元村派陰陽道・外伝(1)(2)
元村派陰陽道・外伝(1)
プロローグ
栄華を誇る平安京大内裏の朱雀門前には、六衛府に勤める武官・源氏が立っている。門衛の男は黒の袍、冠を身にまとい下は白袴姿。精悍な顔立ちをしていて誇らしげに胸を張り、門の前に立っている。平安京大内裏の南正面中央からまっすぐ伸びる朱雀大路の朱雀門に近づいてくる男の姿が目に入ると、不倶戴天の敵を睨みつけるような鋭い目をし、驕慢な顔つきをした。
白い直垂に薄茶色の袴を履き、頭には黒い烏帽子姿の元村清彦は物憂げな表情を浮かべながら門を見上げている。荒廃した右京の町では有名な呪術の使い手で、桔梗の印を結び、魔を調伏すると評判だ。夕闇が迫り、朱雀門は夕焼けで紅色に染まり、薄明るい光が二人の顔を照らしていた。日中、朱雀大通りを往来していた町人や宮廷の役人たちの姿は消え、門前は源氏と清彦の二人だけだった。源氏は清彦を見ると静寂を破って「お前の来るところではない。早く帰れ!」と声を荒げた。
清彦は源氏に追い返されたが、来る日も来る日も朱雀門の前に姿を表わした。
第一章
土方久美はロンドンに留学中であったが、ある年の暮れ京都に帰省した。一年前に叔母の静子から手紙が届いたからだ。手紙には東京の大学に通っている再従兄弟の泰治のことや彼女が神職を務めている神社のことが書かれていた。年末年始に訪れる参拝客のことやその準備でこれから忙しくなると。東京から帰京した泰治はきちんと和装し、しぶしぶ家の手伝いをしているようだった。
手紙が届いてから一年が経過した。久美は久しぶりに叔母と対面した。彼女は顔がほころび嬉しそうだった。彼女と顔を合わせると、久美は昔のことを思い出した。幼い頃、叔母の神社の境内で遊んだことや七五三の晴れ着姿、巫女装束に身を包んで社務所でお守りやお札の頒布のアルバイト・・・・・・。叔母が、「白い小袖と赤い袴。まるで本物の巫女みたいね。自分の若い頃を思い出すわ」と嬉しそうに話しかけてきた。
「いえいえ、昨年は帰国できずにごめんなさい。この巫女装束好きです。あざやかな緋袴を着ていると本当の巫女になった気がして素敵です」
叔母と顔を合わせたのは二年ぶりだった。泰治も東京から帰郷し、お互い年末年始は忙しくしていたので彼とはほとんど口を利いていない。彼は普段と違って神社ではきちんと白衣と白袴姿でまるで別人のようだ。
彼は正月に訪れる年神様を迎える準備で忙しくしていた。一年の穢れを清める大祓だ。静子は、白衣と艶やかな袴姿で拝殿の前に座している。久美と泰治も今日は特別に昇殿参拝を許され、静子のとなりに並んで座っていた。
平安時代にさかのぼる陰陽師の末裔である元村清武。土方久美の大伯父で、叔母・元村静子の伯父にあたる。元村家本家の清武には跡取り息子がなく、清武の実弟であった静子たちの父であり久美の祖父がその後を継ぐことになった。しかし、久美の実母と静子は二人姉妹で共に男児の跡取り息子が生まれなかったため、現在は叔母の静子がその後を継いでいる。
久美の母は、京都の由緒ある家柄である土方家へ嫁ぐことになった。それは明治から昭和時代にかけて一時代を築き、かつて一族に高名な剣士がいたこともあって世間に広く名が知られていた土方薬草である。
拝殿内部の白壁と白木の天井、いぐさの香りがする畳。清々しさを感じさせると同時に部屋の中に緊張感が漂い、神への敬意を表わした静寂が広がっている。静子はゆっくり立ち上がると、「高天原に……」と大祓詞を唱え始めた。祝詞奏上が終わると、拝殿にある玉串案(台)に向かって二拝し、手に持っていた榊の玉串を案の上にそっとのせ、もう一度ゆっくりと二拝した。そして二度柏手を打ち、一拝して玉串拝礼を執り行った。
玉串案の奥に設置されている神饌案の上には榊と燈明が両側に置かれている。その正面には御神酒が献上され、頭上には注連縄と紙垂が飾られている。久美は物珍しそうに拝殿の中を見回していた。そのとき、神饌案の上に御神酒と一緒に献上されている一冊の書物が目に入った。書物の装丁は古めかしく、所々ぼろぼろになって紙は薄茶色く変色していたが、一目見て大事なものだと分かった。
「叔母さん、あの本は何ですか?」
久美は恐る恐る尋ねた。静子も、久美の視線の先にあった元村家先師の清武から受け継いだ特別な奥義書に目をやった。そして機が熟して、泰治と久美に先祖代々受け継がれている元村派陰陽道の秘儀が収められている文書を伝える時がきた、と感慨深い気持ちになっていた。
「元村家先祖代々脈々と受け継がれている門外不出の奥義書。陰陽道の奥義である五行の方位や五芒星、十二支、占星術、宿曜、式神、呪術などが収められているの。先師たちによって家伝されてきた系譜や伝承、歴史をまとめた書物でもあるのよ」
静子が口火を切った。
「これが奥義書?」
泰治は重い口を開いた。これまで神職や神社など他人事で関心を示すことがなかった泰治だが、好奇心に火が付いて目を輝かせていた。
「今まで久美はもちろん、泰治にもずっと黙っていたの。安易な好奇心で奥義書に近づくのは危険だからよ。それにあんたはこの神社を継承する気なんてさらさらなかったしね」
静子は泰治に釘を刺した。
「奥義書って、呪術や儀式の方法、呪文などが記され、中には預言書的なものも含まれているんですよね!」
久美は大きな声を上げた。そして、胸元で輝いている聖なる石・ラピスラズリが嵌め込まれた五芒星のシルバーペンダントを握りしめた。
「伯父であり先師の清武は、私に呪術を使うことを許してくれなかった。彼自身や先代たちも長いことそれを封印してきたから。そのため、元村家は陰陽師としてではなく神職として長い間神に仕えてきたの」
「どうして? 祈祷のときに呪術や占いも行えばいいのに! 安倍晴明みたいな陰陽師だったなら多くの人たちの助けになれたのに」
泰治は納得のいかない様子だった。
「それに、今でもこの五芒星のペンダントは元村家の陰陽道という命が吹き込まれて脈々と受け継がれていますよ。実際に社務所でも頒布されています」
「陰陽師だったことの象徴として、今でも確かにその息吹を感じることができる。けれど、封印をしたのは深い理由があったからなの」と言って静子は二人をたしなめた。
「深い理由って?」
久美は呟いた。静子は「そう、焦らないで」と言って奥義書を手に取るとページをめくった。
「陰陽道は平安時代に貴族の間で大流行していた占いのことで、国家と天皇の命運に関わるものだった。また、怨霊や鬼、物の怪といった穢れを祓い、祭りを執り行っていた。この時代、安倍晴明のような優れた人物が登場し、陰陽師として活躍していたのが始まりで」
静子は静かに語り始めた。
「陰陽道は中国の五行説に基づいた万物を構成する五種類の木・火・土・金・水が基本となっていて、私が身につけているこの五芒星のペンダントのように星形や正五角形になったんですよね」
「そう。五芒星は、陰陽道において五行説という概念の基であり、呪符や護符として用いられた歴史があって魔除けの意味があるのよ。そして、この五行を方位に置き換えて意味を持たせたの」
「東北の鬼門や西北の天門でしょ!」
泰治は快活に返し、静子は首を縦に振った。
「陰陽師は、平安時代中期から後期には朝廷に仕える役人として活躍していた。やがて国家に仕える者から個人的に貴族に仕え、明治時代になると陰陽師という職業が廃止されたため民間信仰となり、時代の変遷を経て現在に至った。陰陽道の宗家・土御門神道は陰陽道と神道を組み合わせて独自の道を切り開いていった。これは元村家にも言えることなの」
「母さん、土御門って?」
「安倍晴明の本家は、途中で土御門という名に改名したの。元村派陰陽道の始祖・元村清彦は、中務省・陰陽寮や蔵人所の陰陽師ではなかったのだけど」
