case01 / sideB ある事務所の一幕
『あっち』とは別の場所で行われた『こっち』の話。
『あっち』を読まなくても理解できる内容にしたつもりですが、『あちら』も読まれると二度美味しいかもしれません。
相変わらずですが、ほぼ会話のみで話が進みます。
※作中において蔑称と思われる言葉がありますが、作品の表現の為に必要だったと御理解下さい。
※2021/7/9 ジャンルを『恋愛(現実世界)』⇒『ヒューマンドラマ』に変更しました。
アルバイトの子が来客を告げる。
時計を見れば、約束の時間まではまだ三十分程ある。
―― 相手の都合を考えないタイプの人間かぁ ――
こういう時、嬉しくない予想ほどよく当たってしまうものだ。
小さく溜息を吐き、封筒を手に持つと応接室の椅子から腰を上げる。
対面に座っていた女性がつられて立ち上がろうとするが、片手を上げてそれを押しとどめる。
人差し指を口に当て、『静かにしていて』と身振りで伝え、彼女が頷いたのを見てから、隣の応接室へ移動する。
彼女と待機していた応接室と違って、薄いパーテーション一枚隔てたこちらの応接室は、上半分が透明な壁で囲われており、事務所の人間から中が伺える造りになっていた。
「本日は御足労頂きまして有難う御座います」
先に部屋の住人となっていた人物にそう声をかけながら扉を閉める。
振り返って見れば、一組の男女が立ち上がる事も無くこちらを見ていた。
二対の視線を感じながら椅子へと腰掛け、封筒をテーブルに置く。
改めて目の前の男女を見れば、女性の方は随分と年上に見える。
―― 『ピーナッツ』、か……。話になると良いなぁ ――
元から晴れていなかった心に、一気に暗雲が立ち込める。
「早速ですが――」
「あの女はどこですか!」
話を始めようとした私の声を遮って、年代物のスチームアイロンから湯気が噴き出す。
「あの女、とは?」
「決まってるでしょう、家の嫁の事よ! ここに居るんでしょう!?」
そう言うと、透明な壁越しに事務所の中を不躾な視線で見渡す。
「全く、たかが浮気の一つや二つで家をほったらかしにした挙句、こんな所まで人を呼び出して何様のつもりかしら」
―― やっぱそっち系だったかぁ ――
げんなりする私の心情を慮る事無く、スチームアイロンは尚も湯気を噴き続ける。
―― 安全装置は……元からついて無いか、ポンコツだもんね ――
「ですから、早くあの女を出しなさいと言っているんです。全く、うちの嫁として恥ずかしくない様にまた躾け――」
「そこまでです」
無限の水タンクをもつアイロンの湯気を、片手を上げて制する。
「まず確認させて頂きますが、貴女はどなたですか?」
そこまで言ってから、先程から一言も声を発しない男に視線を向ける。
「本日は、私の依頼人である『林小幸』さんと、その配偶者である『林正人』さんのお話をする為にお招きしているのですが、何故貴女がこの場にいらっしゃるのですか?」
「私は正人の母親です!」
「ですから、なぜ小幸さんと正人さんの話し合いの場であるここに、他人である貴女が居るのですか?」
「他人とはなんですか! 私は正人の母親であの女は正人の嫁です! 息子夫婦の話なら、母親の私が居るのも当然じゃありませんか!」
「母親と言っても、小幸さんと正人さんの婚姻によってそうなっただけですからね、あくまで『義理』の母親ですよ」
「義理でもなんでも、母親は母親でしょう!」
「違いますよ。貴女は小幸さんにとって、正人さんとの婚姻関係にくっついてきたおまけでしかないんですよ。言わば、『義理』で『仕方なく』家族関係となった存在にすぎません。法律的には、小幸さんには貴女の介護義務も扶養義務もないんですよ」
「し、仕方なく!?」
「ええ、『仕方なく』です。まぁ、良好な関係が築けていれば、当人の意思によって扶養、介護も吝かではありませんが」
―― そんなものは1pgも無いだろうけどね ――
「わ、私はあの娘を実の娘だと思って――」
「貴女は御自分の娘から貯金を取り上げたり、付き飛ばしたりするんですか?」
「そ、そりゃあ、躾としてはちょっとだけ厳しかったかもしれないけれど、あの娘は我が家に嫁に来たのだから、それに恥ずかしくない様にと――」
