File1 少女を取り巻く陰影:5
宵の口に明かりが珀十が持参した前時代的懐中電灯だけとなった頃、それまで談笑していた三人の間を一方的に珀十が切った。
それに合わせ、エイムも映像投影を止めて消えていなくなる。
「出現するよ!」
「下がってろ。
――来るぞ」
正面を向いたまま下がり、構えに入る珀十の背中とその先を凝視する識黎嘉。
そして、それは確かに識黎嘉の目にも映った。現実なのか夢なのか、存在のはっきりしない異業種が昏く閉ざされた空間へと闇の中から這い出るように出現する様を。
体長はおよそ二メートル。四足歩行のようであり、また影が蠢く中で頭部に角のような突起物があることも判る。
興奮して二つ空いた穴から鼻息を荒くしており、赤い目は真っ直ぐに出口である廃ビルの開いたシャッターを阻む珀十を睨みつけている。
「ちっとデカいかもな。レベル1連れじゃあ面倒な相手なのは見て取れる」
(なら、こっちは太刀で対抗するわよ!)
エイムの声がイヤホンから聞こえ、珀十は笑いながら「ああ」と答えた。
(【影劉】を出現するわ!)
「レディ――…………」
腰を低くし、クラウチングスタートのように左脚を下げて俯く。
その構えは体術のような面を開けて受けるものではなく、
まるでこれから何も持っていない手で鞘から刀を抜刀するかのような構えだった。
明らかな戦闘態勢であるのと同時に珀十の気配は一層強くこれでもかというくらいの殺気を放っている。
それに怒りを表したシャドウは、バッファローの如き突撃を早送りしているような速さで珀十へと向かっていった。
「あれが――シャドウ……!」
「ファイ!」
一瞬強ばった珀十の脚の筋肉が狂人的に強化され、一足で凄まじい推進力を生み出す。
珀十が左腰から抜剣するように抜く仕草をする途中、珀十の手は光を放ち、何者も近寄らせない雰囲気を放つ黒刀を出現させた。
「〝影討ち 壱ノ型 衝影斬〟」
下から右斜めに切り上げるようにして斬る。
シャドウとの距離は開いており、当然のように刃の無い黒い太刀は空を切った。
しかし、その刃は黒い斬撃を飛ばし、シャドウの速さを凌駕するスピードでシャドウを襲う。
「何、あの黒い……刃?」
「ハクトは、お爺さんから習った技をほとんど習得しているの。あれはその一つ」
エイムが今度は識黎嘉のブレスレット型端末から出で、急に話し出していた。
「すごい……」
圧巻する識黎嘉の期待とは裏腹に無情に眺めるエイムの表情が形を成すように珀十が放った斬撃はシャドウの走る勢いを殺すだけで消滅には至らず。
「けど……シャドウはそう簡単な相手じゃないの。
無傷で帰る方がラッキーなくらい頑丈で、一時も集中を切らすことなんて許されない。
こんな戦いとは無縁な国であんな化物を相手にするちっぽけな存在は良くやっているとしか言いようがない」
「え……」
先程三人で談笑してた時とは言動が辛辣なのが気掛かりであったが、自分を守ると言ってくれた者から目を離すことなどしたくはなかった識黎嘉は視点を戻す。
珀十は、自分の技が効かないことに怯むのではなく、仄かに笑みを見せていた。
首を振っては直ぐに切り返し、今度は珀十を中心に囲うように走り出すシャドウ。
外見がバッファローに見えるそれは、あまりにも知的でらしくない行動に思える。しかし、珀十はそれに惑わされずに視線で追ったりはしなかった。
むしろ視界を閉ざすように瞼を閉じ、ただ太刀を肩より上へと構える。
「だけど、それはハクト以外の話……」
再び口を開くエイムも珀十の真似をするように瞼を閉じながら話している。まるで、珀十の仕草一つ一つを理解しているかのように。
識黎嘉は、その事に不思議と引き付けられ始め関心するようにエイムを見る。
「ハクトは、他とは違う。
常人離れした身体能力、類稀なる戦闘センス、高度な分析能力に常軌を逸した直感力を併せ持つ――唯一無二の対シャドウの天才よ」
闇の中に光るはシャドウの赤い眼のみであり、それは珀十を囲うように線となって繋がっていた。
その光が一瞬で軌道を変え、珀十の背中へと突進していく。
「ハクトさん!」
確実に背中を捉らわれたかに見え、識黎嘉の不安な叫びが響く。
だが、その不安を払うように珀十は一歩右に動くだけでシャドウの攻撃を避ける。
「……すごい…………」
「言ったでしょ。ハクトのスペックは遥かに高い。
あのくらいの攻撃なら目を瞑ってでも避けられる。
けれど――今はまだどっちも準備運動というところであまり見所はないわね」
腕を組みながら堂々と構え、冷静に状況を判断しているエイムを識黎嘉は感服していた。
やっぱり、この子……ただの人工知能じゃないみたい。
おそらくだけど――筋肉の動きやパターンも見ているとは思うけど、この子が見ているのはあの人自身。AIとしては有り得ない、特定の個人を真に信じる気持ちがあるように思える。
わたしの端末に容易にハッキングをしているところを見ると、わたしが探しているウェアラブルドライバーより高スペックなものみたい。そんなこの子をここまで信頼させられるあの人、本当にすごい人なんだ。