「それって?」
「今で言うたたき上げの官僚よ」
「なーんだ。エリートの出じゃなかったのか!」と言って泰治は口をとがらせた。
「泰治、口が過ぎるわよ!」
第二章
ある夏の日暮れのことだった。元村清彦が大内裏の朱雀門に姿を現わしてから一週間が経過した。暴君のような夏の太陽は容赦なく地表を照らしつけ、日中京都の町に降り注いだ日差しはいまだ熱気を帯び、辺りは薄暗かったがじっとしていても額にはうっすら汗がにじみ出た。門衛の武官である源氏と朱雀門に姿を現す清彦は、汗と埃まじりで身体にまとわりつく装束、直垂姿。まるで苦行を強いられている修行僧のように無言のまま門前に立っていた。
夕日が西の地平線へ沈み頭上の空に夜の帳が下りると、朱色の朱雀門は夕闇の青黒い空に浮かび上がり、不気味な感じが漂う。何しろ最近では平安京に災いが立て続けに起こり、町の至る所に荒廃が見られるからだ。壮麗な宮廷とは対照的に大内裏周辺は荒れ果て、今にも怨霊や物の怪が出没しそうな時間である。
白い直垂に黒の烏帽子姿の男。夕暮れ時になると毎日朱雀門前に姿を現したが、何の用事があって門前に現れるのか、という疑問が源氏の心の中に浮かび上がった。しかし、何をするでもなく、ただ憂いの顔つきで門を見上げ、何かを訴えているような表情が見て取れた。
源氏はじろじろと頭のてっぺんから足下まで貶むような目つきをして清彦を見た。身につけている物から言って庶民出ではあるが、それなりに身なりはきちんとしているし怪しい者でもなさそうに見えた。
源氏はとうとう根負けしてしびれを切らし、「何しに来たのだ。言ってみろ」と問うた。
「平安宮周辺は、大内裏を中心として東には大宮大路の左京、西には西大宮大路の右京が左右対称に配置されております。貴殿におかれましては禁裏の守護や行幸、大内裏で執り行われる重要儀式などの警護を司っていると思われますが・・・・・・」
清彦は静謐を破った。
源氏は清彦が口を開くと太刀に手を掛けた。後ろ腰には大きな矢が見え、左手には弓を持っている。
「それがどうしたのだ!」
源氏は口荒く罵った。
「はい。大内裏は陰と陽の二元が相対しております」
「陰と陽?」
源氏は一瞬、鋭い顔の表情を緩ませた。
「私は身分の高い者ではありません。しかし、大内裏周辺には何か感じるものがあるのです」
清彦は含みのある言い方をした。
「それは一体どういうことだ」
「中国の陰陽説でございます。土地には陰と陽があり、この平安京の北には脈々と山が連なり、南には桂川が流れております。山の南は陽の地、北は陰の地。川の北は陽の地、南は陰の地。そして自然界は、木火土金水の五つの要素から構成され万物の根源となっております。これらはお互いに五行相生、相剋の関係。相生は、ある要素がある要素を生み出す関係で、相剋は、打ち勝つ関係でございます。
「よく分からん。具体的に言うてみろ」
「つまり、自然界の万物は陰と陽から成り、今述べた五つの要素が根源となっております。そして、これらは目に見えない働きによって互いに拮抗し合い、自然界の事象が引き起こされるのです」
「それが大内裏と何の関係があるのだ?」
源氏は少し苛立ちを覚えていた。
「清浄で結界に守られているはずの大内裏周辺には嫌な気を感じるのです。耐えがたい戦慄が身体を駆け巡り、心をかき乱すのです。暗闇の中、じっと目を凝らして耳をそばだてていると、私の中に秘められている潜在能力が激しくかき立てられ、この世の人間の目には見えない存在が脳裏に浮かぶのでございます。心の中には聞えないはずの声がこだまし、理由は分からないのですが、不気味な感じのする物の怪のような存在が、私の方をじっと見つめているのです。私は激しい恐怖に打ちのめされそうになりました」
「馬鹿なことを言うな! それに、都の三方の山には守護神が鎮座しておるのだ。北の玄武、東の青龍、西の白虎。南の池には朱雀。四神相応の地だ!」
源氏は怒りをあらわにして叫び、もう一度太刀に手を掛けた。
「一条戻り橋です。怨霊や物の怪といった類でございましょう」
断言した物言いで清彦は朱雀門を後にした。
清彦が朱雀門を去った晩、丑の刻、源氏はいつものように一人で大内裏周辺の警護に当たっていた。宮廷の警備は、それぞれ割り当てられた門前や屋敷の周辺を交代で見張りをする。彼は清彦の話など気にも留めていなかったが、左手に蝋燭を持ち朱雀門を出て二条通りの角を曲がり大内裏の北東に位置する一条通堀川に架けられた橋に到着すると、ふと清彦のことを思い出した。
眼前には生い茂った草が地面を覆い、荒れ果てた橋が川の上に架かっている。源氏は一瞬、薄気味悪い気持ちがした。この一帯はさびれて昼間でも人気のない場所だった。午前二時の真夜中に一条戻り橋の上を通りかかる者など源氏以外誰もいなかったが、念のため、腰に掛かっている太刀に手を掛けて慎重に歩を進めた。
次第に源氏の心を占拠しはじめた心に浮かび上がる妄想と少しばかり芽生えた恐怖心。
だが、憂鬱な気持ちとは裏腹に、源氏は清彦の虚構に満ちて馬鹿げた怪奇譚を一笑に付した。
そのときである。冷涼とした一陣の風が吹き、源氏は背筋にひやりとした冷気を感じた。心の中で沸き起こる恐怖心を打ち消そうとしたが、圧倒的な魔の力が理性を征服しようとしていた。魔物は清浄なる都を蝕もうとし、慇懃無礼で不敬な所行は後を絶たない。
「何も見えない・・・・・・しかし、嫌な気がするのだ。胸騒ぎがする」
源氏は悔恨の念にかられて呟いた。
太刀を握る掌はうっすら汗でにじみ、腋下の汗線にも冷たい分泌液が流れた。夜中とはいえ盛夏の京。源氏は立ち止まり、心を煽り立てる妄想に極度に不安になって身の危険を感じていた。
清彦が言っていたように本当に怨霊や物の怪が出没する場所なのだろうか、という考えが源氏の頭の中をよぎった。闇夜に浮かぶ灰色の橋、眼下には淀んでいる川。荒れ地の草は伸び放題。さびしくて憂鬱な気が漂い、なんとも言い難い不気味な雰囲気を醸し出している。清彦の言葉の調子を思い出すと肩をすくめて身震いをした。源氏はためらいながらも清彦が発していた言葉をかみしめて大内裏へ足早に戻った。
第三章
平安京大内裏には寝殿、その東西北にはそれぞれ対の殿舎が建てられ、南に位置する庭の先には中島のある池と釣殿がある。寝殿造りの屋敷では、貴族の男性は束帯や直衣、女性は何枚も着物を重ねた十二単を着ており、池に船を浮かべたり庭先でけまりを行っていた。その他にも月見や歌詠みなどさまざまな宮中行事を行っている。屋敷を取り囲む築地塀には、四足門や唐門、上土門などが塀に開かれている。
六衛府に属する源氏は屋敷の門を通り抜け、朱色の単廊を渡り、左右近衛府長官の近衛大将と太政大臣がいる寝殿へ向かった。
「長岡京から四神相応の地である平安京へ都が遷された。しかし、天災や疫病が静まる気配もなく上様は大変心を痛めていらっしゃる」
太政大臣・義盛が重い口を開いた。
「天災や疫病によって穀物の凶作が続き、庶民たちを苦しめておる。朝廷でもこの騒ぎを無視することが出来なくなってきた。何か良い手立てはないのだろうか」
源氏の上官である近衛大将も悲痛な面持ちで続いた。
七九四年。平安京に遷都した年のことだった。平安京遷都に力を注いでいた大臣が何者かによって暗殺された。この陰謀を企てたのは誰かという噂が流れ、反対勢力であった時の施政者が首謀者として見なされ、島流しになり幽閉される事件があった。しかしこの事件には矛盾が多く、遷都反対の謀反としてどれほど関わっていたかも謎である。大臣は島流しにされ、その数年後に病死している。無実を訴え続けたが判決が覆ることはなかった。平安の都に遷都したものの、日照りや飢饉などが続き、長い間京の都は天災に見舞われていたのだ。