「勘違い為されているようですが、小幸さんは貴女の家族に嫁として『入った』のではありませんよ。正人さんと、新しい家族を『作った』のです。戸籍を見れば一目瞭然です」
―― 『実の娘だと思って』&『嫁に来たのだから』頂きました~ ――
「で、でも――」
尚も言い募ろうとするアイロンを手で制して湯気を止める。
―― 大体さ、『嫁に来た』って言うのならお前もそうだろうが ――
「いい加減黙って頂けますか? 先程も言いましたように、本日は正人さんとお話をする為にこの場を設けているのです。先程言った貴女の件については後日改めてと思って居ましたが、付いて来てしまったのなら仕方ありません。ですが、それも後程のお話です」
「なっ――」
「この場において、貴女は招かれざる客である事を御理解下さい。そして、理解されたのならその口を閉じて頂けますか?」
「あ、貴女は誰に向かってそんな口を!」
「貴女ですよ、貴女に向かって言っています。この場は小幸さんと正人さんが話し合う為の場であり、私は小幸さんの代理人です。この場に居る資格の無い貴女は、黙るか、自分の足で退去するか、不退去で警察を呼ばれるかお好きな物を選びなさい」
「け、警察を呼ぶだなんてそんな事が……」
「大袈裟でも冗談でもありません。貴女こそ、ここが何処で、誰の前で話をしているか理解していますか? もう一度言います。貴女は、黙るか、御自分の足で退去するか選択して下さい。どちらも拒絶されるなら、不退去罪の現行犯として警察にお持ち帰り頂く事になりますよ」
「――ッ!」
私の言葉と視線に、ようやくアイロンの電源が落ちる。椅子に座り直したところを見ると、黙る事を選択したようだ。
「それで、林正人さ――」
「小幸は、小幸はここにいるんですか?」
漸く話が始められると思った私の言葉を遮り、林さんが口を開く。
―― 人に話をさせないのは遺伝だったのか ――
これから何度吐く事になるかわからない溜息をまずは一つ。
「申し遅れましたが、この度『林 小幸』さんに御依頼頂きまして、この件を担当します『山内 遥』と申します」
そう言って名刺を男へ差し出す。
「次に、小幸さんには現在別の場所に待機して頂いています。お話を進めさせて頂いて宜しいですか? 私は小幸さんに全権を委任された任意代理人として、彼女の意志を確認した上でこの場に居ます。法的にも何の問題もありません」
「……」
男が黙り込み、漸く話を進める事が出来る
「まず結論から申し上げますが、小幸さんは貴方との離婚を希望されています。理由はお解りですね?」
「離婚だなんてそんな大げさな……ちょっとした火遊びじゃないですか」
「先程も言いました通り、私は小幸さんの意志を確認した上でこのお話をしています。彼女は間違いなく貴方との離婚を希望されています。それと――」
男を見る目が険しくなるのが自分でもわかる。
「『火遊び』などと称して言葉を軽くするのは止めて頂けますか? 貴方がやったのはただの不倫です。これは立派な離婚事由になりますよ」
「いやでも……ほ、本気じゃなかったんです! ちょっとした、軽いお遊びだったんです。私は妻を、小幸を愛しています! そ、それにほら! 男の火遊びは甲斐性だと昔から言うじゃないですか! あいつは私が養ってやってるんだ、その程度大目に見てくれても良いじゃないですか!」
「貴方がどう思っていようが、世間でも法律でも、貴方がやったのはただの不倫です。納得して頂く必要はありませんが、理解はして下さい。また、御自身の貞操観念の欠落を甲斐性などと称するのは止めて頂けますか? 世の男性諸兄に対して極めて失礼です。また、不倫に男女も大小もありませんよ、程度があるとしたら、悪質な不倫か、より悪質な不倫か、ただそれだけです」
再び男が黙り込む。
―― そのまま最後まで静かにしていてね ――
「それから、貴方の不貞行為が長期に渡って繰り返し行われていた事は既に調査済です。時間の無駄ですので、言い訳等は結構です」
そう言って、テーブルの上の封筒から紙の束を取り出し、そのうち一束を男に渡す。
そこには、ここ一ヶ月にわたる調査の結果得られた彼の不貞の記録が克明に記されていた。
「そちらは文字のみの報告書になっていますが、写真や音声、映像の物的証拠もありますので御承知おき下さいね」
