File1 少女を取り巻く陰影:3
バイクは近くの駐輪場に止め、とある廃ビルへと行きついた。
シャドウの出没時間は夜。空は曇りで暗くなり始めているが、まだ昼を回ったくらいでシャドウが出現するような時間帯ではない。
珀十も廃ビルの中を適当に見回しながら歩くが、それといった反応はなく少し残念そうな表情をしている。
しかし、意外ではなかったのだろうが、女性とこういう場に来るということがなかった為に珀十にとっては不思議でならないことがあった。
識黎嘉が暗い廃ビルの中で珀十の服の袖を掴んで離れない事だ。
「おい、どうしたんだよお前。
まさか、怖いとか言うんじゃねえだろうな?」
「な!? ま、まさか! 怖い訳ありません?」
口から出るのは強がる言葉だったが、挙動が不安定な上に震える手は未だ珀十の袖をしっかり掴んでいる。
「……なんで疑問形なんだ?
ったく、怖いなら外で待ってろよ」
「ですが、ここにウェアラブルドライバーがあるかもしれないんですよね?
だったら、悪用される前にわたしの手に収めた方がいいと思う訳なんです!」
「だがなぁ……お前が震えてると、俺の腕が痒くてしょうがないんだよ」
「す、すみません……」
しゅんと縮こまり、服の袖から指を離す様子があまりにも可哀想に見えてしまった珀十は脳内の葛藤の中、妥協した。
「ああ! 分かったよ!
付いてきていいし、服でも何でも掴んでていいから!」
「え、いいんですか?」
「そう言ったろ」
「でも、いま痒いって…………」
「うるせぇ、依頼人を世話すんのも一応俺の役目だ」
「……案外優しんですね」
「そんかし、依頼料は一ミリたりとも割引しないからな」
ありがとうございます、と喜び混じりに呟くような声があり、識黎嘉は再び珀十の服の袖を掴んだ。
廃ビルは、妙な冷たい空気と石の匂いが充満しているようだった。
既に廃ビルとなってから何年か経っているのか、整備がされている様子もなく、所々に亀裂が見て取れる。
この辺りは大通りから路地に入った所だが、普通なら取り壊して別の建物を建てるか再利用をするはず。それを踏まえ、シャドウを含めてきな臭い場所だった。
「匂いはここで途切れている。
つまりは、ここで影の中に潜ったって所だろうな。
消滅したような形跡もないし、いずれにしても近い内にここに逃げたシャドウがまた出てきた時には何とかしないとな」
珀十は、ジャケットのポケットから取り出したチップを目の前の地面へと放る。
「あ、ダメですよ。ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てないと」
「ゴミと一緒にすんな。
こいつは、一種のシャドウ検知装置だ。
ここで異変があれば、うちのAIが報せてくれるっつー流れになってる。
勿論、ここの一件が片付いたら回収しにくるさ。捨てるなんて勿体なさすぎるからな」
「……へぇ……捜査にはそういう色んな技術を取り入れているんですね」
「まっ、これ以上は企業秘密だけどな。
――んじゃま、とりあえずここは後回しだ。もしかしたらシャドウに関係なく落とし物で交番辺りに届けられてる可能性もあるし、別んとこ行くぞ」
何か誤魔化したような、とも思ったが企業秘密というからには追及できず、早くここから出たいという想いもあり退散するのを付いて行くのだった。
◇◇◇
探偵事務所の通りから薄暗い路地へと入ったすぐの場所に小さいスナックがあった。まだ昼だからか明かりの灯っていない小さな看板が入口近くに建てられている。
少々レトロな雰囲気を醸し出しているだけに思われるが、珀十と識黎嘉が中へ入るとその思い込みが一転した。
「いらっしゃ~い」
歓迎したのは髭の濃いガタイのいい男、かと思われたが、格好は煽情的な女性のようであり、
所謂オカマというものなのだと識黎嘉は直感して背筋が凍えるような感じがした。
「よっ、剛」
「うげぇ……及川んとこのガキかよ。
つぅーかぁ、ツヨシって呼ぶなっつてんでしょぅがッ!!」
「おーそうだったかー?」
眼圧の強いオカマには慣れているようであり、珀十はオカマの肩を叩いて中へと入っていく。
識黎嘉も入口に留まるのには抵抗があり、苦笑しながら珀十の背中を離れまいと続く。
バーテンダーのような格好をした者もオカマのようだが、先程のオカマとは雰囲気が大人びていて温厚な微笑みをしていた。
そのバーテンダーに向かい合うようにして席に着くと、識黎嘉は珀十の隣に腰を下ろして早口で耳打ちする。
「あの、ここはどんな所なんでしょうか。ちょっとわたし達が入るには早いような場所に見受けられるのですが」
気後れしているような表情をする彼女に珀十は悪戯な笑みと共に説明を加える。
「大丈夫だ。この人はちゃんとこっちの事情も承知しているし、学生に酒を出すようなことはしねえよ。
それに、こいつらの常連も来るのは夜が更けてから。まだ面倒そうな客も顔を見せないからそう身構えることもない」
「いえ、そういうことではなく……」
「ガキが彼女連れとはいい気になったもんだな」
剛が不貞腐れたように睨み付けるのをバーテンダーのオカマは、注意を促した。
「やめなさいパール。腐ってもこの子だってお客よ。
それより、今の内に夜のお客様用の仕込みを終われせておきなさい」
パール!?