「何かの障りではないだろうか・・・・・・」
義盛は耐えがたい沈鬱な表情を浮かべて言った。
そのとき源氏は白い直垂に黒の烏帽子姿の男のことを思い出した。彼が話していた怨霊や物の怪といった怪異は、まったく理解できない話でもなかった。平安遷都における内乱騒ぎ。このようなご時世では、都に天災が相次いでもおかしくない。一条戻り橋の禍々しい話もまんざら嘘でもないような気がしてきた。あの夜、辺りは異様な気配に包まれていた。源氏は感覚が研ぎ澄まされて不気味な妖気を全身全霊で受け止めた。異常な恐怖心は彼を圧倒的な力でひれ伏した。しかし一方で、曖昧な自己暗示、妄想ではないか、と心のどこかで思っている自分もいるのだ。
「私に任せてください。きっと解決してみせましょう」
第四章
清彦は大内裏から南へ少し離れた右京の地に居を構えていた。町の荒廃は激しく、宮廷や豪華な寝殿造りの屋敷、文化の栄えた左京とはかけ離れていた。庶民の中には竪穴式住居に住んでいる者も少なくなかったが、清彦は地方の地主で比較的裕福な武家造りの家に住んでいた。小さな館であったが、母屋のほかに馬小屋、倉庫、井戸などがあり、周りは塀で囲まれ、やぐら門が構えてあった。
ある夏の昼下がり、清彦は母屋の切妻屋根の下の庇に腰掛けていた。日はまだ高く夏の湿度を含んだ風が身体にまとい、拳で汗を拭った。毎日午前四時には起床し、午前中は田畑の仕事に精を出した。食事は一日に二度。玄米に汁物、梅干し、野菜の煮物などを食し、直垂を着ている。午後からは近所の農民や町人のために祈祷や占いを行って吉凶災福を察知し、さまざまな呪術作法を行っていた。昼食をしたため、庇で涼を取っていると見覚えのある顔が目に入った。朱雀門の門衛の男だった。
「右京の清彦という者であるな。今日は大事な話があって宮廷から遣わされ、其方に会いに来た。隣に座ってもよろしいか」
源氏は、先日の傲慢無礼な態度とは一転して礼儀正しかった。
「もちろんでございます。私もお会いできて嬉しいです」
清彦はすぐにピンときた。ここの所、平安京では災いが立て続けに起こっていたからだ。多くの庶民は凶作にあえぎ、暮らしが逼迫していた。
「京の町は、宮廷の華やかな屋敷や暮らしの一方で、天災や疫病が続き、町の所々さびれて右京辺りでは荒廃が酷いという。巷では大臣の島流しの噂が立ちこめて、この天災は怨霊の仕業ではないかと囁かれ始めておる」
源氏は忌まわしい屈辱を暗闇の中に葬り去りたいと感じていた。
「私の耳にもその噂は入っております」
「先日、其方は陰陽説や一条戻り橋の話しをしていたが、祓いや占いができるのか?」
源氏は清彦の顔をまじまじと見つめた。
「古代中国で誕生した陰陽道や五行説、呪禁道、占いなど多くの民間信仰に深く興味を抱き独自に発展させ、市井の人々に呪術を執り行っております」
「この災いは大内裏周辺の嫌な気と関係があるのだろうか。近頃では、あの辺りで魔物に出会ったという者の話をよく聞く」
源氏は面目が立たない有様で、言葉を濁しながら尋ねた。
「一条戻り橋は、禍々しい魔物が出没する東北の鬼門にあたります」
清彦は、宮廷内での内兜を見透かしていた。
「実はあの夜、丑の刻に、一条戻橋を通りかかったのだが・・・・・・其方の言うとおり何か胸さわぎがして奇妙な感じがしたのだ」
源氏は納得できず割り切れない思いを抱えていた。
「丑の刻は方角で言うと東北にあたります。その時刻に一条戻り橋にいたとすれば何か起きてもおかしくはありません。現に、丑の刻参りという恐ろしい呪いがあるのです。私は中国を通してアジアやヨーロッパ大陸から伝わったさまざまな文化に興味を抱き多くの書物をむさぼり読みました」
「さようか」
「災厄から免れて身を守る護符、超自然的な力を発揮する呪符がございます。そして私は、陰と陽、木火土金水の五行から世の中の森羅万象を読み解く陰陽五行思想にたどり着きました。目に見えるもの、耳で聞えるもの、五感に感じるものすべては陰陽五行で理解することができるのです」
「それでは、具体的にどうしたらよいのか?」
「まず、大内裏周辺の怨霊や物の怪を封じ込めるために結界を張る必要がございます。呪符を使って桔梗の印を結び、魔を調伏するのです。厄災を除くためには霊的な呪符で結界を張り、負の力が入り込むのを防がなければなりません。また、各人エネルギー体とも言える『気』が違うため、その人に合わせた護符やお守りをつくります。自らの分身とも言え、霊的な守りによって障りや災いを避けるのです」
清彦と源氏はその夜、一緒に一条戻り橋に向かった。太陽は完全に沈み辺りはすっかり暗くなっていた。霊的なものを感じる力があった清彦には、この場の穢れを清める必要があると分かっていた。源氏は事の成り行きを静かに見守っていた。
「ここは怨霊や物の怪の出没する東北の鬼門で、この橋は現世と幽世を結ぶ異界の入り口でしょう。私には彼らが見えます。そして何を訴えているのか感じたり聞えたりします」
「なぜ分かるのだ?」
「第六感が備わっているからです」
「それは霊を感じる力という意味か?」
「さようでございます。直感的に鋭く物事の本質を見極める心があるのです。そして、さまざまな霊的事象や伝言を受け止めたり、発信したりすることができるのです」
異様な邪気は軋轢を生じさせ呵責を生み、闇の底で激しい痛みに心を打ち砕かれて不名誉な傷を抱えていた。人間に闇討ちし、報復も辞さない構えだ。
二人が橋の上で話をしていると辺りの空気が一変した。野ざらしのこの地に、説明しがたい陰湿な恐怖の物の怪が興奮を抑えきれない様子でこちらを伺っている。それは源氏にも感じることができるほどだった。二人が手に持っていた蝋燭の炎が急に激しくゆらめいた。
「夜の闇の端の方から白い物体が何体も浮揚している」
清彦の目にははっきりと見えていた。
この恐ろしい異様な邪気は、鋭い音を軋ませながら橋の上を不安そうにゆらゆらと浮揚し清彦たちに向かって忍び寄ってきた。はっきりと判別出来なかったが嘲るような表情を浮かべ、生きた屍のような虚ろな目つきで断末魔の叫び声を上げた。
源氏は驚きと恐怖で頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。清彦は一瞬、魔の低いうめき声にひるみ、じりじりと後ずさりしたが落ち着きを失わなかった。
すると、爛々と目を輝かせた物の怪は、忽然と姿を消したかと思った矢先、清彦の背後に回って一声高く猛り狂った。
「人間ども、こんな時間に一条戻り橋へ何しに来たのだ!」
「人を脅かす化け物め! お前は一体何者なのだ!」
清彦も負けじと叫んだ。
物の怪は清彦を睨み返した。そして、
「現世にいた頃の恨みを晴らすためここにいるのだ。邪魔をするな!」と言って、清彦に飛びかかろうとした。
清彦は真剣な面持ちになってゆっくりと深呼吸をして目を閉じた。目には見えない超自然的な力と交信していた。彼に生まれつき備わっている神秘の力は、万物を構成している五行説・木火土金水の神霊と相対して不思議な霊力を生み出す。それが式神であった。清彦は蝋燭の灯りを足下に置き、両手で五芒星の形をつくって何か文言を唱え始め、最後に「は!」と気合いの入った声で叫んだ。
しばらくすると、風向きが変わり、川縁に立っている柳の木の葉がゆらゆらと風にそよぎはじめた。源氏は両手で抑えていた耳を離した。物の怪の内にある、消えかかっていた人間としての心の灯火は燃え尽きていなかった。灯りは不安と恐怖を明るく照らし出し、忌まわしい思いを焼き討ち、魔を消滅させた。
「うまくいったのか?」