そう言われて、男はただ項垂れるしかない。
「まず不倫をあげましたが、小幸さんが離婚を希望された理由はまだありますよ」
「は?」
思いもよらない事を言われたようで、男が間の抜けた声と顔をあげる。
―― 何故そこで驚く ――
「何に驚かれているかわかりませんが、まさか今回の不倫だけが離婚理由だと思われていたのですか?」
「いやだって……それ以外に理由なんて……」
溜息が漏れる。
「でしたら、それを今から御説明致しますので、最後まで聞いてくださいね」
そう言って、テーブルに置いた報告書を捲る。
「まず、貴方は夫婦の間に子供が出来ない事で日常的に小幸さんを責めていましたね?」
「それは……」
「ちなみに、小幸さんからは繰り返し病院で検査する事を勧められていたとの事ですが、何故検査を受けなかったのです?」
「そ、それは……必要無いからですよ!」
「何故必要無いと言い切れるのですか? ちなみに、小幸さんは検査の結果異常無しとの診断が出ています」
「だ、だとしても、妊娠するのは女ですから、問題は女の方に有るに決まってるじゃないですか!」
「正人さん、まともな畑が有っても、蒔く種が腐っていたら芽は出ないんですよ」
「なっ! どういう意味だ!」
―― お前が種なしって事だよ、言わせんな恥ずかしい ――
「まさか貴女! うちの正人が悪いとでも言うつもり!? 跡継ぎも産めない石女を嫁に貰ってあげた恩も忘れて!」
―― このポンコツアイロンは誰に断って勝手に電源入ってますかね ――
「検査を拒否されていたので正人さんに異常があるかは存じませんが、少なくとも客観的に見て小幸さんに悪い点は見当たりませんでしたね。それよりも、先程黙っているように言われたのをお忘れですか? 次に許可なく口を出すようであれば、その時は警察を呼びますのでそのおつもりでどうぞ」
「くっ!」
―― BBAのくっころとか誰得だよ。大体アンタの旦那もリーマンじゃない。何が『跡継ぎ』なんだか ――
顔を真っ赤にして黙り込むアイロンは放置して、男と話を続ける事にする。
「貴方は、謂れの無い理由で、日常的に小幸さんを責め続けた。これは立派なDVですよ」
「DVって……別に暴力を振るった訳でも無いのに……」
「肉体的な物だけが暴力ではありません。『言葉の暴力』を御存じありませんか? 裁判でもDVと認められている離婚事由ですよ」
「さ、裁判!?」
「まぁ、裁判になるかは今後のお話合い次第というところですが……話を続けさせて頂きますね」
「ま、まだあるんですか!」
「御覧になっている報告書の厚さでお察し下さい。それでは話を続けます」
報告書を捲り、次なる話へと移る。
「正人さん。ここ数年、貴方は家にまともに生活費も入れていませんね? そのせいで、小幸さんは結婚前に蓄えられていた御自身の貯金を切り崩して生活する事を余儀なくされています。当然、この生活費の中には貴方のお母様の食費等も含まれていますよ」
「わ、私の稼いだ金をどう使おうが私の勝手でしょう! 大体夫婦になったのだから生活費だって折半すれば良いでしょう!」
「結婚前ならその理屈も通るでしょうが、婚姻したのなら貴方のお給料は夫婦の共有財産ですよ。貴方個人が好き勝手に使って良いものではありません。まして貴方は小幸さんに外で働くことを禁止してお母様の世話を命じていたそうではないですか」
「なっ、なら私は、自分で稼いだ金も使う事も出来ないのですか! そんな不公平が罷り通るんですか!」
「『使うな』と言っているのではありません。使うなら『夫婦で決めなさい』と言っているんです。大体貴方――」
隣のアイロンと同じく、顔を真っ赤にしている男を、ことさら軽蔑したように見やる。
「先程、『養ってやってる』と言われましたが、養って無いじゃないですか。、むしろ小幸さんが養ってますよね? それになんですか、甲斐性がどうのと言っていましたが、嫁に良い暮らしさせてやるのは旦那の甲斐性じゃないんですか? 今の話だと、貴方は立派な甲斐性なしで経済DVの加害者ですよ」
―― なんか反論してみなさいよ。倍返しにしてやる ――
そう待ち構えるが、顔を真っ赤にした男はぐうの音も出ないらしい。
―― とりあえずこっちはこんなもんかなぁ ――