珀十は、まるで子供を相手にするようにシャドウの突進攻撃を紙一重で躱していく。
その表情にはもう先程のような笑みはなく、ただし苦しそうでもなく、どこか寂しそうなものであり識黎嘉にはエイムも同じような顔をしているように見えた。
違う、か……。
速く、されど流れるように今度は体を開き、太刀は右手一本で持って俯く。
「瞬き厳禁だよパイデカ女」
「……え、それ、わたしのことですか……?」
「これから見られるのは、人間ではありえない早業。もし裏の事が知りたいというのが本当なのなら、目を離すことは許さないわよ」
力が抜けているような構えであり、脚は肩幅より広く位置付けられる。
「「〝影討ち 参ノ型 神立〟」」
雷が落ちたような光と音が廃ビル中を包含する。
目を離したくなくても、その太刀筋は見ること敵わないくらいの蒼い雷撃によって阻まれる。
「今のって……雷? 電気が迸るみたいに……っ――!!?」
識黎嘉が視線をエイムに移すと、エイムは狂気的な笑みを浮かばせていた。
「――来た」
エイムの言葉があった後すぐに珀十の先から異様な風が吹きしきり、識黎嘉はスカートを押さえる。
「シャドウの中には、稀に特異個体がいる。
それの特徴としては、通常のシャドウが黒い靄に包まれているのに対し、特異個体は影の中から出てくるの。
そして、特異個体はいずれも通常より遥かに強い」
鈍い金属音が鳴り響く。
振り返ると、珀十が床をスライドしながら後退りしていた。
その先に見るシャドウは、まだ少し黒い靄を纏っていたが徐々にそれを剥がすようにして獣のような黒い毛皮に覆われた馬のような蹄を持つ手足と山羊のような顔をした異形が赤い目をより一層光らせていた。
(やっとまた出会えたね、珀十)
「ああ。本番でないのはガッカリだが、少しは本気が出せそうだ」
異様な空間、不気味な場所、この世界には不相応な化物。この場にいる事自体に畏怖するものなのだが、まるで逆のように感じていそうな二人の空気に立ち入れない何かがあるのではないかと識黎嘉は考えてしまう。
「あの――」
「――そんな顔はするな」
珀十は識黎嘉の方を一瞥もしていないはずが、識黎嘉がどんな顔をしているかが判ったようだった。
識黎嘉はそれを不気味とは思わず、単にすごい人なのだと認識した。と同時にそれから言おうとしていた言葉を飲み込んだ。
何を言おうかを決めていたわけではなく、ただ心配だったのだ。
「大丈夫だから」
その言葉の終わりを皮切りに珀十は再びシャドウへと向かっていく。
それに対応してかシャドウは鬼気とした雄叫びを放ちながら自身の懐へと向かい入れる。
シャドウは、珀十の太刀を腕で受けた。
それほどの痛みを感じないのかその目は徐々にニヤケ顔になっていく。
珀十はそれでも太刀を振り続けて攻撃を繰り返していく。
度々うるさいほどの金属音が鳴り響き、衝撃が廃ビルを軋ませる。
長引けば長引くほどに識黎嘉の顔が険しくなる。
「やっぱり、誰かを呼んできた方がいいんじゃ……。
わたし、ちょっと交番に!」
識黎嘉はバックを下ろし、出口へと駆ける。
「止まれッ!!」
その瞬間、覇気のある珀十の声が識黎嘉に向けられた。
識黎嘉は恐怖を感じて咄嗟に足を止める。
「それより離れてはダメよ、女。
今ここは、珀十の領域内。ここから出るとハクトはあんたを守れなくなってしまうわ。
それに、そこら辺の奴等に助けを求めても意味なんかない。無駄な事をするところだったわよ」
「……わたしは、ただの役立たずなのですね」
識黎嘉は俯き、現実を思い知る。自分ではどうにもできない事なんだと、何もできることなどないのだと。
「勘違いしないで。
珀十は今、準備運動をしているだけなのよ」
「え……」
「特異個体でないともうアレの相手はできないから少し浮かれてしまっているけれど、今のあんたの行動でやる気になったみたいよ」
二人が視る視線の先で珀十の雰囲気から気配まで全てが様変わりしていた。
それは、どこかシャドウと同じようなもののように思えてならなく、識黎嘉は目の前の存在二つを畏怖してしまっていた。
強膜が黒く、瞳は赤く、その表情はどこか楽し気な不敵な笑みが。
足下から立ち上るように激しく蠢くシャドウを包んでいた黒い靄と同じようなものが珀十の体を覆わんとしており、一層凄みが増していた。
「もう遊びは終わりだな。少し残念だが――面倒なのも嫌なんだよ」
識黎嘉が気付くと絶句していたのを、エイムはこんなものかと諦めるような溜息をつく。
「〝影討ち 参ノ型 神立〟」
さっきと同じ技。
これは、珀十の意地という訳ではなく、同じ技でも十分事足りるだろうと思っただけだった。
その証拠に先程のような速度はなく、ただ威力に任せたような気概があった。
相手も自分の防御力に自信があるのか受け身の構え。
雷を纏う太刀が振り下ろされていく。
それは、シャドウの防御姿勢に阻まれることなく眩い光の中で軽く一刀両断した。
光が止むと、シャドウが立っていた場所に焦げ跡と共にブレスレット型コネクション端末が落ちてあった。