源氏の顔には不安の色が見て取れた。
「魔を封じ込めました。そして、幽世に帰るよう説得いたしました。宮廷に戻られましたら七日間の物忌みをするよう殿様方にお伝えください」
第五章
ある日のことであった。清彦の元に一通の手紙が届いた。急いで封を開き手紙に目を通すと、宮廷からお礼を兼ねた招待状である。清彦は手紙を読み終えると血湧き肉躍り、天にも昇る心地であった。
翌日の昼過ぎ、清彦は身体を清めて装いを凝らし、朱雀大路を通って大内裏の朱雀門へ向かった。すると武官の源氏がいつものように門前に立っていた。源氏は清彦に気がつくと「こちらへ」と言って清彦を寝殿へ案内した。
「清彦殿。私は宮廷に仕える近衛兵の源氏。これからは源氏と呼んでくれ。そして今までの無礼な態度を許して欲しい」
源氏と清彦は軽い挨拶を交わした。
二人は、寝殿の中門を通って左手に見える池を眺めながら庭を横切り、建物の中へ入ると、床板の上に敷かれた畳に座している太政大臣・義盛と近衛大将の姿が見えた。源氏と清彦は深いお辞儀をして義盛と近衛大将の前に座った。
清彦は物珍しそうに母屋の中を見渡した。日中のため、蔀の上部が外側に開かれ簾が架けられている。柱は丸柱、床は敷板、その周囲には庇と高欄が設けられ、正面には階段があった。
「其方が物の怪退治の清彦であるか。義盛殿が一度お会いになりたいとおっしゃっていた」
近衛大将が口を切った。
清彦は息を凝らして義盛と近衛大将を見入っている。
「一条戻り橋の魔物を封じ込めたと源氏から聞いておる。其方のお陰で平安京に降り注いでいた厄災から難を逃れ、庶民も元の暮らしを取り戻し、上様もたいそう喜んでおる。礼を言おう」
義盛は会心の笑みを漏らした。
「清彦殿の張った霊的な結界が功を奏し、あれから一条戻り橋で奇怪な物の怪に遭遇したという目撃談はまったく聞かれなくなりました。平安京にもたらされていた天災や疫病も次第に治まっていきました。大内裏の東北に位置する一条戻り橋は、清彦殿が式神を使って怨霊や物の怪を調伏したという偉業がまことしやかに囁かれ始めております」
源氏は誇らしげに言った。
「一条戻り橋の百鬼夜行には手を焼いておりましたが、先日魔を封じ込めることができました。また、宮廷の殿様方にお障りがなく大変嬉しゅうございます」
清彦は恐れ多くも義盛からの賛辞を頂戴した。
「陰陽五行という思想に傾倒し、祓いや占いができるとのこと。これからは源氏とともに宮廷の武官として都を守護してもらいたい」
そのとき、清彦は直垂の中から一枚の紙を取り出して義盛に手渡した。
「この護符に記されているものは、陰陽五行説に基づいた聖なる五芒星でございます。この護符を身につけていれば邪気から身を守ることができるでしょう」
第六章
その年の秋のことだった。清彦は源氏と同じように大内裏の近衛府に配属された。一般庶民出の清彦が宮廷の守護に命じられるのは異例のことであった。清彦の類い稀なる直感的な判断や行動、祓いや占い、呪術作法などが武官や文官たちの間で評判になり、それが侍史に伝わり、陛下や殿下に認められた。清彦は袍と袴を着て、冠を頭に巻き、太刀と弓矢を持って朱雀門の門衛となった。
ある日の夜半、清彦は眠い目を擦りながら子の刻の警備のため寝床から身体を起こした。窓の外を見るときれいな月の光が部屋の中に差し込んでいた。身支度を済ませて外に出ると、夜風はすでに中秋の到来を告げ、鈴虫や蟋蟀のリーンリーンと鳴り響く音は管弦楽の合奏を想起させた。
庭園にある池の前を通り、門を抜けようとしていると、砂まじりの小石を砕く音がかすかに遠くから聞えた。清彦は不可解に思い、腰に掛かった太刀に手を掛けて握りしめた。夜空に浮かぶ月は弧を描いて美しかったが、月下の水面に映し出された顔は緊張して心がはりつめていた。清彦は不審者がいるに違いないと思った。夜の帳が下り、すべてが闇に包まれた空中に乾いた土埃を巻き上げ、急ぎ足で寝殿に向かった。
清彦が忍び足で建物に近づくと、黒いベールがかかった闇の中からざわめきが聞えたが姿は見えなかった。一条お戻り橋で出会ったような物の怪ではないかという考えが頭をよぎり、背筋に悪寒が走った。あの夜、桔梗の印を結び、魔を調伏したことを思い出して唾を飲み込んだ。
そのとき、何者かが清彦の肩を背後から叩いた。
「己、また出たな!」
口からついて出た。
清彦が身の危険を感じて振り返ると、目の前には禍々しい物の怪ではなく、月に照らされて輝きを放つ源氏が立っていた。源氏は「光る君」という異名を取るくらい大変な美貌と才能に恵まれた若者である。清彦が呆気にとられていると彼は小声で「静かに」と言った。
「源氏殿。一体ここで何をしているのだ?」
「詳しいことは後で話す。清彦殿は早く朱雀門へ。もうとうに子の刻を過ぎているではないか」
「源氏殿はどうされるのだ?」
「これから近衛府へ戻ります」
第七章
「源氏殿、あの時間なぜ宮殿に?」
「和歌を詠んで、簾越しに話をしていたのだ」
「宮中の姫君に?」
一般庶民出の清彦は宮廷内の事情をまだ飲み込めていなかった。和歌とは五音と七音を組み合わせた定形韻文で独特のリズムと旋律を持つ。貴族の間では、知性と教養を表わす和歌が盛んに詠まれ、恋い焦がれる異性への表現手段としても用いられていた。
「中務省の役人の中には、清彦殿の説く陰陽五行説に師事する者がいると聞いている。私にも祓いや占いを行ってくれると有難い・・・・・・」
源氏は奥歯に物が挟まったような言い方をした。大内裏の近衛府となった清彦。日中と夜間は朱雀門の門衛だったが、交代や休憩時間になると詔勅の文書などを受け持っていた中務省の役人に祓いや占いなどを行ったり陰陽五行説を説いたりしていた。
「しかし、身分違いでは・・・・・・」
清彦は軽く咳払いをした。
「父は桐壺帝、母は桐壺更衣。私は桐壺帝の第二子として生を受けたが、幼少の頃、すでに母は亡くなっている。祖父も既に他界していたため宮廷内では冷遇され、武官として生きる道を強いられている」
「不徳の致す所、無礼を許して欲しい」
清彦は源氏の話を聞くと驚いて目を丸くし、心を痛めた。
「王位継承から外されてしまったが、いつか絶対に帝位についてみせる。清彦殿だって陰陽寮が作られ、その中から其方のように祓いや占いを行う高級官僚の陰陽師が活躍するようになって悔しくはないのか」
源氏は後押しした。清彦は中務省の陰陽師ではなく単なる近衛兵に過ぎなかった。次第に中務省の役人の中から陰陽道に師事する者が現れ、陰陽道は律令制に組み込まれるようになっていった。
「身につまされる話だ。しかし、私は一般庶民の出。源氏殿とは雲泥の差・・・・・・」
「清彦殿。其方の処遇は大内裏の中では陰陽師という扱いではないが、それでも貴族たちの間における其方に対する信奉は厚く、祓いや占いを頼む者が後を絶たないという噂だ」
「身に余る光栄なお言葉。礼を言うぞ」
「清彦殿にぜひ占いを行って頂きたい」
清彦は源氏の出生とその後の不運を哀れみ、どうにかしてやりたいという気持ちになった。秋の虫がリーンリーンと音を奏で、静寂の広がる部屋の中に響いていた。月明かりが蔀の隙間からこぼれ落ち源氏の白くて美しい横顔を照らしつけると、その頬に金色の未来を仄めかせていた。
「それでは宿曜の占いを行ってみるぞ。宿は二十八宿、曜は七曜。星の運行で吉凶を占う天文暦学だ」と言って源氏は紙と筆をとり二十八縮図を書いて占いを始めた。
夢から覚めたのは十五分後のことだった。燭台に立てられた蝋燭の灯りはわずかな源氏の夢をはじくようにその炎が小さくなり消えかかっている。清彦は頬杖をつき、ため息を混じりの声でこう言い放った。
「三人の子供に恵まれるでしょう。しかし、帝位につけば国が乱れる恐れあり」