改めてアイロンに向かい直す。
「そろそろ喋りたい頃だと思いますので、今度は貴女のお話をしましょうか」
「な、なによ……」
―― 第二ラウンド開始といきますか ――
「貴女は、小幸さんに対して日常的に暴力を振るわれていましたね?」
「ぼ、暴力だなんて大袈裟だわ! 私はただ、一日も早く林家の嫁に相応しくなれるように、心を鬼にして、躾の一環として」
「そうですよ! 母は小幸を実の娘のように思っているからこそ――」
「貴女達は自分の娘の作った料理を不味いと言って捨てるのですか? 実の娘を故も無く凶器で殴ったりするのですか?」
愚者共の不愉快な戯言を遮って言葉を挟む。
「凶器だなんて言い方しなくても……確かに叩いた事はあるけれど、精々箒や蠅叩き程度の物で……」
「掃除道具だろうが料理道具だろうが、人を傷つける為に使われたなら、それは凶器なんですよ。それに、彼女の体には暴力の痕がしっかりと残っていましたよ」
そう言って報告書を捲り、診断書の項を示す。
「暴力による肉体的損傷、併せて日常的な虐待によるPTSDの発症、どちらもお医者様の診断書を取っています。おわかりですか? これは傷害罪として出るところに出ても良い案件なんですよ」
「私だって悪気が有ってやった訳じゃないのよ! それなのに傷害罪だとか、人聞きの悪い事を言わないで頂戴!」
「『悪気が無ければ』何をしても良いと思っているんですか? 貴女は御自身が暴力をふるわれても、金銭を盗まれても『悪気は無かった』と言われたら納得するんですか? そもそも悪気が無ければ何をしても良い訳ではありませんが、悪気が無かったと言われるなら過失致傷ですね。どちらにしろ刑事罰が適用されます」
「そんな……」
今更ながら自分の置かれた状況を理解したのか、真っ赤だった顔が青く変わる。
―― 歩行者信号かな? ――
「まだありますよね?」
そう言って報告書を捲る私の言葉に、母親は体を震わせる。
「小幸さんの御両親は、亡くなる際に小幸さんに少なくない額の遺産を残されています」
言葉を切り母親を見詰める。彼女は顔を逸らし、私と目を合せようともしない。
「貴女は、その口座の預金通帳と銀行印を、小幸さんから取り上げていますね?」
「取り上げたなんて言い方は……あ、あれはそう! 小幸さんから預かったのよ! 若い女の子が大金を持っていても良い事が無いでしょう? 彼女の為を思って、私が責任をもって預かっているだけです!」
―― 預かる、ねぇ ――
「そうですか、そう言われるなら、一旦そういう事にしておきましょうか」
そう言った私の言葉に、胸をなでおろすスチームアイロン。
「ですが、ちょっと気になる事があるんですよね」
「な、何が気になるんですか……」
再び挙動不審となるポンコツアイロン。
「貴女は、ここ数年随分と羽振りが良いみたいですね。旅行に行ったり、お友達にお高いランチをご馳走したり、貴女のお友達が随分持ち上げていましたよ」
「そ、それ程でも……」
「そのお金は一体どこから出て来たんでしょうね。差し支えなければ教えて頂けませんか?」
「そ、それは……」
殊更大きなため息が漏れる。
「小幸さんから『預かった』と言っていた御両親の遺産、ですよね?」
「そ、それは……」
「今更とぼけても無駄ですよ。貴女が小幸さんの通帳と印鑑を持って銀行の窓口でお金を引き出しているのは確認済です。銀行の防犯カメラにも貴女の姿が映っていましたよ」
「……」
「先程貴女は、彼女から『預かった』と言われましたが、その『預かった』、つまり、自己の占有する他人の物を勝手に使う事を何と言うか御存じですか?」
黙り込んだままのアイロンを見詰め、はっきりと言ってあげる。
「『横領』って言うんですよ」
「お、横領?」
「はい、横領罪と言う立派な刑事犯罪ですね」
―― 犯罪でも『立派』とはこれ如何に ――
「あの女は正人と結婚したんですよ!? あの子のお金は夫婦のお金の筈でしょう!? 息子のお金を母親が使ったからって横領だなんて!」
―― 横領なんて横暴だYO! ってか? ――
「先程も言いましたが、小幸さんの結婚前の貯金や御両親から受け継いだ遺産に関しては、彼女個人の財産であって共有財産とはなりません。それに、夫婦のお金だったとしても、その親族が勝手に使って良い訳ではありませんよ」
