2
「こんな風に一人で歩くなんて久しぶりだわ……」
質素な白いドレスと鍔の長い帽子を身に着け、目的地に向かうマリアライトの足取りは軽やかなものだった。歳を理由にして、婚約をなかったことにされた女性とはとても思えない。
何故なら、ローファスから女として見てもらえなかったことへの悲しみや怒りなど存在しなかったからだ。そこの辺りはマリアライトも同じようなものだったのである。
彼を一人の男として見ることは最後までなかった。そのような暇がなかったのだ。王太子妃教育を受ける日々で、その合間に聖女としての役目を果たしていた。
王太子と顔を合わせるのは月に一、二回程度。愛を育むには時間があまりにも足りなかった。
一生懸命彼を愛そうとしたが、結局は無理だった。愛していない青年と体を重ねる未来を密かに恐れていたくらいだ。
様々な重荷から解放されて、肩の力が一気に抜けた。五年間が全て無駄に終わってしまい、ほんの少しだけ寂しい気持ちはあるが、それも本当に僅かだった。
マリアライトとしても今回の話はいいものだった。彼女の中では円満な婚約破棄だったと考えている。世間から見れば、そのようなことは全くないのだが。
王宮を出た時、餞別として渡された少量の金銭と私物を持って向かうは生家だった。両親が亡くなり、住む者が誰もいなくなった後も取り壊されずに済んだ。
かつての婚約者への未練もなかった。互いに愛情を持っていたのは事実だが、彼は他の女性からの愛も求めていた。彼が生まれ育った国では、正妻の他に愛人を持つことがごく一般的だったらしい。けれど、そんな風習に馴染みのないマリアライトの心はズタズタに引き裂かれた。
「これから何をしましょうかねぇ……」
やりたいことはたくさんある。特に聖女の力を利用して試してみたいことがあった。
時間もたくさんあるのだから、焦る必要はない。
王都から少し離れた小さな町。その外れ、森の近くに古びた一軒家があった。かつては美しい花がたくさん植えられていた庭は荒れ放題。あちこちに蜘蛛の巣が張っている。
ガーデニングを楽しみたいマリアライトとしては由々しき事態である。あとでちゃんと掃除をしないと。そう思いながら形見である鍵を取り出した時だった。
「あら?」
ドアが少しだけ開いている。泥棒という言葉が脳裏に浮かんだが、こんなところに入っても多分金目の物などないはずだ。
ちゃんと盗めるものはあったのかしら、と呑気に考えて家の中に入って行く。埃臭くて咳き込みながら奥に進む。家具は残されたままで、綺麗に拭けばまた使えるだろう。うんうんと家の中をチェックしつつ、寝室に足を踏み入れた時だった。
小さな子供がシーツに包まっていた。
「あらら……?」
まんまるの翡翠色の瞳がじっとマリアライトを見詰める。そこには怯えの色が浮かんでいて、シーツで隠した体が小刻みに震えていた。
「こんにちは、私はマリアライトって言います。以前、このおうちに住んでいた人です」
「え……あ、ご、ごめんなさい」
「謝らなくても大丈夫ですよ。私もここに帰ってくるのは、本当に久しぶりなのです。あなたはいつからここに?」
「……昨日から」
か細い声と共に首を横に振られる。シーツでよく見えないが、随分と痩せているようだ。顔も土やら埃やらで汚れていた。
ハンカチで顔を拭いてあげようとしたが、乾いたままではあまり意味がないかもしれない。
「ちょっと待っててくださいね」
マリアライトは台所に残っていた包丁を持って庭に向かった。そこで荷物の中にあった巾着袋の中から小さな植物の種を取り出す。それを土の中に埋めて祈りを捧げると、種が埋まっている辺りが淡い緑色の光を放った。
その後、茎の太い植物がしゅるしゅると育ち始め、大きな赤色の花を咲かせると成長は止まった。
これがマリアライトの聖女としての力だ。中には天候を操ったり、火を自在に操る聖女もいるようだが、マリアライトの場合は植物の成長を促す力を持つ。
おかげでかつて干ばつが深刻だったこの国は、荒れ果てた大地に緑を蘇らせることが出来たのである。
「ごめんなさい、あなたのお水をいただきます」
マリアライトは一言謝ってから茎を包丁で軽く切り付けた。切り口から透明な水が噴き出したので、それでハンカチを濡らす。
寝室に戻ると、子供がシーツを被ったまま窓辺に張り付いていた。どうやら庭で作業をしているマリアライトを眺めていたらしい。
「あなたは聖女なの……?」
「はい。お花や木を成長させることしか出来ませんけど……はい、これでお顔を拭きましょうね」
ハンカチで顔を拭くとあっという間に汚れてしまったが、その代わり子供の顔は綺麗になった。あとで風呂にも入れないと。
けれど、今はとりあえず空腹を満たしてあげるのが先だ。荷物からクッキーが入った袋を取り出す。
「お腹空いているでしょう? 食べませんか?」
「それ、食べ物なの?」
「クッキーですよ。甘くて美味しいのです」
「じゃあ……食べる」
子供がシーツの中から出て来て、マリアライトからクッキーを受け取る。その間、マリアライトの視線は子供の頭部に注がれていた。
銀髪の隙間から生えた二本の角。深紅のそれに注がれる視線に気付いた子供は、ハッとした表情でシーツを被り直そうとする。
その動きを止めたのは、マリアライトの一言だった。
「可愛い色の角ですね。林檎みたい!」
どうして角が生えているのか、そこは全く気にしない。ただ大好きな果物と同じ色だと喜ぶだけで。
婚約者に浮気をされて、自分が聖女だと発覚して、王太子から婚約破棄をされて。色々と大事件に見舞われたマリアライトは、ちょっとやそっとじゃ動揺しない心を持つようになっていた。鈍くなってしまったとも言うべきか。