第八章
ある年の晩秋のことだった。大内裏では、恒例の宮廷儀式である月見が予定されている。平安貴族は迷信や占いに従い左右されながら生きていた。占いや夢見の悪い日は外出を避け、勤務も休んでいたほどだ。
「星よみの占いによれば月見は明日が吉。今日は物忌みの日のため、外出を避ける方が賢明」と清彦は言った。「それでは明日、月を見上げながら酒を飲み交わそうではないか」と源氏も返した。
清彦は月見の占いを行い、中務省の役人へ結果を告げた。そして、中務省の高級官僚のトップである陰陽頭だけが天皇に結果を奏上することが許されている。占うのは清彦や陰陽寮の陰陽師たちであるが、奏上は陰陽頭一人だけだった。
「私は宮廷内の占いや祓いを行うが、天皇個人の占いは校書殿の蔵人所陰陽師だ。源氏殿には個人的に行っている」
「蔵人所御トだな」
「ああ。安倍晴明殿や賀茂光栄殿が執り行っている。彼らは陰陽寮の陰陽師以上の才能を秘めた者たちだ」
「しかし、其方こそがその座に相応しいと今でも思っているぞ」
源氏は、清彦の陰陽師としての豊富な知識や才能、傑出した占いや祓いを認めていたが、近衛府大将という処遇を哀れに思っていた。源氏は今では大臣の座についていた。
「宮廷の殿方たちは怨霊や物の怪の存在に敏感になっているし、物の怪は変幻自在どこでも出没するから用心せねばならぬ」
「明日は和歌を読むだけでなく、船上で管弦を楽しむのもよかろう」
「そうだな。楽はまつりごとであり、陰陽では陽となる。鬼や物の怪除けとなり一種の禊のようなものだ」
翌日の夜、内裏の庭園で十五夜の月見の催しが行われた。庭園や池には灯籠が灯され、船上では水面や杯に映し出された月を愛でながら貴族たちが酒を酌み交わしていた。清彦と源氏は庭園の中に敷き詰められた踏み石の上を歩いて散策していた。
「和歌が詠まれたり、管弦が演奏されたりして風情がある。残念だが、私には和歌を詠む才はない」と清彦が息を漏らした。
すると、源氏が一首詠み上げた。
「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」
和歌は源氏の野心をたきつけ、魂が野望と共鳴して不協和音を奏でていた。灯籠の灯は二人の火影姿を映し出している。
「満月になぞらえてこの世をわが世と思うのは結構だが・・・・・・」
「私は今、大臣として天皇に仕えている。いつかきっと・・・・・・」
元村派陰陽道・外伝(2)
第一章
鴨川に架かる五条大橋を渡ろうとしていた時のことだった。新緑の季節でそよぐ風が清々しい五月の朝。真っ白な衣をまとって頭には冠をいただき、存在感のある大きな瓔珞と言われるペンダントを首から下げ、長い薙刀を手に持っている怪力無双の男が、威風堂々と橋の上を闊歩していた。「ナウボ アキャシャ キャラバヤ オン アリキャマリ ボリソワカ」と陀羅尼を唱えていることから真言密教の修行者であろう。
明星法師は、五条大橋の向かい側から歩いてくる清彦の腰に帯びた見事な太刀が目に入った。
「わしは明星。通りかかった武者と戦い京で千本の太刀を奪って集めている。九九九本まで集めたが、あと一本足りない」
明星法師は清彦を射抜くような鋭い眼差しだ。
「それがどうしたのだ?」
清彦も強く突き刺さるような鋭い目つきをしている。
「貴様の腰に掛かっている太刀を奪えば千本となる・・・・・・」
明星法師の足下はじりじりと前進し、薙刀を握りしめ、今にも清彦に飛びかかろうとしている。
「私は宮廷の大番役だ。其方にそぐう太刀ではあるまい!」
清彦は近衛大将として誇らしげに言った。
「なんだと! それでは貴様は大内裏近衛府の役人か!」
明星法師は怒りをあらわにした。平安時代、都の東北にあたる比叡山の密教僧たちは、我々が鬼から都を守っていると自負していた。
「その太刀こそ、わしの千本目に相応しい刀だ!」
そう言うやいなや、明星法師は鬼の形相で清彦に斬りかかった。
清彦はさっと身を翻した。鞘に収められた太刀を急いで抜き、白い穂先が太陽の光に反射して輝いた。明星法師は振り向きざまに態勢を変え、傲然とした構えで清彦に向かって突き進んでくる。
「気を静めるのだ。醜態は見苦しいぞ! 私の太刀を奪うのは方便! お前の心の中にはどちらがより多く朝廷からのご寵愛を受けるか、怨霊鎮魂の能力があるか、呪術や霊力、神秘思想が優れているかなど白黒つけたいのだな!」
陰陽道と密教は加持祈祷、祓いなど役割が似ていることもあってか、陰陽師たちのライバル的存在であった。
「貴様、もしや、陰陽師でもあるのか? 正統な朝廷の守護は我らだ! 冒涜しやがって! 百戦錬磨の俺様に刃向かうなど大した度胸だ!」そう言って明星法師は語気を荒げて清彦を嘲った。
「陰陽師に因縁をつけて都に災いをもたらしたいのではないか? 国内を混乱させて魔の手を伸ばし、太刀を手に取って血を流す。お前は返り血を浴びた太刀を携えて嘆きの調べを奏で、都に馳せ参じて身を捧げる。身勝手な放縦ではないのか!」
清彦が本質をついて明星法師を罵り返した。彼は憤怒の形相で薙刀を握りしめた。薙刀を握りしめる拳は怒りで小刻みに震えていた。
「貴様! 勝手なことを言うな!」
「私は大内裏の近衛大将だが、元村派陰陽道の陰陽師でもあるのだ。お前の望みは分かっているぞ。 不義不忠! 呪わしい! 早く消えるのだ!」
明星法師は悔しさを顔に滲ませていたが清彦が陰陽師であると分かると、薙刀で襲いかかろうとしていた戦意も挫けた。平安時代に台頭した陰陽師たちは、すぐれた霊力を持ち合わせ、怨霊鎮魂、祓い、占いなどで傑出していた存在だったからだ。
「貴様、覚えていろよ! いつかとどめを刺してやる!」と言って明星法師は走り去った。
第二章
源氏と明星法師が接近したのは、ある日の出来事がきっかけだった。ときの天皇が平安京に遷都してからわずか五年後のことで、皇位継承の問題が持ち上がったからだ。病弱だった天皇は在位わずか数年で天皇の位を後継者に譲位し、上皇(太上天皇)となることを考えていた。そこで貴族の間では、朝廷で勢力を強めて政治の実権を握るため天皇の外戚になろうとする動きが活発に見られていた。
「源氏殿、今宵も姫君との逢瀬を重ねるつもりなのかね」
清彦と源氏は寝殿へ向かう途中、内裏の承明門の前で少しばかり立ち話をしていた。
「最近、物忌みの日が続いて回り道をしたり、外出を禁止したりしていた。清彦殿の占いでは今夜は大丈夫ということだからね」
「しかし、もし仮に逢瀬を重ねて姫君と婚姻し皇族の一員になれたとしても、其方が政治の実権を握るのは大変難しい問題だ。すでに現在、天皇の側近の間で皇位継承問題の話題が持ちきりだし、其方の出る幕ではあるまい」
清彦は、源氏が朝廷で力をつけて皇位に付くことを快く思っていなかった。もし仮に彼が皇位に付くことがあれば、国が乱れるのではないかと恐れを抱いていたからだ。そんな清彦の心配をよそに源氏は幼少時代に受けた冷遇の悔しさを力として蓄え、朝廷で政治の実権を握り、あわよくば皇位に付くことを夢見ていた。
二人は内密な話を終えると、承明門をくぐり、庭園を横切って義盛のいる寝殿へ向かった。建物正面の階段を上り母屋の中に入って太政大臣に深くお辞儀をした。すると、
「ご足労おかけした。さあ、座ってくれ」と義盛が言った。
黒い直衣を身にまとい頭には冠をつけていた。義盛は誇り高いが気性は闊達で、太政大臣としての気位と品性の高さが醸し出ていた。
「最近、比叡山の僧侶たちが朝廷のことや世俗のことに色々と口を挟んでくるようになったので少し警戒をしているのだ。しかし、彼らも陰陽師と同じようにさまざまな呪術や祓いを行う退魔師だ。社会的な影響力もあるし、内裏の中でも密教僧に信頼を寄せているところもある。熊野の霊山などで過酷な荒行を重ねた修験道者であり、希有な霊力を有している。天皇の継承問題のことでも黙ってはおらんだろう」