納得出来ないといった表情のポンコツアイロンだが、その心情を慮る必要などこれっぽっちもないので話を続ける。
「そもそも、貴女が小幸さんの固有財産を占有するに至った経緯についても、『窃盗』や『恐喝』所謂『かつあげ』ですね。それらに相当する疑いがあります」
―― 情報量過多かなぁ、その頭で理解出来るかなぁ ――
「そう言った訳でですね、あなた方が今まで小幸さんにされてきた事は、れっきとした犯罪なのがお解かり頂けたかと思います」
報告書を机の上でトントンしながら総括に入る。
「そのうえで、小幸さんとしては示談に応じる事も吝かでは無いと言われています」
「示談?」
「はい。そしてこれが、示談の内容ですね」
そう言って、封筒の中から新たに紙を一枚取り出し二人に提示する。
・不貞による夫有責での離婚に伴う慰謝料の支払い
・夫による、不妊に関する暴言等による精神的苦痛に対する慰謝料の支払い
・夫婦及び義母の生活費として捻出した貯金の返還
・義母による暴力で受けた肉体的損失に対する慰謝料の支払い
・義母による虐待で受けた精神的苦痛に対する慰謝料の支払い
・横領した金銭の返還
・その他諸々
示談金の金額及びその内訳、その他接近禁止等の条件を盛り込んだその内容に、母子がそろって絶句する。
「こ、こんな金額、ぼったくりだ! 認められるわけがない!」
「極めて適正な金額ですよ。それが嫌なら裁判にしますか? 慰謝料の部分は減額できると思いますよ? 尤も、こちらが負ける要素は何一つありませんから、幾許かの減額と引き換えに、あなた方に犯罪歴が付くだけだと思いますが」
余裕綽々と言った表情で教えてあげる。
「それと、裁判記録が残りますね。ちなみに、裁判記録は日本国民であればだれでも閲覧可能ですよ」
つまり、望めば誰もが二人が犯罪者である事を確認できるのだと、暗に告げる。
「だからと言って、この金額を一括でなどと、とても用意できる額じゃない!」
「そうよ、せめて分割で――」
「あ、一括以外は認めていません。下手に分割にして逃げられると面倒ですので」
「は? 我々がそんなに信用できないと言うのか!」
「信用できる要素が有れば逆に教えて頂きたいですね」
「そ、そうだ! 小幸と直接話をさせてくれ!」
「そうよ! 直接話せばあの娘もきっとわかってくれるわ!」
―― 私にはあなた方がわかりませんが? ――
「無用です。小幸さんをあなた方に会わせる必要はありません」
「何故だ!」
「そもそも何故小幸さんと会えると思うのです? 彼女があなた方と会いたくないから、態々私が代理人としてこの場に居るのですよ?」
「だから、なんであの娘は私達と会いたくないなんて言ってるのよ!」
―― 理解してないのか理解したくないのかどっちかしらね ――
「今まで散々御説明したと思いますが? 何処の世界に好き好んで犯罪加害者に会いたがる被害者が居るんですか。あなた方の存在は、小幸さんにとって非常に強いストレスの元なんですよ。それこそ体調を崩す位の。私は彼女の代理人として、彼女の心身の安全を図る義務がありこの場に居るのです」
「す、ストレス? 我々がストレスだと!?」
「これだから親無し子は!」
―― おいこら今なんて言った? ――
「そ、そうだ! 親の居ない、帰る場所も無いあいつを嫁に貰ってやったのは誰だと思ってるんだ!」
「親無し子を貰ってあげた恩も忘れて私達からお金を巻き上げようとするなんて、とんだ守銭奴だわ!」
「大体俺と離婚してどうするって言うんだ、帰る場所なんてどこにもないくせに!」
「黙りなさい!!!」
―― 思わず大声出しちゃったなぁ ――
私の声に場が静まる。
事務所の人も、何事かとこちらを覗き込んでいるようだ。
「あなた方は、まだ御自分の置かれている状況を理解されていないのですか? それ以上暴言を繰り返すなら、この示談内容に侮辱罪を追加する事になりますよ」
「なっ!」
「それと、あなた方は今、小幸さんに帰る場所も無いと言われましたね」
「そ、それがどうした」
「確かに彼女は両親を亡くされ、御実家も売却済ですから、帰る場所がないと言えるかもしれません」