あからさまな驚きを見せる識黎嘉。
「……了解でぇーす」
剛が裏に消えていくのを見送ると、グラスを拭きながら本題へと入る。
「腐ってるとは挨拶だな」
「それで? 今日は何の情報が欲しいのかしら?」
「情報、ですか?」
「ああ、この人は情報屋だ。こんな身なりをしていてもな」
「余計なことを言うところは相変わらずね。
エンジェル咲よ、よろしくお嬢ちゃん」
美形の男性が女装しているようであり、ウインクに違和感を感じないものの背筋に何か走るような感覚があるのは変わらなかった。
「え、エンジェル……」
「芸名みたいなもんだ、あまり気にしてあげるな。
逆に、本名で呼ぶと切れる奴が多いから弄る奴は選ばねえとな」
「パールもあれで頑張っているんだから、あまり弄ってあげないで欲しいわ」
「悪いな。面白いことには、つい手が出ちまう。
それより、今回はちょっと探し物でな。裏にウェアラブルドライバーなんて出回ってないよな?」
エンジェル咲は一時言葉を失ったようにグラスを拭く手を止めたが、抜けるような息を吐いて微笑む。
「そんな物が出回った時には、騒がしくなる上に警戒する者がそこら中で対策を講じるんじゃないかしら」
「まっ、だろうな。だが、一応な。
あ、俺とこいつにオレンジジュース、氷マシマシで」
「りょーかい」
振り返り、頼んだ飲み物の用意を始める。
それを見て、識黎嘉が話す間ができたとして珀十に話し掛けた。
「わたしのも頂いていいんですか?」
「ここに来たら基本的に何かは頼むんだ。
今回は明確な情報を貰う訳じゃないからな、ジュース代くらいで勘弁してもらうんだよ」
「……では、わたしの分はわたしで払います」
「こいつへの情報料代わりだから気にすんな」
「それなら尚更わたしの分は自分で払わなくてはならないと思います。
今訊いていたのはわたしの依頼の情報でしょう」
「いいって。ここを選んだのは俺だし、お前を連れ込んじまったようなもんだからな」
「いえ、それでもです! こういうのはきちんとしないといけないと思います!」
「だから、俺は依頼料にケチ付けたくねーの。ここでお前に支払わせたら不正になっちまうじゃねえか」
強情に了承しない識黎嘉は席を立ち、一方的に叱咤する。
それを珀十はまた呆れるように返した。
こいつ、なんでこんなにしたたかっつーか面倒なくらい強情なんだ?
「それなら、わたしにとってこれは不正です! わたしに払わせて下さい!」
「ったく、お前ってホント強情なガキだよな」
「が、ガキ……」
「あなた達って仲がいいのね」
二人の会話が聞こえてエンジェル咲が含み笑いをしていた。
その言葉には珀十も物申したいようでエンジェル咲を睨み付ける。
「あぁ? これのどこを見てそんな言葉が出てくるんだ?」
「わたしとしても、こんな失礼な人と仲がいいとか言われるのは嬉しくありません!」
「……今回は無料でいいわよ。結局、何も情報は上げられなかったから」
「は!? そしたら、こっちが貰うだけじゃないか、不公平だぞ?」
「ハクト、もう少しその子に優しくしてあげなさい。もう子供じゃないんだから」
いつしか、叔母さんに言われた言葉を思い出した。
あの時もこんな風に「珀十、お前はもう子供ではないだろう」と。
意味合いは違ったが、今少しあの時の事を思い出してしまった。
……今、俺が事務所も仕事も任せられているんだ。こんな事ではいけない。
「――良かったな。将史が奢ってくれるってよ」
「マサシじゃねぇっての!!」
将史が様変わりした男の風貌で威圧する。
そこには、先程までの優しいエンジェル咲はいなかった。
しかし、珀十はふてぶてしくもその形相をする将史を前に不敵に笑ってみせた。