音はするけれど人影はなかったらしいのです』だとよ。
俺たち向きとは思わないか?」
「う……確かに…………」
珀十が挑発的な顔を近付けてくるので、悔しそうに震える識黎嘉。それを見てまたドヤ顔となる珀十。
「依頼内容は最後まで見てやんねーと失礼だし、ちょんとした意図を掴めなくなる。
まっ、俺が一緒に依頼をするうちはいいが、日頃から気を付けておけよ」
「はい……」
識黎嘉がいじけて俯くのを愉しげに微笑みながら「さっ、行くぞ」と移動を始めるのであった。