「そ、そうだろう。いまや小幸の帰って来れられる場所はウチだけだ」
「でもね、今の小幸さんに帰る場所は無いかも知れませんが――」
―――― 行く所なら幾らでもあるんですよ ――――
「は?」
「理解出来ませんか? 帰る場所など無くても、彼女は立派な大人の人間です。御自分の生きる場所など自分で幾らでも決められるんですよ」
「そ、それは……」
「あなた方という『枷』さえ無ければ、彼女は何処にだって行けるんです。あなた方に少しでも良心というものがあるのなら、もう彼女を解放してあげて頂けませんか……」
§
肩を落として事務所を出て行く二人を見送った後、再び隣の応接室に待機していた小幸さんと今後の打ち合わせを行う。
結局のところ、要求を拒否するなら即裁判というこちらの説得と、額が額だけに一朝一夕では準備が出来ないというあちらの要望を擦り合わせた結果、慰謝料の三分の一を一週間以内に一括で振り込み、残りは分割という事で示談書及び離婚届に署名捺印頂いた。
しきりに『もう家を売るしか……』とか、『住む場所まで奪う気ですか!』とか言っていたので『あなた方も行く所を探せばよいのでは?』と笑顔で言ったら黙り込んだ。ザマァ。
「有難う御座いました」
そう言って頭を下げる小幸さんは、初めて会った時と比べて、随分と表情が明るくなったように見える。
―――― 貴女は今、幸せですか? ――
一哉君の紹介で小幸さんを担当する事になり、初めて小幸さんと対面した席で、あの男の不倫相手の旦那さんである悟さんが、小幸さんにかけた言葉だ。
初めて対面した小幸さんは、酷く窶れて見えて、夫の不貞を知っても感情が動いた様子は見えなかった。
―― きっと勘付いてはいたんだろうな ――
夫や義母にされた事をポツリポツリと話しながら、薄く、小さく、全てを諦めたように笑う彼女の表情は、私が幾度も見て来た表情だった。言い方は悪いが、これまでの虐待により、一種の洗脳とでも言う状態になっていたのだろう。
夫の不貞の証拠を並べられ、夫に対して慰謝料が請求される事。小幸さんも相手に対して慰謝料を請求する事が出来る事。これを事由に慰謝料を取ったうえで離婚請求が可能である事。
それらを私から説明しても、彼女は『私が我慢すれば』『私にも至らない所が』と、夫と争う事に前向きではない様子だった。
我々の仕事は、あくまで依頼者の手助けであり、依頼者がその気にならなければ何も手出しをする事は出来ない。
―― これは泣き寝入りのパターンかなぁ ――
私が頭の隅でそんな事を考え始めた矢先、同席していた悟さんから先の言葉が発せられた。
「失礼ですが、今の貴女が『幸せ』であるとは私には見えません。貴女のお名前には、『小さくとも幸せでありますように』との御両親の願いが込められているのではないですか? 貴女には、その名前を贈られた御両親の為にも幸せになる義務があるのではないですか?」
少し憤るような表情で悟さんはそう言った。
「貴女が奪われた御両親の遺産も、確かにただ金銭かもしれませんが、この先見守る事の出来ない貴女への、御両親のせめてもの想いではないのでしょうか」
その言葉に、小幸さんの顔が上がる。
「取り戻しませんか、貴女の御両親の想いと、貴女自身の幸せを。一緒に戦って頂けませんか」
そう言って差し出された悟さんの手を取った小幸さんの手は、弱々しくゆっくりではあったけれど、それでもその表情は、会ってから初めて人間らしい表情に見えたのだ。
「結婚してからの私の世界は、夫と義母だけでしたが、あんな男性も居るんですね……」
小幸さんがポツリと漏らす。
たとえ自分達が有利になる為の、小幸さんを焚きつける為の言葉だったとしても、自分が不倫されて辛い中、あんな言葉をかけられる人間がどれだけ居るだろうか。
「先生は御結婚されないんですか?」
小幸さんの言葉に苦笑いを浮かべる事になる。
「まぁ、したくない訳じゃないんですけどね……」
私の言葉に、小幸さんが『しまった』といった表情をする。
「す、すいません。私ったら不躾な事を……」
「いえいえ、気にしないで下さい。こんな仕事をしていると、人間の嫌な所も沢山見ますからね、二の足を踏んでしまう事もあるんですよ」
そう言って何事も無いかの様に振舞う。
