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遠い旅路。たくさんのものを失って、たくさんの人と別れた。きっと二度と手に入らないし、二度と会えない。
でも後ろを振り返ってはいけないと言われた。思い出に縋り続けたら前に進めないからって。過去を懐かしむことすら駄目だと言われて悲しかった。
だって、あそこにはまだ……。
「ほお、もう死んでいると思うたが、まだ息をしておったか。おい小娘、儂の声が聞こえるか」
若い声のくせに老人のような喋り方。もう瞼を開ける力も残っていなくて、応えるように口を動かすと笑い声が聞こえた。
それが新しい人生の始まり。
「古い文献も調べてみましたが、トパジオスの花がこのような成長を遂げた例はやはりありませんでした」
「では、これはやはりとても珍しいのですねぇ」
二つの腕に守られるようにして鎮座する緑色の球体を、マリアライトは優しく撫でた。表面にはうっすらと産毛が生えており、擽ったさに笑みが零れる。
「何だか動物を撫でているようです」
「動物……とは呼べないでしょうが、この内部に何らかの生命が宿っているようです。強い魔力を感じます」
「そうなのですか。とするなら、この緑色の球は卵のようなものなのでしょうね」
マリアライトは深く考えずに思ったことをそのまま口にした。その言葉が隣にいる男の胸に深く突き刺さるとも知らずに。
翡翠色の瞳を真っ赤に染め、小声でぶつぶつと呟き始める。
「このトパジオスは俺の魔力とマリアライト様の聖力で育ったもの。つまりこの球体の中に宿る生命体は俺とマリアライト様の……いや、落ち着けシリウス。もし、中身が凶悪な何かだったらとしたら、俺はそれを討つべきだ。……やれるのか? 二人の愛の証を滅ぼすことなど……」
「シリウス様? 難しいお顔をされていらっしゃいますが、大丈夫ですか?」
「マリアライト様……」
優しく声をかけられ、シリウスは悲哀に満ちた表情でマリアライトをそっと抱き締めた。
「俺は無力な男です。次期皇帝として非情にならなければならない時がきっと来るはずなのに……」
「シリウス様、泣いていらっしゃるようですけれど……」
「自分の不甲斐なさに涙が止まりません……」
しかし美形というのは泣いていても綺麗なものだ。涙は女のアクセサリーというが、美形にも適用されるらしい。ルビーレッドの瞳から零れる雫がまるでダイヤモンドのように見える……のは少し言い過ぎかもしれないが、絶世の美青年の泣き顔はそれだけでかなりの価値がある。
シリウスの顔に惹かれたわけではないマリアライトは、突然泣き出した婚約者に「童心に返ってしまった」程度にしか思わなかったが。取り出したハンカチで彼の涙を優しく拭う。
近所のお姉さんに慰めてもらう思春期の少年の構図だ。
「うっっ! 何で殿下男泣きしてんのよ!」
「なーん」
スノウを小脇に抱えたコーネリアがその現場を目撃し、顔を引き攣らせる。最初は胸の前で抱き抱えるスタイルをとっていたものの、両手が塞がるので持ち運びが楽なこの持ち方に切り替えたらしい。
「コーネリア様、おはようございます。スノウさんいい子にしていましたか?」
「うにゃっ!」
コーネリアの腕から抜け出したスノウがマリアライトの胸に飛び込む。この神獣は基本的に誰に対しても人懐っこいのだが、どうやら一番大好きなのは翡翠の聖女のようだ。抱っこされて頭を撫でられると、嬉しそうに目を細めてごろごろと喉を鳴らす。
その様子を眺めるシリウスの背中には哀愁が漂っていた。さっきまで自分だけのマリアライトだったのに、スノウに取られてしまった。けれど、スノウは何も悪くない。
必然的に溜まった不満をぶつける相手はコーネリアへと向けられる。
「く……っ! 俺とマリアライト様の逢瀬を邪魔するとは……この泥棒猫!」
小説の中でしか出て来ないような罵倒が皇太子の口から飛び出した。
「私何もしてないじゃない! そんな心の狭さじゃマリアライトに嫌われるわよ?」