「希有な霊力ですか?」と源氏は口をついた。
「自然の中で危険と隣り合わせの生死をかけた修行だ。密教僧の中には、仏と同等の強い呪力を備えた者もいるようだ」
「義盛殿。私も先日五条大橋の上でそのような僧侶と出会い、危うく太刀を振り回すところでしたが、私が宮廷の役人で陰陽師だと分かると尻尾を巻いて逃げていきました」
「さようか」
「はい。都の東北に位置する鬼門の比叡山は密教の聖地。鬼から都を守っているのは我々だと豪語しております。しかし、お言葉を返すようですが、都の西北にある天門こそ陽の気が集まった方角であり、陰陽師が鬼から都を守っているのです。天門の方角はいわば『神門』とも言えるのではないでしょうか」
「ふむ。興味深い話だな。今は事を荒立てずに状況を見守ることにしよう。では、下がってよろしい」
義盛と話を終えると、源氏と清彦は庭園の椅子に腰掛けて話の続きを始めた。源氏は五条大橋での話や密教僧の話に関心を寄せていた。
「清彦殿。五条大橋の上でそのようなことがあったのか。相手も強い呪術を備えている者。何もなくて安心したぞ」
「ありがとう。しかし、私も陰陽師としての誇りと意地がある。心配無用だ」
「義盛殿は天皇の皇位継承と密教僧の話に目を光らせている。やはり、義盛殿も皇位継承を望んでいるのだろうか」
「皇太子に匹敵するほどの最高官位・太政大臣の座にいるお人だ。それに元々は地方の有力な豪族の出。申し分ない」
清彦が快活に答えると、源氏の顔は陰りを帯びた。心の中に野心を秘めていた源氏はまず太政大臣の座について、皇族に近づく青写真を描いていた。しかし、義盛が太政大臣の座から下りることは現状から言ってあり得なかった。心の中で芽生えた嫉妬心と憎悪感。そして恐ろしい思いが源氏の中に湧き起こったのだ。
「清彦殿。其方に内密の仕事を頼みたいのだが引き受けてくれるか?」
源氏の逸る心は理性を超えてしまった。長い間宮廷内で冷遇されていたとはいえ、皇族や貴族からの庇護を受け、逆境にも負けぬたくましい精神力と才能を持ち合わせた者であった。容姿端麗でさまざまな女性との関係も結び、清彦からすれば申し分のない人生のように感じられた。しかし、源氏は聞くも恐ろしい、鋭い刃で腸をえぐるような呪いの言葉を口にしたのだ。
「義盛殿に呪術を使い、太政大臣の座から引きずり下ろしてくれないか。無理は承知だ」
「源氏殿! 自分が何を言っているのか分かっているのか? それは私の信条から外れる行為。申し訳ないが源氏殿の頼みであってもそれはできぬ」
「そうか・・・・・・。では、この話はなかったことにして欲しい。私もほんの出来心でつい口がすべってしまった。心を入れ替えるつもりだ。申し訳なかった」
第三章
ある年のことだった。四月二十八日の亥の刻、都の東南の方角にある樋口通富小路から火が出たという知らせが都中を駆け巡った。
「巽の方位で火の手があがっています! 炎は見る見るうちに西北の乾の方位へ燃え広がり、朱雀門辺りまで延焼しています!」
誰かが叫んだ。
煙に巻かれて姿は見えなかったが、中宮を中心とした東西南北の九つの方位・黄帝九宮系図のことを話していることから、きっと陰陽寮の陰陽師だろうと清彦は思った。
彼は慌てふためき、濛々と立ちこめる黒煙が竜のように上空へ立ち上るのを目の当たりにした。炎々と燃え上がった炎は火の粉を雨のように周囲にまき散らしながら、めらめらと凄まじい轟音を立て燃えたぎっている。清彦は身の危険を感じて即座に大内裏から逃げ出した。夜風が吹くと煙がこちらへ向かってくるので咽せて咳き込んだ。闇のベールに金粉の火花がパチパチと音をたてている。
黄帝九宮系図は、中央は「中宮」、北は「坎」で、時計回りに東北の「艮」、東の「震」、東南の「巽」、南の「離」、西南の「坤」、西の「兌」、西北の「乾」となる。東南の方角から大内裏がある乾の方角へ燃え広がって行った火の勢い。京都の町人たちは手桶を持って家の中から飛び出し、炎に水を何度もかけていた。その甲斐あってか、だんだんと火の手は小さくなり真夜中近くには完全に消火された。清彦は源氏や義盛のことを気に掛けていたが、彼らがどこにいるのかさえ分からずに一人京の町をさまよい歩いていた。
その晩の出来事があってから一と月後のことであった。またもや都は火災に見舞われた。今度は内裏が出火元で、護身剣と破敵剣の二本の剣が燃え尽きてしまった。剣には、都の四方を守護する聖獣の青龍・朱雀・白虎・玄武が描かれていたという。一連の事態を重く見た貴族、特に中務省の陰陽師たちが何かの障りではないかと噂を立てはじめた。そして、その噂に尾ひれがついて実際にないことや誇張を交えて広がっていった。このような惨事が起こってからというもの、清彦に対する貴族たちの態度が一変した。
「源氏殿。今日は其方の占いを賜っていたと思うのだが」と言って、清彦は内裏の門前で源氏の姿が目に入るといつものように声をかけた。
しかし、源氏は顔を背けて伏し目がちに地面の小石をはじきながら歩いていた。まるで清彦の存在など気にも掛けていない様子だ。
「源氏殿。聞えていないのか?」
「すまんが、今日は予定があって忙しいのだ」
源氏は清彦と目を合わせることもなく、足早に内裏の中へ走り去って行った。清彦は源氏の態度も一変してしまったと感じ、ひどく落胆した。しかし、どうして自分がこんなにも冷遇されてしまったのかまったく検討がつかなかった。今、一般庶民出の清彦の後ろ盾になろうとする者など誰も居るはずがなかった。源氏の後ろ姿が見えなくなると、いつものように門番の時間が来たため不安な心持ちで朱雀門に立った。今の清彦には、誇らしげに明星法師を言い負かしたときの勇姿はすっかり陰に隠れて消えてしまった。心の中にわだかまりを抱え、心が苦しかった。自分の行動を顧みて説き伏せてみたが、心臓が鼓動するたび胸がずきんずきんと音を立てている。すると、
「あ、朝廷の役人さん。先日の火災は大変でしたなあ。今、都中で大騒ぎですわ。どうも、宮廷での処遇に不満を漏らしていた近衛の役人さんが火を放ったって噂。陰陽師たちがそう言ってますわ。あの方たちの占いは天下一品。間違いないやろ」
通りがかりの男が清彦の顔を見ると、渋い表情をして清彦の耳を疑うようなことを言った。
「え、そんな噂が立っているのか?」
「知らんの? 誰が言い始めたか分からんが、松明に火をつけて火災を起こしたって。そう言やあ、樋口通富小路から大内裏に向かって火が燃え広がったとき、不審な男が一人で大内裏周辺の闇の中をうろついていたって目撃談があるねん。もしかしたら、一連の火災はその男の仕業かもしれんなあ・・・・・・」
清彦は男の言葉を遮った。
「それは間違いだ!」
「でも、陰陽師たちがそう言ってますわ」
「わ、私も・・・・・・陰陽師なのだ!」
第四章
清彦は居ても立ってもいられず急いで内裏へ向かった。義盛殿に事情を説明し、この疑わしき汚名を晴らさねばと思った。目には溢れんばかりの涙が浮かび、何度も手で拭った。恨む気持ちは湧いてこなかったが悔しさで一杯だった。寝殿の中では義盛がいつものように悠々と座していた。門をくぐり、池に面している庭園を、血相を変えて風のように走っている清彦のことが見えると厳しい表情になった。
「義盛殿。ご無礼は承知でございます。しかし、たった今、朱雀門を通りかかった町人から耳を疑うような言葉を聞きました。一月前の内裏の火災は、処遇に不満を持っている近衛の役人が松明に火をつけたと。陰陽師の占いがそうだから間違いないと申しておりました。お言葉でございますが、私も陰陽師でございます。何かの間違いではないでしょうか。それに、私自身、身の潔白をさせて頂きます」