―― それだけじゃないんだけどね ――
そもそものお話として、こんな仕事をしている女は怖いとでも思われるのか、男の方があまり寄って来ない。
良い感じになったな~と思っても、私の職業を知った瞬間に一歩引かれる事がままある。
―― アンタら、なんかやましい事でもあるんかい ――
ちなみに、これが男性の側になると話が少し変わる。
教師でもないのに『先生』などと呼ばれる仕事をしていると、随分と実入りが良いように思われるらしく、それ目当ての女性が雲霞の如く湧いてくるらしい。
―― 初対面の開口一番『年収幾らですか?』なんて聞かれる事も良くある話だよ…… ――
そう言って力無く笑っていた同業の男性の顔が思い浮かぶ。
それなら同業同士で結婚すれば良いとも思われるかもしれないが、それはそれで母数が少なくなるので、出会いが有ったり無かったりなのだ。
世の中とは中々上手くいかない物である。
―― それにしても、なんで不倫なんてするんだかねぇ ――
『結婚は人生の墓場』と言う言葉があるが、そもそもは『結婚は恋愛の墓場』と言う言葉が元になっているとする説がある。
成程、確かに結婚は恋愛の終わりと言えるかもしれない。
『結婚』により、『恋愛』関係が終わりをつげ、『婚姻』関係が始まるのだ。
それまでの、互いの『感情』に寄りかかっていれば良い関係が終わり、互いの『人生』を支え合う関係が始まるのだ。
そして、それを、自分達は神様仏様、人様の前で誓い合ったのではないのか。
―― まぁ、結婚式やらない人も居るけどね ――
小幸さんにしろ悟さんにしろ、配偶者として何の不足があったと言うのか、ただ彼女達に寄りかかり、一方的に支えておいて貰いながら、それを自分達に都合の良いように解釈し、免罪符と勘違いしてて不貞を働く人間のなんと醜悪な事か。
―― まぁ、そんな人間ばかりじゃないのも知ってるけどさぁ ――
たまに、『皆も』『私だけが』などと宣う人間も居る。物事を自分の都合の良いようにしか見ず、または曲解し、声ばかり大きい、所謂『ノイジー・マイノリティ』と言われる人種だ。
確かにこのご時世、不貞を働く人間は多いが、不貞を働かない人間はもっと多いのだ。その人たちに対して一体何を言えるのか。
喋れば喋るほど自分の愚かさ、醜悪さを自分から宣伝して居るだけなのだが、そう言った手合いはその事に気付けない。何故なら自分に都合が悪いから。
―― まぁ、気付ける知性が有ったら不倫なんてしないよね、そもそも ――
そんな事を考えながら、離婚届に署名捺印を済ませ、コーヒーを飲みながら一息吐いている小幸さんを見る。
あの日、悟さんの手を取ってから、彼女は変わったのだろう。
夫の不貞については悟さんから譲渡された報告書でも十分だが、その他についても証拠を集めたいと言う私の勧めに従い、日記をつけ、録音を集め、診断書を取り。
そうして迎えたあの日、義母の留守を狙い、そう大きくない鞄に身の回りの物だけを詰めて私と合流した小幸さんの顔は、どこか清々しくもあった。
§
打ち合わせを終えて小幸さんを見送った後、自分のデスクでふと考える。
『あなた自身の幸せを取り戻しませんか』
そう悟さんは言った。この件にケリがついた後、彼女はどうするのだろうか。
彼女が何処に行ったら、その幸せは在るのだろうか。
―― サレ同士が……って話も無い訳じゃないけどね ――
ふとそんな事を考える。
―― まぁ、私がそこまで面倒見られる訳じゃないし ――
今は取り敢えず、小幸さんが小さな幸せを探しに行けるようになる為と、頭を一つ振り自分のデスクへと向かうのだった。
§
「どういう事だ!」
後日、アポも無しに事務所に乗り込んできた正人氏にうんざりした顔を向ける。
「とぼけるな! アンタらの仕業だろう! 会社にまで報告書を送りつけやがって」
―― アイロンの子はアイロンだなぁ ――
「私ではありませんよ。あちらの担当のやった事では? 」
やってないのだからやってないと言うしかない。
―― 知っては居たけどね ――
「会社にバレたら不味い事だったんですか?、貴方、火遊びは男の甲斐性とか言ってふんぞり返ってませんでしたっけ?」
「ぐっ……だ、だが、私にも立場と言うものが!」
「何が『だが』なのかは知りませんが、立場が無いなら座る所でも探したら如何ですか」