「………………」
「えっ、何でそこで真顔になるのよ。何か怖いわね……」
いつもだったら、ここで何か言い返してくるのに、今日に限っては静かだ。マリアライトの前だからといって、そこまで猫を被る性格ではないのは泥棒猫発言で立証済だ。当のマリアライトはじゃれつくスノウの相手をしていて、話を全く聞いていなかったものの。
「つい先程までマリアライト様に軽蔑され、足で踏まれる想像をしていた俺の苦しみなどお前に理解出来まい……」
「理解したくないわよ。しかも、足で踏まれるってあんたの中のマリアライトどうなってんのよ」
自分ですら他人を足で踏み付けたことがない。シリウスの逞しすぎる妄想にコーネリアはついていけずにいた。
それにマリアライトからの愛を、絶対的に信じているこの男がそんな不安を抱えるなんて。その理由が気になるが、メイドの仕事が忙しいのだ。ここに来た目的を果たさなければとコーネリアは一枚の手紙をシリウスに差し出した。
「はい、殿下。これロイトール侯爵からパーティーの招待状が届いているわよ」
「ロイトール侯から? 確か先月、第一子が生まれたと聞いていたが」
「侯爵夫人の体調が安定したから、一ヶ月遅れの生誕パーティーを開こうって話になったみたい」
「そうか……」
沈んだ表情だったシリウスがその話を聞き、安堵したように頬を緩める。その様子に気付いたマリアライトがスノウを抱えたまま訊ねた。
「シリウス様嬉しそうですね」
「ロイトール侯爵。父上とは身分を超えた友人であり、聡明な魔族です」
「見た目は聡明感ゼロだけどね」
「お前の父親よりはマシだ」
「何よ。パパの方がやってることは多いわよ。いいことも悪いことも」
「自慢して言うな」
「「………………」」
シリウスとコーネリアが無言で睨み合う。明らかに険悪な空気を醸し出す二人を、マリアライトはニコニコと見守っていた。
そして一言。
「お二人は仲がいいですね。見ていて微笑ましいです」
「私たちはあんたの目にどう映ってんのよ……」
「マリアライト様はたとえ俺たちが本気の殺し合いを始めても、子猫のじゃれ合い程度で済ませそうだからな。そんな心の広さもマリアライト様の魅力……いや、話を戻そう」
こほんとシリウスが咳払いをした。
「パーティーの開催はいつだ?」
「一週間後。マリアライト、あんた宛ての招待状なんだから行くでしょ?」
「はい、是非! ……ですが、シリウス様には招待状が届いていないのですか?」
素朴な疑問を浮かべるマリアライトだったが、それにもれっきとした理由があった。
「今回のパーティーは侯爵夫人主催なの。それで出席者も全員女で、男子禁制。つまり女子会ね」
「侯爵夫人が主催の……」
「あ、あと、あんたって友達って私以外にいる?」
「え?」
「これで友達も連れて来なさいってこと」
渡された手紙の中には、白い花の絵が描かれた招待状が二枚入っていた。招待状に使用されている紙には香水の香りが付いており、仄かな芳香が漂う。
「コーネリア様は来てくださらないのですか?」
「私、貴族の間でもあまり評判がよくないのよ。そんなのをパーティーに連れて行ったら、空気が悪くなるわ」
「そんな……」
「べ、別にあんたが悲しそうな顔をする必要はないでしょ。いいわよ、私はスノウの遊び相手になってるから」
「にゃっ!」
コーネリアはボクにまかせろ! と言うようにスノウが元気に鳴く。頼れる神獣である。
だがマリアライトには、コーネリア以外に明確に『友人』と呼べる相手がいない。貴族の令嬢や夫人と時折茶会をしているが、友人と言うよりは茶会仲間と言った感じだ。彼女たちも皇太子の婚約者兼聖女であるマリアライトに緊張して、「お友達になりましょう」と言い出せる雰囲気ではなさそうだし。
「コーネリア様以外ですか……あ、ではあの方を誘ってみましょう!」
「え、いるの?」
自分で話を振っておきながら、マリアライトに心当たりが有ったことにコーネリアがショックそうな声を出した。