清彦は、はあはあと肩で息をし口早に言った。
「陰陽師たちの噂だ。しかし、占いではそうだと」
「どの者がおっしゃっているのでしょうか? 本当に占いで私だと分かったのでしょうか?」
「陰陽師の話によると、誰であるかはっきりと人物を特定できなかったが、其方は同じ陰陽師であるが近衛兵。処遇に不満を持っているから間違いないだろうという噂だ」
「人物を特定できなかったとは?」
「陰陽師の占いでは、この宮廷内の誰かが恨みを持っていると」
「それで、私に矛先が向いたのですね」
「そのようじゃ。私も其方がそのようなことをする者とは思っていないが・・・・・・」
義盛の顔には苦渋に満ちた選択を迫られている表情が見てとれた。そのとき、誰かが寝殿の中に入ってくる物音がした。ミシミシと音を立ててこちらに近づいてくる。義盛は明星法師の顔を見ると「さあ、ここへ」と言って母屋の中へ招き入れた。彼は清彦の存在に気がつくと「お前、どうしてここにいるんだ」と小声で言って舌打ちした。義盛は「ちょうど良い。双方の話を聞かせてもらおうじゃないか」と明星法師に言って、清彦の隣に座るように指示した。
すると明星法師が清彦に憎悪の感情をむき出しにして肩を並べた。
「都から東北の鬼門の方角には密教の比叡山が鎮座しており、鬼門は鬼がやって来る方位でございます。我々は都を災いから守ろうと日々修行に励み鍛錬を惜しみません。先日の火災も鬼門の災いによるものでしょう。比叡山という霊地に住まう猿は、山王権現の使いであり、火事を引き起こしたと考えられます。つまり、鬼門を守る神や仏の怒りだったのです」と明星法師は言うと清彦のことを虎視眈々と報復の機会を狙って睨んだ。
清彦の顔は一段と厳しい表情になった。
「いえ。火元が樋口通富小路から西北の方角の神門にあたる大内裏に向かって燃え広がったことから、この火事は京の北西に位置する愛宕山の神の怒りでございます。それに愛宕山には天狗信仰が根強い場所柄。天狗がこの世を乱していると考えられます」
「つまり、明星法師も清彦も火事の原因は、鬼門あるいは神門の神の怒りだと言いたいのだな。平安京を中心にして鬼門には比叡山の猿ライン、神門には愛宕山の天狗ラインがあり、都と深い関わりがあると。そして、神の怒りを鎮め、都を守っているのは密教あるいは陰陽道だと言いたいのだな」
義盛はしばらく手を顎に当てて考え込んでいた。確かに天皇の皇位継承の問題で貴族たちの間では軋轢が生まれている。怒りや恨みを抱いている者、謀反を企てようとしている者がいてもおかしくはない。陰陽師の占いでもそう出ている。しかし、一体誰なのだ? もし放火の犯人が清彦でないとしたら、世が乱れて神の怒りがこうした惨事を引き起こしたと十分に考えられるではないかと、義盛は自分に言い聞かせて納得した。
「義盛殿。私は毎日百万遍の不動真言を唱え、一日に三回護摩を焚き、時には八千枚の護摩供を烈火の中で焚き上げることもございます。真言密教の呪術を使えば、都を災いからお守りできるでしょう」
明星法師は緊張と異常な熱気に包まれて額に汗をかき、それが滴り落ちている。
「陰陽道もさまざまな呪術を行いますし、式神を自由に操ることも可能でございます。何よりも朝廷から正式に守護を賜っているではございませんか!」
清彦も自分の身の潔白、そして陰陽道の呪術や祓いは密教に負けず劣らず強力なものであることを証明しようと躍起になっていた。このような経緯があって明星法師も清彦も厄災神の怒りを鎮めて祓いを行うことにした。
しかし、悲劇が起こったのは三ヶ月後のことだった。天皇のご子息が十七才という若さで急にお亡くなりになったという悲報が都中に流れた。その事により清彦はもちろんのこと義盛の太政大臣という座も危うくなったのだ。
「義盛殿。あの火災からずっと都では厄災が続いております。私も色々と手を打っておりますがどうしたことでしょう。圧倒的な闇の力、魑魅魍魎が都を支配しようとする気配が感じられます。あろうことか、こんな噂まで流れているではありませんか! 皇位継承問題で貴族たちは権力を握るため、誰かがその座を狙って皇太子を呪い殺したのではないかと。そして、その誰かとは・・・・・・不義を働いた清彦と、虎視眈々と皇位を狙っている太政大臣の義盛が手を組んだに違いないと!」
清彦は慈悲深い眼差しで義盛を見つめた。
「これで、清彦の不義不忠の誤解は解けたことになる。誰かが其方と私を陥れようと企んでいることが判明した。あの火災が起こったとき、中務省の陰陽師はこの宮廷内の誰かが恨みを持っていると申しておったが、それは処遇に不満を持っていると噂された清彦ではなく、皇位を狙って謀反を企てている者のことだったのだ」
「なんという嘆かわしいことでしょう!」
「その矛先は私に向かったのだ」
「義盛殿は皇太子と同等の座におられますから。誰かが悪い噂を流したのでしょう」
「清彦が陥れられた時と同じ手法だ。しかし、一体誰がこんなことを!」
「心当たりがございます。しかし、この話は私と義盛殿二人だけの話にして頂けないでしょうか。内密ということで」
「分かった」
第五章
そのような出来事があってから一と月後のことだった。八月も下旬になり、日に日に秋めいて夜になるといくらか涼しい秋風が吹き、過ごしやすい季節を迎えていた。清彦はこれまでと同じように近衛大将として都の守護を司っていたが、宮廷の中で段々と居心地が悪くなっていくのを肌で感じ取っていた。また、義盛と一緒に謀反を企てているという誤解や噂を誰かが陰で流していたため、義盛と顔を合わせることを慎んだ。
そしてある晩、恒例の月見の催しのため、義盛は貴族や客人を内裏のお屋敷へ迎え入れた。お屋敷の庭園には大勢の人たちが集まっていた。
「今年も月見の行事を迎える季節となりました。初秋の夜空に輝く美しい満月は我々を明るく照らしつけ、夜の闇に包まれていた陰の気もあぶり出してくれることでしょう!」
義盛が含蓄のある物言いをすると、貴族や客人たちが何やらひそひそ声で話を始めた。源氏や客人として招かれていた明星法師は平静を装っていたが、義盛が話を始めると二人で顔を合わせ明らかに目が泳いでいた。心の動揺を必死に抑えているのだろう。空に浮かぶ月は麗しい姿をしている一方で、妖しい夜の世界を支配している。
「本日は月見日和でございます。急ではございましたが、このところ都には不穏な空気が流れ、人間関係もぎくしゃくして軋轢が生まれ、宮廷内や都には厄災が降りかかっております。この陰の気を祓い、鬼を追い出さなければなりません。天空に浮かぶ月の神、月読命が天上界から私たちの行いを見ていることでしょう。山に囲まれた都には八百万の神もおります。清彦殿。其方の得意とする式神や祓いで、理性を失い往々にして幻想や妄想の世界に存在する魔や鬼を退治してはくれぬか! しかも、三種の神器である八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉がなくなっているではないか!」
すると、大きな怒声が貴族たちの間から響いた。
「な、なんということだ! 神宝を盗むとは。神罰が下されるぞ。神の子孫である神聖な天皇の系譜を踏みにじる行為だ!」
会場は物々しい雰囲気に呑まれていた。
「ご紹介に与りました清彦でございます。最近では物騒な事が都中に続いており、義盛殿も私も心中穏やかではございません。先日、樋口通富小路から西北の方角の神門にあたる大内裏に向かって燃え広がったことから、この火事は京の北西に位置する愛宕山の神の怒りである、という結果に至りました。そして・・・・・・」