―― 針の筵かもしれないけどね ――
「そんな事より、分割にした慰謝料はちゃんと支払って下さいね。あんまり滞納するようでしたら、債権回収会社へ依頼する事も検討されているそうですよ?」
「なっ、取り立て屋に頼むとでも言うのか!? そんな違法な事が許されるのか!」
焦った顔で様子で捲し立てるSon of iron
―― 何故そこで焦る? 疚しい事でもあるんですかね? ――
「世間でどう言われているかは私の関知するところではありませんね。債権の譲渡自体は法律でも認められていますし、譲渡された側がどのように回収するかは、それこそ我々の関知するところではありませんよ」
そして溜息を一つ。
「もう宜しいですか? 良い大人なんですから、次からはちゃんとアポを取ってから来てくださいね。それと、今回は初回無料相談という事にしておきますが、次からは相談料という事で正規の料金が発生しますので、あしからず」
「なっ! なっ!」
「念の為に言っておきますが、先日のお話合いの場も、今この瞬間も、防犯カメラに映っていますので、暴れるのならどうぞそのおつもりで」
そう言って彼の背後の天井を指し示す。
「ぐっ……お、覚えていろ!」
憤懣やるかたなしといったアイロンが振り向きざまに捨て台詞を一つ。
―― 今の会話と『覚えていろ』がどう繋がるのか理解出来ないのだけれど、こういった手合いは語彙の貧弱さも共通なのかしら ――
「はい。少なくとも慰謝料の支払いが終わるまでは覚えていますから、頑張って下さいね」
「なっ! ……くっ!」
満面の笑みで見送ってあげると、アイロンは荒々しく扉を開閉して出て行ってしまった。
「ふぅ」
溜息を一つ吐いてふと見れば、この事務所のボス弁が困ったような笑顔で私を見ている。
私がこの事務所で『離婚に強い弁護士』とやらになった元凶であり、この件を私に担当させた張本人だ。
この程度の些事は大目に見てもらおう。
デスクに向かって小幸さんや今まで担当した人たちの顔を思い浮かべる。
―― 皆の行き先に、小さくとも幸せが在ると良いな ――
そんな事を考えながら。
付属品の方がうっとおしい話の其の弐。
向こうを書き終わって、ふと反対側も書いてみようかと思ったので書いてみました。
向こうと同じく設定無しの一発書きです。
以下、解説と言い訳を少々
作中にて林母子を『ピーナッツ』と評していますが、本来『ピーナッツ親子』とは
男性の『マザコン』に対する言葉で、『子離れ出来ていない母親』と『親離れ出来ていない娘』
つまり、『母娘』の組み合わせに対して使われる言葉です。
作中においては、揶揄する意味合いもあり『母息子』に対してピーナッツと評しています。
『1pg』は『1ピコグラム』の事で、『1兆分の1グラム』の事です。
向こうを読んでいない方には関係の無い話ですが、 こっち書いてたら
向こうの話に矛盾が出て来たので、向こうを少し修正しています。
具体的には、『四家族でお話合い』を『二家族でお話合い』としています。
一哉が悟から浮気相談を受ける(二か月前)
⇒正人を調査中に、小幸の存在を確認。
⇒悟側が小幸に接触⇒一哉が小幸に遥を紹介(一ヶ月半前)
⇒小幸も証拠集め
⇒ホテルから出て来た正人&瑞穂を捕獲(半月前)
⇒正人は一発脅し入れて放流、瑞穂は事務所に連行
⇒悟とその両親&瑞穂とその両親でお話合い(★ここが二家族)
⇒小幸はその日の昼間、正人の母親が出かけている最中に脱出
⇒悟と瑞穂、小幸と正人がそれぞれ離婚協議中(現在)
少々無理くりですが、そんな流れだと解釈して頂ければと。
育児実績が一ヶ月程度で親権取れるのかよというご意見もあるかと思いますが、
まぁ、育児放棄の件もあるしね?
と、生ぬるく見て頂ければと思います。フィクションですから、ね? ね?
やはり一発書き&後出しネタは矛盾が生じますね……。
その他
・弁護士がこんな話する? ⇒ エンターテイメントですから
・あっちもこっちも属性盛り過ぎじゃね? ⇒ エンターテイメントですから
・守秘義務とかどうなってんの? ⇒ エンターテイメントですから
・相変わらず誤字があるな ⇒ 誤字報告頂けますと大変助かります。
以上、宜しくお願いします。