「いえ、火災は鬼門の災いによるものでしょう! 鬼門を守る神や仏の怒りだったのです!」
清彦の話を遮るように明星法師が人混みの中から大声で叫んだ。清彦は彼の顔を食い入るように見つめ鋭い眼光を光らせた。明星法師は清彦の勢いに圧倒され、それ以上何も言うことができなかった。
「私の話はまだ終わっていない。静粛に願います」と前置きして、清彦は冷然たる態度で再び話を始めた。
「えっと・・・・・・、しかし、私が小耳を挟んだ所では聞き捨てならない噂も飛び交っていたようでございます。その後内裏でも火災が起こったことから、宮廷内での処遇に不満を持っている近衛の役人が松明に火をつけたと、陰陽師の占いだから間違いないという妄想的な噂を陰で誰かが流していたようです。根も葉もない噂でございます。嘆かわしいことにそれだけではとどまらず、皇位継承問題で権力を握るため誰かがその座を狙って皇太子を呪い殺したのではないかという恐ろしい話が飛び交っているではございませんか! 内裏に火をつけて皇太子を呪い殺したと! 処遇に不満を持って火を放ち不義を働いた者と皇位継承の座を狙う者の利害が一致して、都中を混乱に陥れていると! 一体このような謀反を働いている者は誰なのでしょうか!」
清彦が声高らかに源氏と明星法師を睨みつけながら叫んだ。すると貴族たちの間から冷やかな野次が飛んだ。
「何が言いたいのだ! この期に及んで見苦しいではないか!」と、皮肉めいた怒号が乱れ飛んでいる。
「それでは、ここへ」と言って、清彦は大勢の人だかりの中から一人の姫君を招き寄せた。そして、
「葵の上。ここであなたがあの晩内裏で見たことを正直に話して下さい。何も心配することはありません」
葵の上はおどおどした様子で人混みをかきわけて清彦の前に出た。視線を地面に落とし、肩を小刻みに揺らして声が震えていた。
「はい。樋口通富小路の火災があってから、内裏の中でも嫌な空気が立ちこめていましたので、最近では火の元や戸締まりなどに気をつけておりました。内裏で火災があった晩、私はいつものように不審者がいないか見て回っておりました。すると、お屋敷の外から男性二人の話し声が聞えてきました。ぼそぼそと小声で誰かに聞かれてはまずいような話しぶりでございます。私は恐怖で唯々その場にしゃがみ込んで為す術もございませんでした。すると、男は二手に分かれ、一人はお屋敷の中に忍び込み、もう一人は松明に火をつけて、護身剣と破敵剣の二本の剣が収められている宝物殿に投げ込むではございませんか。私は思わず、『あ!』という声をあげてしまいました。すると、その男は私の所にかけより『この事は誰にも言うな! 言ったら呪い殺すぞ!』と言って私を脅迫しました。お屋敷の中に忍び込んだ男性は、三種の神器である八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉が奉納されている場所へ走り去って行きました」
「その男性二人ですが、私と清盛殿でございましたか?」
葵の上は首を横に振ると、大きな声を出して泣きじゃくった。清彦は姫君の身を案じて肩をそっと抱き、「ありがとうございました」と丁寧に礼を言った。
源氏は顔面蒼白になり、口角砲を飛ばした。
「嘘だ! わ、私と明星法師を陥れる実に上手い口実だ。しかも、私の婚約者である葵の上まで利用して! 其方の望みは何だ? 金と権力か。卑しい貧乏者め!」
源氏は清彦のことを見下し傲慢な態度で口汚く罵った。貴族たちは呆気にとられていた。先ほどの怒号がすっかり静まり不気味な雰囲気を呈している。
「嘘をついているのはどちらだ。葵の上からお聞きした話では、三種の神器を奉納している場所を知っているのは皇族の直系親族に限られているというではないか。その場所を知っている者は天皇や皇后、天皇のご子息である皇太子、そして葵の上。それ以外の者で三種の神器のありかを知るものは、将来を約束されている葵の上の婚約者だけだ。そして、その婚約者とは源氏、其方ではないか!」
源氏は怒りをあらわにして地団駄を踏み唾を地面に吐いた。顔は鬼の形相で、清彦のことを睨みつけていた。
「源氏殿はいつか帝位についてみせると私に漏らしていたことがあったな。皇位継承の座から外されて宮廷内ではずっと冷遇されていたと。その鬱憤を晴らすために三種の神器を盗んだのでは? 極めつけは、私に清盛殿を太政大臣の座から引きずり下ろして欲しいと申したのは忘れたのか? 私は丁重にお断りしたが。その腹いせで明星法師に近づき、私の悪い噂を流したのではないか? そして、其方たちは、自分たちの犯した罪から逃れるために松明に火をつけて火災を起こし、都中を混乱に陥れ、清彦と清盛が仕組んだと悪い噂を流した。国を混乱させて皇位の座を不安定にさせようと企んでいたのではないか? 葵の上との逢瀬も皇族に近づくため。全ては自分が帝位につき権力を握るためだ!」
すると源氏は人混みをかき分けて内裏の外へ走り去って行った。葵の上はショックのあまり地面に倒れた。明星法師は自分の都合が悪くなると罪の呵責を感じるような様もなく、薄笑いを浮かべ、掌を返すようにしてこう言い放った。
「す、すべては源氏殿が計画した。俺はただ仕事を全うしただけだ。私の責任ではない!」
天皇と皇后は眉を潜めて葵の上の身を案じ、怒り心頭であった。貴族たちも事の顛末を知りざわついていた。
人という者はいつの世も慎みを忘れていつしか欲望に目が眩み、自制心というものを失ってしまうのだろう。隣人を踏み台にしてでも自分が権力や寵愛、栄誉、名声を手に入れようとする者がいる。自分の優越感を満たすために他人を不幸に落とし入れ、それを愛する者がいる。妬みの心で不正を働き、怒り狂い、復讐に燃える者がいる。私や明星法師といった神秘の力を有する者は、ただ人間の欲望を膨らませ、満たすための道具なのだろうか。そして、この力は善ではなく悪に利用されてしまうのだろうか。それならばいっそこの力を封印してしまったほうが人々のためになるのではないか、という考えが清彦に浮かんだ。これが人間の性なのだと思うと悔しさで涙が溢れ出た。
第六章
静子は話を終えるとそっと本を閉じた。久美と泰治は、その後清彦がどうなったのか知りたくて彼女に続きを聞かせて欲しいと懇願した。
「元村派陰陽道の始祖である清彦は自ら宮廷を去り、人々の欲望を掻立てる陰陽の呪術を封印し、今私たちがいるこの場所に社を構えて神職として生きた。ここは西北の神門に座する愛宕山のお膝元でしょう」
泰治は、なぜこの神社がこの場所にあるのか理由が分かって納得した顔つきをしていた。
「義盛はどうなったのですか?」
久美は目を輝かせていた。
「彼も宮廷から離れ、その後は地方の有力な武将として生きた人。それから、今日はあなたたち二人に見せたい物があるからちょっと待っていて」
静子は大事な家宝を取りに部屋を出て、暫くしてから黒い鞘に収められている太刀を手にして戻ってきた。
「も、もしかしてこれは・・・・・・護身剣、それとも破敵剣?」
泰治は物珍しそうに大事な家宝を見つめた。漆塗りの黒い鞘は所々傷があって古めかしい感じがしたが大事に保管されていたらしく状態は良かった。
「内裏の火事で燃えてしまった太刀のうち一本だけ見つかったの。この剣は清彦が鍛冶に命じて鋳造させたもので、柄に四神の聖獣である青龍、朱雀、白虎、玄武の形が刻まれている護身剣。清彦がこの太刀を譲り受け、先祖代々我が家の家宝として保管しているのよ」
残念ながら、五芒星の文様が刻まれている霊力を秘めた破敵剣は燃えてしまったのかどうか、太刀の行方はだれも知らない。